ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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 雰囲気づくりにamazarashiさんの「季節は次々死んでいく Starlight Ver.」を聴きながら読んで頂けると幸いです。


最終話 別れの時にはさようなら

 雲一つない夜空だ。星もひとつもない。真っ黒な被膜が世界を覆い隠しているようだ。浮かぶ月はまるで被膜に開いた大きな傷口のように弱く世界を照らしている。

 俺は月を見上げる顔を降ろして、目の前に広がる海を眺める。波が俺の足元まで迫ってくるけど、俺のブーツを濡らすことなく引いていく。そしてまた迫っては引いてを繰り返す。

 波は砂浜にたくさんのものを運んでくれる。貝殻に流木に死体。まるで打ち上げられたイルカやクジラのように彼等はぐったりとしている。そういえば、外国で腐敗したクジラの腹が破裂したというニュースを聞いたことがある。腐敗すると体内にガスが溜まって膨れ上がり、許容量を過ぎると皮膚を割いて辺りに血と体液と臓物を撒き散らすらしい。打ち上げられた人々はまだ死んで間もないようで、今は破裂する心配はなさそうだ。

「お久しぶり」

 聞き覚えのある声が聞こえる。浅瀬にテーブルと2脚の椅子が設えられていて、1脚には既に女性が座っている。

「ご一緒していただける?」

 女性が俺に微笑む。俺はブーツが濡れるのも構わず水のなかへ足を入れ浅瀬を歩く。海水の抵抗にわずらわしさを感じながらも、彼女の向かいに置かれた椅子に腰を落ち着かせる。彼女はサーバーの中身をカップに注ぎ俺に差し出してくれた。俺は湯気を立てるコーヒーの香りを楽しみ、ゆっくりと啜る。前に一緒に飲んだときよりも格段に美味かった。

「久しぶりだ、エステル。せっかくの服が台無しだな」

 俺がそう言うと、彼女は物憂げに目蓋が垂れた目を細めてまた微笑む。純白のワンピースは品の良い彼女によく似合っているのだが、右肩から胸にかけて鮮血に染まっている。血は更にじわじわと染み込んで範囲を広げていく。

「せっかくの再会なのに、そんな言い方するかしら?」

「女の扱いには慣れていない」

 不満そうな顔をする彼女を尻目に俺は再びコーヒーに口をつける。

「攻略の調子はどう?」

「最悪だな。ゲームオーバー寸前だ」

 一拍置いて俺は続ける。

「俺が全てを壊した。罪のある命も、善良な命も全部」

 俺は水平の彼方を眺める。月光を穏やかに揺れる海面が反射している。まるで黄泉へと続く道のように、きらきらと海面を走る光はこちらへと伸びていた。光の道の上に誰かが立っている。全身ずぶぬれで髪の先端から水を滴らせながら、彼女は俺とエステルを見つめている。

「とても綺麗な人ね」

「ああ」

「ぞっこんなのね」

「そうでなかったら死神にも団長にもならなかった」

「あなたがたくさん殺して、ゲームをクリアさせようとしたのは彼女のため?」

 エステルの質問に俺はすぐ答えることができなかった。答えを急ぐ問題でもないし、彼女がそんなせっかちな女性には見えなかった。

 コーヒーを2口飲んだところで、俺はようやく答える。

「分からない。俺はナミエのために殺していたのか、自分の罪を償うために攻略を目指したのか」

「自分の罪、数えたことある?」

「ああ。ナミエをこの世界に連れてきた罪。ナミエを死なせた罪。人を殺した罪。同族殺しを扇動した罪。皆を死地へと行かせた罪」

「途方も無いわね」

 「そうだな」と相づちを打ち、俺は無意味な告解を続ける。

「生き残ったプレイヤーを救えば、この世界が消えてくれれば、俺の罪も消えるんじゃないかと思っていた。でも違った」

「そうね、命に優劣はないもの。犯罪者だから特別価値が無いわけでも、善良だから特別価値があるわけでもない。命は等価値よ」

「途方もない罪を抱えた俺の命もか」

「ええ。あなただけじゃない。彼女もよ。特別なものなんて何もないの。皆平等よ。誰だっていつかは死んでしまう。私のようにね」

「そう、なのか………」

 疑問を口にしながら俺は光の道に立つ彼女を見つめる。彼女は何も言ってくれない。その虚ろな目に何を映しているのかも分からない。

「でも俺にとって、ナミエの命は特別だった。誰を犠牲にしたって構わない。彼女が生き返ってくれるなら何人殺してもいいと思った」

「誰にだって大切な人はいるわ。自分にとって大切な人の命は特別と思うものよ。それが所詮オブジェクトでも、骨を軸とした筋肉と肉の塊でもね。それが一般に愛と呼ばれるものよ」

