家出をした。
デシは現在数えで6歳になる。
もうすぐ父親と共に狩りに出かけることになるし、母の手伝いで、家事をしなければならない。
それはほんの少しの、幼い心だった。
妹のミリはまだ3歳の赤子であり、母は手のかかる妹に夢中だった。
村の若い者たちと共に朝から出かけて行って、日が暮れてから帰ってくる父とは最近一緒に遊んではもらえない。
デシは不満だった。
父もこの間までは、一緒に遊んでくれていたのだ。
母も、妹と同じように自分の相手をしてくれていた。
しかし彼を取り巻く環境は変わってしまった。
もう一人立ちするための年齢だとしても、子どもからすればそんなことは関係がないのだ。
自立するために必要なことだとしても、幼いデシの理性までには届かなかった。
だから、両親の気を引きたくて、妹のデシにちょっかいをかけたのである。
ミリは大きな声を上げて泣き叫んでいる。
父は怒った。母も怒っていた。
デシにとっては、自分にかまってほしかっただけなのだ。
それなのに、両親二人ともが自分に怒ってくる。
デシは目から涙を流して家を飛び出した。
背後から父の声が聞こえてきた気もするが、彼の意識までには届かなかった。
デシがいたのは、普段彼が遊び場として利用している林である。
林の中に何かをくりぬいたような穴があり、子どもが一人入れるような大きさだった。
小柄なデシは、穴の近くに周りから拾ってきた大き目の石などを置くことで、一種の秘密基地として利用していた。
穴の中に閉じこもって泣いていたデシは、遠くで自分のことを呼ぶ父の声を聞いていた。
彼の理不尽な怒りは、父の声が遠くなるまで収まることがなかった。
やがて辺りが陽が落ちてくるころ、夕暮れの闇につつまれながら、デシは穴から這い出してきた。
頬にはいく筋の涙の跡があり、泣きはらした眼は赤かった。
鼻をすすりながらも、普段の帰り道を戻っていく。
父や母は、自分のことが嫌いなのだろうか。
彼は子どもながら憂鬱だった。
とぼとぼと肩を落として、帰路につく。
小さなデシの体を覆うような木々の林を抜けたとき、デシは思わず声を漏らした。
「……え?」
村からは黒い煙が上がっていた。
立ち並んでいた家、家は燃え、いくつかは取り壊されていたりもした。
弓や剣がそこらじゅうに散乱し、生臭い赤い液体がそこらを濡らしていた。
どうして気づかなかったのだろう。
そんなことも考えられずに、デシは駆け出した。
裸足で石が食い込むのにも構わずに、デシは自分の両親とともに住んでいた家の方角を目指す。
家は、踏みつぶされていた。
折れ曲がった木々や、ぼろぼろになった扉など、誰がどうみても廃墟としかみえないよな有様だった。
家の前には、一本の剣が落ちていた。
血の付いたその剣は、父の使っていたものだった。
呆然としながらも、その剣を拾い上げる。
父からは、まだ早いと言われていた。
その言葉に反発し、一度持ってみたことがある。
重かった。
命を奪う、鋼の重みに耐えきれず、落としてしまったことがある。
父はそれを見て笑っていた。
その父の姿を見て、デシは頬を膨らませて憤慨した。
そんな記憶が、次々と頭の中を過ぎ去っていく。
何か熱い、我慢できないものが胸の内から込みでてきた。
それは喉を通って、自然と口から出ていく。
デシは大きな声を上げて泣いた。
視界が曇るほど大粒の涙を流して、父の剣を握りしめながら。
やがて後ろに何か大きなモノが降り立った音と、生臭い匂いがデシのところにまで届いてきた。
グルルという、恐ろしいうなり声も聞こえてくる。
恐る恐るデシは振り返った。
そこにはデシの何倍もの大きさを備えた、竜の姿が。
おとぎ話でしか聞かないような存在に、デシは泣くのも忘れて立ち尽くした。
竜はデシを見て嬉しそうに一鳴きすると、牙が並んだ大きな口を広げた。
デシを一飲みできそうなほど大きな口であった。
