ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
何が起こっているのか、あたしは必死に考える。でも、4人の男に前後左右を囲まれて見慣れたリンダースの街を歩かされていることしか分からない。あたしは目の前を歩く男の背中を虚ろに眺めながら歩き続ける。
1度だけ逃げようと試みた。でもすかさず男達はあたしを攻撃した。衝撃でとんだ先には仲間が待ち構えていて、あっけなく取り囲まれて逃げることを諦めた。この手口はボックスと呼ばれるものと聞いたことがある。まだ《アインクラッド解放軍》が存在していた時期、はじまりの街ではこのような手口を使った恐喝が横行していたらしい。
「なあ、こいつこのまま本部に連れてくのか?」
「殺さないよう言われてる。仕方ない」
「いやそりゃ分かってるよ。たださ、リーダーに引き渡すにゃ勿体ないんじゃねえかなって」
「ああ、そりゃ確かに。結構いい女だ」
男達は愉快そうに笑う。右側を塞ぐ男があたしの全身を見て気味の悪い笑みを浮かべている。あたしは何となく、これから起こる最悪のシナリオを想像してしまった。
噓でしょ、と想像を足蹴にしたくなる。あたしは今年で18だけど、この世界でのアバターは15歳当時のままだ。まだ発育しきっていないし、年齢より童顔だから誰の目から見ても子供のはず。そんなあたしを、この男達は女として見ている。おぞましい。吐き気を催したあたしは手で口を塞ぐ。
さっきまで転移門広場を目指していた男達は進路を変える。もはや庭とも呼べるほど街の構造を知り尽くしているあたしには、進路の先が宿屋であると分かってしまう。
「ねえ、少し止まって」
あたしがそう言うと、背後にいる男が「どうした?」と聞いてくる。
「下着がずれたから直したいの」
にたりと気持ち悪く男達は笑った。あたしは精一杯に媚びを売った視線を彼等にくべる。正直、こんな自分が嫌になる。アスナだったら毅然と立ち向かうのに。
「いいだろう」
あたしはしゃがんでスカートの中に手を入れる。右太ももの付け根に近いところ。そこに忍ばせておいたポーチを手探りで見つけると、慎重に中身を取り出す。
そして素早くスカートから出した手を掲げて叫んだ。
「転移、オークス!」
手の中にある転移結晶に気付いた1人が、あたしの腕を掴んでもぎ取ろうとする。でも既に遅く、あたしが手から零した転移結晶は地面に落ちる前に砕けた。
「このっ――」
迫る男達の手が光に遮られて見えなくなる。数秒の光の後、あたしの視界に見慣れない村が広がっていた。
転移先に指定しておきながら、あたしはこの村が何層にあるのか知らない。万が一のときはオークスという村に転移しろ。そう言われていた。
何も敷かれていない土にあたしの影が落ちる。振り返ると、光の残照を散らした男達が立っている。4人全員が怒りに顔を歪めて、手にそれぞれの武器を携えている。
「このアマあ………」
彼等の背後で光が煌いた。何事かと、全員が振り向く。その光が消える前に、先頭にいた男の顔が真っ二つに割れて、「え?」という表情を固めたまま消滅する。残った3人の視線はあたしへと。正確にはあたしではなく、あたしの目の前に立つフードを被った黒装束の剣士へ。いきなり現れた剣士に驚いて、あたしは尻もちをついてしまう。
剣士は腰のホルダーに繋げてある鞘を外した。鞘の先端には刃が付いていて、それをもう1本の剣として二刀流さながらに構える。
男達は駆け出した。剣士はゆっくりと歩き、彼等の迫りくる剣や斧をいなしていく。剣士は手際がよかった。武器を腕ごと斬り落とし、プレイヤーのウィークポイントである頭や左胸ばかりを斬っていく。血飛沫のような赤いエフェクトを振りまく剣士の得物をあたしは知っている。
やがて、ものの数分と経たないうちに3人は砕け散った。PKができるということは、この村は圏外にあるんだなと、あたしは混乱の中でそれだけは冷静に判断できた。
剣を納めた剣士はフードを脱ぐ。いつもの無表情のまま、もう1人の黒の剣士は手を差し伸べてきた。
