ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
本年もよろしくお願い致します。
リズベットからのメッセージを受け取ってすぐ、セツナはセルムブルグに向かった。比較的温暖な第61層も、冬になった今は冷たい風が湖から吹いていた。空が曇っているせいか湖も建物も灰色の影が落ちている。いつもは暖かみのある街だというのに、この日はグランザムと同じ冷たさを感じた。
通い慣れたメゾネットの3階に上り、ドアをノックする。すぐに住人がドアを開けてくれた。
「セツナ、入って」
リズベットに促されるまま几帳面に整理された部屋へと入り、そのまま寝室へと向かう。開けられたドアの向こうから懐かしいと思える声が聞こえた。
ベッドに上体を起こして、彼女はシリカとの会話を楽しんでいた。リズベットが寝室に入ると「リズ」と嬉しそうに呼び、続けて入ってきたセツナに丸く開いた目を向ける。
「お客さん?」
セツナはゆっくりと、アスナのいるベッドへと歩く。アスナは訪れた来客を笑顔で迎え入れてくれた。その笑顔にセツナは強く違和感を覚える。
彼女が自分にこんな笑顔を向けるはずがない。セツナの罪を知った彼女なら、セツナを受け入れるはずがない。
「初めまして。キリトの妻のアスナです」
そう自己紹介しながら、アスナは会釈した。セツナの背中に悪寒が走る。彼女の声から生じた違和感が浮き彫りになり確証へと至らせる。セツナはリズベットとシリカにちらりと視線を向けた。2人とも陰のある表情を浮かべている。
「セツナだ」
「セツナさんはキリト君のお友達ですか?」
「ああ」
「そうなんですか。良かったあ。キリト君あまり人付き合いしないから、友達ができて嬉しいです。これからも夫をよろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべる彼女に陰は感じない。まるで太陽のようなアスナの笑顔が、リズベットとシリカに陰を落としているように思える。
「それにしてもキリト君どこにいるのかな。何も言わずに出掛けて、どこのダンジョン行ってるんだろう」
「あ、そうそう」とアスナは矢継ぎ早に話し始めた。
昨日キリトと街の市場へ買い物に出掛けたときのこと。
先週キリトがカエルモンスターの肉を大量に持って帰ってきたこと。
先月キリトが――
アスナの口からは次々と、キリトとの思い出が語られていった。セツナ達はその話を黙って聞くことしかできなかった。
♦
リンダースの店に来る頃には、すっかり夜が更けていた。とても疲れる1日だった。
目が覚めたアスナは、あたしの知るいつものアスナだった。いつもと同じように笑い、からかうとむくれる。とても綺麗でひとつひとつの仕草に品があるけど、どこか歳相応の子供っぽい面も見せるから愛嬌がある。そんなアスナの笑顔が見れて嬉しい。今朝起きたら、隣のベッドから「おはよう、リズ」とアスナの声を聞いたときは飛び起きるほど驚いたし、涙が出そうになった。
でも、あたしはアスナの目覚めを素直に喜ぶことができない。嬉しさのあまり抱きしめたアスナは、あたしに言った。
「キリト君はどこ?」
その質問に、あたしは思わず真実を言ってしまうところだった。何とかダンジョン攻略に出掛けたと誤魔化して、しばらくしてから起きたシリカにも口裏を合わせるように言った。
昨日、先週、先月と、アスナはキリトとの思い出を語った。
あたしはその有り得ない思い出を訂正させることができなかった。もしアスナに事実を改めて認識させたら、また彼女が人形のようになってしまいそうだから。あたしは臆病者だ。つくづくそう思う。
もしかしてあたしの記憶が偽物で、アスナの語る記憶こそが本物なのだろうかとさえ思ったほどだ。
でもそれは違う。あたしが見ているものは本物だ。エギルから聞いたキリトの死を確かめるために、あたしは黒鉄宮へ行った。石碑にあった《Kirito》の名前には横線が引かれていた。あたしはそれを見て泣いたのを覚えている。
キリトは死んだ。アスナも見たはずだ。でもアスナは、その場面を覚えていないみたいだった。
アスナにはキリトが見えているのだろうか。あたし達の知らないところで、アスナは死んだはずのキリトと他愛のない会話を楽しみ、その思い出を語っていたのだろうか。