「なら、俺の彼女に対する気持ちは愛と呼べるのか」

 俺がそう聞くとエステルは苦笑する。

「愛情の形は人それぞれよ。ある人にとっては愛と呼べても、またある人にとっては愛と呼べないのかもしれないわ。要は気持ち次第ね」

「同じことを言っていた男がいた」

「あら、どんな人?」

「最悪の殺人鬼だ」

 そのことを言ってやると、エステルは子供っぽくむくれた。

「失礼ね。殺人鬼と一緒にしてほしくないわ」

「そんなつもりはない」

 愛しているのかいないのか。愛情と呼ぶべきなのか曖昧な俺を反映しているかのように海は穏やかな風に煽られ波打っている。水面の彼女の姿さえも曖昧になり、やがてどろどろと海面に溶けて消えていく。

「ずっと彼女に会いたいと願っていた。夢でも幻でもいい。また笑ってくれて、俺のためにバイオリンを弾いてほしい。でもゾディアークを殺してから、彼女は泣きも笑いもしなくなった」

「ここでは全てがあなたの思い通りよ。幸せな夢を見ることだってできるのに、あなたはあえて地獄を夢見て進んで苦しんでいる。あなたを罰しているのはあなた自身よ」

「罪を抱えて、苦しみ続けることが罰になるのか」

「それを選択したのはあなたじゃない。サディストのようにたくさん殺してきたけれど、実はマゾヒストなのかしら?」

 エステルはこんなに意地悪な女性だっただろうか。そう思いながら、俺は仕返しとばかりに言う。

「ここであんたが何を言っても、それはあんたの言葉じゃない」

「ええ、そうね。ここはあなたの創り出す世界だから、見える景色も聞こえる声も取捨選択することができる。でも忘れないで。あなたの記憶にある言葉は創ったものではなく真実だってことを」

 エステルはそう言うとコーヒーを飲み干して立ち上がる。ゆっくりと水音を静かに立てながら浅瀬を歩き、俺のほうへ振り返る。あの夜と同じように、月光に照らされた白い肌が反射していた。

「セツナさん、あなたは生きてね。あなたの力は人を殺すだけじゃなくて、救うこともできるはずだから」

 エステルの声色と表情はあの夜と全く同じだった。本物じゃないと分かっていても、俺にとって目の前にいる彼女はいつも物憂げな顔をしていたエステル本人だった。

「これは、私自身の言葉よ」

 そう言うとエステルは姿勢を真っ直ぐにしたまま海面へと身を投げた。飛沫が上がり、ぶくぶくと泡立った海面に浮き上がってくることはなかった。

 俺もカップに残ったコーヒーを飲み干し、浅瀬の上に立つ。目を開いたまま体をゆっくりと前に倒す。重量で加速していき、海面に衝突する。浅瀬だというのに、立っていたところはくるぶしが浸かる程度だったというのに、俺の体は底の見えない海中を深く潜っていく。

 ああ、これも俺が創ったんだなと思いながら、俺は一切の光が差し込まない暗闇へと閉じ込められた。あまりにも暗くて自分が目を開いているのか閉じているのかさえ分からなくなる。最初は抗っていた水の流れに身を任せ、海中を揺蕩(たゆた)っているうちに眠気が訪れる。

 夢のなかの眠りは、俺の意識を現実での目覚めへ導いた。

 

 ♦

 朝食後のコーヒーは、アスナとキリトの穏やかなひと時だ。コーヒーを飲んで頬を緩めるキリトの顔が愛おしく、アスナも自然と笑みを零す。

 コーヒーを飲み終えてすぐにキリトは支度を始めた。黒のレザーコートを身に着ける彼の姿にどこか懐かしさを覚える。ここ数ヶ月の間、彼はヒースクリフを彷彿とさせる真紅のコートを着ていた。いつの間にかキリトは血盟騎士団の参謀職を務めるようになったらしい。妻として誇らしい。夫が最前線で活躍しているのは。

 「そうだ」とアスナは思い出し、黒光りする剣をオブジェクト化させる。

「キリト君、これ」

 キリトは逡巡した後に「ありがとう」と剣を受け取る。

「新しい剣に変えたの?」

「ああ……、うん」

 エリュシデータはキリトが長く愛用していた剣だ。第50層フロアボスがドロップしたもので、リズベットの見立てによると魔剣クラスらしい。

「これでも厳しくなってきたな」

「そうなんだ。モンスターもどんどん強くなってるんだね」

「ああ。でも御守り代わりに持っとくよ」

 そう言うと、キリトはエリュシデータをストレージにしまった。アスナはつい笑ってしまう。

「ただ出し入れしただけだね。ストレージは共有化されてるし」

 「そうだな」とキリトも控え目に笑う。

「それじゃ、行ってくるよ」

 その言葉を聞くと、アスナの胸に不安が渦巻いてくる。もし彼が戻ってこなかったらと。毎日のことだ。アスナが前線から退いて、毎朝危険な迷宮区へ行くキリトを見送る度に不安が襲ってくる。

