ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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 本編ではカットしましたが、やっぱりセツナの最期はきちんと描写すべきと思いました。
 蛇足かもしれませんが、どうか彼の最期を見届けてあげてください。


モノローグ

 昇る朝日がガラス張りの紅玉宮(こうぎょくきゅう)のロビーに射し込んでくる。時間が経つとやがて陽は落ちて代わりに月が昇る。月も部屋に太陽ほど強くはないが光を注いでくる。

 日光の力強さにも月光の儚さにも感慨を覚える暇もなく、俺は剣を振り続ける。この部屋で戦いを始めてどれくらいの日数が経ったのか、数える余裕もない。3日だった気がするし、10日だった気もする。

 ヒースクリフの剣が横に弧を描く。円弧の僅か数ミリ外へと上半身を引いた俺の首元に危うく鋭い刀身が触れそうになる。振り切った奴の剣が宙を踊るところを見逃さず、俺は奴の顔面目掛けて剣を突き出す。だがすかさずヒースクリフは盾を眼前に構え阻む。続けて鞘も突き出したい衝動に駆られるが、それを抑えて代わりとして盾に蹴りを入れる。反動で俺の体は後方へ跳び、十分に間合いを取ったところに着地する。

 一瞬だけ自分のHPを見ると半分近くにまで減っている。まともに攻撃を受けた記憶はない。奴の攻撃は全て防いだつもりだが、どうやら僅かに体の節々を掠められていたらしい。

 ポーチからハイポーションを取り出すと、ヒースクリフは床を蹴って間合いを詰めてきた。しっかりと盾を前に掲げて。俺は跳躍して壁一面に張られたガラスを走る。走りながら小瓶の中身を飲み込んで、HPが全快するのも待たずにガラスを蹴ってヒースクリフへと斜めに高速落下する。左手の鞘は真っ直ぐに奴へと伸びていったが、当然といわんばかりに盾に弾かれる。

 そう、当然だ。だから俺は、重力に従って床へ流れる俺の背中に奴が的確な1撃を与えてくるだろうと予想していた。奴がどう動くかも視認せず、俺は宙で体を反転させて右手の剣でガードの構えを取った。予想通り、ヒースクリフの長剣が俺の剣と交差し金属同士の衝突音と火花を散らす。剣の奥にあるヒースクリフが笑ったような気がした。重力に加わる剣戟の衝撃で、俺の体は一気に床を転がる。しっかりと受け身を取り、すぐに立ち上がり殺すべき敵を睨む。

「素晴らしいな。人間を相手に戦うノウハウをしっかりと心得ている」

「あんたのおかげで身に着けたものだ。皮肉だな。自分が与えた力で殺しにこられるなんて」

「元々そのために血盟騎士団を結成し、彼に二刀流を与えたのだ。飼い犬に手を噛まれたなんて憤るつもりはないよ。むしろ私はこの状況がこれまでの人生で最も楽しい。既に我々が戦いを始めて丁度ひと月が経とうとしている頃だ。だが飽きることはない。激しい空腹も喉の渇きもあるが、それ以上に時間が経つにつれて更に楽しさが増していく」

 ひと月。隙を突かれて攻撃されるのではないかと確認はしていないが、それほどの時間が経っていたとは。そう思うと一気に空腹が襲ってきた。続けて疲労と眠気が。この疲労感が奴の狙いなら性格が悪すぎる。奴も俺と同じ状態のはずなのに、そんな様子はおくびにも出していない。管理者権限のオーバーアシストでも使っているのか。いや、そんなことはないはずだ。この状況をゲームのクライマックスとして待ちわびたヒースクリフが、そんな興が醒めることをするわけがない。

「謝罪しよう、セツナ君。君をキリト君の代替としていた。だが君は私の予想を超えてくれた。これほどの時間が経っても屈しない精神力。君は紛れもなく、私と剣を交えるに相応しい勇者だ」

 血盟騎士団の団長だった頃と同じ真紅の鎧で身を固める魔王の瞳を見て、俺はぞっとした。これまで見てきた殺人鬼に見られる狂気じみた光が全くないのだ。この男は自分の享楽に1万人を巻き込み、彼等の慟哭と死を見届けていながら完全に正気を保っているのだ。

 彼等を殺したのは俺だ。その認識は変わらない。ナーヴギアに仕組まれた死の技巧。起動条件であるHPゼロへと導いてきたのは紛れもなく俺だ。だが、この世界での死の定義を創り上げたのは奴だ。

