ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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第14話 渇きには水を

 暗いどこかの層の迷宮区。床と壁と天井が、俺の悲鳴を反響させていた。

 あの花畑でナミエが消えてからの記憶は無く、俺はいつの間にかそこに運ばれていた。どれくらいの間、俺はその迷宮区にいたのか分からなかった。

 麻痺毒で動けず、手足を拘束用ロープで縛られ、完全に自由を奪われた様をカーソルがオレンジの奴らは嘲笑った。

 目を刺され、耳を削がれ、鼻を削がれ、手足を斬り落とされ、胸と腹に数十本もの杭を打たれ、その度に恐怖が全身を貫き絶叫した。叫ぶ度に「黙ってろ」と、頬と腹を殴られた。

 痛みが無いのが、むしろ恐怖を煽った。自分の膝から下を斬られても血が流れず、しばらくすると生えてくる様子を見て、俺は自分が人間ではないという錯覚に陥った。

 殺してと何度も叫び、そのせいかシステムなのか喉がからからに渇き、空腹に襲われた。

 それでも俺は死ねなかった。奴らは痛めつける方法を熟知しているようだった。頭部や左胸といったウィークポイントは下手に攻撃するとHPが一気に減る。そうならないよう、奴らは胸を刺す時は浅く、顔は表面だけを削ぐよう手加減していた。ゆっくり、ずぶずぶと俺の左目に投擲用ピックを刺す奴の頬にあるケロイドを、残された右目で見ていた。

 連中は俺のHPが尽きそうになると無理矢理ポーションを飲ませて回復させ、失った手足と顔のパーツが再生すると拷問を再開した。

 俺はそのうち考えることを放棄した。このまま命が尽きるのを静かに待つことにした。そうすることができればどれほど楽で安らかなことだろう。生きたまま肉体を離れようとする魂を引き戻するように、奴らは再生した俺の目に笑いながらピックを刺した。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。

 そんな問いが俺の中で浮遊し、恐怖で絶叫する度にかき消され、時間が経つと再び浮上した。

 もとは、このSAOの世界に来てしまったから。

 俺がナミエを連れて、この世界に来たから。

 そしてナミエは死んでしまった。

 すぐナミエのもとへ逝きたい。

 でも逝かせてくれない。

 どうして?

 何が間違ってしまったんだ?

 ナミエの母親から言われた事に従っていれば、こうはならなかったのか?

 俺のせいなのか?

 全部、俺が悪いのか?

 

 俺の意識は無になった。

 俺を傷付ける連中の顔も、声も分からなくなった。

 何色もの絵の具を何重にも塗り潰した汚泥のような闇が、俺の意識を沈めていった。

 暗闇の中でふわりと一瞬だけ聞こえたのは、ナミエが奏でるバイオリンの音だった。

 

 違う。

 俺はただ、好きな女の子と一緒にいたかっただけだ。

 彼女と話して、彼女の音を聴いて、彼女の笑顔を見たかっただけだ。

 どうしてナミエが死ななければならない。

 どうして俺がこんな目に遭わなければならない。

 どうして俺を傷付けているこいつらが、笑っているのを見なければならない。

 俺は悪くない。

 俺は何も間違っていない。

 間違っているのは―

「コノセカイダ‼」

 そう叫んだ俺は、何かが砕ける音を聞いた。それは俺を縛りつけていたロープの耐久値が尽きて消滅する音だった。でも俺は、その音が自分の中で壊れてはいけない何かが壊れた音のように感じた。

 それは、理性の結晶というべきものだったのかもしれない。正気と狂気の境を彷徨って叩きのめされたそれが、とうとう砕け散った。

 俺は腕に力を込め、俺の腕を斬ろうとしたオレンジの顔面に拳を打ちつけた。奴が身をよじらせた隙に、剣を装備しその片腕を斬り落とす。奴が俺と似たような叫び声をあげた。俺は残りの手足を斬りおとし、耳と鼻を削ぎ、腹と胸に何度も剣を刺した。