「立てるか、リズベット」
♦
夜も更けて、日付が変わろうとしている。すっかり疲れたはずなのに、眠気はない。
家に戻るよう言われたけど、あたしはカルマ回復クエストを受けようとするセツナに我儘を言って着いていった。セツナはあたしの目の前で4人を殺した。それもプロフェッショナルさを感じる手捌きで。あたしはそれを見て、彼が本当に死神だったんだと確信した。
彼が怖い。そう思っていても、あたしの中で彼は死神ではなく、あたしに熱を取り戻させてくれたセツナだった。おめでたい女だと自分でも思う。自覚はあるけど、あたしはそれでも彼と離れることが怖かった。傍にいてほしかった。
クエストを受けている間、あたしは殆ど喋らなかった。時折足場の悪いフィールドを歩く際の、セツナの「足元に注意しろ」という言葉に「うん」と応える程度だった。聞きたいことはたくさんあるというのに。あたしの恐怖心が抑え込めるほど小さくなるのに数時間を要した。
無事グリーンに復帰したセツナは家に送ろうとしてくれたけど、あたしはそれを断った。今のあたしをアスナやシリカに見せたくない。そう言ったら、彼は主街区の宿屋にチェックインした。
客室に入ると、セツナはコーヒーを淹れてくれた。あたしは「ありがとう」と受け取って飲むけど、その不味さに顔をしかめる。忘れていた。セツナは料理スキルがゼロだった。
「どうして、あたしが転移したって分かったの?」
「分かったんじゃない。リンダースが聖竜連合に占拠されたと聞いた。間に合って良かった」
万が一のときにはオークスに転移しろ。転移結晶は奪われないよう、見つからない場所に肌身離さず隠し持っておけ。3日前、いつものようにアスナの部屋に来たセツナはそう言った。どういうことか分からなかったけど、あたしとシリカは彼の言葉に従って、常時転移結晶を持っていた。
備えあれば憂いなし。その言葉の通りに万が一のときは訪れた。これは喜ぶべきなのだろうか。セツナの予期したことが起こって、最悪の事態は免れた。でも、あたしはセツナが死神と信じざるを得なくなった。
自分勝手な落胆だ。セツナはただ真実を言っていただけなのに。勝手にキリトと重ね合わせて、期待していた。
「どうして、聖竜連合が………」
「分からない。だが、あのギルドは危険だ。占拠されたのはリンダースだけではないらしい。店のこともあるだろうが、もうリンダースには近付かないほうがいい」
「うん……」
「落ち着いたら家に帰るぞ。あそこはまだ安全だ」
家は安全なんだ。良かった。
そう思ってあたしは不味いコーヒーを啜る。セツナも何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。
「何か食べるか」
「大丈夫。お腹空いてないから」
そのやり取りを最後に沈黙が漂う。あたしがコーヒーを飲み切るまで続いた沈黙はとても長く、永遠のように感じる。
「セツナ」
あたしは1枚の紙片をオブジェクト化させる。いつもポーカーフェイスのセツナも、流石にあたしが持っているものには驚いたようで、少しばかり目を見開いた。
「失くしたと思っていた。ありがとう」
すぐにいつもの無表情に戻って、セツナは写真を受け取る。心なしか、あたしには写真を持つセツナが辛そうに見える。聞かずにはいられない。あたしの想像が真実なのか。そうでないのか。
「その女の子なの? セツナが死神になった理由……」
「リズベットには関係ないことだ」
「関係あるわよ!」
あたしはそっぽを向くセツナの腕を掴む。
「セツナ……。あたし、セツナとその子に会ったことあるんだよ。あたしが露天商してた頃、ネックレスをあげたの覚えてる。セツナとその子、結婚してたんでしょ?」
セツナは何も答えない。表情を険しくして、口を真一文字に結んでいる。あのときの面影は全くない。言葉はなくても、その顔が答えなのかもしれない。
セツナはきっと、最悪の事態に見舞われたんだと思う。それがセツナを死神にしてしまった。
「アスナがあんたを止めよとしたのは、その子のことを知ったから?」
「理由を聞いてどうする」