デシはたまらずに目を閉じた。
痛いのか、苦しいのか。
それすらわからないまま、彼は竜の獲物に選ばれたのだった。
デシは覚悟した。
今、ここで自分は食べられてしまうのである。
しかしどうしたことだろうか。
予想していた痛い、苦しいモノがこないのである。
デシは恐る恐る目を開いていく。
薄めに見えるのは、小さな小さな、デシの掌にも収まりそうな小さな赤い塊。
よく見るとそれは、四方を囲んだ透明な壁の中に閉じ込められていた。
そこから逃げ出そうと、何度も何度も体を打ち付けている。
しかし、情けない音を出すのみで、透明な壁を壊すことは叶わない。
ふと、デシのすぐ隣で気配を感じた。
大きな気配だ。
成人男性ほどの大きさである。
デシはそちらに視線を向けた。
彼が最初に見たのは、何やら黒っぽい灰色のような体躯。
デシの頭よりも大きい、二つの大きな鋏。
そして、暗闇の中でも輝きを放っている二つの大きな眼。
デシはその異形を見て、静かに尻を地面に押し付けた。
彼の腰は、先ほどまでの竜と目の前の異形とでとっくの前に抜けていたのである。
目を見開き、開いた口から声が出ぬまま、デシは異形の方を見る。
異形はデシから壁に囲まれた小さな竜に目を向けると、そちらに近寄っていく。
透明な壁は、どうやら瓶――――これは後程わかったことではあるのだが――――のようなものであるらしく、それを大きな鋏で器用に挟んで、眼前に持ち上げる。
そして低い、響くような声で笑ったのだ。
フォッフォッフォッフォ。
デシの口が引きつった。
彼が生きてきた中で、このような化物には会ったことがなかったし、両親が話してくれる物語にも出てこなかった。
デシは恐ろしかった。
先ほどの巨大だった竜とは、次元の違う怖さを感じていた。
それは何かよくわからない、理解できないものに遭遇したときの恐怖感に似ていた。
化物は振り返って、こちらの方に歩いてくる。
いやだ、こないで。
必死になって、石のように重くなった身体を動かす。
水の中でもがいているようだった。
デシの奮闘もむなしく、異形は顔をこちらに近づけてきた。
あの大きな黄色の目、そして人種とは違った生物の顔。
幼いデシがこれ以上耐えられるはずもなく、張った糸切れた彼の意識は闇の中へと落ちていった。
◆
デシが目をさました場所は、大きな背中の上だった。
「父ちゃん?」
「おう、目が覚めたか」
彼がよく知っている、父の声だった。
デシは父に背負われて、移動していたのだ。
唐突に涙がデシの目からあふれてきた。
彼は我慢することなく、その大きな背中に縋りついた。
父ちゃん、父ちゃんと声を上げて泣いた。
生きていた。
あの光景は夢だったのだ。
自分が見ていた、都合の悪い夢だったのだ。
父は黙して、息子の泣き声を聞いていた。
しばらくしてデシが鳴き疲れ、冷静になったころ。
周りの様子がおかしいことに気が付いた。
「父ちゃん、どこ行くの?」
父はデシを背負ったまま、どこか知らない場所を歩いていた。
辺りは依然として暗いままである。
闇の中を足元に注視し、ゆっくりと進んでいく。
「ねえ、どこに行くの?家に帰るんじゃないの?」
ふと、父が腰を下ろし、背負っていたデシを下ろした。
そして改めて向き直り、デシに視線を合わせる。
デシの腕に、その大きな掌で掴んだ。
デシ、と低い声がした。
「よく聞くんだ」
いつになく、彼の口調が固いことに違和感を覚える。
朝に喧嘩した際の怒りからではない、もっと大きな緊張からくるものだと、幼いままデシは理解した。
「村は、もうない」
彼にはそれは、到底受け入れがたい事実だった。
父の体にはいくつもの傷あとが見られ、ところどころに止血した後が見て取れた。
そして理解するのだ。あの悪夢は、現実だったのだと。
聞くんだ、そう力強い声がデシを叱責する。
