ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
まだ終わりませんが。ひとつの区切りとして。
11月に入り、デスゲームが始まってから2年が経とうとしていた。
アインクラッドで解放されている層全てに寒気が訪れ始め、もう夜は凍えそうな季節だ。そのせいか、プレイヤー達の熱も冷めつつあるように感じる。いや、あの頃は皆熱狂していた。
アインクラッド中に広まったニュースで、どこの主街区もお祭り騒ぎになり路上にはエールビールの樽が散乱していた。
《
討伐隊が拠点から帰還したその日のうちに、作戦の成果を聞いたプレイヤー達が層を渡って全プレイヤーに知らせた。その知らせは数日もの間新聞の一面を飾ったそうだ。
皆が殺人集団の壊滅を喜んだが、討伐に参戦した攻略組の間に流れる警戒の意識は消える事が無かった。
ギルドリーダーの
他にも数人を取り逃がした事が確認されている。あのケロイドの男も討伐隊にやられてしまったのか、それとも逃げてしまったのか。分からないまま。
捕縛された《
あれから3ヶ月近く。
プレイヤー達はいつもの暮らしにすっかり戻っていた。はじまりの街に留まる者は慎ましく、中層に留まる者達はゲームでの生活を営み、前線に立つ攻略組は迷宮区のマッピングとボス攻略の対策を練る日々を送っている。
セツナもまた、いつも通りの生活に戻った。
いつも通りヒースクリフからオレンジプレイヤー暗殺の命令を受け、アルゴから暗殺目標の情報を仕入れ、現場へ赴き目標を殺す。
元の日常を取り戻したわけだが、変化はあった。仕事の量が目に見えて減ったのだ。以前は毎日のように仕事に明け暮れていたというのに。今は週に1度のペースで、セツナは暗殺をこなしている。暇な日は、フィールドでレベルアップのためにモンスターと戦う事が多くなった。
《
《
セツナのここ3ヶ月近くの仕事は、もっぱら《
仕事が減るのは有難い。前は忙しすぎたくらいだ。だが、それと引き換えにセツナは仕事まで喉の渇きに何日も苦しむようになった。
血の味は数日の間セツナの口に残る。突然消えるわけではなく、ゆっくりとセツナの喉は渇いていく。大体、5日経てば完全に血の味は消える。渇けば、いくら飲み物を飲んでも喉が潤う事はない。
水を飲んでも、お茶を飲んでも、ジュースを飲んでも、酒を飲んでも、ポーションを飲んでも、モンスターが落とした体液を飲んでも。
NPCならどうかと、圏外をうろついているNPCをPKした事がある。でも、血の味は感じなかった。人間であるプレイヤーを殺さなければ、血の味は出てこないらしい。
殺したという事実を認識する事で現れるのではないかと思い、試しに目標を殺す際に目をつぶった。でも血の味は現れた。彼等は死に際に、恐怖や慟哭や困惑の声を漏らして消えていく。彼等の声がセツナの目蓋のない耳へと入り込み、殺したという実感を持たせていた。
1人殺して数日というわけではない。1人殺しても、10人殺しても、血の味が上乗せされる事はない。喉が潤えば数日間。そこに殺した数は介在しない。
セツナはどうやら、フルダイブ不適合者という者らしい。全ての人間がシステムに適合できるわけではなく、脳との通信に微妙な傷害が発生し、五感の一部が正常に機能しない例が少数ながら存在するらしいのだ。セツナはあの時まで、五感は正常に機能していた。喉の渇きは水を飲めば収まり、血の味なんて感じなかった。
恐らく血の味は心因性のものだろう。どうすれば血の味を感じなくなるのか、セツナには3つしか解決法が思いつかない。
ひとつはナミエが生き返る事。
