ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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 セツナの回想は2話程度で終わらせるつもりだったのですが、なんやかんやで長引いてしまいました。
 この一連の回想で、皆様のセツナに対する印象が少しでも変わればいいなと思っております。


第13話 誓いには口づけを

「これは、ゲームであっても遊びではない」

 

 クラスメートから読ませてもらったゲーム雑誌のインタビュー記事で、このSAOの開発ディレクターがそう言っていた。

 

 茅場昌彦(かやばあきひこ)によるSAOの「本当のチュートリアル」が終わった後、俺はナミエを連れて街の中央広場の群衆から抜け出した。

 はじまりの街に集められた約1万人のプレイヤー達はひどい有様だった。阿鼻叫喚とは正にこの事で、広場は悲憤に包まれていた。彼等の悲鳴や絶叫は街のBGMをかき消した。パニック状態の彼等が何をしでかすが分かったものじゃなかったから、俺は一刻も早くナミエをあの場から引き離さなければと思った。

 あの赤いローブを着たゲームマスターから与えられた《手鏡》で、美男美女の勢揃いだったプレイヤー全員が現実と同じ容姿に変えられた。ゲームの中で性別を偽っていた者もいたらしく、痩身の骨ばった顔の男がスカートを履いているのを見て、不謹慎なことに笑いそうになった。しかも1人や2人だけではなかったらしい。プレイヤーの男女比は大きく偏っていた。女も小学生くらいの子供もいたが、大半が中学生以上の男だった。

 現実に似せてアバターを作った俺達も例に漏れなかった。広場から放射状に伸びる路地の1本を途中まで走ったところで、俺は持ったままの《手鏡》を覗き込む。

 自撮りした写真を元に作った顔よりも、現実の俺が精巧に作り込まれていた。やや面長で実年齢よりも上に見られる顔立ちも、整えてもあちこちにはねる癖毛の髪も。上積みした身長も現実と同じになったようで、少し目線が下がっている。

 ナミエの顔もだった。低めの鼻に細い眉。伏し目がちな大きな瞳をした顔立ちは、真広波絵(まひろなみえ)を忠実に再現していた。

「セツナ……」

 俺は彼女の口から出るであろう罵詈雑言を受け入れるつもりだった。当然だ。この世界に誘ったのは俺なのだから。

 自発的なログアウトは不可能。

 ゲームで死ねば現実でも死ぬ。

 「でたらめ」だと多くの者が叫んだ茅場昌彦の言葉を、俺は信じることができた。彼が呼び出した無数のウィンドウ、現実世界での様子を映した窓には、既に213人の死亡を告げるマスコミの報道が表示されていた。

 原稿を読むアナウンサー。

 民家の前に停まる救急車。

 悲観に暮れる遺族達。

 犠牲者達の顔写真。

 その写真の中に、俺にゲーム雑誌を見せてくれたクラスメートの顔があったのだ。

 本当にでたらめなのかもしれない。家族がナーヴギアを外してくれれば、俺は現実へ戻り、両親と姉に迎えられるのかもしれない。

 でも、現時点でそれは起こっていない。現実では大騒ぎになり、プレイヤーを解放する手段が次々と挙げられているに違いないのに、誰も実行に移していない。

 恐らく、あのクラスメートは本当に死んだ。

 楽しみに胸を躍らせて被ったであろう、ナーヴギアに脳を焼かれて。

 あの世界には帰れない。

 もう家族にも、友達にも、部活の後輩達にも、監督にも会えない。

 ショックは勿論ある。今にも理性が飛びそうだ。多分、ナミエが俺に恨みの言葉を次々と吐き出せば、それが止めとなって一気に俺を絶望の淵へと突き落とす。

 でもナミエの口から出たのは、俺の予想とは大きく外れたものだった。

「帰らなくて、いいみたいだね」

「……え?」

「私達、ずっとここにいていいのよ。ずっと一緒にいられるの。願ったり叶ったりじゃない」

 俺には、ナミエが無理をしてそんな前向きな事を言っているようには見えなかった。彼女は泣き叫ぶべきこの状況を本気で喜んでいると、俺は彼女の笑顔から読み取った。

 そんなナミエを見て、俺も徐々に落ち着いていった。脈打つ心臓の音が小さくなっていくのを感じていた。この体に心臓は無いはずなのに。今の俺の左胸には確かに心臓があって、体中に血が流れて、体を動かしていると本気で思えた。