 奴の腕が再生しようとすれば、その部分を再び斬りおとし、片方の目に時間をかけてゆっくりと剣を潜らせた。

 奴は開いたもう片方の目で泣いた。許してくれと懇願した。俺は目に刺した剣を抜き奴に静かに言い放った。

「死ねよ、お前」

 その言葉で絶望と恐怖に満ちた奴の顔を、剣で消滅させた。

 その場にいた全員を殺して迷宮区を出た時、視界に表示された日付を見ると次の月になっていた。俺はあの暗い迷宮区に1ヶ月もいたらしい。

 俺が連中を殺した時、あのケロイドの男はいなかった。

 俺は何日もの間、あてもなく森を歩き続けた。長く叫んだせいか、ひどく喉が渇いていた。

 剣をずるずると引きずりながら歩き、何度かモンスターと戦った末に街へと辿り着いた。俺はまずNPCレストランで食事を摂り、水を大量に飲んだ。どれだけ飲んでも喉の渇きが消えることはなかった。10杯目を飲み干したところで諦めて店を出た。

 俺は道具屋に寄ることもなく、再びフィールドに出た。何も考えていなかった。頭蓋骨の中から脳が取り除かれたみたいに頭が軽かった。ただ「喉が渇いた」という生理的欲求が俺の思考を支配した。

 森の中を彷徨っていた時、俺はプレイヤー同士が戦っているのを見た。1人のプレイヤーが2人を相手に剣を振り回していた。そこの層に潜伏していたオレンジプレイヤーが、アイテムと金を持った獲物を見つけて襲いかかったのだろう。

 レベルが互角であるなら、分は2人の方にある。案の定、1人で勇敢に戦ったプレイヤーは敗れ、色彩を失ったアバターが砕け散った。

 うっかり殺しちまったと片方はバツが悪そうに言った。その様子を見ていた俺は剣を抜き、2人のもとへ走った。

 殺されたプレイヤーが知り合いだったというわけじゃなかった。ただ俺の中で、血が沸騰しそうなほど熱い衝動が沸き上がった。俺はそれに従い、ポリゴンの肉体を動かした。

 不意打ちに驚いているプレイヤーの片方の腹を裂き、更にライトエフェクトを帯びた剣をシステムアシストのままに胸へと突き刺し、そのHPを0にした。

 生き残ったもう片方は仲間の死に一瞬うろたえたが、すぐに我に返り俺の腹を大振りの大剣で貫いた。俺のHPが半分を切り、更にそのバーは間隔を短くしていった。

 俺は迫って来る死に恐怖することなく、冷静に剣を構え、光る刀身を相手の顔面に叩きつけた。

 ポリゴンが静止し、砕けた。その瞬間、俺の口の中に鉄臭い味が広がった。それは現実で読書をしていた時、うっかり紙で切った指を舐めた時の味。

 血の味だった。

 それが俺の渇いた喉を潤し、食道を伝っていった。

 血の味は何日もの間、俺の口の中に残った。初めは不快に思っていたが、それが消えると再び喉の渇きに襲われた。

 俺は他の層へ行き、山賊まがいの強盗を働いているプレイヤーの噂を聞きつけてはその場所へ赴き、そいつを殺して口を血の味で満たした。

 俺は復讐することにした。

 ナミエを殺したケロイドの男に。奴以外にも人を殺すオレンジプレイヤー達に。

 その憎悪が、空っぽだった俺を満たした。

 俺は家を売った。苦労して揃えた少ない家具も全て。値打ちが無いものは捨てた。でもナミエのバイオリンと、写真屋を営むプレイヤーに撮ってもらった写真は捨てる事ができなかった。

 俺は工面した金で装備を整えた。難易度の高いクエストに挑んで素材を手に入れて、職人プレイヤーに武器と防具を作らせた。

 宿を転々として、1時間だけ眠って昼夜問わずレベル上げに時間を費やした。連中を根絶やしにするために、俺は力を渇望した。

 そうして賊狩りを続けているうちにヒースクリフと出会ったのは、第13層の迷宮区だった。そこを拠点にしていたオレンジギルドを潰した直後だった。

 俺は奴もオレンジギルドの一員と勘違いして殺そうとした。でも、俺はあっけなく負けた。HPがレッドゾーンにまで減らされた俺に、彼はいつでも止めを刺せると俺の眼前に剣先を静止させていた。

「君には2つの選択肢がある。ひとつはこのまま私にPKされる選択」

「………もうひとつは」

「もうひとつは、私のギルドに入る選択だ」

「2つめを選んで、俺に何の得がある」

 彼は剣を収めて、指でウィンドウを操作し始めた。俺は攻撃しようと思わなかった。俺の攻撃は全て防がれた事で、彼との絶対的な力の差を思い知らされていた。

 彼はひとつのアイテムをオブジェクト化させて、俺に差し出してきた。右手だけの肘まである長い真紅のグローブだった。グローブや手甲系の防具は必ず左右セットで手に入るはずなのに。