「これから俺は、母さんとミリを探さなければならない。デシ、お前はもう一人前だ。一人前の大人にならなければならないんだ。わかるか?」
わからない、わからなかった。彼には。
それでも、父は言葉をつづける。
「これからはお前の知らない人とも、見たこともない人が住んでいる場所にも行かなければならない。その時に、デシのことに構っている暇がないかもしれん。時には、一人で留守番を頼むことだって考えられる。それでも、いい子にできるか?」
幼いデシには、その注文は大きすぎた。
無理だよと、力なく首をふる。
「やるんだ、デシ。できないと言ってられないんだ。……もう少し甘やかしてあげたかったが、そうも言ってられくなってしまった。はぐれた母さんや妹の無事を確認して、一緒に帰るためには、デシの力が必要なんだ!」
父が腕をつかむ力が強まった。
「……俺も、……俺もいっぱいいっぱいなんだ。……わかってくれ、デシ」
デシは力なくうなだれた父の姿を見た。
彼は一度も、このような弱い父の姿を見たことがなかった。
いつもの強い、ヒーローのような父とは正反対の、頼りなく小さな父だった。
父は体を起こすと、デシの手をつないで歩き出す。
デシは無言で、その後に付き添っていった。
辺りは月明りに照らされたまま、沈黙が支配していた。
◆
デシが父と歩いて数刻、途中に休憩を挟みながらも一行は明け方、人の列を見つけた。
彼らは荷台にそれぞれの家具などを備えて、移動している。
それはただの引っ越しなどではない。
彼らもまた、竜に故郷を追われた人々なのだ。
人の列の中へと、デシたちは入っていく。
一同ともに、足取りには力がなかった。
「……父ちゃん、足が痛いよ」
デシはそこで初めて、口を開いた。
デシの顔には疲労の色が色濃く見て取れた。
足も裸足でここまで歩いてきたからか、いくつも擦り傷を作ってボロボロである。
デシの父は列から一度出て、彼を背に背負った。
そして再び、力なく行進する列の中へと入っていく。
昇る日、照らす太陽。
そしてあてもない行進が、彼らの体力と気力を奪っていく。
デシは我慢をしていた。
父を困らせてはいけないと、彼なりに理解していたのだろう。
のどがかわいたことも。
お腹がすいたことも。
眠いことも。
痛いことも。
しかし、彼の正直な部分が、わかりやすく空腹を主張していた。
「腹減ったか?」
小さくデシはうなづいた。
デシの父であるヨタは困っていた。
できることなら、息子に何か食べさせてあげたい。
もしくは水を飲ませてやりたい。
しかし、裸一貫で村から逃げてきたこの身には、何も身につけていなかった。
一緒に行進している人々からは、支援をもらえないであろうことは明白だ。
彼らもまた、自分のことで必死なのだ。
無理を通せば、争いに発展する。
現に先ほどから、後続の方でいさかいの怒声が聞こえてくる。
下手をすれば、殺し合いにまで発展してしまう。
彼もそれだけは避けたかった。
彼は視線をあげ、辺りを見渡した。
ふと、彼をして奇妙に思えるものを見つけた。
それは緑色の、鉄の箱のようなものだった。
大きな黒い車輪がつけられ、それが動いている。
速度はそれほど速くはないように見える。
いや、箱の中に見える人々の顔からは、この行進の速度に合わせているようにも見て取れた。
ヨタはひょこひょこと緑色の箱に近づいていった。
箱は大きなものだった。
ヨタの身長よりも大きく、横に幅がある。
その箱が、なんとも滑らかに動いているのである。
ヨタが近寄ってくるのを気づいた箱の中にいた人が、外に出てくる。
全身を緑と黒の、縞々のような、混ぜ合わせたような模様をもった女だった。
身長も大きい。
ヨタの身長は180センチ超。そのよりも頭一つぬけているように見える。
「○△□×」
女はこちらにむけて何かを発信するが、何を言っているのかヨタには理解ができなかった。