答えが出ないまま、あたしはドアの札をCLOSEにしたまま中に入る。今の時間にお店を開けたって、誰も来やしない。あたしに続いて、黒衣の男も中に入った。
「とりあえず、剣研いじゃおっか」
「ああ」
あたしはセツナから剣を受け取って、回転する砥石に当てた。鍛冶職人として仕事をすれば、気分も晴れると思っていた。でも淡い赤みを取り戻していく剣を見て、あたしは気付いてしまう。
あたしが作ったこの剣は、人を殺すために使われていた。
あたしは
でもこの
あたしは武器を単なる道具として見ることができなかった。あたしは金属を丹精込めて熱し、ハンマーで叩き、輝きと共に生まれる武器にいつからか愛着が芽生えるようになった。だからあたしの作った武器を使うプレイヤーには正しく使ってほしい。
銃を作る工場で働く人は、こんな気分になるのだろうか。あたしはまだ仕事だからと割り切ることができていない。シリカの前ではお姉さんぶっているけど、あたしもまだ子供だ。
「セツナ、どうしてレッドプレイヤーを殺してたの?」
「あんた達を守るためだ」
「それだけなの?」
「それだけだ」
セツナは迷うことなく言った。でもあたしは、彼に迷いがないとはどうしても思えない。
あたしを助けてくれたセツナが、人の命を軽く見ているはずがない。シリカも、血盟騎士団の任務でセツナに助けられたと聞いた。
「セツナさんが本当は優しい人だって、あたしは信じたいんです」
いつか、シリカがそう言っていた。あたしもそう信じたい。あの幼い少女のように、人を信じられる無垢さがほしいと思った。
「あたし達を守るために犯罪者を殺して、今度はあたし達を現実に還すためにゲームをクリアさせるの?」
「そうだ」
現実に帰りたいのは確かだ。いや、「だった」というべきなのかもしれない。今のあたしに熱はない。もう、あたしに熱をくれたキリトはいない。
今あたしが生きているのはアスナのためだ。キリトが愛したアスナを守るために。同じくアスナを守ろうとしているセツナの剣を整備するために鍛冶職人を続けている。
「セツナ、アスナと何があったの? セツナとアスナは、ギルドの仲間ってだけ?」
研磨が完了した剣を受け取ったセツナは無表情のままだ。無理矢理感情を付けるとしたら不機嫌といった様子だけど、それでも彼は答えてくれた。
「アスナは俺を止めようとした」
「それだけ?」
「ああ」
嘘だと、あたしは直感で悟った。アスナに向けるセツナの目。あたしやシリカよりも、アスナの変化に一番苦しんでいるのはセツナだ。セツナが血盟騎士団の団長に名乗り出たのも、攻略を目指したのもアスナのためだと思う。
セツナに何があって死神になったのかは分からない。本当にあたし達を守りたいと思っているのなら、罪を被らなくてもいい。それなのに、セツナは罪を被ることを選択した。
あたし達を守るために罪を被る。
あたし達を解放するために責任を負う。
その根源にあるのは何だろう。あたしには分からない。あたしの陳腐な想像力の上を、セツナは体験してきたのかもしれない。彼の力はいつだってあたしの想像を上回る。
「あれが、アスナにとってはいいのかな?」
「彼女にとっては幸せなのかもしれない。辛いことを忘れて、見たいものだけが見られる今が一番だ」
「本気でそう思う?」
「………分からない」
セツナは消え入りそうな掠れる声で言った。元々あまり声は大きくなかったけど、こんな声を聞くのは初めてだ。
「アスナに事実を改めて認識させたところで、それが彼女のためになると思うか」
自分から聞いておきながら、あたしも何ができるのか見つけ出せずにいる。だからあたしも言った。
「あたしも、分からない」
多分、答えは誰にも分からない。きっとそれを知っているのはアスナ本人だけ。
アスナは答えを出して選択した。彼女が彼女であるために。アスナをアスナたらしめたキリトがまだ存在していると思うことを選択したのだと思う。それが最善だ。いつだって最善の選択は、本人にしか見出せないのだ。
セツナから鞘を受け取り、砥石に当てる。摩擦で響く甲高い音のなかに、セツナの声が滑り込んでくるように聞こえた。
「リズベットは強いな。あんたも辛いだろう」