 ゲームで死んだら現実でも死ぬようにしたいな。

 どうすればその仕組みを作れるだろう。

 そうだ、ナーヴギアの出力を上げよう。

 そうすれば電子レンジのように、マイクロウェーブで脳に内側からしっかりと熱を入れてチンすることができる。

 そのためには大容量のバッテリセルを搭載しなければ。

 そうそう、確実に脳を焼けるようハードの形状も頭をすっぽり覆うようにしなければ。

 この男はそんなことを正気のまま思考し、遂には実行へと移した。自分の行動がどれだけの死を背負い、どれだけの死者に睨まれるかを自覚したままやり遂げたのだ。

 ふざけるな、なんて正義の味方じみた怒りを俺は見つけ出すことができない。俺にそんな怒りを持つ資格はない。たとえ世界の仕組みを構築したのが奴でも、仮想世界のなかで死への誘いを発動させた俺も奴と同じ殺人者だ。

 奴は罪悪の重圧を感じているのか。俺は疑問を抱かずにはいられない。200以上の命を奪い、奴に導かれ生き残った4千近くを死へと至らせた俺は今にも壊れてしまいそうだ。それなのに、奴は1万人近くの死を設計したにも関わらず、それでも俺との戦いを楽しんでいる。

 俺はおそるおそるヒースクリフのHPバーに焦点を合わせる。10本あった命のゲージは残り3本にまで減っている。余裕があるとは言い難いのに、奴は焦りなど微塵も見せない。最終ボスとしての威厳なのか。それとも奴の《神聖剣》にはまだ切り札があるのか。

「さて、セツナ君。私も余裕がなくなってきた。そろそろ決着をつけさせてもらおう。空腹もそろそろ限界だ」

 控え目に笑うヒースクリフの表情が冷ややかなものへと変わる。ゲームとは本気でやるから楽しいのだと、ゲーマーのクラスメートが言っていた。その言葉の通り、奴は本気で俺を殺しにかかるつもりだ。

 盾を掲げてヒースクリフが駆け出す。馬鹿正直に真正面から攻撃を仕掛けたところで防御されるのは目に見えている。ましてやここでソードスキルなんて自殺行為だ。たとえ最強の《帝釈天剣舞(たいしゃくてんけんぶ)》を繰り出したところで、奴には俺の動きが手に取るように分かるはずだ。

 ヒースクリフが剣を後ろへと引いた。恐らく突進技を放つのだろう。俺は奴の脚を見る。前へ前へと俺目掛けて走ってくる奴の脚がブレーキをかける瞬間、それを見逃さなかった。

 俺は地面を滑った。直後、俺の顔があった宙をヒースクリフの剣が斬る。空気が揺れる音を聞き取りながら、俺は体術回避技《スライドターン》で奴の背後に回った。大理石の床に俺の足によって描かれた弧のエフェクトが貼り付いている。俺は両手の刃を奴の背中へと振り下ろす。だが俺の攻撃はあっさりと防がれた。奴は俺に背を向けながら左手の盾を背中へと回した。心臓を攻撃されると分かっていたらしい。俺がPK技術を習得していることを知っているのなら的確な判断だ。

 十字盾の中心に叩き付けられたハーディスクラウンは火花を散らし、悲鳴に似た衝突音をあげて紅の刀身が折れた。1ヶ月にも及ぶ死闘の末、とうとう限界が来てしまったのだ。刀身の上半分が床に甲高い音を立てて落ち、直後に右手に残った下半分と共にポリゴンの欠片を散らしていく。相棒を失った感傷に浸る間も与えずヒースクリフの剣が振り下ろされる。咄嗟にかざした左手の鞘の中腹に命中してしまい、容赦なく火花を散らしてへし折られる。一応盾にも使われる金属で作ったものだが、魔王の前ではなまくらも同然ということか。

 リズベットに罰金を取られるな。ああ、でも彼女は死んでしまったんだった。そんな悪ふざけが過ぎたことを考えていると、耳孔にヒースクリフの勝利宣言が入り込む。

「さらばだ、セツナ君」

 俺の頭上に掲げられたヒースクリフの剣が紅の光を帯びる。

 俺はバックステップを取らず、左右どちらかに避けることもせず、前へと、ヒースクリフの懐へと飛び込んだ。剣を振り下ろそうとした奴の頬に拳を打ちつける。スキルモーションを妨害されたためか、奴の動きが止まった。俺は新しい剣を装備することもせず、ただ奴の顔面を殴り続けた。