セツナは鋭く言う。
「アスナと同じように、リズベットも俺を止めると言い出すのか。もう無駄だ。俺は死神じゃなくなった。それに今更犯した罪から逃れることなんてできない。アスナでさえ、俺を罰することも赦すこともできなかった」
「それは……」
あたしは何も言い返せない。去年の中頃、工房に来たアスナは突然泣き出して、うわ言のように「ごめんなさい」という言葉を繰り返しながら泣いていた。確信が持てる。あの懺悔はセツナに向けたものだったのだと。
あの清く正しいアスナでさえ、セツナを止めることも罰するとこも、そして赦すこともできなかった。あたしにその代わりが務まるはずがない。あたしはとことん無力だ。ハンマーを振ることしか能がない。
気付けば、あたしは泣いていた。目元が熱くなって、温かいものが頬を伝っていくのを感じる。
「何で泣く。あんたからすれば他人事だろう」
「あんたが泣かないからよ………。自分のことなのに……、ケロっとしててさ………」
「俺は何も話してない。勝手に想像されて泣かれても困る」
「うん、分かってる……。こんなの無責任な同情だって………」
彼女と仲睦まじく歩いていたセツナ。無感情のまま表情が固定されたセツナ。過去と今の彼が別人のようで、他人の空似だと、あたしの妄想だと思いたい。それなのに、セツナは肯定も否定もしてくれなかった。彼もどう言えばいいのか分からないのかもしれない。あたしの想像は当たっているのかもしれない。
「リズベット。このことは、誰にも言わないでほしい」
あたしが散々泣いたあと、セツナはそう言った。
「言えないよ。辛すぎるもん………」
写真をストレージに納めたセツナは無言であたしを見ていた。もしかしたら全てを話してくれるんじゃないかと思ったけど、とうとう話すことはなかった。多分、アスナには話したんだと思う。自分が味わった絶望と苦しみを。抱えてきた罪を。そうだとしたら、セツナはアスナに救いを求めていたのだろうか。アスナに赦しを、罰を受けて解放されることを望んでいたのだろうか。
部屋を出ていくセツナにそう聞きたかったけど、その勇気は出なかった。
結局あたしは宿で一睡もできず、朝になってから家に帰った。
♦
「状況を」
会議室にギルドメンバーが集まったのを確認し、団長の席に腰掛けるセツナは書記係を促す。書記係はウィンドウを展開し、クラインの尽力もあって3日間で約30人に増えたメンバー達へと開示する。
「昨日、81層から20層までの主街区が、一部を除いて聖竜連合に占領されました。反発したプレイヤー達は圏外へ連れ出されPKされたとのことです。正確な数は調査中です。グランザムは転移門と街の入口は24時間体制で血盟騎士団が守備にあたっていますが、55層のフィールドは聖竜連合に独占された状態です」
セツナは書記係が開いたウィンドウを眺める。窓の中には無機質なフォントで、団員達がひと晩かけて集めてきた各層の状況が綴られている。昨晩リズベットに転移させた第3層は占領下に置かれていないため、特に目に留まるような記述はされていない。書記係は続ける。
「我らが団員も4名がPKされました。アルゴ氏の情報によると、聖竜連合は占領下のプレイヤーをギルドに勧誘しています。今後、更に勢力は増していくと予想されます」
クラインが書記係に尋ねる。
「何で下層と一部の層は傘下に置かなかったんだ?」
「推測ですが、狩り場やクエスト報酬の価値が低い故と思われます。中層で占領を免れた61層と22層はフィールドにモンスターが出ず、またクエストも殆ど発生しない観光地となっていました」
「攻略への価値はないってか……」
「ええ」と書記係は相づちの後に続ける。
「既にご存知かもしれませんが、グランザムも聖竜連合の侵攻を受けました。街に滞在していた団員達で撃退し、ギルドメンバー1名の捕縛に成功しました。戦闘は圏外で行われましたが、死者は出ていません」
書記係が新しいウィンドウを出す。記録結晶で撮影したと思われる画像の中にはロープで縛られ、土の上で窮屈そうに座る男が苦悶の表情を浮かべている。しかしまず目が向いてしまうのは