予想外の言葉に、あたしは笑ってしまう。笑うことも少なくなってきたから、とんだ不意打ちだ。
「強くなんかないよ。こうして仕事しないと、今にも泣いちゃいそうだし」
「それでもアスナを看てくれている。感謝している」
「一番辛いのはアスナだよ。あたしに泣く資格なんてない」
「親友を想って泣くなら別だ」
そのセツナの言葉を聞いて、あたしの目元が熱くなった。研磨が完了した鞘をきつく握りしめ、あたしはその熱さを堪える。
「何で、そういう優しいこと言うかな……。セツナも、あいつも……」
あたしは俯きながらセツナに鞘を手渡す。すぐに鞘と剣がぶつかる音が聞こえる。視線を上げて、セツナの手を両手で握った。グローブ越しでも彼の温かさが伝わってくる。その仄かな熱を感じて、彼も人間なのだと実感する。
「お願い、セツナがこの世界を終わらせて。セツナが死神なのかはまだ信じられないけど、セツナならキリトができなかったことをやり遂げられるって信じてる」
「元からそのつもりだ。何が何でも、ゲームをクリアさせる」
セツナから受け取った100コル硬貨2枚を、あたしはきつく握りしめた。あたしにできることは、こうして彼の剣を整備することだけ。
「新しい素材が入ったら教えるね。もっと良い剣が作れるかもしれないし」
「ああ、頼む。俺はもう帰って休むが、リズベットはどうする」
「今晩はここにいる。注文もいくつか入ってるから片付けたいしね」
「そうか。それじゃ」
「うん」
工房から出ていくセツナを見送って、あたしは「よし」と両手を叩く。あまり気乗りしないけど、だからといって商売をおろそかにしてはいけない。
炉に火を点けようと視線を降ろしたとき、あたしの視線の隅に1枚の小さな紙きれが入ってきた。さっきセツナが立っていた所だ。お金を払ったとき、ポケットから落としてしまったのだろうか。
あたしはそれを拾い上げる。固い真っ白な紙面を裏返すと、それは写真だった。
「っ!」
思わず大声が出そうになって、あたしは口に手を当てた。写真にはセツナと女の子が写っていた。2人とも笑っている。セツナのこんな表情は見たことがなくて、一瞬彼だと分からなかった。
少女は知らない子だけど、あたしは何故か初めて見た気がしない。とても綺麗な少女だ。口角をわずかに上げた微笑から品が出ている。
少女の胸元でネックレスが光っている。星型で飾り気のない金属板は、少女の容姿に釣り合っているとは言えない。
あたしはこのネックレスを知っている。
あたしはこの子を知っている。
そんなに年月が経っているわけじゃないけど、あたしにはその記憶がもう遠い昔の出来事のような感慨があった。
♦
それは、あたしがまだ10層あたりで露店商売をしていた頃だった。まだ寒い季節で、あたしは震えながら声を張り上げていたのを覚えている。
その頃のあたしはとにかく必死だった。第48層の街開きで見つけた家を買うために、わき目も振らずに働いていた。
既に店を開いていた知り合いに工房を借りて、がむしゃらにハンマーを振って武器を作る。主街区の人通りが多いメインストリートで丁度いい場所を見つけて、そこで武器を並べてお客に売っていた。
「ねえ、新しい剣買ったら?」
「うん。ちょっと見てみようか」
そのお客は2人組の男女だった。あたしと同年代くらいで、仲良さげだったものだから少し嫉妬していた。
「これなんてどうですか? お兄さんには丁度いいと思いますよ」
あたしは意地悪してやろうと、少年のほうにその頃の会心作を見せてやった。それなりにパラメータが高い武器も作れるようになってきた頃で、会心作の剣は並のプレイヤーじゃ扱い切れる代物じゃない。
「これ、いくらですか?」
装飾の豪華さで価値が分かったのか、少年は物怖じした様子で聞いてきた。見れば少年が腰に提げている剣は質素な片手直剣で、一目でNPCショップのものだと見抜けた。
あたしは得意げな顔をしていたと思う。少年の反応が期待通りだったから。接客としては最低だ。でも2人の装備から強そうには見えなかったから、あたしの武器を扱えないだろうと思った。冷やかしなら早く行ってほしいとさえ思っていた。
更に性格が悪いことに、提示した値段に目を剥き唖然とする少年の反応を表情に出さないよう必死に笑いを堪えた。
「買わないの、それ」