それはもはや不可能だ。SAOで蘇生アイテムは殆ど存在しない。去年のクリスマスイベントとして、蘇生アイテムを落とすボスの噂を聞いた事がある。でもそのボスは、1人のソロプレイヤーによって入手されたらしい。セツナが知るこの世界のプレイヤー蘇生法はそのアイテムだけ。アイテムがもう使われたのか、その行方は分からない。
ふたつはセツナが死ぬ事。
そうすれば全てから解放される。でもそれはできない。ナミエの仇を討つまで死ぬわけにはいかない。仇を討つ事が、セツナがナミエを愛していた事を証明してくれる。そうなれば、セツナはみっつ目を選択せざるを得ない。
あのケロイドの男を殺す。
そうしなければセツナはこの世界でずっと、たとえ現実に帰還したとしても喉の渇きに苦しむ羽目になる。
だからセツナは人を殺さなければならない。あの男をこの手で殺さなければならない。
♦
その商人用プレイヤーホームは、相場よりも安く購入できたらしい。アルゲードで売りに出されている物件は多いが、街の雰囲気に違わず庶民的な粗末さが否めない。何とかリフォームを試みて一級品の家具を揃える者もいるそうだが、この街で豪華な部屋にするくらいなら別の層で家を買った方が良い。
そんな他愛もない話を聞きながら、セツナは不要なアイテムを売りに足を運んだ雑貨屋の2階に案内された。1階はオブジェクト化された商品が所狭しと陳列されているのに対して、2階の寝室兼客間は粗末なベッドと年季の入った丸テーブルに椅子が数脚置かれただけだ。
「なかなかの代物だぜ」
いたずらに笑いながら、エギルは椅子に座ったセツナにお茶の入ったカップを渡す。
セツナの久々の来店を喜んだエギルは、「上で茶でもどうだ?」と誘ってきた。特に予定も無いため、セツナはそれを了承した。テーブルと椅子が並べられているあたり、よく知り合いをここに案内して談笑でもしているのだろう。
セツナはカップの中で揺れる青紫色の液体を眺める。
「エギル、これは何なんだ」
「いいから飲んでみろ。ほれ、ぐいっと」
促されるままに、セツナはその毒々しい液体を少量だけ口に含む。仮に毒だったとしても、圏内だから効く事はないだろう。見た目に違わず、味も香りも怪しいものだった。でも、この味はどこか懐かしいと思える。
「……これは、コーラか」
「その通り」とでも言うように、エギルは笑った。
「どうだすげーだろ。この世界にコーラがあるんだぜ」
「匂いは似ているが、味は酷い」
「それなら改良すりゃあいいさ」
一体どれほどの茶葉を組み合わせたのか。酸味と苦味と甘味が混ざり合っておかしな味を醸し出している。エギルはポットからホットコーラと称するお茶をカップに注いでいる。
「いいのか、店は」
「ああ、しばらく店は休むことにした」
一体どうしたのか。店の売り上げばかりを気にしていたエギルが休業するなんて。
「何かあるのか」
「ああ。近々75層のボス攻略があってな、それに参加する事になった。久々に圏外に出るからな、勘を取り戻そうってわけだ」
「あんたが呼ばれるって事は、余程の強敵か」
「クォーター・ポイントだからな。猫の手も借りたいんだろうよ」
「あんたは猫か」
「言いたいことは分かるぜ」
エギルは凄みのある、しかしどこか愛嬌のある笑みを浮かべながらホットコーラを飲んだ。
「確かに不味いな……」
「まさか飲んだのは今が初めてか」
セツナがそう言うと、エギルはまた笑みを零す。短いため息をついて、セツナはカップの中身を飲み干しておかわりを要求する。エギルは「癖になったか?」と言いながら、カップに青紫色のお茶を注いだ。
「なあセツナ」
カップを置いてから、エギルは真剣な視線を向けた。
「クラインから聞いた。血盟騎士団を抜けたんだってな」
「ああ」
「ギルドを抜けたお前は、ボス攻略に参加しないのか?」
「いや、団長から参加するよう言われた。ソロとして」
「そうか。お前がどれほど強いかは知らんが、あの強豪ギルドにいたんだ。心強いぜ」