 そうだ、これは俺が願っていた事だ。

 波絵と日々を過ごし、心を通わせ、やがて結ばれる事が。

 現実にいたら、俺達は永遠に会えないまま、すれ違わないままそれぞれの人生を送っていただろう。

 それがどうだ。俺達の運命の歯車が嚙み合った。

 邪魔をする者は誰もいない。俺達はずっと一緒にいる事ができる。

 この世界は俺達が求めていた楽園なのだ。

「行こう」

 今度はナミエが俺の手を引いて走り出した。路地を抜け、門を潜ってフィールドの草原へ出た。

 さっきは天井から覗いていた夕陽が、今は地平に沈みかけていた。ナミエの長い髪を追いかける俺の視線に、オオカミのモンスターに光を帯びた剣撃を放つ少年が映った。少女にも見える。年は俺よりも下だろうか。

 俺達は、層全体が見渡せる丘の頂に立った。手を繋ぎ、肩を並べて。

現実(むこう)は良い事なんて無かった。学校でも家でも、周りは私に勝手に期待してきて、自分達の理想を押し付けて、そこに私の意思なんてこれっぽっちも無かった。セツナといる時だけ、私は私でいることができたの」

「……ナミエ、怖くないのか? ここで死んだら、現実でも死ぬんだぞ」

「現実だって、いつ死ぬか分からないじゃない。この世界も現実(むこう)も同じ。それに……」

 ナミエは俺の方を向いた。現実と同じになった彼女の琥珀色の瞳は、さっきよりも鮮やかになっていた。

「セツナがいてくれるもの」

 笑顔を向けてくれるナミエを、俺は抱きしめた。抵抗されたらハラスメント防止コードというものに抵触するらしいが、彼女は俺の背中に手を回し、受け入れてくれた。

 もう俺の中で、現実への未練は無かった。唐突に別れが訪れた両親、姉、学校の友人、一緒に全国大会に行ったチームメイト、全国大会へ連れていってくれた監督、慕ってくれた後輩。

 何も言わずに別れてしまった彼等には申し訳ないと思う。でも俺は全てを犠牲にしても、ナミエがいてくれればそれでいい。彼女が俺といる事を望んでくれたように。

 ナミエの柔らかな髪に顔を埋めながら、俺は誓った。

 必ず守る。

 この楽園で、俺達は生きていく。

 

 ♦

 

 デスゲームが始まってからしばらくの間、俺とナミエは宿屋に籠っていた。外は危険だったからだ。街には《アンチクリミナルコード》というものが機能していて、HPは減らず毒といったステータス異常も起こらないらしいが、俺が警戒していたのはモンスターではなくプレイヤーだった。

 彼等は完全に暴徒と化していた。喚き、泣き叫び、ゲーム世界を破壊すると剣や斧を街の石畳に叩き付けていた。建造物は破壊不能らしく、破壊されたのは彼等の武器の方だった。

 鎮圧する警察も軍隊もないパニックが治まるのに数日を要した。とは言っても、その後もプレイヤー達が絶望していた事に変わりは無かったのだが。現状を受け入れた彼等は、この世界から脱出するべく今後の方針を考え始めた。脱出する方法は勿論、このアインクラッドの100層全てを攻略し、最上層にいる最終ボスを倒す一択しかない。

 腕に自信のあるプレイヤーは攻略を進めるためにはじまりの街を出ていたが、大多数の者は街に留まった。世界初のフルダイブを実現させたSAO、それの1万本限定の初回入荷ソフトを入手した彼等はコアなゲーマーなのだが、だからといって皆が戦闘に秀でているというわけではなく、モンスターに殺されて死ぬよりも外部からの助けに僅かな希望を託したのだ。食事や睡眠も可能とするSAOは文字通りゲームの中で「生活」することができるから、その仕様に惹かれてこの世界へ降り立った者も多かった。

 ゲーム内の生活を目的にダイブした者達にとって、容姿も自由に作ることができるこの世界は別の人生を送るための場として魅力的だったのだろう。そういう点では、俺とナミエのようなケースは珍しい事ではないのかもしれない。

 俺は数日間、食料を買いに出掛ける時はナミエを宿屋に置いていった。パニックが収束したとはいえ、まだプレイヤー達は混乱していたからだ。

 ゲーム内でも食事ができる事は知っていたが、空腹感まであるのは驚いた。最新の科学は疑似的な空腹感を脳に信号として送ることができるらしい。どういう仕組みなのか専門家ではない俺には分からないが、その空腹感は食べ物を咀嚼し飲み込むと消えた。本当にこの世界は現実なのではないかと錯覚してしまう。