後ろから覗き込む少女に、少年は「ああ」と気のない返事をした。
「あの、これは?」
少年が指差したのは、広げた風呂敷の隅っこに置いたネックレスだった。ランクの低い金属は在庫が大量に残るから、こうして小物やアクセサリーに加工して売り物にしていた。シンプルなものなら、工芸スキルをあまり上げなくても作れる。
「ああ、アクセサリーは全部100コルです」
「そうですか。じゃあ、これください」
少年は一番左に置いた星型のネックレスを指した。あたしの視線は少年の薬指に光る指輪に向いた。
「結婚してるんですか?」
「ええ、まあ……」
少年が照れ臭そうに笑った。かなり驚いた。まさかこの世界で結婚するプレイヤーがいたとは。
同時にあたしの中で罪悪感が生じた。奥さんにプレゼントを買ってあげる優しい人に酷いことをした。
「それ、タダでいいですよ」
「え?」
「おまけみたいなものですし、それに売り物としては粗末なので、お金はいりません」
あたしとしては意地悪のお詫びだったのだけれど、少年は純粋に厚意と受け取ってくれたらしい。
「ありがとうございます」
やり取りを聞いていた少女が、そう言ってあたしに微笑んだ。とても綺麗な子で、同性なのに見惚れてしまいそうになった。年はそう変わらないみたいだけど、どこか大人びた目をした子だった。
あたしはそれを誤魔化すように、「いえいえ」と顔の前で手を振った。
「あたしリズベットっていいます。近いうちにお店開くので、よかったら来てください」
「はい、よろしくお願いします。リズベットさん」
少女はそう言って笑った。大人びていながら笑うとあどけなさがある、不思議な魅力を持った少女だった。あたしも笑みを返した。接客は苦手だったけど、自然に出た笑みだった。
「せっかくだし買えばよかったのに」
「俺じゃまだ使えないよ。それより今は家が先だ」
2人を見ていると、恋をするのもいいなと思えた。それ程に2人は仲睦まじく、互いを想い合っているのが笑顔で分かった。
「それじゃあ」とネックレスを持って去っていく2人の背中を見ながら、あたしは祈った。
お幸せに。
それからあたしは何とかリンダースの家を買うことができて、店を構えるようになった。でも、あの夫婦が来ることはなかった。
いや、夫のほうが来た。黒装束に身を包んで。一緒に遺跡を探検して、モンスターに飲み込まれ脱出した末に剣を作った。それが殺人に使われるとも知らずに。
あたしの予想は単なる早とちりなのかもしれない。できればそうであってほしい。
セツナ、あんたって律儀だよね。あんなの社交辞令みたいなもんなのに。
でも、奥さんも一緒に来てほしかったよ。
あたし、あの子の名前を知らない。
また会えたら、友達になれそうだったのに。
セツナ、あれから何があったの?
あんたの奥さんはどうしたのよ?
♦
アインクラッドで葬儀を挙げることは今までなかった。
この病気になることがない世界で、死というものは突然訪れる。そのせいで知り合いが死んだと知るのが、死んでから1ヶ月以上経ってからというケースも珍しくない。多かれ少なかれ毎日誰か死んでいるのだから、その度に葬儀を挙げるもの面倒だ。
でも一番の理由は、この世界で死ねば現実でも死ぬという事実を信じたくないからだろう。
未だにゲーム世界から脱出できないという事実から、現実でナーヴギアを無理矢理脱がそうとすれば本当に脳が焼かれると、大体のプレイヤーは信じている。それでも、本当に死んでしまうのか確信には至っていない。確かめるには実際に死んでみるしかない。
そんなプレイヤー達が葬儀を挙げることに意義を唱えなかったのは、すっかりこの世界の住人になってしまったということなのかもしれない。
葬儀が行われたのはデスゲームが始まって3度目の新年を迎えてすぐの頃だった。
誰が言い出したのかは判然としない。半ば自然的にプレイヤー達の間にその意識が芽生え、下層でプレイヤーの援助を行っている《MMOトゥデイ》主導の下で葬儀が手配された。
全プレイヤーがはじまりの街の中央広場に集められていた。デスゲームが始まった日よりもすっきりしたように思える。考えてみれば当然なことだ。あの日から2年以上経って半分近くが死んだのだから。