「この子を少し預かってもらえないか?」
女はヨタが言った言葉を理解できないようだった。
何かを伝えようと身振りを加えてくる。
ヨタは背負っていたデシを緑色の女に差し出すと、人差し指で自分の方を指さし、次に女の方を指さした。
そして何かを飲む身振りをすると、外の世界へと視線をやった。
まだ女は理解できていないようだったが、ヨタは無理やり女にデシを押し付けた。
女は抗議するような視線を送ってきたが、デシが衰弱している状態を見て、急いで緑色の箱の中へと戻っていった。
ヨタはそれを見送ると、列から飛び出し、近くの森の中へと重い足を運んでいった。
◆
デシは何か、温かいものにくるまれていることを自覚した。
父の背に背負われ、半分夢の世界へと旅立っていた彼は、いつの間にか横になっていた。
ぼやける視界の中には、何やら緑色のものが見える。
横になって眠っていると、先ほどまでの足の痛みが嘘のように良くなってくるようだった。
緑色が何か言っているように感じたが、それよりも早くに彼は夢の世界へと旅立っていった。
黒川は先ほど眠りについた子どもを横目に、助手席に座った伊丹に視線を投げかける。
「どうよ、その子?」
「今眠りにつきました。かなり衰弱していましたが、ひとまずは大丈夫なはずです」
「そっか、クロちゃんが言うなら安心かな」
黒川茉莉は自衛官ではあるが、看護師の資格も持っている。一通りの応急処置を施し、デシは安らかな寝顔を見せて眠りについた。
最初いきなり彼の親と思わしき人物から押し付けられたときは、一言怒鳴ってやりたかったが、彼はそのまま森の中へと姿を眩ました。
デシの様子もあって、そのまま車の中へと連れ込み、以前訪れた村で拾ったエルフの娘の隣に寝かせているのである。
荷物が増えたというふうにとらえられるかもしれないが、それでも彼女たちには見捨てることができなかった。
子どもに罪はない。
彼が安らかな寝息を立てて眠っている幼い顔を見ると、そう思える。
「で、おとっつぁんはどこに行ったのかな?」
「何かを飲むようなしぐさをしていたので、水でも汲みに行ったのかと。……彼、何も持っていませんでしたから」
「この子以外?」
「この子以外です」
「門」を超えてやってきた自衛隊は、以前訪れた集落から、赤いトカゲのようなドラゴンが各地を襲っていることを知っていた。
今眠っているまだ幼い男の子も、その被害者の一人なのだろう。
炎龍には勝てない。
彼らはそのことを以前訪れた村で聞いている。
人知を超えた災害。
人が起こすアクションは、二種類ある。
立ち向かうか、逃げるか。
彼らは逃げることを選んだ。
そうして、どこに行くかもわからないキャラバンの行進を行っているのだった。
黒川は再び、眠っているデシの方を見る。
こんな幼い子にも、神は試練を与えるのだ。
自分は、一体何ができるのだろうか。
そして黒川の頭を占めているもう一つの疑問。
それは先ほど自分に自分の子どもを押し付けてきた、デシの父親のこと。
医療系の知識を持つ黒川には、彼の体に見える傷跡からは、絶命していてもおかしくないように見えた。
彼を一目見たとき、悲鳴が出るのをなんとか抑えることに苦労するほどなのだ。
カピカピに乾いた黒い血痕から、大量の血液が流れ出たことがわかる。
それを、
本当ならば、彼にも治療を行うことが必要だったはずなのに、彼に子どもを押し付けられているうちにあれよあれよと姿を消してしまった。
彼女はファンタジーというか、フィクションにそれほど精通しているわけではない。
だから、常識はずれのことにも、いちいち理的に理解しようとしてしまうくせがあった。
これが伊丹だったら、『ファンタジー』の一言でひとまず納得させることができたろう。
しかし、実直で、悪く言えば融通の利かない彼女には、得体のしれない存在として、ヨタの姿が記憶されたのだった。