 でも俺がこの世界で食べたパンや肉はただのデータでしかない。いくら空腹感が消えたとはいえ、現実での俺の胃は空っぽだ。現実での栄養補給は、恐らく点滴で胃を介さず直接血液へと送られていることだろう。

 俺がそんな事を自覚したのは、プレイヤー達が落ち着き始めた頃に起こった回線切断のせいだった。突如視界に《Disconnection》というロゴが現れ、周囲の景色が静止し身動きが取れない状態が1時間近く続いたのだ。茅場昌彦(かやばあきひこ)は、ネットワークの回線切断が2時間続けばナーヴギアが脳を破壊すると言っていた。だとしたら現実でベッドに寝ていた俺の体はどこかの病院へと運ばれ、その間はネットワーク回線を切られていたのだろう。さぞかし現場は大慌てだったに違いない。受け入れ先の病院を探し回っている間に2時間経てば、ナーヴギアを被ったまま救急車に乗った俺はその場で死んでしまうのだから。俺はその約1時間の間、ずっと警告メッセージを見ながら怯えていた。それでも呑気なことに、「グリーンマイル」で電気椅子に掛けられた囚人達も、電流を流されるまでこんな気分だったのだろかと思った。

 他のプレイヤー達にも同じ事が起こったらしい。街中で突如彼等の動きが止まり、しばらくすると転移時の光もなく消えてしまった。彼等もまた、1時間近く経って戻ってきた。

 俺は自分の回線が復旧してすぐ宿に戻った。客室にナミエの姿はなく、俺は彼女が戻ってきてくれるよう祈る事しかできなかった。ナミエが俺の前に再び現れた時、彼女は泣きながら俺に抱きついてきた。俺も彼女の頭を撫でながら泣いた。

 デスゲーム開始直後ではなく数日後というのも、冷静になってみれば合点がいく。1万人近くを国中の病院が受け入れなければならないのだ。数日の間に全員が収容できるよう、SAOの運営企業であるアーガスか政府が手配していたのだろう。現実での状況を知る手段がないため、これは推測でしかない。でもこの推測を誰かが提示してくれたおかげで、ぶり返したパニックはすぐに治まった。

 街に留まったプレイヤーの多くが、街を出ていった者達に恨みを抱いていた。街を出て攻略に臨んだ者はβテスト、正式サービス開始前の宣伝を兼ねた試用版に参加していた者らしい。2ヶ月の期間中に第6層までを攻略した彼等は、テスト中に培った知識と経験で利己的な自己強化に走ったそうだ。死を怖れて街に籠る俺達のことなど顧みることなく。

 でも俺は、βテスター達にあまり悪い印象を持っていなかった。買い出しの道中で、プレイヤーが通行人に本を配っているのを見かけた。俺も貰ったそれは、SAOの仕様やスキルの種類、層ごとに入手できるアイテムとモンスターの動作パターンなどが事細かに書かれた攻略本だった。

 彼等は街から出られずにいる俺達も安全に攻略を進められるよう、自分達の持てるだけの情報を提供してくれていた。俺は宿に帰ってからナミエと攻略本を熟読し、必要な回復アイテムを揃えてフィールドに出てレベル上げに精を出した。攻略に参加する気なんて無かったが、この世界で生き抜くにはある程度強くなければいけないと、初心者の俺でも理解できた。

 善良なβテスターのおかげで攻略に挑むようになった者は多かったようだが、浮かばれないことに第1層のフロアボスが倒されるまでの1ヶ月間で、多くのβテスターが死んだらしい。ボス戦で犠牲になったリーダーも、βテスターだったと聞いた。

 2000人の犠牲を経てようやく果たされた第1層の攻略から、10日後に第2層が攻略された。その頃には攻略に必要な情報がプレイヤー間に行き渡るようになり、死者の数は減っていった。その後も順調、といっても多少の犠牲者は出つつも攻略は進められている。

 プレイヤー達は慣れたのだ。この世界で剣を取り戦っていく事に。それを受け入れた者から、フィールドに出て攻略を目指していった。

 俺は攻略に興味は無かったから、レベル上げよりも金を稼ぐことを主な目的としてフィールドでモンスターを狩っていた。初期分配された額もいずれは底を尽いてしまう。それに、俺は第3層主街区のNPCショップで見つけたアイテムをナミエに買ってやりたかった。