中央広場にオブジェクト化された祭壇を前に、1人の女性プレイヤーが犠牲者達に弔いの言葉を述べている。彼女は現実で神学を履修する学生だったという。この宗教礼式でという声もなかったため、葬儀は布教率の高いカトリックの礼式に乗っ取って執り行われた。もっとも信仰に疎い自分にとって、どの礼式で行っても同じだとセツナは思う。
「葬式なんて、一体誰のためにやるんだろうなあ」
「死者のためだろう」
「そりゃそうだろうけどよ。天国とか地獄とか、そんなもんが本当にあるか分かんねえじゃねえか」
「あんたは無神論者なのか」
「いや、そこまでじゃねえよ。俺あ、あんまり信心深くはねえけどよ、この世界に来てから祈りてえって気持ちが少し分かったような気がするぜ」
「祈ったところで、救ってくれる神なんていなかっただろう。現に俺達は救われていない」
「勇ましいこった。神様なんて頼らねえってか」
「神を信じていたら、死神なんてやってないさ」
葬儀が始まる前に、クラインとそんな会話をした。あまり信心深くないと言っておきながら、セツナの後ろにいるはずのクラインはやけに静かだ。仲間意識の強い彼のことだ。きっと黙祷を捧げているに違いない。天国や地獄を信じていない割に、こういった場の礼式は遵守する性分のようだ。だからといって、彼を中途半端と嘲笑う気にはならない。
無宗教。無神論。物質主義。それらが蔓延した社会で生まれ育っても、未だに人々は自分達が骨を軸にした肉の塊という物質だと受け入れられずにいる。
自分達はタンパク質を主成分に構成されている。
自分達はスーパーマーケットでばらばらにされた状態で並べられる牛や豚や鳥と同じ存在だ。
それはとっくに証明されたことだが、人間は魂だの心だの不可視なものを付加することで、自分達は崇高で特別だと思いたがる。
神の存在を証明する術はない。
「神が存在しないと証明する術もありません。神とは不可視の存在であり、我々に認識できない領域に存在するのです」
天国も地獄も存在しない。
「それも存在しないと証明する術はないでしょう。死後の世界とは、死者の魂しか行くことができないのです」
無神論者と宗教家の討論はこんな泥沼な様相を見せるのかもしれない。神とはとことん便利な存在だ。
とはいえ、セツナも人間をただの物質と断じることができていない。
魂。心。そういったものを排しながら殺し続け死神と噂されるまでに至るのだが、意識の奥底にはまだ有神論的な概念が根付いている。ナミエをスーパーの肉と同じと認識することはできない。
人には意識があり、言葉がある。
人には魂があり、心がある。
その深層意識によって血の味を感じるようになったのかもしれない。
弔いの言葉が終わり、パーティやギルドごとに分かれた列の先頭からリーダー達が歩み出て来る。血盟騎士団の団長として、セツナも祭壇へと歩く。祭壇に集まったのは3人だ。
《聖竜連合》リーダー、リンド。
《MMOトゥデイ》リーダー、シンカー。
《血盟騎士団》リーダー、セツナ。
この3人がプレイヤーの代表となっている。聖竜連合と血盟騎士団は攻略の前線に立ち、MMOトゥデイは下層にいるプレイヤーのリソースを分配している。
3人の代表者達は祭壇に並べられた花を1輪ずつ手に取った。事前に知らされた進行通り、3人は黒鉄宮へと入っていく。巨大な宮殿のロビーにはプレイヤー達の名簿であり、生死が記録されている長方形の重苦しい生命の碑がそびえ立っている。多くの名前に線が引かれた金属製モノリスの前に、3人は花を置いた。
リンドが曲刀を掲げ弔いの言葉を述べる。最初は雄々しかった声は途中で嗚咽が混じり、途切れ途切れに言葉を紡ぐリンドは泣いていた。シンカーも神妙な表情でモノリスを見つめている。2人は誰の名前を見て想いを馳せているのだろうか。不謹慎なことに「プライベート・ライアン」の冒頭でハリソン・ヤングが戦没者の墓地を訪れるシーンを思い出した。
セツナも2人にならい、磨かれたモノリスから名前を探す。
Namie 2023.2.17 14:37 プレイヤーキル
生命の碑はご丁寧に死亡した日時と死因まで記録してくれる。システムエラーを期待して、彼女の名前から横線が消えて蘇るのではないかと何度も訪れたが、とうとうそんな下らない奇跡は起こらなかった。HPが消滅したらシステムは何の障害もなく彼女を砕き、その時間と死因をしっかりとモノリスに記載した。