「ヤマタ!」
クラインが驚きの声で画面の男を呼ぶ。「知り合いか?」と隣に座るセツナが聞くとクラインは「ああ」と返す。
「よく刀スキルの情報交換してたんだ」
そう言うと、クラインは書記係に「続けてくれ」と促す。
「クライン隊長の仰る通り、このプレイヤーはヤマタという名前です。アルゴ氏から提供された情報によりますと、彼は聖竜連合の結成時から所属しているメンバーで、熟練の刀使いとしてギルド内でもトップクラスの実力者です」
書記係はまた新しいウィンドウを展開する。どうやら記録結晶の動画モードで撮影された映像らしく、画面中央には頂点が右を向いた正三角形の再生ボタンがある。
「これから流す映像は、捕縛したヤマタの取調べです」
「まさか、手荒な真似はしていないだろうね?」
そう茶化すのは偵察隊長だ。背景にある壁紙から、取り調べは本部で行われたようだ。圏内でダメージも毒もないのだから、拷問どころか尋問としても生温い。しかしそれはセツナが拷問を受け、また拷問をした経験があるから思えることだ。慣れていない者からすれば、いくら圏内とはいえ攻撃時の衝撃や音だけでも精神に負担をかけるのかもしれない。
「取調べを担当したユリウスによると、ヤマタは抵抗することなく質問に答えたそうです。まずは映像をご覧ください」
画面中央の再生ボタンが消え、左上にあるタイムコードが時間を刻み始める。ヤマタは苦虫を噛み潰したような形相でこちらを睨むが、話し始めたその口調はひどく落ち着いている。
『拘束して拷問とは、血盟騎士団も堕ちたものだな』
『あくまで取調べだ。あんたに不当な暴力を加えるつもりはない』
『ならばこの仕打ちは何だね』
『俺達血盟騎士団はあんた達をオレンジギルドと同義の存在と判断し拘束している。暴れてもらっちゃ困るのでね』
『血盟騎士団……、あの薄汚れた死神に従ってもまだ、誇りを保てるというのか?』
『確かに反発は否めないが、今の団長がかなりの実力者であることは確かだ。死神だろうと、攻略が進むのなら致し方ない』
『攻略のためなら死神にも魂を売り渡すか……』
『あんた達も攻略のためならオレンジ化も辞さないスタンスだっただろう。ここでギルドの誇り云々を議論するつもりはない。質問に答えてもらう。なぜ各層主街区の占領を始めた?』
『………我々は攻略のために日々邁進している。それなのに、中層にいるプレイヤー達は遊び呆けてばかりで、クエスト報酬もドロップアイテムも全てかっさらおうとしている。このデスゲームをクリアさせることは全プレイヤーの総意のはず。リソースは我々攻略組を最優先に分配すべき』
『だから、主街区をギルドで占領してプレイヤーからアイテムやコルを奪うと。《軍》と大して変わんないな』
『あの俗物どもと一緒にするな。我々には攻略という目的がある。プレイヤー達を解放するという崇高な目的がな。そもそも、プレイヤーが一致団結すれば、もっと早く攻略を進めることができたはずだ。それを貴様ら血盟騎士団が現れたせいで………。貴様らがトッププレイヤー集団であることに固執するあまり、ギルド間の競争心を煽った。名声を挙げようと無謀にボスへ挑み、果てていった者達がどれほどいるか』
『俺はギルドの中じゃ古株だが、そんな事実はない。むしろ攻略組に無茶をしないようギルドは呼び掛けてきた。で、あんた達が事を起こしたのはリーダーの命令か?』
『そうだ。我らのリーダーが決められた。全プレイヤーを攻略へ参加させると表明された』
『あのリンドが命令したのか。信じられないな』
『リンドだと? 笑わせるな。あんな腰抜けの小僧など、リーダーの器ではないわ』
『リンドはもうリーダーじゃないのか?』
『然るべきことだ。新たなリーダーを迎えた我らは、このゲームをクリアさせる』
『新しいリーダーの就任に内部での反発はなかったのか? それとも、新リーダーの過激さに気付かなかったとか?』
『反発などあるものか。むしろリンドの容量の悪さに皆うんざりしていたところだ』