ボス攻略において、第25・50・75層は《クォーター・ポイント》と大きな節目として捉えられている。フロアボスは階層を上る毎に強くなっていくが、《クォーター・ポイント》のボスは別格の強さを誇っている。第25層では《軍》が攻略から脱落する程の損害を受け、第50層ではヒースクリフが援軍を率いてこなければ危うく全滅する所まで追い込まれた。セツナもヒースクリフの援軍として、第50層ボス攻略に参加した。
そういえば、あの戦いにはキリトもいたらしい。戦いに集中していたせいで気付かなかったが。
第75層のボスも強力であると予想されている。無論、ヒースクリフはセツナに攻略に参加するよう要請してきた。
「怖いのか」
「ああ」とエギルは消え入りそうに呟き、視線を落とす。
「俺だって、死ぬのは怖いさ。でもな、やらなきゃならねえんだ。ボスを倒さなきゃ、このゲームは終わらねぇ。そのためなら、俺だって戦うさ。まあ、そう思ったのも最近だがな。この世界でも、幸せに生きようとしてる奴の顔見てると、何とかしてやんねえとって思っちまうんだ」
「あんたらしいな」
「そいつあどうかね」
エギルはホットコーラを飲むと視線を上げた。顔から真剣な表情は消えて、いつもの笑みを浮かべる。
「辛気臭くなっちまったな。すまねえ」
「気にしていない」
「最近はキリトも来なくなったからなあ。こうして茶を飲ます相手がいねえと、張り合いがねえや」
「俺は毒味役か」
キリトの近況は、セツナの耳にも入っていた。第74層のボスを《二刀流》で単独撃破し、アインクラッド中がその未発見だったスキルの話題で盛り上がったものだ。2週間程前、盛大に行われたヒースクリフとのデュエルで敗北し血盟騎士団に入った事も聞いている。恐らく、セツナの欠員を埋める目的もあったのだろう。
だが妙な事に、彼のギルド入団からその近況は分からない。全プレイヤーの注目を集め、街を歩けば野次馬が集まりそうだというに、ここ最近はどこの街に現れたのか聞いていない。どこかに隠れているというのか。
「まあ良いじゃねえか。それより見ろよ」
エギルはオブジェクト化させた新聞をテーブルに広げる。今日の朝刊らしい。《アインクラッド解放軍》の解散が一面を飾っていた。
「《軍》は解散したのか」
「ああ、これで少しは下層も行きやすくなるだろ」
何気なく、セツナは記事の見出しだけに視線を這わせていく。その視線が、隅にある小さな記事で止まった。
「エギル、これは」
セツナは記事を指差した。
《死神に果たし状》11月4日、はじまりの街の中央広場で一枚のメモが発見された。メモには『死神くんへ 11月7日14時、約束の場所にて待つ』と書かれていた。現在、情報屋を営むプレイヤーを中心に死神に関する調査が進められている。
記事にはそれだけ書かれていた。エギルは思い出したように言う。
「ああ、果たし状が昨日見つかったらしいな。にしても、死神なんて本当にいるのかね。セツナもこういう都市伝説が好きなのか?」
エギルは興味なさげに、新しいお茶を淹れ始めていた。セツナは「口直しだ」と、エギルお勧めの上位ランクのお茶を飲んだ。
喉の渇きは消えなかった。
♦
「全く、しっかりメンテに来るよう言ったのに」
不機嫌そうに、リズベットは刃の付いた鞘を手渡す。刃はメタリックグレーの輝きを取り戻していた。
「済まないな。色々と立て込んでいた」
「もう、あんたの剣はへばり具合が分かり辛いんだから、こまめにメンテしないと折れちゃうわよ」
確かに、リズベット武具店に来るのはハーディスクラウンを作ってもらった日以来だ。完成直後に起こった出来事のせいで、彼女と鉢合わせし易いこの店から足を遠ざける必要があったのだ。仕方なく、剣の手入れは他の鍛冶屋に頼んでいた。