「ギルドに入れば、これを君に授けよう。説明を見たまえ」

 俺は言われた通り、グローブをクリックして、表示された説明を読んだ。アイテム名は《魂を噛む者(ソウルバイカー)》。

【このアイテムを装備した状態でPKすると、PK対象の総経験値の内10%を自らの経験値として獲得できる】

「それがあれば、君はオレンジプレイヤーをPKする度にレベルを上げる事ができる。他にも、私が持っているオレンジプレイヤーの情報を君に提供しよう。どうだね、君にとっても悪い話ではないはずだ。代わりとして、必要な時には君にも我がギルドの一員として攻略に参加してもらう」

「……なぜ俺にそこまでする。あんたの目的は何だ」

「私は、ギルドの仲間を魔の手から守りたいのだよ。それに、君の力は攻略でも存分に発揮できる」

「拒否したら」

「この場で君を殺す」

 彼は迷いなく、その真鍮色の瞳を向けて言い放った。

「君がいくらオレンジプレイヤーを殺そうとも、危険な存在である事は彼等と変わりない」

 俺がなぜ賊狩りをするのか、その理由を彼は聞かなかった。彼にとって、俺の復讐はどうでもいいのかもしれない。俺も、彼のギルドに対する思い入れなんてどうでもよかった。

 ただ利害が一致する。この男につけば、オレンジプレイヤーを見つけやすくなる。

 俺は、彼の手の中にあるグローブを受け取った。彼は笑っていた。でも、その瞳から感情は読み取れなかった。

「血盟騎士団へようこそ」

 そうして俺は、血盟騎士団に入った。形式だけの入団テストを経て、ヒースクリフの命令に従ってあらゆる層を渡り歩き、オレンジプレイヤーを殺してきた。

 殺す度に、俺の口には血の味が現れた。消えると喉の渇きに耐えられなくなって、また殺した。

 時々、俺は自分が何のために犯罪者狩りをしているのか分からなくなってくる。

 ナミエのためなのか。

 喉の渇きを血の味で消すためなのか。

 そんな疑問も、口の中を血の味で満たす度に消えていった。分かっている。俺も、俺が殺している連中と同類だ。自分の苦痛を消すために罪を重ねている。

 多分、全てのオレンジプレイヤーが死んだ時、最後のオレンジプレイヤーとして俺はヒースクリフに始末されるだろう。

 彼は俺を知らないと装いながら捕えて、ギルドの参謀職達に突き出して、然るべき裁きとして俺を殺す。

 俺はそれで構わない。あのケロイドの男を殺して、オレンジプレイヤー達を根絶やしにすれば、この世界は楽園になる。楽園になった世界で死ねるなら本望だ。

 神は死んだと、19世紀の時点でニーチェは言っていた。

 死んで結構だ。全人類の罪を神が背負って赦すなんてごめんだ。

 ナミエを殺したのは奴の罪。俺の罪は俺の罪。

 それを無責任に「赦します」なんて神が言ったら、俺は神を殺す。

 

 ♦

 

「これが理由だ」

 最後にそう言って、セツナは自分の物語を締め括った。テーブルを挟んで聞いていたアスナは、途中からずっと泣いていた。

 自分の口から語られる物語を自分の耳に入れて、セツナは漠然としていたものが実体を得たような気がした。そしてセツナは確信へと至る。

 自分はナミエを愛していると。

 死んでしまっても。変わらず、彼女と一緒にいた時のように、一編の迷いも狂いもなく。

 セツナは左手のグローブを外した。薬指にはめられた銀色の指輪が、部屋の照明に反射して輝いた。ずっとグローブを外していなかったから、久々の輝きだ。

「それは………」

 涙を拭いたアスナが、指輪に視線を向けた。

「ナミエとの結婚指輪だ。店で一番安かったものだが、どうしても記念が欲しかった」

 銀色に光る指輪を見て、セツナは自分の中で何も変化が起こっていない事に安心する。良かった。俺はまだナミエを愛していると。彼女の声と笑顔。そして彼女が奏でる音を求めている。