『他のプレイヤーから奪うという方針を知っておきながら、あんた達は新リーダーを受け入れたと』
『そうだ』
『だが、この間までの聖竜連合は最低限のモラルは持っていた。犯罪行為こそ働いてはいたが、殺人までは犯さなかった。少なくともあんた達には、プレイヤーが攻略にとって最も重要なリソースであると認識していたはずだろう』
『ああ、今でも思っている。だが我々に逆らう者はリソースではない。ただの穀潰しだ』
『そう思うようになった経緯は?』
『………分からん』
消え入りそうなヤマタの声で映像は終わった。画面が暗転し、中央に再生ボタンが現れる。
「ヤマタはこの後、監獄エリアへ送られました」
ウィンドウを消した書記係が語る。
「このヤマタはギルドの中でも穏健派として知られていました。私は以前、交渉の席で彼と話したことがありますが、我々に対して友好的な姿勢を持つ人物でした」
話を聞くクラインは眉間を押さえている。ヤマタとはそれなりに親しい仲だったのだろう。《風林火山》は無頼派と聞いていたのだが、クラインはどうにも他人に感情移入しすぎるきらいがある。
「新リーダーの名前は」
セツナの質問に書記係は「不明です」と答える。「ヤマタからも聞き出せなかったそうです」と付け加えて。
「しかし」と書記係は若干口調を弱める。
「エギル氏によると、アルゲードに侵攻した聖竜連合メンバーの中に、退団した元団員がいたと」
その報告に会議室の雰囲気が険しさを増す。団員達にどよめきが起こり、参謀職達は皆眉根を寄せている。
ギルド、特に攻略組ではギルドを抜けた者に対する風当たりは強い。攻略の貴重な戦力を削ぐ行為で、ゲームクリアを目指すプレイヤー達にとっては裏切り者という風潮さえある。生存を懸けた詐欺や裏切りが横行するデスゲームだ。一度失った信頼を取り戻すのは絶望的と言っていい。この世界で集団の連帯感や帰属意識というものは固い。
「退団したメンバー達が聖竜連合に移り、ギルド運営に関わっていると」
「それはまだ分かりません。団長は彼等の行方を追って、またギルドに戻そうとしていたのですか?」
「既に新しいギルドを見つけてしまったのなら仕方ない。彼等が抜けたのは俺が気に入らなかったからだろう。勧誘しても戻る可能性はほぼない」
セツナは憮然と言い放つ。口を開く者はいない。皆分かり切っていることだろうし、この雰囲気で不用意な発言は自身の立場を危うくする。しかし会議の進行に滞りを生むわけにはいかず、沈黙は偵察隊長によって破られる。
「過激さを増した聖竜連合が攻略を進めるとなると、いささか不安だな。連中なら、死者を出しながらも強引にやりかねん」
議題修正の糸口を見つけた書記係は偵察隊長の言葉に食いつく。
「ええ、危険な状況です。聖竜連合が要する人数は攻略組の4割を占めていました。更に増えるとなると、かつてのアインクラッド解放軍のような支配体制がアインクラッド全域に及ぶことが予想されます」
「軍のように、聖竜連合の支配体制もすぐ瓦解してくれればいいのだがな」
ここまで来ると、もう出すべき結論が見えてくる。守備隊長がセツナに進言してくる。
「団長、我々も戦力増強に努めるべきです。グランザムもいつ陥落するか分かりません」
「でもよ」と俯いていたクラインが顔を上げる。
「これ以上仲間を増やせんのか。俺だって知り合い皆に声かけてやっと今の人数なんだぞ」
書記係が思い出したように報告する。
「占領された層から逃げてきたプレイヤーの多くが下層へ流れ込んできたと、MMOトゥデイのシンカー氏から連絡を受けています」
「ならそのプレイヤー達を勧誘する。彼等も聖竜連合に反感を持っているだろう」
セツナの発言を皮肉るように、偵察隊長が鼻を鳴らす。分かっているくせにと、セツナは密かに皮肉を返す。
「団長も過激ですな。聖竜連合と事を構えるおつもりですか?」
「ああ。このまま聖竜連合に攻略の主導権を握らせるのは危険だ。死者が出ている以上、あのギルドはもはやオレンジギルドと変わらない」
そう言ってセツナは立ち上がる。団員達の視線を一身に受けるが、それに対するリーダーとしての感慨も愉悦も湧かなかった。