「ねえキリト君、やっぱりわたしも――」

「それは駄目だ」

 アスナの言葉をキリトは鋭く遮った。

「これからの攻略は危険なんだ。特に今日行くところは。アスナを行かせるわけにはいかない」

「そんなに危険なら尚更よ。もしキリト君に何かあったら………」

「大丈夫」

 俯くアスナにキリトは優しく言った。ぽん、と頭に手が添えられる。

「必ず帰ってくるさ」

 アスナは顔を上げる。身長は同じくらいのはずなのに、今日のキリトは一回り大きく見える。

 このやり取りも毎日のことだ。日を追うごとに彼とのレベルは差を広め、置いていかれる自分がもどかしい。

「うん、待ってる………」

 アスナは弱々しく言った。

「……だから、絶対に帰ってきてね。キリト君の好きなもの、作って待ってるから」

「ああ」

 キリトは優しく笑った。アスナに背を向けてドアへと歩き出す。アスナは夫の背中を見つめながら祈る。今日も無事に帰ってこられますようにと。

 外でドアを閉めようとキリトが振り返る。その一瞬だけ視線が合った。閉まりかけたドアから覗く彼は、とても悲しそうな目をしていた。夫のあんな目を見たのは初めてだ。まるで別人のように思えた。

「キリト君――」

 アスナは夫の名前を呼んだ。でもキリトは止まることなくドアを閉めて、その姿を消してしまった。

 

 ♦

 研磨を重ね、僅かな光で紅い光を反射するハーディスクラウンが天使の剣を払いのける。

 第99層フロアボス《The Guardian Angel》。整った、しかし10メートルはありそうな青年の姿をした天使は3対の翼を羽ばたかせてホバリングする。セツナは体術スキルを駆使して壁を走り、円柱に伸びるボスの間を螺旋状に登っていく。同じ高度に達したところで、疑似二刀流突進技《オミナスバイト》を放つ。壁を蹴り、宙ですれ違い様に一閃し翼の1枚を斬り落とす。

 着地を決めてすぐさま上空を見上げる。自慢の翼をもがれた天使は怒りに顔を歪め、黄金に輝く剣を掲げて一気に下降してきた。すぐにその場から離れ、セツナがいた地点に天使の剣が振り下ろされる。演出として撒き散らされる粉塵のせいで視覚が阻害されるも、埃のなかに浮かぶレッドのカーソルを目印に左へ迂回する。黄金の剣が粉塵を切り裂いた。

 僅かな隙間から覗く敵の姿を視認し、セツナは跳躍する。狙い通り天使の背中に着地した。天使は上半身に何も身に纏っていないため、皮膚に浮き出た筋肉はダビデ像のように完璧な造形美をたたえている。その美しく、翼の生えた背中に2本の刃を突き刺す。天使が痛みに身を悶えさせた。残った5枚の翼をせわしなく動かして上昇して振り落しにかかってくる。セツナは剣だけを抜き、背中に突き出した鞘を掴んだまま背中を大振りに切り裂く。5枚の翼が根本から次々と斬り落とされ、天使としての勲章を失った青年は重力に引き寄せられ墜落していく。

 ただの巨人に成り下がったボスはイカロスのように、真っ逆さまに床へ激突する。衝突の直前に背中から離れたセツナは地面を転がり、うずくまる巨人を眺める。8本あったHPバーは残り1本を切っている。

 巨人が剣を手に立ち上がると同時に、セツナは両手の刃を構え懐に飛び込む。剣と鞘を一瞬の隙もなく降り続け、腹筋が割れた腹に次々とダメージエフェクトを刻んでいく。

 疑似二刀流最上位剣技《帝釈天剣舞(たいしゃくてんけんぶ)》。太極拳の演武のごとく、視認することすらも困難な高速剣戟が繰り広げられる。連続する衝突音と迸る閃光。斬る度に散る火花で目がくらみそうになる。だがシステムによって動かされた体は止まることなく斬撃を浴びせていく。

 26撃目、2本の刃をクロスに薙いだ。最後の1撃で巨人のHPが消滅し、断末魔の雄叫びをあげる美麗な顔面が爆散した。部屋中にポリゴンの欠片が降り注ぎ、目の前にリザルトメニューが表示される。だがセツナのレベルは上限である100に達した。スキルロットにあるものも全て完全習得した。セツナのアバターは剣士として完成している。もう鍛える必要はない。

 剣を納めハイポーションを飲み干す。ゆっくりとHPが回復し始めたのを確認し、セツナは次の層、最上層へと続く扉へと歩き出す。

 後に続く足音はない。セツナひとりだけの足音が主を失ったボスの間に反響している。でも寂しさはなかった。

 この世界で消えた1万人近くの死者達。彼等が背後に歩いていて、睨まれ、ときには見守られているかのような視線を感じる。

 これが死を背負うということか。そんな感慨めいたものを覚えながら、セツナは歩き続けた。背後に死者達の影を感じながら。

 

 ♦

 アスナはリビングのソファに腰掛け、窓から見える景色を眺めていた。今日は良い天気だ。森の中から小鳥達が飛び去っていく。

 今日の夕飯のメニューを考えるも、なかなか決まらない。リズベットかシリカに相談でもしようと思ったが、家にはアスナひとりだけだ。何故かメッセージも送れない。いつの間にかフレンドリストから彼女らの名前が消えていたのだ。彼女達だけでなく、アスナのフレンドリストには名前がひとつもない。おかしい。システムにエラーでも生じたのだろうか。