「ナミエさんは、復讐を望んでいると思うの?」

「さあな。彼女が何を望んでいたのか、本当に現実に戻りたがっていたのか、俺にも分からない」

「じゃあ、どうして……?」

「俺がナミエを愛していると、証明するためだ」

「そのためにたくさん殺して、最後には自分も殺されていいなんて……。本当にそれでいいの?」

「俺の命なんて軽い」

「軽くない‼」

 アスナは立ち上がり、テーブルに沿って歩いた。セツナの前で止まると、両手でセツナの顔を包み込む。決して彼が顔を逸らさないように。

「リズから聞いたわ。モンスターに飲み込まれたリズを助けてくれたって。この前だって、ビーストテイマーの女の子があなたにお礼を言いたいって本部に来た。あなたには、人の命を大切にする心があるじゃない。あなたが死んだら、あの子達は悲しむ。それこそわたしの罪よ」

「リズベットは俺の剣を作ってもらうために、シリカは任務だから死なせなかっただけだ」

「それでも、あなたに生きて欲しいって願う人もいるのよ。わたしだって、あなたには生きて欲しい。あなたには幸せになって欲しい」

 アスナの目尻に再び涙が浮かんだ。彼女はそれを落とすまいと、口を真一文字に結んだ。だが、涙は零れて頬を伝った。セツナはそれを指で掬い取る。はじまりの街でナミエと再会した時、彼女の涙を掬ったように。

「あんたには辛い話を聞かせてしまった。そのせいで、あんたに余計な重荷を背負わせる事になったな。済まない」

「謝らないで……。あなたに…、これ以上罪を背負ってほしくない」

 彼女の涙は止まる気配が無かった。泣きじゃくったせいで、感情表現システムに従って目元と鼻が赤く腫れている。セツナのために彼女は泣いている。セツナの悲しみが、まるで自分のものであるかのように。

「もう十分すぎるほど背負った。俺の罪は、もう償い切れるものじゃない。だからといって、あんたに赦せるものでもない。だから泣かないでくれ。この罪は俺1人に背負わせてくれ」

 彼女の目、鼻、口、栗色の髪。それらがセツナにひとつの答えを導き出した。ナミエを愛しているという確信の他にある、もうひとつの確信だった。

「ずっと、あんたの事が気になって仕方なかった。その理由が今分かった」

「………何?」

「あんたはナミエに似ている。笑った顔が」

 顔立ちが似ているというわけでは無い。目を細めて、控え目に口角を上げる彼女の笑顔。その笑い方がナミエに似ていた。セツナが思い出す度に罪悪感で潰れそうになる、運命の女(ファム・ファタール)生き生きした女(ファム・ヴィタール)が共存した笑顔だった。

「俺にはあんたに要求する資格は無いが、幸せになってくれ。この世界で死んだ者の分まで」

 セツナは両頬にあるアスナの手を退けて、立ち上がった。右手にグローブをはめて、そのまま泣いているアスナの横を通り過ぎて、ドアへと向かう。

 ドアノブに手を掛けようとした時、アスナが目の前に立ち塞がった。もう涙は流れていなかった。アスナは壁に触れて操作メニューを出し、部屋の照明を全て消した。

「何のつも―」

 セツナが最後まで言い切る前に、胸目掛けて閃光が暗闇に迸った。索敵スキル補正によって視界が暗視モードに切り替わる前で、それがアスナの拳である事に気付かなかった。

 圏内であるため紫色の障壁に阻まれたが、アスナのパラメータが高すぎる故にセツナの体はノックバックで部屋の反対側へと大きく吹き飛び、窓に激突した。

 セツナは顔を上げる。大音響だったが、部屋の中は綺麗に整頓されたままだった。ソファやテーブルや棚の花瓶も、ぶつかった際にシステムの障壁に守られていた。

 ひたりと、裸足で歩くアスナが見える。暗闇の中で、彼女の肌は窓から入り込む街灯の僅かな光を反射して白く輝いていた。彼女はいつの間にか服を脱いでいた。下着の色が肌に同化しそうな純白だったため、一瞬全裸と思った。

 とても美しかった。すらりとした手足に滑らかな腰と胸の曲線。その完璧な美しさは非人間的でもある。現実ではなく3Dオブジェクトであるから、それは当たっているのかもしれない。「未来のイヴ」のハダリーは、きっとこんな美しさだったに違いない。