「ギルド活動での攻略は一旦休止し、血盟騎士団は攻略主導権の奪還を目指す。各自、下層にて調査を行い、同志を募ってほしい」
♦
漂う浮きは揺れる水面に任せてわずかに動くばかりで、獲物がかかった様子はない。竿を引き上げると針に付けていたはずの餌は消えている。
「また駄目だったか」
隣で同じく竿を片手に座るエギルが何気なしに言ってくる。セツナは餌箱をクリックし、ポップアップメニューを出して竿をターゲットする。針にワームが括り付けられた。竿を振り糸の先端が少し離れた水面に沈むと、再び長い待ち時間が訪れる。
「あんたの釣りスキルはどれくらいだ」
「700ぐらいだな。セツナは?」
「ゼロだ」
「ゼロって……。まさかお前、釣りをするのは初めてか?」
「現実で釣り堀に行ったことはある」
「本当に戦闘スキル以外は鍛えてねえんだな。にしても………」
エギルは湖を囲む針葉樹林を見渡す。
「ここは静かだな。他の層の騒がしさが嘘みたいだぜ」
聖竜連合が各層に侵攻した日、アルゲードにいたエギルは事態を察して転移結晶で逃げたらしい。転移先がはじまりの街で良かった。あの街なら、《MMOトゥデイ》の庇護を受けることができる。彼と同じ理由で逃亡してきたプレイヤーがはじまりの街にごった返しているらしい。
「シリカから聞いた。お前、もし何かあったら転移結晶で圏外村に逃げるように言ってたらしいな。お前はこのことが起きるって分かってたのか?」
「その可能性があった。ボス攻略の後に起こったことがギルドの命令だったとしたら、血盟騎士団の関係者にも危害が及ぶと思っていた。それに備えただけだ」
「確かに。現にKoBに入ろうとしてた奴らも殺されたしな」
そう言うエギルの声は沈んでいる。侵攻でエギルが面倒を見ていたプレイヤーも犠牲になったらしい。
「あんたは、下層でまた店を開くのか」
「ああ。金になりそうな商品は何とかストレージに納めたからな。はじまりの街に店をやってる知り合いがいるから、間借りさせてもらうさ」
「あの街なら安全だろうな。プレイヤー同士のインフラが整っているから、今のところ1番治安がいい」
「そういや、昨日もKoBが街で聞き込みしてたな」
「ああ、俺も色々な街に行っていた」
引きを感じたのか、エギルが竿を引く。糸の先には針があるだけで、短くため息をつきながらエギルは次の餌を付ける。
「まさか、占領された層に行ったりしてねえよな?」
「行ってきた」
「無茶するなおい」
「俺の独断だ。他の団員には行かせていない」
「よく無事に戻れたもんだ。KoBの団員は問答無用で圏外に連れ出されてPKされたって話だぜ」
「隠密行動は得意だからな」
「………死神の頃に鍛えたスキルか」
「ああ」
浮きが水面に沈み、竿に引きが伝わってくる。素早く竿を引き上げると、針には革製のブーツが。
「占領された街の様子はどうだった?」
ストレージに納めたばかりの《ボロボロのブーツ》をゴミ箱へと移したセツナは、針に餌を付けながら答える。
「街中をギルドメンバーが巡回していた。一般プレイヤーも少なからずいたが、圏外でリンチされていた」
「そうか……」
「アスナが復帰していれば、こうはならなかったと思うか」
エギルはすぐには答えない。しばらく逡巡した後に、はっきりとした口調で言う。
「ならなかっただろうな。お前はリーダーとしちゃ有能とは言えねえ」
「自覚はしている」
沈黙が訪れる。
時々竿を引き上げるも、セツナの竿は餌が取られていくばかりで餌箱の残りも少なくなっていく。エギルは何度か釣り上げたが、手の平に収まるサイズの小魚しか収穫がない。
「どう、釣れた?」
様子を見にやってきたリズベットに、エギルは成果を見せる。
「うわ小物ばかりね。セツナは?」
「収穫なしだ」
「まさかあんた、釣りスキルまでゼロなわけ?」
「ああ」
リズベットは深くため息をつく。
「とんだ戦闘馬鹿ねえ。まあいいわ。2人とも戻ろ。もうパーティ始めるって」
セツナとエギルは竿と餌箱をストレージに納める。
「温かくなってきたわね」