 戦いの根源にあり突き詰めたもの。

 即ち暴力。

 この最後の戦いに神聖さを求めるなら、俺の戦い方はひどく野蛮で冒涜的なものだ。でも人の暴力性を見てきた俺は知っている。いくら研ぎ澄まされた剣を握っても、いくら豪奢な鎧を見繕っても、所詮戦いとは暴力だ。相手を殺すことを目的とし、相手が死ぬまで痛めつける野蛮なもの。

 茅場昌彦(かやばあきひこ)。あんたは学生時代から既にゲームデザイナーとして名を馳せていたそうだな。机で開発と研究に没頭していたのなら、学友と殴り合いの喧嘩なんてしたことないだろう。俺のいたサッカー部は血気盛んな連中が多くてな。しょっちゅうやっていたわけじゃないが、反りが合わないと殴り合ったものだよ。お互い頬を腫らして、体中に痣を作って、口を切って血を吐いて、2人ともぼろぼろになる頃にはどっちが勝ったかなんてどうでもよくなった。それで喧嘩した奴とは親友になった。拳を交えて語り合うなんて、あんたみたいな頭の良い人間には猿のじゃれ合いに見えるだろうさ。どんな気分だ。猿に殴られる気分は。

 奴のHPが減っていく。グリーンだったバーはイエローへ突入し、残り1本のうち半分を切った。

 俺は殴りながら抗った。剣によって生き死にが規定される世界に。システムという絶対者に。

 唐突に俺の右手がイエローの光を纏った。体に染み付いた動作でスキルを発動させてしまったらしい。ヒースクリフは笑みを浮かべる。自ら設計したシステムに委ねた動き。俺は抗っておきながら無意識にシステムにすがってしまった。光を帯びた俺の拳はヒースクリフの顔面ではなく奴の盾を殴った。普通に殴るよりも速いはずなのに、奴は動かされた俺の拳がどう動くか知っていたのだ。

 腹に痺れに似た感覚が走る。刺されたのか、と俺は無感情に腹に深々と刺さる刀身を見下ろす。満たされていた俺のHPがゆっくりと減少していく。痛みもないのに、これで本当に死ぬのだろうか。恐怖はない。俺に殺された者達も、いまわの際に抱いたのは恐怖ではなく疑問だったのかもしれない。

 俺の思考はクリアだった。慌てて剣を抜こうと身を引くのではなく、腹に抱えたまま、右手の人差し指と中指を真っ直ぐ揃えて真下に振る。呼び出されたウィンドウを的確に素早く操作し、OKボタンを押してウィンドウを消した。腰に重みが乗る。

 俺は出現したばかりの新しい剣を抜いた。解き放たれた漆黒の刃が鋭く光る。片手剣なのにかなり重い。振れないことはないが、俺の戦闘スタイルとは相性が悪い。剣を見たヒースクリフは初めて見る驚きの表情を浮かべる。

 

「うおおおおおあああああああっ‼」

 

 俺は吼えた。獣のように。咆哮と共に俺は黒光りするエリュシデータを突き出した。誰かが背中を押してくれたような感触と温かさがあった。俺の背後に立つ死者達か、それともこの剣の本来の持ち主か。

 俺の咆哮がロビーにこだまして、まるで2人分の声に聞こえる。視えざる何かの力と共に、俺の握るエリュシデータはヒースクリフの胸を貫いた。

 ヒースクリフのHPが減少してレッドゾーンに突入する。奴はそれを意に介さず、自分の胸に刺さる漆黒の刀身を見つめている。俺のHPバーは奴よりも速いペースで減っていく。

 俺は剣を捻った。傷付ける内蔵は詰まっていないが、奴のHPの減少が僅かだが加速する。

 俺のHPバーの残量がヒースクリフに追いつこうとしている。先に尽きるのはどちらか。もはや俺達は剣を抜こうとせず、互いを刺したまま立ち尽くしている。

 そして、ヒースクリフのHPが消滅した。一瞬遅れて俺のHPも。視界にメッセージが表示される。

【You are dead】

 体の感覚が失われていく。腹に剣を抱えた痺れも、右手に握る剣の感触も。この世界における俺の存在が分解されようとしている。ヒースクリフの体が光を放っている。視界の隅にある俺の右手も光っている。ああ、死ぬんだなと、俺はようやく実感が湧いた。