「うわ……、少し錆びついてるじゃない。どんだけ無茶な戦いしてたのよ」
ぶつくさ言いながら、リズベットは金床に置かれた鈍色のハーディスクラウンを掴んだ。
「本当に軽い剣ね」
その軽さに感心しながら、回転する砥石に刀身を滑らせていく。この手の作業にテクニックは必要ないそうだが、リズベットは丁寧にゆっくりと研磨作業をこなしている。セツナが知る鍛冶屋の中で、リズベットは最も丁寧に武器を扱ってくれる職人だ。見た目は幼いが、火花を散らす刀身に向けているその眼差しは熟練の貫禄が出ているような気がする。
そんな事を言ったら怒りそうだなと、セツナは密かに思った。
研磨が完了した剣をリズベットは口を半開きにしながら眺めた。
「何か、赤みが出てるわね」
セツナは手渡された剣の柄を掴み掲げてみる。照明の光に当てると、刀身が微かに紅色の輝きを放っている。
「見れば見るほど妙な剣よね」
「ああ」
セツナは剣を鞘に納め、リズベットに100コル通貨を2枚手渡した。
「ありがとう、リズベット」
「うん、最低でも10日に1度は来るのよ」
「ああ」
セツナの素っ気ない受け答えでも、リズベットは笑った。どうせなら剣を作った彼女に手入れをしてもらいたいと思い店を訪れたのだが、その笑顔は彼女に対する罪悪感をより強めた。
済まない、リズベット。
あんたが丹精込めて作った剣で、俺は人を殺していた。
これからも殺すんだ。
あんたの作った剣は、殺人のための凶器なんだ。
こんな気持ちを抱く権利は、セツナには無い。
彼女に対する罪よりも、遥かに重い罪をセツナは背負っている。
ここに来るのはこれが最後だろうなと思いながら、セツナは工房を見渡す。ふと、壁に掛けられた写真が視界に映った。写真の中でリズベットとアスナ、そしてキリトが笑っている。
「あれは」
セツナの視線に気付いたリズベットは、「ああ」と感慨深そうに写真に目を向けた。
「アスナとキリトが結婚の報告しに来た時に撮ったのよ。もう半月くらい前かな」
「結婚………」
「あれ、セツナ知らなかったの? まあ確かに、アスナが結婚したなんて知られたら大騒ぎよねえ。あ、それともショック受けてる?」
「いや、嬉しいさ」
素直にそう思った。彼女にはセツナの事など忘れて、幸せになって欲しいと願っていた。
「やっぱり嬉しいもんよね。親友が幸せになるって」
「ああ」
写真の中で、キリトはアスナの隣で所在なさげに苦笑いを浮かべている。きっと、普段はナイーブな少年なのだろう。
下手くそな笑顔だな。
俺でも前は笑顔くらいできたぞ。
せっかく掴んだ幸せだ。
必ず守り抜いてくれ。
♦
窓から見える外周から、月が覗いていた。月光に反射した彼女の体が白く光る。
「寒くないか?」
「少し……、寒いかも」
俺はベッドで横になった彼女にシーツを掛けてやる。彼女は俺の腕をそっと掴んだ。俺は彼女に寄り添い、その細い体を優しく抱きしめる。
初めての事でかなり緊張したが、それは彼女も同じだった。俺は怯える彼女を安心させようと、ずっと手を握っていた。
「温かい」
互いの目を見つめ合った俺達は照れ笑いした。俺は彼女の唇にキスをする。
「今まで、誰かのためにバイオリンを弾くのが嫌だった」
彼女は毎晩、自分の話をしてくれた。食後のお茶を飲んでいる時や、ベッドで床に就く時に。
「小学校の頃、他の学校との交流会でバイオリンを弾く事になったの。その時はまだそんなに上手く弾けなくて、交流先の男の子が怒って消しゴム投げられちゃった」
「酷いな、そいつ」
「うん、私も泣いちゃった。それがあって、次の年から交流会はなくなったの。新しい友達ができて、皆楽しみにしてた行事だから、私がそれを壊しちゃった」
「ナミエのせいじゃないさ」