でもこのモノリスがナミエの墓なのだと思うことはできない。今生命の碑は犠牲者達の慰霊碑として花が供えられたわけだが、モノリスの下に犠牲者達の死体が埋まっているわけではない。この世界で死体は残らない。もし魂があったとしても、この名前が刻まれただけのモノリスに捧げた祈りはナミエに届くのだろうか。大切なのは気持ちだと、誰かが言っていた。でもそれは自己満足だ。まるで葬儀が死者ではなく残された生者のために執り行われるみたいで、自己満足のためなら墓なんて飾りだ。
何よりも、ナミエが彼と同じ墓に入っているというのはセツナにとって耐え難い。セツナはもうひとつの名前を見つけ出す。
Zodiark 2024.11.07 11:55 プレイヤーキル
その忌々しい名前を見ても、不思議と怒りは沸かなかった。彼の名前を知ったのは殺したその日で、正直名前なんてどうでもよかった。セツナの記憶に焼き付いたのは彼の名前ではなく、彼の頬に刻まれたケロイドの傷跡なのだから。死亡日時も死因も一致するから、碑に刻まれた《Zodiark》が彼なのは間違いなさそうだ。でもいまいち釈然としない。死因に【Setsunaに殺されました】と記載されていれば確証が持てるというのに。
死因は一応記載されているに過ぎない。自殺ならどこの層の外周から転落したのか、モンスター戦での敗北ならどのモンスターか、PKなら誰に殺されたのか。そこまでは詳しく記載されない。だが生命の碑が詳細をはぐらかしてくれるおかげで、セツナは多くの任務を遂行することができた。もしこれがPKの犯人まで記載されていたら、セツナはすぐさま捕らえられて何らかの罰を受けていただろう。
早いうちに罰を受けていれば罪は赦されたのかもしれない。
そんな邪な考えをすぐに打ち消す。過去が過ぎていった今、もしもなんて考えは無意味で虚しくなるだけだ。それに罰を受けたとして、たとえ処刑されたとしてもセツナの抱える罪は償われ赦されるのだろうか。そう問われればセツナは否定する。
セツナは自ら手を下してもゾディアークを赦していない。だからセツナが死んでも、人々はセツナを赦さないだろう。
代表者達の献花を済ませて葬儀は終了したのだが、中央広場に集まったプレイヤーはすぐには減らなかった。聖竜連合と複数の攻略ギルドはすぐ転移門で最前線の層へと向かった。だが大半のプレイヤー達は胸に手を当て、両手を組み、床に膝を付いて死者に祈りを捧げていた。
「セツナ団長、我々も攻略へ向かったほうがよろしいかと」
ギルバートが畏れ多いとばかりに頭を下げながらそう言った。
「ああ、80層に行く」
団員達に招集をかけようとした時だ。
「セツナ」
その声に「何だ」と振り返る。特徴的な声だからすぐに分かった。
「新しい情報でも入ったのか、アルゴ」
「まあナ。ちっと大事な話があル」
「ああ、分かった」
セツナは団員達に呼びかけた。
「2時間後に80層主街区の転移門広場に集合。それまでは解散」
「セツナ団長」
ゆっくりと、その団員はセツナに近付いてくる。長身な男はセツナを見下ろし、険のこもった眼差しを向けてきた。この視線にはすっかり慣れたもので、今更怖気づくこともない。
「我々に猶予はありません。ここは我々に任せ、一刻も早く攻略を進めるべきでは?」
「俺なしで、犠牲者を出さずにダンジョンから出られるのか」
血盟騎士団は精鋭揃いだが規模が大きくない。1人欠けただけでも戦力が大幅に下がってしまう。だから戦力が十分に確保できない限り、攻略に行けないのがギルドの弱点だ。
「勝手な行動で勝手に死なれては迷惑だ。団長命令には従ってもらう」
「よせ」
クラインがセツナと団員の間に割って入った。
「指揮は俺が執る。無茶なんかさせねえさ。それでどうだ?」
クラインなら指揮を執るに十分だ。第75層まで《風林火山》を1人も欠けることなく率いてきた彼なら、そのリーダーシップを思う存分発揮できるだろう。
「任せた、クライン」
「行こう」と、セツナはアルゴと東の路地へと歩き始める。いつものざわめきが戻りはじめた中央広場から、クラインの声が聞こえた。
「おし、それじゃ80層のダンジョンに行くぞ。今日は俺が指揮を団長から任された。よろしく頼むぜ」