 目を閉じると同時に聞き慣れた破砕音が響く。ヒースクリフも砕けたのだろうか。確認しようにも、目蓋を開けたところで暗闇が広がり何も見えない。薄れていく意識のなか、無機質な合成音声が聞こえる。

『アインクラッド標準時 11月 20日 11時 6分 ゲームは クリアされました』

 最期を迎える瞬間も、俺は波絵を想い続けているだろうと思っていた。

 でもこのとき俺が思い浮かべていたのは波絵ではなく、俺をキリトと呼ぶ彼女の顔だった。

 このアナウンスがアインクラッド全域に及んでいるなら、聞いている彼女は何を思っているのだろうか。喜んでいるのか、意味を理解できずにいるのか。聞こえていないのなら、キリトだと思っている俺のために食事の準備をして帰りを待っているのか。

 もしかしたら、俺が寝室に貼った波絵との写真を見つけて困惑しているのかもしれない。だとしたら悪いことをした。でも、彼女には知ってほしかった。俺と波絵という存在がいたことを。気に入らないなら捨ててもらっても構わない。

 そんなことを思っていると、張り詰めていた気持ちが不思議とやわらいだ。

 

 ♦

 

 まだ生きている。

 

 そう思えたのは、広がる景色があまりにも美しいからだ。もし死後に天国と地獄があるなら、俺は間違いなく地獄に落ちるはず。だから自分がいる場所は一見すれば天国と呼ぶに相応しいが、本当の天国ではない。

 それにしても美しい景色だ。思わず思考を止めてしまいそうなほどに。周囲のどこを見渡しても空が無限に広がっている。遥か彼方にある太陽は連なる雲を朱色に照らしている。仰げばすぐ夜空が迫っていて、昼と夜の境界はどちらにも染まりきれない紫色のグラデーションがかかっている。

 固い床の感触が靴底にあるのだが、俺の足元に床はない。雲の切れ間からも雲が流れていて地面が見えない。ここから落下したら無限に落ち続けるのだろうか。

 ふと降ろした視線の片隅、空の一点に俺がいたアインクラッドが浮かんでいる。何層にも積み重なった空飛ぶ城。現実で見たSAOの資料に載っていたものと同じ外観だ。なかにいると果てしなく巨大だったが、こうして遠くから眺めていると小さいものだなと感慨を覚える。

 天空に浮かぶ城は崩壊している途中だった。まるでラピュタのように、下部のフロアから城を構成する素材が剥がれ落ちて雲海へと消えていく。

 俺は試しにウィンドウを呼び出すアクションをしてみる。効果音と共にウィンドウは出現したのだが、メニューが存在せず【最終フェイズ実行中 現在54%完了】という文字だけが表示されている。ウィンドウが提示してくれるのはそれだけで、俺は窓を消す。ここは死後の世界などではなく、まだSAOのなかだ。何故か俺は崩落していく城の頂からこの空へと放り出された。

「なかなかに絶景だな」

 ぼんやり立ち尽くしていると不意にその声は聞こえた。右にいつの間にか男が立っている。現実で初めてSAOのことを知ったゲーム雑誌で見たことのある顔だ。白衣を着た学者然とした男は無表情のまま、崩れていくアインクラッドを眺めている。その無機質な金属じみた瞳は聖騎士ヒースクリフと同じだった。

茅場昌彦(かやばあきひこ)か」

 この世界の創造主。

 あの城で繰り広げられた悲劇の根源。

 1万人近くの人間を殺した虐殺者。

 少し前までヒースクリフとしての彼に確かな殺意を抱いていたというのに、本来の姿である彼に対して湧き上がるものは何もない。

「この世界は終わるのか」

 俺の質問に茅場は「そうだな」と静かに答える。

「現在、アーガス本社地下5階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと10分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」

「アスナは……、どうなった」

 茅場はウィンドウを呼び出す。

「彼女は先ほど無事ログアウトした。心配には及ばない」

「死んだ者達はどうなった。本当に現実でも死んだのか」

 俺がそう聞くと、茅場はウィンドウを消した。逡巡も挟まず無表情のまま言う。

「死者が消えていくのはどこの世界でも一緒さ。彼等の意識は帰ってこない。君とは最後に少しだけ話をしたくて、この時間を作らせてもらった」

 その事実を聞いても、俺は落胆しなかった。理解はしていた。3年という年月が経っても外部からの助けはなかった。ゲームで死んでもナーヴギアの欠陥で現実へ無事戻れたのなら、生還者と同じ方法で次々とプレイヤー達は救出されたはずだ。