「ありがとう。でも私はずっと人前で演奏する度にその事思い出しちゃって。私の演奏で喜ぶ人がいるのかなって、怖くなる」
「俺がいるじゃないか。俺はナミエのバイオリンが好きだよ」
俺がそう言うと、彼女ははにかんだ。
「セツナが聴いてくれるようになってからかな。演奏するのが好きになったの。今なら、バイオリンが好きって言える。セツナのために、もっと上手くなりたい」
彼女は俺の首に腕を回した。
「眠くなっちゃった。このまま、寝ちゃってもいい?」
彼女の髪を撫でながら、俺は優しく言う。
「ああ、おやすみ」
彼女は笑いながら、そっと目蓋を閉じた。
♦
森の木々はすっかり丸裸になっていた。地面に敷き詰められた枯れ葉を踏みながら、セツナは森を進んでいく。時折地図を広げて、自分のいる位置を確認する。あの場所は既にマッピングされていた。発見当初は秘境として多くのプレイヤーが訪れたようだが、主街区から離れている事と、《フラワーガーデン》と呼ばれる第47層が解放されてから殆どプレイヤーは寄り付かなくなったらしい。
3日前、エギルの店を出てすぐセツナはアルゴにメッセージを送った。返信はすぐに届いた。
『果たし状を置いた奴の目撃情報はなイ』
メッセージには短くそう書かれていた。ヒースクリフにも果たし状についてのメッセージを送った。返信が届いたのは、その日の夕方になってからだった。
『指定された日はボス攻略へ挑む。君は貴重な戦力だ。その果たし状の真偽を確かめに行く事は許可できない』
当然の返答だろう。普段は参加しないエギルでさえも駆り出される戦いなのだ。何でもボスの間は一度入ったら出られず、最悪な事に結晶無効エリアらしい。だからといって、確かめずにはいられなかった。
セツナは新聞の発行元のプレイヤーを情報屋と偽って訪ねた。現実では新聞記者だったというその中年男性は、はじまりの街で見つかった果たし状を所持していた。彼はそれをセツナに見せてくれた。
直にそれを目にした時、セツナは差出人があの男であると悟った。殆ど直感的だが、根拠はある。果たし状の紙には大きな染みが付いていた。その染みは、セツナの目に焼き付いたケロイドの形とよく似ていた。
奴は生きていた。
どこかで息を潜め、セツナと会うことを望んだ。
願ったり叶ったりだ。向こうから会ってくれるというのなら、会ってやろうじゃないか。
そして殺す。
主街区に転移してきた頃に、ヒースクリフからボス攻略の集合場所と時間を指定するメッセージが届いた。でも、セツナはそれを無視した。集合時間をとうに過ぎてもメッセージが来ないあたり、ヒースクリフは理解してくれたらしい。諦めの方なのかもしれないが。
いくら強敵でも、あの最強の聖騎士がいれば勝てるだろう。それに、多分キリトとアスナの夫婦も参加する。ユニークスキル使いが2人もいるのだ。これで勝てなければゲームクリアなどできまい。
木々を縫うように歩きながら、セツナは水を飲んだ。水が喉を伝っていくのが分かる。でも、喉の渇きは消えない。我慢できず、ストレージにある飲み物を手あたり次第にオブジェクト化して飲み干していく。
樹の影からモンスターが出現した。森に棲む蛇型モンスター《
蛇の頭を落とし、再び歩き出す。背後で聞き慣れた破砕音が聞こえて、視界に獲得した経験値とコル、ドロップアイテムが表示された。
その後も何度かモンスターとエンカウントしたが、全てノーダメージで乗り越えた。前に来た時はモンスターも強敵だったが、今となっては雑魚だ。
歩く毎に、喉の渇きが強くなってくる。とにかく血の味を感じたいという衝動を抑えつけるために、セツナはナミエの顔を思い浮かべる。
ナミエの赤褐色に輝く髪、琥珀色の瞳、細い手足、月光を反射する白い肌。
そして、彼女の奏でるバイオリンの音。
これからの戦いは、ただ喉を潤すという欲求を満たすために臨んではいけない。