「お願い……。わたしを好きにしていいから、もう止めて………」

 アスナはセツナに抱き付いた。彼女の柔らかい感触が伝わってくる。アスナはセツナの首に手を回し、その桜色の唇をセツナの唇に近付けていく。

 触れ合う寸前に、セツナはアスナの唇に人差し指を押し当てた。空いたもう片方の手で彼女の肩を掴み退ける。

「……ナミエを裏切る事はできない」

 セツナは立ち上がり、歩き出す。

「待って!」

 追ってくるアスナに、セツナは黄色いライトエフェクトを纏った裏拳を見舞った。彼女の前に現れた半透明の障壁に火花が散り、ノックバックで体が仰け反る。

「俺が出たら、ロックを掛けておけ」

 それだけ言って、セツナはドアの奥へと消えていった。

 ドアを閉める際、床に崩れ落ちるアスナの目元から、光を反射した涙が落ちていった。

 

 ♦

「驚いたよ。まさか何も言わないとはね」

 ヒースクリフはそう言いながら苦笑した。朝一番に行われたギルドの定例会議は、いつも通り滞りなく進められた。

 攻略する迷宮区に出現するモンスターの動作パターンとその弱点。ダンジョンに設けられた安全地帯の位置と結晶無効エリアの部屋。それらの情報を団員達に伝え、会議は終わった。

 白と赤に統一された装備を身に纏った団員達はいつも通り、攻略へと向かった。結局、アスナはセツナの事を伝えなかった。当然、会議の場にセツナはいなかった。

 会議が終わった後、アスナはヒースクリフとの打ち合わせと適当に理由を付けて、彼と共に会議室に残った。

「……彼から聞きました。団長が彼をギルドに入れたそうですね」

「ああ、そうだ。確か1年近く前だった。彼を見つけたのは」

「……彼を止めようとは、思わなかったんですか?」

「私も、できる事なら止めたかった。だが、PK以外に彼を止める方法は無い。だからせめて、彼が必要以上に殺人を犯さないよう、私の監視下に置くしかなかった」

「それで………、彼は救われるんですか?」

 ヒースクリフは少しだけ俯く。彼なりに罪の意識を持っているかのように。

「いや、救う事はできないだろう」

「なら―」

「君は勘違いをしている」

 アスナの言葉をヒースクリフは遮る。アスナは彼の目に逡巡し、続きの言葉を紡ぐことができなかった。

「当の彼は救われる事を望んではいない。君は正しいが、それは無責任な同情だ」

 ヒースクリフは真顔だった。開き直りとは違う。無機質な印象だが覚悟を秘めた瞳。ゲームクリアを果たすと決意したギルドの仲間達と同じものを瞳に宿していた。

「私は彼と出会った時、剣を交えた。私にとっては取るに足らなかったが、その執念には私も怖気づいたよ。彼のオレンジプレイヤーに対する憎しみは尋常ではない。たとえギルドから除名したとしても、彼は犯罪者狩りを続けるだろう。彼に何が起こったのかは聞いていないが、彼が奪われた者であることは分かる」

 セツナ自身の口から聞いた、彼の過去。アスナはヒースクリフよりも、彼の抱えているものを鮮明に感じ取る事ができる。

 昨晩、セツナが出ていった後アスナはずっと泣いていた。

 懺悔の涙だった。理由を聞けば、彼に何かしてあげられるかもしれない。彼を救えるかもしれない。そう思い上がった自分の傲慢さを恥じた。

 途中から物語を淡々と話すセツナを見るに堪えず目を閉じた。それでもセツナの口から語られた彼の慟哭と罪の話は、アスナの目蓋の無い耳に否応なく入り込んできた。

 アスナは想像してみる。もしアスナが大切に思っている者が、目の前で命を奪われたら。

 想像したくもない。きっとアスナは耐えられない。セツナのように復讐に身を委ねる気力も失い、心が内側から腐っていくのを虚しく眺めていることだろう。

「誰も彼を救う事はできない。君にも、勿論私にもだ」

 ヒースクリフの言葉に、アスナは反論する事ができなかった。

 本部の扉を潜る時、門番が敬礼するのに気付かないまま、アスナはグランザムの街へと歩いた。ヒースクリフから「今日はゆっくりと休んだ方が良い」と、休暇を与えられた。

 迷宮区の攻略に参加した方がましだった。モンスターと戦っている間だけは、何もかも忘れられる。

 アスナは無意識のうちに、リンダースのリズベット武具店に足を運んでいた。昨日剣の手入れをしてもらったばかりだったが、丁度良いかもしれない。親友と他愛もない話に華を咲かせていれば、気分も晴れるかもしれない。