 おかしいといえば、今朝のキリトも様子が変だった。口数が少ないのはいつものことだけど、朝食を食べている間、彼は一言も発することがなかった。いつもは早く食べ終わってしまうのに、今朝はゆっくりと味わうようにパンとスクランブルエッグとサラダを食べていた。味わってくれるのは嬉しい。でも素直に喜ぶことができない。

 そしてあの目だ。家を出ていくときに一瞬だけ見せた悲しそうな目。どうしてあんな顔をしていたんだろう。必ず帰ってくると言っていたのに。

 そういえば、今朝のキリトは剣を腰に吊っていた。いつもは肩に吊っているのに。背も少し伸びた気がする。髪や目の色はカスタマイズできても、身長まで容姿をいじることはできないはずなのに。

 嫌な予感がする。彼はキリトなのか。不安は急速に膨れ上がっていく。

 いや、とアスナは首を振る。髪を振り乱したせいで、束が数本だけ唇に貼り付いた。

「あれはキリト君よ。そうに決まってるじゃない………」

 そう自分に語りかけ、アスナは階段を上り寝室に入る。

 キリトと結婚してこの家に住み始めてからの思い出は、写真として壁のコルクボードに残してある。写真のなかにいるのは紛れもなくキリトだ。アスナが愛した夫。斜に構えて飄々としているけど、寝顔はとても無邪気な愛おしい彼とこの家でずっと暮らしてきた。

 ここ数ヶ月は撮った記憶がないけど、それは彼が攻略に忙しく休む暇がなかったから。キリトはアスナを現実へ還すために危険な戦場へ赴いている。今朝だってそうだ。アスナのために、攻略組の仲間達と共に迷宮区へ入ったはずだ。

 そうだ、とアスナは思い出す。結婚しているアスナならキリトのステータスを自由に見られるはず。アスナはメインウィンドウを呼び出す。そこに映し出された事実に息を飲む。

 メニューで閲覧できるはずの、配偶者であるキリトのステータスがなかった。表示されているのはアスナのものだけ。唐突に、いつのものか分からない記憶が脳裏によぎる。

 

「死ぬつもりじゃ……ないんだよね……?」

「ああ。必ず勝つ。勝ってこの世界を終わらせる」

 

 その記憶が何なのかアスナには思い出せない。どうしてキリトは辛そうに笑みを見せていたのだろう。どうして彼の背後にはヒースクリフが立っていたのだろう。

 何故か涙が止まらない。キリトは生きて、アスナと今日まで一緒に過ごしてきたはずなのに。何も悲しいことなんてない。

「キリト君は生きてる……。今日も絶対に帰ってきてくれる………」

 アスナはコルクボードの写真を1枚ずつ見ていく。夫婦で共有した思い出。幸せな時間。ボードの右端。あまり目立たない場所に見覚えのない写真があることに気付く。

 写っているのはキリトでもアスナでもない。アスナと同年代くらいの幼さが残る男女が、肩を寄せ合って微笑んでいる。

「あなたは……、誰……?」

 アスナは写真のなかで笑う彼に問いかける。当然、写真は何も答えてくれなかった。

 

 ♦

 長い階段の先に、四角く切り取られた光が見える。開け放たれた出口から風が入り込んできて髪とコートの裾がなびく。ようやく階段を上り終えて、セツナはアインクラッド最後の層へと足を踏み出す。

 第100層はこれまでの階層で一番狭い。街もフィールドも迷宮も存在しない。ただ一直線に石畳の通路が伸び、その先には血を被ったように紅く塗り上げられた城がそびえ立っている。

 ラストダンジョン、紅玉宮(こうぎょくきゅう)

 そこに最後のボスがいる。SAOプレイヤーが目指してきた最終目的。プレイヤーとして血盟騎士団を率いてきたヒースクリフ。SAOの開発者であり、ゲームマスターとしてこのデスゲームを始めた、茅場昌彦(かやばあきひこ)が。

 セツナはゆっくりと歩き出す。最上層は天井がなく、見渡す限りの空が広がっている。よく晴れた雲ひとつない蒼穹だ。空を美しいと思ったのは久しぶりかもしれない。

「よお、セツナ!」

 紅玉宮までの道で、セツナの耳に聞き慣れた声が入り込んでくる。声だけでなく、目の前には頭にバンダナを巻いた武士然とした男の姿が見える。彼だけではない。セツナの行く先には他に何人もセツナを待つように立っている。全員見覚えがある。

 決してあり得ないことだ。だがセツナはこの不可思議な現象を受け入れる。

 

「ったく無茶しやがってよお。でもお前えは大した奴だぜ」

 クライン。殺伐としたデスゲームで、自分のことよりも他人のことばかり心配していたな。そんなあんたに惹かれた者は多かったはずだ。済まない。あんたも、あんたの仲間も、守ることができなかった。

 

「お前は俺達の死を背負ってここに来たんだ。いいか、絶対にしくじるんじゃねえぞ」

 エギル。あんたの言葉は重くのしかかってきた。でもあんたは、結局は俺に力を貸してくれたな。あんたの助けがなかったら、絶対にここまで来られなかった。

 