ナミエの無念を晴らすために、これから奴を殺さなければならない。
奴をどうやって殺してやろうか。
麻痺毒で動けなくして、ナミエにしたのと同じように背中に剣を突き刺してやろうか。
それとも、セツナにしたのと同じように1ヶ月間拷問してやろうか。
木々の間から漏れる光が見えた。「約束の場所」は近い。
セツナはマップウィンドウを呼び出す。マップには1人の反応しか映っていない。ゆっくりと1歩1歩を踏みしめながら、森を突き進む。
そして、森が終わった。
あの時と同じく、唐突に。
季節は秋だというのに、そこは変わらず花が咲き乱れていた。あの時と同じように、色とりどりの花弁が外周から空へと舞っていく。
中央に1本だけ生えた樹の前に、奴は立っていた。
ぼろきれのようなポンチョ、金属製の手甲。あの襲撃時に見た、《
その顔もまた、ごくありふれた顔だった。短く刈られた黒髪、程よく日焼けした健康的な肌。鋭角的な顔立ちに浮かぶ笑み。
よく見る顔だが、ひとつだけ強烈な個性がある。右頬の盛り上がった皮膚。色が濃く、まるで粘土をこねて貼り付けたようなケロイドの傷跡。
「やあ、死神くん。いや、セツナ君と呼んだ方がいいかな?」
彼は友人とでも会うようにセツナを歓迎する。黙って睨むセツナを見て、彼は肩をすくめた。
「僕の名前はゾディアーク。君なら来てくれると思っていたよ」
ゾディアーク。
その名前を聞いて浮かんだのは、実際に起こった事件を基に制作された「ゾディアック」だった。
「俺が死神と知った上で呼び出したのか」
「勿論さ。ギルドの拠点が襲撃された時、僕にはすぐに分かった。あの時の子だとね。嬉しかったよ。あんなに弱かった子が強くなって」
「ならなぜ逃げ出した。あの場で戦っても良かっただろう」
「どさくさに紛れて君を殺したって、つまらないだけさ。それに僕はまだまだ強くなる。鍛えて、君と渡り合うだけの実力を身に着けてから1体1で戦いたかった」
話せば話す程、この男の考えている事が分からない。
「あんたは殺人鬼なのか。それとも、
風に吹かれた花弁が、ゾディアークの周囲に舞った。花に包まれながら、彼は答える。
「どちらかというと、後者かな。この世界で殺しは、その手段に過ぎなかった」
ゾディアークは天井を仰ぐ。自分達を閉じ込める世界の蓋を。
「僕がなぜ、こんなにも戦いを求めているのかは分からない。僕は普通の家庭で生まれ育った。温かい両親に育てられ、温かい食事と寝床が用意された生活を送っていた。でもね、僕は他人を傷付けたいという衝動を抑えられなかった。それでも僕は善良だったと思うよ。両親が心配しないよう、慎重に傷付ける相手と場所を選んでいたし、自分の衝動を発揮できるよう格闘家の道を選んだ」
彼は右頬の傷跡をさする。
「この傷は、格闘家だった頃に対戦相手に付けられた傷だ。僕にとっては名誉の負傷だよ」
彼はため息をついた。落胆の感情が分かりやすく、眉を潜め、口角を下げて。
「なのに、業界は僕を追放した。戦いとは命のやり取りだ。観客はそれを楽しみにしているはずなのに、誰もがやりすぎだと責め立てたよ。対戦相手を下半身不随にさせたくらいで。死ななかっただけでも僕は優しいくらいなのにね」
セツナの脳裏に浮かんだのは、あの小説だった。人間には虐殺のプログラムが存在していると説き、それを文法によって呼び覚ます物語。
「人間に組み込まれた虐殺の本能が、あんたにはあるというのか。人類がまだ食糧生産をコントロールできなかった時代の古い機能を」
セツナがそう言うと、彼は嬉しそうに目を見開く。
「おお、『虐殺器官』か。あの作品は僕も大好きだよ。映画も観た。あの本で、僕は自分の性が正しいと証明された気がした。伊藤計劃が既に亡くなっていたと知った時は落胆したよ。人類は本当に惜しい人を失った」