針葉樹の森を歩きながら、リズベットがそう漏らした。まだ肌寒くはあるが、寒気はピークを過ぎて春へと向かおうとしているのが分かる。
「にしてもいいところよねえ。何回か来たことあるけど、開放感あるわあ」
「あの2人ここに住んでたんだな。人も少ないし、新婚生活にはうってつけだ」
リズベットとエギルが談笑しているのをセツナは眺める。森の中を吹き抜ける風は緑の香りを運んでくる。
「家に帰らないと」
そうアスナが言い出したのは一昨日だった。突然思い出したように、アスナはキリトと過ごした家に帰ると言い張った。リズベットとシリカは困惑していたが、セツナはそれに賛成した。その頃には聖竜連合のメンバーが優雅なセルムブルグに住み着くようになり、引っ越しを考えていた。元とはいえ、血盟騎士団の副団長だったアスナをできるだけ聖竜連合から引き離しておきたかった。もし見つかって彼女の状態を知られたらどんなことになるか。キリトを餌にすれば、今のアスナはどんな嘘でも鵜呑みにしてしまうだろう。
聞いた話によると、キリトはヒースクリフと戦う直前に、自分が死んだらアスナが自殺しないように計らってほしいと頼んだ。それを了承したヒースクリフは彼女がセルムブルグから出られないよう設定していたらしい。その言葉の通り、アスナは街から湖に出ようとすれば障壁に跳ね返され、転移門や転移結晶も使えなくなっていた。だがキリトの死から4ヶ月が経った今、もう自殺する心配なしと判断されたのか、アスナに掛けられていた縛りは解除され層の移動ができるようになった。
アスナとキリトが住んでいた第22層は聖竜連合の傘下から外れていたから都合が良かったのだが、夫婦の新居であるログハウスを初めて見たとき、セツナは密かに自分の決断を激しく後悔した。2人の家は、かつてセツナがナミエと1週間だけ暮らした家だった。
自分が住んでいた家。今は他人のものになってしまった家。
間取りは全く同じはずなのに、家に入ったときに懐かしさなんて愛おしい感情は湧かなかった。そこはアスナとキリトの好みに合わせた家具が置かれていて、必要最低限のものだけ置いていた頃の面影はすっかりなくなっていた。
アインクラッドで、ナミエと2人で過ごした中で思い出になるような場所は殆どない。家を買う前は各層の宿屋を転々としていたから、デスゲーム開始当初を除いてひとつの層に長く留まることがなかった。家に住んでいたのは1週間だけだったが、それでもそこはナミエとの思い出がたくさん詰まった唯一の居場所と言っていい。リビングでナミエのバイオリンを聴き、寝室では彼女と愛し合った。
でも残酷なことに、仮想世界の家は汚れも染みも付かない。リビングにも寝室にも、以前過ごした時間の残り香はない。別人の住居に変わった家は、セツナとナミエの痕跡をひとつも残さず消去していた。
新婚夫婦の家に居座るのは気が引ける。リズベットとシリカはそう口を揃えていたのだが、ずっと一緒に住んできたアスナは歓迎した。「賑やかなほうが楽しいじゃない」と満面の笑顔で。自由に動けるようになった彼女が不用意に出歩かないよう見張るため、共同生活は続けなければならない。リズベットはセツナも一緒に住むよう頼んできた。
「聖竜連合が来たとき、アスナを守って」
そう言われてしまえば断ることはできなかった。モンスターが出ないとはいえ家は圏外にある。アスナを襲おうとする荒くれ者を返り討ちにするのに、リズベットとシリカでは心許ない。《閃光》の異名を持つアスナも、前線から離れている今となっては攻略組との差が伸びている。1番の懸念はアスナの許可だったのだが、セツナをキリトの友人と信じる彼女は喜んで受け入れた。
こうして副団長の護衛任務という名目でセツナを加えた奇妙な共同生活が始まった。
「遅えぞお前えら」
家が見えてきた頃、串に刺した肉を咥えたクラインが舌足らずにそう言ってくる。エギルとクラインを招待したガーデンパーティは既に始まっていた。「なっ」と息を飲むリズベットは芝生を踏み鳴らしながらクラインへと近付く。
「あんた、乾杯まで待ってって言ったじゃない!」