「ほんと、あんたって勝手なくせしてあたし達がいないと何にもできないわよね」

 リズベット。その通りだ。俺は1人では何もできない。あんたの鍛えた武器は大きな助けになった。丹精込めて作ってくれた剣を殺人なんかに使って、本当に済まなかった。

 

「セツナさん、あたしは信じてました。セツナさんならできるって」

 シリカ。幼いのに、よく着いてきてくれた。足手まといと思っていたが、お前は本当に芯が強い戦士だったよ。ピナ。流石はお前が選んだ主人だ。

 

「お前さんのお陰でネタをたっぷり仕入れることができたヨ。結構面白かっタ」

 アルゴ。あんたには世話になりっぱなしだったな。いつか礼をするつもりだったが、とうとうできなかった。でもどうせ、あんたは「いらないヨ」って笑い飛ばすんだろうな。

 

「ありがとう。俺の大切な人を守ってくれて」

 キリト。……済まない。俺では彼女を本当の意味で救ってやることはできないのかもしれない。それでも俺は戦う。戦うことしか、俺が彼女にしてやれることはない。

 

 一歩一歩。石畳を踏みしめるセツナの隣で彼女が歩いている。ずっと会いたいと願っていたはずなのに、いざそのときが訪れても思考は乱れることなく冷静だった。

「私との約束、覚えてる?」

「忘れるわけがない。お前のことを忘れる日なんて、一度も」

 約束を交わしたのはもう2年以上も前だということを思い出す。すっかり時間が経ってしまった。でも、1日も忘れたことはない。セツナにとって約束とは、彼女が消えた日から呪いへと変わってしまった。

「ずっと傍にいると約束したのに、俺はお前の傍にいてやれなかった。でも、俺の心のなかにはいつもお前がいた。お前が、俺の傍にいてくれた」

 ふっ、とセツナは笑みを零す。

「どうしてかな。ずっとお前のために戦ってきたはずなのに、今の俺は別の女のために戦おうとしている。お前以外は何もかもどうでもよかったのに」

 自分の行動は矛盾している。全ては彼女のために。そう思っていながらも、自分のやってきたことがただ罪を重ねていくだけの無意味なものだとセツナは理解している。理解しておきながら、これまで突き付けられた真実から目を背け続けていたのだ。

 でも、今は素直に受け入れることができる。矛盾も。無意味さも。

「分かっていたさ。いくら殺しても、いくら救っても、お前が生き返るわけじゃない。俺は俺のエゴのため、自分勝手に理由を付けていただけだ。これは、その罰なのかな。足掻き続けて、足掻く度に地獄に突き落とされて、しまいにはお前を裏切ったことに苦しんでいる。全部自業自得なのに」

 隣にいる彼女を見やる。彼女は照れ臭そうに俯き、慈愛に満ちた琥珀色の瞳をセツナに向けた。

「優しいね、刹那は。そうやって悩んでばかりなところ、全然変わってない。でもね、私はそんな刹那だから愛していたの。今でも愛してる」

 セツナは知っている。隣にいる彼女は幻で、彼女の言葉も幻にすぎないと。幻と知っていても、彼女の言葉を聞いて初めて、そして確信へと至ることができる。

 何もかも遅すぎた。

 彼女を失い。

 多くの人間を殺し。

 多くの罪を犯し。

 途方もない死を背負い。

 自分さえも殺した末に。

 セツナは、早速刹那は確信する。

 

「俺もだ。愛してる、波絵」

 

 その言葉に迷いがなくなるまでどれほどの月日をかけてしまったのだろう。

 最初から何も変わっていなかった。

 たとえ復讐に身を落としても。

 違う人のために戦おうとしても。

 在りし日も。

 亡き今も。

 波絵を愛している。

 ただ、それだけのことだったのだ。

 気付くと、波絵の姿は消えていた。寂しさはあるが、もう迷いはない。気持ちは空のように晴れやかだ。やがて一本道が終わり両扉の前に立つ。

 自分の背を優に超す荘厳な両扉を押し開け、セツナは城へと足を踏み入れる。

 紅玉宮は外見とは裏腹にかなりシンプルな間取りだ。城がダンジョンとしての役割を果たしているのだとばかり思っていたが、狭い通路も部屋へ繋がる扉も用意されず、ロビーがそのまま玉座の間として広がっている。玉座の間は奥の一面が全面ガラス張りになっていて、太陽の光を部屋のなかへ迎え入れている。血盟騎士団本部の会議室みたいだ。そのガラスを背にした豪華な装飾が施された玉座に、彼は腰かけていた。

 真紅の鎧に身を包み、右手に剣を、左手に盾を携えた、灰色の髪と真鍮色の目をしたヒースクリフが。

「よくぞここまで辿り着いた」

 かつてのように、ヒースクリフは笑みを浮かべてセツナを歓迎する。セツナはヒースクリフの顔に焦点を合わせる。彼の頭上にはボスである証拠としてレッドのカーソルと《The Heathcliff》というフォントが表示されている。