そうだと、セツナは思い出す。あの小説のタイトルは「虐殺器官」だ。生々しい描写は当時中学に入ったばかりのセツナにとって刺激的だったが、その内容に惹かれてページを進めていた。
「SAOなら、僕の性を存分に解放できると思った。結果デスゲームにはなったけど、僕はそれがむしろ嬉しかったよ。死ぬ気になれば、人はどんどん強くなる。僕を楽しませてくれる人が増えるからね」
セツナは思い出した。デスゲームになった日、絶望する他のプレイヤー達を尻目にこの世界を受け入れた事を。
吐き気がする。同じ日、この男と似た感情を抱いていたなんて。
「でもすぐに失望したよ。この世界ではレベルが上がるだけで簡単に強くなってしまう。攻略組にデュエルを申し込んだ事もあったけど、誰も完全決着モードで相手してくれなかった。だから僕は思ったんだよ。相手に僕と戦いたいと思わせればいいって」
「そのために、ナミエを殺して俺を生かしたのか」
「君だけじゃないよ。カップルのプレイヤーは片方だけ殺して、生かしたもう片方は拷問した。君と同じようにね。それくらいして僕に殺意を抱かせないと、楽しめないよ」
「あんたの自分勝手な娯楽のために、何人殺したのか覚えているのか」
「自分勝手なのは君も同じじゃないか。僕を恨んでいるなら僕1人を殺せばいい。なのに君は死神としてたくさん殺してきた。それは、君の自分勝手なエゴじゃないかな?」
ゾディアークの言葉は的を射ている。認めてしまうのは癪だが、肯定すべきだ。セツナ自身、それを認めていたのだから。
「ああ、そうだな。俺にあんたを責める資格はない」
「いやいや責めてよ。君が僕を恨んでくれないと楽しめないんだからさ。僕は今日を楽しみにしてたんだよ。大体の人が泣き寝入りするか自殺するかだったのに、君は強くなったじゃないか。それは誇るべきだよ」
「望んで得た力じゃない。それに、あんたは俺を恨んでいないのか。ギルドを襲った俺を」
「ラフコフは新しい拷問を学ぶために入れてもらっただけさ。君達を襲った時の僕は小さなギルドのリーダーだったんだよ」
ゾディアークは深呼吸する。この世界を思う存分味わうように、口からゆっくりと息を吐き出した。
「この世界に来て良かった。君と出会えたんだから。彼女を殺した意味は確かにあったよ」
セツナは爽やかに笑うゾディアークへの怒りを見つけ出す。頭に血が上っているのが分かる。現実では、きっと血圧上昇で機械が警告を鳴らしているだろう。喉の渇きが臨界点を越えた。
「そうか……」
乾いた声と共に、セツナはホルダーから、ハーディスクラウンを鞘ごと引き抜く。鞘の先端に付いた刃を地面に突き刺す。
「なら楽しませてやる………。そしてあんたを殺してやる」
突き立てた鞘から抜いた刀身が、セツナの顔を映した。鬼、悪魔。それらの言葉が最も似合う形相の自分が、そこに映る。
右手で剣を抜き、左手で鞘を地面から抜く。
ゾディアークは「いいねえ!」と言って戯笑する。頬のケロイドが歪んでいる。彼は腰に提げたナタを抜いた。銀色の刀身が鋭く光る。
「君は最高だ! さあ楽しもう、ショータイムだ‼」
セツナは憎悪を。
ゾディアークは愉悦を。
それぞれの感情を剥き出し、両者は互いを目掛けて走り出した。
♦
キリトは剣と盾を携えた聖騎士を見据える。
「他人のやってるRPGを傍から眺めるほど詰まらないことはない」
紅衣の聖騎士は無表情のまま、キリトに視線を向けている。その続きの言葉を待っているかのように。
そしてキリトは告げる。
「……そうだろう、茅場昌彦」
前編 完
前書きにも書いた通り、今回で前編は終了となります。
これからの作品の方向性について、詳しくは活動報告に書いてありますので、そちらをご覧ください。