「悪い悪い、美味そうだったもんでつい。てか本当に美味えぞこれ」
「やかましいわ、少しは我慢しなさいよ!」
ばつが悪そうに笑うクラインにリズベットは文句を言い続ける。リズベットはクラインの武器を作ったことがあり、2人は職人と客の間柄らしい。
「それじゃ、面子が揃ったところで乾杯するかね」
エギルの「乾杯!」という音頭で、参加者達は手に持ったグラスを掲げた。家の前には大テーブルが運び出され、アスナが腕を振るった料理が隙間なく置かれている。
「むう、こりゃ本当に美味いな」
バーベキューを食べるエギルが唸る。セツナは毎日のように食べているが、それでもアスナの料理は飽きることがない。
「もう、お肉ばっかり食べてるじゃないですか」
「そうよ。ほらこれも食べて。あたしとシリカが作ったのよ」
口々に不満を漏らすシリカとリズベットがサラダの皿を差し出す。ただ食材を切るだけという指摘は野暮だろう。バーベキューの串を一旦皿に置いたセツナは、フォークで葉物野菜を刺して口に運ぶ。ドレッシングはオリーブオイルの香りを見事に再現している。
「美味い」
シリカとリズベットは「いえい」とハイタッチする。シリカの大きな挙動でピナが肩から転げ落ちる。
ふと視線を移すと、アスナは嬉しそうに料理に勤しんでいた。大型グリルで皮がパリパリに焼き上がったチキンを切り分け、石窯からチーズとトマトがたっぷりと乗ったピザを取り出す。その皿が空になると、エギルが釣った魚をシンプルに塩で味付けして焼いていく。
「アスナ、このソース辛すぎない? 美味しいけど」
バーベキューにかじりついたリズベットが眉を潜める。セツナは試しに同じソースがかかった肉を食べてみる。マスタードのようだが、確かに辛味が強い。アスナが調合配分を間違えるとは思えない。当のアスナは申し訳なさそうに、でも満更でもなさそうな顔をしている。
「ごめんね。それキリト君用だった。キリト君辛いもの好きだから。この前だって、ユイちゃんに激辛フルコースに挑戦だなんて言い出して」
アスナは上空にある天井を仰ぐ。あの蓋の向こう、遥か上層にいると信じて疑わないキリトを探すように。
「パーティするって言ったのに今日も攻略に行っちゃって。もう病気ね」
既に慣れたシリカとリズベットは偽りの笑顔を見せるが、その様子を初めて間近で見たクラインとエギルは目を剥く。手に持っている串とフォークを静止させ、やがてゆっくりとした動作で食事へと戻る。セツナもまた、アスナの言葉に「ああ」と適当な相づちを打つことしかできなかった。
「ねえ、写真撮らない?」
デザートのアップルパイを堪能した後、アスナが言った。参加者達は一瞬だけ表情を陰らせたが、リズベットはすぐに明るい表情に戻り「いいね」と記録結晶をオブジェクト化させる。
家を背景にして、長身のエギルとクラインは後ろに、前にはアスナを真ん中にシリカとリズベットが並ぶ。
「セツナさんも一緒に映りましょうよ」
撮影係を買って出たセツナにそう言うのはアスナだ。記録結晶はセルフタイマーでの撮影も可能としている。だがそれでもセツナを被写体から外すようにしたのは、セツナの存在を写真として残すことに抵抗があったからだ。アスナは以前、セツナと出会ったことを忘れている。写真に残ったセツナを見て、この状況の可笑しさに気付くことを恐れた。
そんなセツナと皆の憂いなど知らないアスナはテーブルをオブジェクト化させる。写真が嫌いと言ったところで乗り切れそうになく、セツナはアスナに記録結晶を手渡す。よくキリトとの思い出を撮っていたアスナは手慣れた様子で記録結晶を操作した。寝室のコルクボードを埋め尽くす2人の写真をセツナは見たことがある。
アスナに手を引かれ、セツナは前列の真ん中、アスナの隣に立たされる。アスナは嬉しそうだ。セツナは尋ねる。
「キリトは映らなくていいのか」
アスナは苦笑いを浮かべる。
「キリト君は写真が苦手で、あまり映りたがらないんです。すみません、付き合いの悪い人で。あ、そろそろですよ」
現実のカメラと遜色ない効果音で、シャッターが切られた。