「君は総合的に見れば彼に劣るが、対人での戦いに関しては最強の腕を持っている。だから、彼亡き後でここに来るのは君だと思っていたよ。流石は、私が見込んだだけのことはある」

茅場昌彦(かやばあきひこ)

 セツナはヒースクリフの本当の名を呼んだ。元血盟騎士団の団長ではなく、最終ボスとしてでもなく、そのアバターを操る者に尋ねた。

「何故俺に疑似二刀流を与えた」

 セツナの言葉にヒースクリフは苦笑する。

「せっかくの雰囲気が台無しだな」

 口では不満を漏らしていても、それでも今の彼はどこか嬉しそうに見える。

「この城で魔王である私と戦う勇者は彼だと思っていた。万が一彼に死なれてしまっては、私は楽しむことができない。だが彼に不死属性を与えてプレイヤー間の均衡を乱すこともできない。だから保険を掛けさせてもらった。君にも二刀流を授けることでね」

 ヒースクリフの瞳には光が宿っている。彼は間違いなく、この場面をゲームのクライマックスとして楽しんでいる。セツナの《疑似二刀流》はこの時のために与えられたものなのだろう。《疑似二刀流》だけじゃない。

 賊狩りに明け暮れていたセツナを拾ったのも、セツナにオレンジプレイヤーの暗殺を命じていたのも、セツナをトッププレイヤーに育て上げたのも、全てはこの時のため。セツナがゾディアークを殺すことを目的に生きてきたのと同じように、彼も自分に立ち向かう者を迎え入れるために、この世界で生きてきたのだ。

 ただ手のひらで踊らされていただけ。傍から見ればそれだけかもしれない。

 セツナはその事実を肯定する。しかしそれに気付いていたとしても、セツナの行動は何も変わらなかったと断言できる。セツナの選択肢は始めから決まっていた。その選択がヒースクリフに、茅場昌彦(かやばあきひこ)にとって都合が良かっただけだ。

「だが」

 ヒースクリフの瞳が一瞬だけ陰りを帯びる。

「どうしても腑に落ちないことがある。目的を果たした君がなぜここまで来たのか。君のことだ。ただ現実に帰りたいという理由ではないだろう。なぜ彼女を救おうとする?」

 ヒースクリフの視線は真っ直ぐとセツナに向けられている。セツナもその真鍮色の瞳に視線を固定する。あの少年もそうしただろうと思いながら。

 セツナと似た雰囲気を纏いながらも、セツナでは決してできなかったことを成し遂げられたはずの、あの黒の剣士と同じように。

 そしてセツナは答える。

 

「多分、あいつと同じ理由だ」

 

 ヒースクリフは「ほお」とまた笑みを零す。セツナの言動ひとつひとつが彼を楽しませるための前座に思える。別に構わない。相手が何を感じていようと、セツナが目標と定めた者にすることはただひとつだけなのだから。

 殺す。

 そのシンプルで、純粋な殺意を込めてセツナはヒースクリフを睨む。ヒースクリフはその殺意を受け止めるべく、玉座から重い腰を上げる。

 セツナはハーディスクラウンを鞘に納めたまま大理石の床に突き立てた。右手で柄を握り、ゆっくりと紅色の剣を抜く。そして左手で鞘を握り、大理石の床から引き抜いて2本目の剣として構える。

 ヒースクリフも剣を抜く。これまで見たことがない嬉々とした表情をしている。邪なものを感じない、ゲームを心ゆくまで楽しむ子供のようだ。

「やはり君は面白いな、セツナ君。君の物語を書きたいと思うほどだ。最強と呼ぶに相応しい力を持ちながらも決して英雄になることはなく、その力も愛する者を失わなければ決して得ることがなかった、真の悲劇の主人公の物語だ」

 何てつまらない物語だろうと、セツナは嘲笑する。これがそんな下らない創作の産物だったらどんなに良いかと思う。

 主人公というものは、物語の読者に勇気と希望を与えるものだ。セツナは他者からそれらを奪ってきた。ヒースクリフはまるでセツナが悲劇に翻弄されたかのように言うが、むしろセツナは悲劇をもたらした側だろう。

 

 これは得るものの代償として全てを滅ぼした、愚かな少年の物語。

 その根底にあるものに復讐という言葉はあまりにも稚拙で、愛という言葉は美しすぎる。

 これは、そんな物語だ。

 

 ♦

 目蓋を透過して届くおぼろげな光を感じて、結城明日奈(ゆうきあすな)は目を覚ました。

 眩しい光が視界を白く覆い尽くし思わず目を閉じる。再びゆっくりと目蓋を開けると、やがて目が慣れて黒のパネル張りの天井を映し出す。

 明日奈は困惑する。明らかに家の自室ではなかったからだ。どうして知らない天井の下で眠っていたのか。状況を把握すべく、明日奈は頭を持ち上げようと試みる。でも頭はびくともしない。まるで頭自体が鉄球になってしまったかのようだ。それが「力が入らない」という感覚であることに気付き、明日奈は眼球のみを動かして自分のいる部屋を見ようとする。