 工房に入ると、リズベットはアスナの来訪に驚いた。アスナは精一杯、いつも通りの笑顔を取り繕った。

「どうしたのアスナ。剣は昨日研磨したばかりじゃない」

「ごめんね。今日はオフだから、ちょっと顔出そうかなと思って。仕事の邪魔はしないから、いさせてくれないかな?」

 リズベットは不安そうにアスナを見つめたが、すぐに笑顔で「いいわよ」と言ってくれた。気を遣わせてしまって申し訳ないと思う。

 真剣な顔でハンマーを振るリズベットと、彼女のハンマーに叩かれている真っ赤に焼けた金属を見つめる。

 あの金属に意思があったら、何を思うのだろうかと思った。

 炉で真っ赤になるまで焼かれて、何度も叩かれ、打ちのめされて。

 あれが剣や斧に変わる時、金属は散々叩かれた憎しみで鋭利な形へと変わるのだろうか。

 勿論、リズベットは悪意を持って金属を叩いているんじゃない。アスナの親友は、ただ良い武器を作りたい。その純粋な願いだけでハンマーを振っている。アスナの《ランベントライト》も、彼女の願いで生まれたはずだ。

 あの金属になりたいと、アスナは思った。

 何の悪意もなく叩かれて、ぺしゃんこになるまで打ちのめされたかった。

 そうすれば、闇の中へと消えていった彼の背中を追う資格を得るような気がした。

 ふと、アスナは視界の隅でメッセージアイコンが点滅している事に気付いた。ギルドメンバーからの連絡だろうか。そう思い、何気なくアイコンをタッチしてメッセージを開いた。

「っ!」

 アスナは垂れた目蓋を剥いた。宛先はセツナだった。メッセージの文面は短く一瞬で内容を理解できる程度だったが、その一瞬が永遠と思えるほどに長く感じた。

『昨日食わせてくれたステーキは美味かった。次は、あんたの大切な奴に食わせてやってほしい』

 アスナはギルドメンバーリストを表示した。最後までスクロールしても、探している名前は無かった。

 体中から力が抜けていく。工房の床に両手をついた。暑い時期なのに、床は冷たかった。冷たい床に、温かい雫が何滴も落ちていく。

「アスナ!」

 異変に気付いたリズベットが、ハンマーを放ってアスナに寄り添った。

「どうしたの、大丈夫?」

「…………さい」

「え?」

「ごめんなさい………」

 リズベットの声は聞こえなかった。声どころか、隣にいる彼女の顔もまともに見えず、視界が涙で霞んでいった。

 このまま全てが霞んで消えてほしかった。

 この気持ちも自分の存在も、仮想であってほしいと思った。

 自分の人生を呪いたくなったのは、デスゲームが始まって宿に籠っていた頃以来だった。

 アスナは無になりたかった。

 体も、心も。何もかも消してしまいたかった。

 そうすれば何も感じなくて済む。

 こうして涙を流さずに済む。

 ヒースクリフの言う通り、誰も彼を救う事はできない。

 彼自身も、自分を救う事ができない。

 彼の戦いを止める事は、彼を二度と這い上がる事のできない奈落の底へと突き落とす行為だと、アスナは気付いた。

 傲慢だった。改めて思う。

 血盟騎士団の副団長になったから。

 《閃光》なんて呼ばれるようになったから。

 強さに加えて容姿で注目されるようになったから。

 この世界で、ハイレベルプレイヤーに名を連ねる自分なら何もできない事は無いと思い上がった。

 この気持ちは罰だ。

 彼のメッセージにある優しさを感じさせる言葉が、アスナに罰を与えた。

「ごめんなさい………。ごめんなさい………。ごめんなさい………」

 アスナは涙を流しながら懺悔した。

 いくら涙が流れても、アスナの中にある罪の意識は流れなかった。




 自分で書いておいて何ですが、今回アスナ泣いてばっかだな。
 はいというわけで、セツナの回想が一通り終わった所で、前編はクライマックスに入ります。
 遅いって? はい自覚してますごめんなさい。

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