仮題・・・恋姫世界に幕末日本をぶち込んでみた。   作:3番目

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幕末編は終わりです。準備回を設けてから恋姫編突入、火葬戦記にはしませんのでご安心を・・・


05話 幕末編終了

 外国との大きな取引、条約の締結、蝦夷開拓、琉球併合。

 朝廷の意向を無視した幕府の急進的な開国への行動は尊王攘夷派を大いに焚き付けた。

 歴史の史実通りに禁門の変が発生した。

 その後の展開に大きな違いがあった、長州征伐であった。

 禁門の変が起きたとき、それを知った家茂の言葉は周りを戦慄させた。

「だが、去る者は決して許さない。」

 これは、家茂の長州藩取り潰しが決まった瞬間でもあった。

 長州征伐では家茂率いる幕府軍を中心に家茂の両翼たる松平容保の会津藩と松平定敬の桑名藩はもちろんとして、薩摩藩・福井藩・加賀藩・大野藩・小浜藩・鯖江藩・尾張藩・刈谷藩・田原藩・大垣藩・彦根藩・紀州藩・膳所藩・津藩・郡山藩・新宮藩・狭山藩・出石藩・三田藩・姫路藩・龍野藩・赤穂藩・鳥取藩・津山藩・岡山藩・松江藩・足守藩・松山藩・福山藩・広島藩・津和野藩といった大量の藩に大動員が掛けられた。

 

「飼い犬に手を噛まれるというものがあるが、実際にやられるとわかる。本当にはらわた煮えくり返るな。」

 3人の中では不安の芽は完全に摘み取りたいというのが本音であったが、鬼気迫る気迫を見せた家茂に意見できるものはその場にはいなかった。

 

 大軍を用いた長州征伐は最終的に長州藩を完全に滅ぼすことに成功した。幕府は銀山などの長州の財を飲み込むことで立て直しにも成功した。

 この時点で討幕を行える力を持つ藩は事実上消えた。

 長州藩士はほとんど戦の露と消えたし、生き残りもあらかた死罪か流罪であった。高杉晋作だとか桂小五郎(木戸孝允)等もたぶんみんな死んだ。

 敵の消えた3人は清国の二の舞にならぬように富国強兵論を展開し推し進めるのであった。

 

 新体制下の幕府は確かに、徳川時代の日本では戦争が無かったために軍事技術や造船技術などは育たなかった。しかし、それ以外の点では、必ずしも西欧に劣っていたわけではないのである。江戸は世界最大の人口を擁する一大文化都市だったし、飛脚などの通信網は完璧に機能していたし、都市部の上水道は世界に誇れるものだったし、しかも学問の発達によって民間の識字率は世界最高水準だったのだ。また、商業資本の発展は農村周辺に緊密な家内制手工業を整備しており、すでに産業革命の下地が出来ていたのである。新体制下の徳川幕府は、これらの基盤をそのまま利用したのに過ぎない。

 

 家茂幕府が行った重要な改革とは、西欧文化を導入し富国強兵政策を推し進めたのだ。

 そして、「富国強兵政策」は、国民の愛国心を前提としていた。

 国体の改造も西欧文明の導入も、実はこの政策の前提作りであったと言える。

 地租改正は、全ての庶民から満遍なく税を取り立てるため。

 学校制度の普及は、画一的教育によって未来の愛国心あふれる兵士を作るため。

 全国民に姓名をつけて戸籍制度を導入したのは、徴兵制の施行のため。

 鉄道などの最新技術を敷衍したのは、近代工業を根付かせるため。

 

 こうして、日本に近代機械工業と近代的野戦軍が誕生した。酪農や牧畜の技術も急速に進歩した。日本人は、西欧から高給で招いた教官たちから熱心に学んだため、もともと潜在的能力を秘めていた近代化は、みるみるうちに進んだのである。

 その一方で、日本は西欧から多額の借金をして海防力を高めた。最初のうちは、主要な港湾に巨大な大砲を据えつけたのだが、そのうち、それだけでは不十分だと気づき、造船技術を磨くとともにイギリスなどから軍艦を購入した。

 

 日本の国体をイギリス型の「立憲君主国」に変えた。天皇を擁立する幕府の幕僚たちにとって、その方が好都合だからである。しかし、それはあくまでも表向きのことであって、国家行政の実際的な運営方針は、むしろプロイセン型の「官僚主導国」のそれであった。

 しかし、歪なことに幕府による諸藩へのコントロールは依然として継続され、天皇を名目上の君主として徳川幕府を中心とした立憲制の中央集権型王政と言うめちゃくちゃな政体になった。

 

 幕府の改革も進み律令制の名残の残る民部省・兵部省・司法省・大蔵省・工部省・逓信省・農商務省・拓務省・外務省が設けられた。なお廃藩置県は未実施。

 

 

 数は少ないながらも蒸気船の実用化が始まり、海軍の旧来の帆船から汽船への更新が始まった。陸軍も旧来の刀槍を使ったものから銃を主体にしたものへと変わっていった。

 

 家茂政権下の徳川幕府統制下日本国は西洋列強に対しても十分通用する国力と兵力を手にしたのだ。

 

 

 維新戦争が終結した後の日本はそれこそ段階をいくつも飛ばすかのような恐るべき速度で急速に進歩していった。

 地租改正や秩禄処分を断行していった。士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔が行われた。

 各種殖産興業に力を入れ幕府や諸藩が経営した造船所や鉱山などの事業を官営工業として一纏めにし、紡績・製鉄・セメント・鉱山・酒造・造船・製絨等の新しい産業が次々と花開き、江戸風情残る古い日本建築の中に西洋建築(西洋館・擬洋風建築)の建物が現れるようになった。和装で菜食な生活から洋装、洋食などの奨励により肉食・洋装文化が織り混ざるようになっていくのである。

 夜も菜種油と行灯の時代は終わりをつげガス灯が夜道を煌々と照らし、大都市間を鉄道が繋ぎ、そこから血管のように張り巡らされる馬車鉄道が交通の便を向上させ、全国的な郵便制度につながり、役人や有力産業運営者には電信の恩恵がもたらされ、蝦夷地のアイヌ人を懐柔し、領有者が不明瞭な樺太や千島列島に屯田兵を送り込み同地の完全な実効支配を推し進め、その食指は勘察加(カムチャッカ)にまで伸びていた。

 

 民政で大きな変化があったのだ、軍政においても大きな変化があったのは当然と言えた。

 海軍戦力はかつての帆船を中心とした木造船から蒸気機関を搭載したスクリュー式蒸気船が海軍戦力の主力となっていた、かつて民に衝撃を与えた黒船艦隊の外輪式蒸気船はすでに旧式扱いで1線級からははずれた戦力となっていた。

 陸軍においても輸入品だよりだった各種ボルトアクション銃の国産化により村田銃や有坂銃・南部銃への更新が果たされた。

 さらにアームストロング砲の国産化に成功した佐賀藩の技術を接収し、幕府陸軍として国産錬鉄砲の開発製造が軌道に乗り始め、それまで幕府軍の主力となっていた鋳鋼製の四斤山砲やそれ以前の和製大砲も同様に二線級となり徐々に他藩への払下げや処分されることになった。

 

 わずか数年で欧州列強に並ぶ国力を手にした徳川幕府は次の時代のうねりで確実に飛躍するだろうことが容易に予測できた・・・実際このまま歴史が進めば徳清戦争や徳露戦争や第一次世界大戦で大勝利しそこから得た利益もあった第二次世界大戦では敗戦ではなく講和の道を進むことができたのだから・・・

 

 そんな矢先・・・

 


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