 微かだが、金属を引っ搔いたような音が聞こえた気がする。左のほうだ。音の正体を探ろうと頭を数センチ動かすだけでかなりの踏ん張りが必要だった。ようやく動かすことができた視界に白衣を着た女性が入り込む。見たところ看護師らしい。ということは、ここは病院なのか。看護師は目を見開いて明日奈を凝視している。オレンジ色の液体が詰まったパックを持つ右手が宙で静止している。更に左上を見上げると銀色の支柱があって、そこに吊るされたパックの中身はそろそろ尽きてしまいそうで、どうやら交換しようとしてくれたらしい。

 看護師は何か言っているが、明日奈にはその声が聞き取れない。聴覚がまともに機能していないらしい。自分は何かの病気なのだろうか。そんな不安がせり上がってくる。

 看護師は慌てた様子でベッド横のカーテンを開けて病室から出ていった。病室は思っていたよりも広い。病室でイメージできる白亜で統一された味気ない部屋ではなく、ベージュの壁紙とマホガニーの木材に彩られた暖かみのある雰囲気だ。

 頭を持ち上げてみようとするが、これがどうしても上がらない。枕に預けたまま揺り動かしてみると、どうやら何か被らされているらしい。布団の中から両手を出して感触を確かめてみようとしたが、被り物を触る前に明日奈は自分の腕を見て絶句した。まさに骨と皮だけ。太らないよう食事には気を付けてはいたが、ダイエットとしてこれは度が過ぎている。肌も透き通るように白い。まるで何年も日光を浴びていないように。

 やがて先程の看護師が、ネクタイを締めたシャツの上に白衣を纏った中年の医師を連れて戻ってきた。医師は明日奈の目にペンライトを当て、胸に聴診器を当ててくる。触れられることに抵抗はあったけど、医療行為なのだから仕方ない。それよりも、どうして自分が病院なんかにいるのか、どうして自分はこんなにやせ細っているのか、その理由を聞きたかった。でも声が出せない。喉を震わせようとするけど、声帯の筋肉が麻痺したかのように動かすことができない。

 看護師の支えでようやく上体を起こすことができた。でも姿勢を維持できず、補助は継続している。看護師に肩を支えられた明日奈の顎に医師は手を伸ばした。顎の下にあるハーネスを解除して、頭に覆い被さっているものがゆっくりと明日奈の頭から引き離される。

 明日奈が被っていたものは、バイクにでも乗るのかと思ってしまう濃紺のヘルメットだった。後頭部のあたりからケーブルが伸びている。しかも結構な年季が入っていた。細かい傷があちこちに刻まれていて、塗装が剥がれ落ちている部分もある。医師と看護師はそのヘルメットを、まるで恐ろしいものであるかのように見つめている。

 看護師に何か言ったあと、医師は部屋から出ていき、病室には明日奈と看護師1人が残された。

 まだ意識がはっきりしない。自分はどれくらいの間眠っていたのだろうか。こんなに痩せて、しかも点滴で栄養を補給されていたとなると相当の期間だろう。眠りのなかで夢を見ていたような気がする。とても長く壮大な夢だ。でもどんな夢だったのか思い出せない。思い出そうとすると、黒いもやのなかへと消えてしまう。

 時間の感覚すらも忘れてしまったのか、どれくらい経ったのか分からない。しばらく呆けているとドアから息を荒げた両親と兄が病室に入ってくる。

「明日奈!」

 母親が涙を浮かべながら明日奈を呼ぶ。3人が来る間に、ゆっくりとだが聴覚が戻ってきた。母親だけでなく、父親と兄も涙を流していた。自分はそんなにも重病だったのだろうか。

「ああ……。明日奈、良かった……。本当に良かった………」

 嗚咽を漏らしながら、母親は明日奈に抱きついてきた。のしかかってきた重みに耐え切れず、体がリクライニングを上げたベッドに沈み込む。母親は泣きじゃくったせいで流れたアイラインが頬に筋を引いている。母親が泣く姿を見たのは初めてだ。父親も鼻をすすっていて、兄も「ごめん」とうわごとのように呟いている。

「ごめん、明日奈……。僕のせいで……、僕があんなものを貸したから………」

 どうして兄が謝るのだろう。明日奈の知る兄はとても優秀な人だ。謝らなければならない問題を起こしたところを見たことがない。

「父……さん。母……さん。お兄……ちゃん」

 明日奈は掠れる声を絞り出した。これでも叫ぶ勢いで発した。

「わたし……、どれくらい………」

 母親が明日奈の頭を撫でながら言う。

「あなたは3年も眠っていたのよ。本当に心配してたのよ」

 3年。そんな長い期間を自分は眠っていたというのか。言われてみれば、3人とも前より痩せて、少し老けた気がする。いや、時間が経っているのは明日奈も同じだ。ということは、自分は今18歳なのか。なんてことだ。学生の貴重な時間を3年間も無駄にしてしまったなんて。勉学が遅れてしまう。そうだ、手を付けていなかった数学の課題を片付けなければ。そうしないと教師に叱責されてしまう。友人達から人生の脱落者と嘲笑されてしまう。