 茅場の作り上げた理論は完璧だった。一片の狂いも生じることなく、この世界で消えた者達は現実からも消えてしまった。

「何故こんなことをした」

 俺は思わずそう聞いている。質問に怒りも悲しみも乗せてはいない。単純に気になったのだ。この天才ゲームデザイナーが、仮想世界に何を求めていたのか。

 この質問の答えに茅場は逡巡を挟んだ。

「何故――、か。私も長い間忘れていたよ。何故だろうな。フルダイブ環境システムの開発を知った時――いやその遥か以前から、私はあの城を、現実世界のあらゆる枠や法則を超越した世界を創り出すことだけを欲して生きてきた。そして私は……私の世界で懸命に生き、創造主である私を超えるものを見ることができた……」

 それが君だ。そう言いたげに茅場は俺に視線を向け、そして自分の創り出したアインクラッドへと戻し言葉を続ける。

「子供は次から次へいろいろな夢想をするだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは何歳の頃だったかな……。その情景だけは、いつまで経っても私の中から去ろうとしなかった。年経るごとにどんどんリアルに、大きく広がっていった。この地上から飛び立って、あの城に行きたい……長い、長い間、それが私の唯一の欲求だった。私はね、セツナ君。まだ信じているのだよ――どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと――……」

 俺にはこの男の欲求が、微かだが理解できた気がした。俺は波絵と一緒にいられる世界を求めた。どこへだっていい。映画というコンテンツがない世界でも。本というメディアがない世界でも。サッカーというスポーツがない世界でも。ただ波絵と出会い、心を通わせ、結ばれるならどこでも。この男にとってそれは、あの崩れゆく城のある世界だった。

 彼もまた、楽園を求めていたのだ。

「さて、セツナ君。報酬といっては何だが、君には2つの選択肢がある。1つは、このまま私の作ったシステムによって死を迎える選択。もう1つは、無事に元の世界へ還る選択。後者を選ぶなら、私は君にこれを託したい」

 そう言う茅場の右手のなかで何か小さなものが輝いている。卵の形をした結晶だった。

「それは」

「これは、世界の種子(ザ・シード)だ。芽吹けば、どういうものか解る。判断は君に託そう。消去し、忘れるもよし。しかし、もし君が、この世界に憎しみ以外の感情を残しているのなら……、これを元の世界で芽吹かせ、更に種を蒔いてほしい」

 俺は茅場の手のなかにある結晶を眺める。結晶は微弱ながらも力強さを感じる光を放っている。

 世界の種子(ザ・シード)

 もしそれが芽を出し育てば、新しい世界が花開くのかもしれない。でも俺は、そんなものに興味はない。

 俺は崩落が上層にまで及ぶアインクラッドへと視線を移す。楽園と信じたあの城は地獄だった。波絵を失い、人がどれだけ野蛮になれるかを知り、一緒に戦ってくれた仲間も次々と死んでいった。憎しみ。俺はあの城にそれ以外の感情を想起することができない。たとえ世界の種子(ザ・シード)によって楽園と呼ぶに相応しい世界が生まれたとしても、俺にとってどの世界も楽園にはなれない。生まれる世界のどこにも、死んでしまった波絵はいないのだから。

 考える時間なんて必要ない。答えは決まっている。

「死なせてくれ。波絵のいない世界で生きる意味は、もうない」

 俺は静かに、はっきりと答えを提示する。

 俺はいま、確信を持って波絵を愛していると言うことができる。

 この確信は捨てたくない。

 彼女を愛したセツナとして、早速刹那として死にたい。

 茅場の苦笑が聞こえた気がした。

「……残念だが、君ならそう選択すると思ったよ」

「なら聞くなよ」

「もしかしたら、という期待を抱かずにはいられないよ。想定外の展開はネットワークRPGの醍醐味だ。キリト君が私の正体を見破ったのも、キリト君ではなく君が私を倒すことも、私にとっては予想以上のものだった」