 明日奈の焦燥感をよそに、安堵の表情を浮かべた家族達は医師と看護師にお礼を言って帰っていった。仕事に戻らなければならないらしい。

 その後は簡単な検査を受けただけで、経過観察のためにもうしばらく入院する必要があること、筋力を取り戻すためにリハビリを受けることを聞いて病室へと戻った。そんなに時間が掛かることはなく、病室に戻ったのはまだ14時を過ぎた頃だった。

 何もすることがなく、明日奈はぼんやりとテレビを観ていた。元々なかったものだが、退屈しのぎにと看護師が窓際の机に置いてくれた。とりあえず3年の間に何があったのか知ろうとニュース番組にチャンネルを設定した。

 画面のなかで男性アナウンサーが原稿を読み上げ、画面下に文字のテロップが表示される。

『速報です。2022年11月6日の正式サービス開始と同時に1万人のプレイヤーがログアウト不可能となったオンラインゲーム、ソードアート・オンラインが、本日11時6分にクリアされました』

 

 ソードアート・オンライン?

 

 何だっけ。クラスの男子の間でそんなタイトルのゲームが流行っていた気がする。

『先ほど入りました、総務省SAO事件調査委員会の発表によりますと、生存者は1名……、え…、し、失礼しました。ゲームに囚われた被害者は全員死亡しました』

 原稿を読み間違えたらしく、男性アナウンサーが深く頭を下げる。番組はソードアート・オンラインの概要説明へ移り、画面はゲームの映像へと切り替わった。空中に飛ぶ巨大な城が映し出される。

 明日奈は自分の認識に疑問を抱く。何故あの建物が城だって分かったんだろうと。何層にも積み重なったスズメバチの巣みたいなのに。

 数瞬の疑問。その次に明日奈の知らないはずの出来事と感情がスナップ写真のように、脳裏に隙間なく敷き詰められていく。

 そうだ、と明日奈は思い出す。

 わたしは、あの城のなかにいた。あの城に閉じ込められ、戦い、親友や仲間と出会い、やがて黒衣の剣士と恋に落ち、結ばれた。

 リズベット、シリカ、エギル、クライン。

 そして、キリト。

 明日奈が愛し、妻となり、森のなかで共に暮らした彼はどこにいるのだろう。ゲームがクリアされたのなら、キリトもどこかの病院で目を覚ましているはず。

 でも、ニュースのアナウンサーは最初に生存者はひとりと言っていた。どういうことなのか。ひとりだけの生存者が明日奈なら、キリトは死んでしまったのか。

 画面のなかでアナウンサーは新しく渡された原稿を読み上げる。

『ゲームのクリア条件である最終ボスは相討ちで撃破され、撃破を達成したプレイヤーも死亡したとのことです』

 そんなことはない、と明日奈は強く否定する。何もかも鮮明に思い出せる。あの世界でキリトと交わした最後の言葉を。彼は帰ってくると言っていた。生きて帰るって約束してくれた。キリトが、あの強く優しい少年が負けるはずがない。

 違う、と強い声が自分のなかで聞こえた気がした。明日奈は記憶を辿る。彼と過ごした最後の朝。それよりも前、最後の夜のことを。

 

 あの夜。明日奈は寂しさからキリトを求めた。ずっと攻略が忙しくてかまってくれなかったから、子供のように甘えたくなったのだ。

 でも、明日奈はキリトに拒まれた。唇が触れ合う寸前に人差し指を押し当てられた。泣きそうになった明日奈にキリトは言った。

「ごめんアスナ。明日も攻略でさ、しかもダンジョンにかなり手こずったんだ。ボスも厄介だと思う。悪いけど、今日は寝かせてくれないかな」

 肩を落とした明日奈にキリトは優しく微笑んでくれた。記憶にあるキリトの顔。鮮明に覚えているはずなのに、何故か彼の顔がおぼろげではっきりしない。

「大丈夫、死にはしないさ。約束する」

 キリトの顔が影に覆われていく。影は顔の中心で渦巻き、その造形が次第に作り変えられていく。顔が見えない。声も変わっていく。

「アスナの待っているこの家に、絶対に帰ってくるから、な」

 顔を覆っていた影が消えた。宵闇のなかで、キリトではない少年が明日奈にぎこちない微笑みを向けていた。

 

 そうだ、彼だ。

 明日奈をあの世界から還してくれたのは、キリトではなく彼だったのだ。

 キリトと同じ黒いコートを着て、キリトと同じ黒い髪の少年。

 とても強く、とても悲しかった人。

 誰よりも罪を抱え、愛を知っていた人。

 今なら思い出せる。

 彼の顔。

 彼の声。

 彼の名は――

「せ………つ……………な」

 明日奈の両眼から涙が零れる。涙は止まることなく頬を伝い、顎から落ちて診察衣を濡らし続ける。

 明日奈は反芻した。

 忘れないと誓った。

 でも、一度は忘れてしまった。

 そして再び、今度こそ決して忘れないと誓うその名前を。

 

「セツナ………」

 




 無事、最終回を迎えることができました!
 ですがまだエピローグで2話ほど続きます。
 もうしばらくです。お付き合いください。

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