 俺は自然と笑みを零す。おかしなものだ。殺し合った仲だというのに、こんなに穏やかな会話をしているのは。

 アインクラッドの崩壊はいよいよ終盤に差し掛かっていた。俺達が戦った紅玉宮(こうぎょくきゅう)は分解され底の見えない雲間へと落ちていく。アインクラッドは完全に崩壊した。浮遊城があったところには雲が流れ出し、早くも空飛ぶ城があったことなど忘却したかのように見える。

「――さて、私はそろそろ行くよ。そうだ、言い忘れていたな。ゲームクリアおめでとう、セツナ君」

 何気なく無感情に発せられた茅場の言葉で、俺は自分がゲームクリアを果たしたことを思い出す。全プレイヤーの悲願だったというのに達成感らしきものはなかった。ただ、終わったんだなという哀愁が胸のなかを満たしていた。

 気付けば茅場の姿が消えていた。音もなく。彼も現実で死を迎えるのだろうか。それとも、現実へ帰還するのだろうか。考えても無意味だし、どうでもいいことだ。

 俺は死ぬ。生きて元の世界へ還る選択がありながら死を選んだ。後悔はない。

 黄昏を映す世界は終焉へと向かっていく。空も雲海も太陽も白い光に覆われていく。それらのオブジェクトが光の粒子となって蒸発していく。消えるときは影も形も残さない。それがこの世界の絶対的なルール。そのルールを住人に提示してきたこの世界自身が消えようとしていた。

 世界はいよいよその役目を終える。周囲の空間が光に呑み込まれていく。最後まで残っていた俺の体もまた、光の粒子を散らして足元から崩壊していく。

 体が軽い。どこまでも飛んでいけるような気がした。この世界でも現実世界でもない、次の新しい世界へ旅立とう。霧散していく俺の欠片が一筋の道のように光の彼方へと伸びていく。この道が光へと導いてくれる。

「お別れだ」

 俺は誰もいない空間でそう呟く。現実に残していった者達と現実へ還る者。両親、姉、友人達、部活の先輩と後輩達、監督、そしてアスナへさようならと告げる。

 俺は一足先に逝かせてもらう。父さん。あなたの付けてくれた名前の通り、俺の人生は刹那のように短かった。父さんが俺の名前に込めた願いがこんなものじゃなかったことは知っている。でも俺は自分の人生に後悔はない。納得して死を迎えられるのはそうないことだと思う。この気持ちを父さんと母さんと姉ちゃんに伝えられないのは残念だ。

 俺の体がふわりと浮いた。自分の体を構成していた粒子の道を辿っていく。道の先にある一際まばゆい光へと進むにつれて笑い声が聞こえてくる。俺に力を貸してくれた仲間達の声だ。俺を迎えにきてくれたのか。この先にある次の世界への道中で彼等とは別れるのかもしれない。彼等は喜びに満ちた世界へ。俺は業苦に満ちた世界へ。もし再会が叶うのなら、俺にはあんた達が見えるだろうか。分からないのであればそれでいい。また初めからやり直せばいい。犯した罪が抜け落ち、全く異なる存在になった俺なら、あんた達と友達として出会う資格を得られるだろう。

 彼等の声を越えて俺は更に進む。道の先にある光のなかに少女がいる。少女のもとへと辿り着いた俺は彼女に消えかけている腕を伸ばす。

 波絵、お前は俺を赦してくれるか。

 俺を愛してくれるか。

 波絵は穏やかに微笑み手を差し伸べる。俺の目から涙が溢れた。絶えず流れる滴が俺のなかにある穢れを洗い流していくように思える。

 俺は波絵の手を掴んだ。波絵は以前と変わらず俺を受け入れてくれる。目の前の愛しい人を俺は抱きしめた。俺のなかにあるのは憎悪でも慟哭でもない。もう彼女への明瞭な愛しさしか残されていない。

 愛してる。

 今までも。

 これからも。

 たとえ世界が終わっても。

 たとえ全て消えてしまっても。

 ずっと。

 ずっと永遠に――

 すべてがその形を失い光となって空間を満たしていく。色彩を失い、線を失い、境界を失った光の中で全てが溶け合いひとつになる。

 何もかもが白の光に包まれ、光が虚無へ還るなかで一粒の滴が落ちた。

 永遠の宙を落下していく滴はほどなくして蒸発し、光の粒を振り撒いたのちに消えていった。

 

【挿絵表示】

 


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