 俺が見つけたのはバイオリンだった。NPCの楽団が多かったその街は楽器を売っているという事から、多くのプレイヤーがそれを買い求めた。音楽スキルなんて戦闘に不必要なものを上げているプレイヤーは少なかったが、娯楽が少ないアインクラッドで音楽はプレイヤー達の貴重な癒しになっていた。

 バイオリンはとにかく値が張ったから、俺は自分のレベルに釣り合わない迷宮区にまで足を運ぼうとした。それはナミエの必死の説得で留まり、大人しく街の近くでモンスターを狩った。朝から晩までひたすらモンスターを狩り、クエスト攻略にも挑んでようやくバイオリンを買う金を得た。

 バイオリンを手にしたナミエは懐かしそうに弓を引き、弦を指で押さえた。でも現実と同じような音を奏でることはできなかった。スキルを上げないと、上手くはならないらしい。

「弾きまくればスキルも上がるさ」

 俺がそう言うと、ナミエは毎日バイオリンを弾いた。最初は金切り声みたいな音ばかり出していたが、毎日弾いていく内にまともな音を出せるようになっていった。

「何だか、自分で指を動かしている感じがしない」

 弾く度に、ナミエは不満そうに言っていた。俺がソードスキルを放つ時のように、楽器の演奏もシステムが体を動かしてくれるようだった。ナミエとしては物足りなさがあるのかもしれない。いくら楽譜通りでも、自分で指を動かし思い描く音を出せないというのは、音楽家としては気持ちの良いものではないらしい。

 でも俺は、それでもナミエがバイオリンを弾いてくれるだけで十分だった。彼女が俺のために音を奏でてくれることが。

 新しい情報が入る度に配布された攻略本の最新版で、俺は《結婚》というシステムがあることを知った。特典としては、配偶者のステータスを自由に見られる事とアイテムの共有化。結婚する方法は至って簡単なもので、男女のどちらかが相手にプロポーズメッセージを送り受諾される事。婚姻届の提出も挙式も必要無いらしい。

 俺はそのシステムをナミエには言わなかった。どうせなら、驚かせてやりたかった。数日後にクリスマスというタイミングで知ったから、その日にプロポーズすることにした。

 この世界に来て初めてのクリスマスイブの夜。俺とナミエはせっかくだからと、2人の経済状況では少し高めのNPCレストランで食事をした。第5層主街区はクリスマスムードのBGMとイルミネーションに彩られていて、宿の窓から雪が積もった街並みをナミエと眺めていた俺は、意を決して彼女にプロポーズメッセージを送った。

 文面はシンプルに、『俺と結婚して下さい』だった。

 我ながら何て稚拙なプロポーズだと思う。でも俺は下手に取り繕いたくなかった。簡潔に、ストレートに、彼女に俺の気持ちを伝えたかった。

 ナミエは送られてきた文面を見て、涙を浮かべながら笑顔で頷いてくれた。そして彼女の受諾を得ると、俺の視界に【ナミエとの結婚が成立しました】というメッセージが浮かび、ファンファーレが鳴った。

 俺達は晴れて夫婦になった。

 俺は幸せだった。

 ナミエも幸せだったと信じたい。

 

 ♦

 ナミエとの新婚生活を満喫する暇も無く、俺はフィールドでモンスターと宝箱を狩りまくる生活に戻った。攻略本に載っていた効率の良い狩場へと行き、板についてきた剣捌きでモンスターを屠っていった。ナミエも街や村でお使い程度のクエストで金を稼いだ。

 結婚した俺達の新居を買うためだった。一軒家を購入するのに、俺達の財布は寂しすぎた。

 各層の街を渡り歩き、宿を転々とする生活も飽きはしないが、やっぱりどこかの場所に落ち着きたかった。

 意外な事に、ナミエには恐妻の素質があった。

 マップ追跡で俺が迷宮区に入ったと知れば叱られて、バイオリンのスキル修行に一晩中付き合わされた。

 朝は圏内だから大丈夫と俺にソードスキルを食らわせて無理矢理起こされた。アラームではなく攻撃時の音とノックバックが俺の目覚ましになった。

 完全に尻に敷かれると思った俺も、街でバイオリンの路上ライブで金を稼ぐ彼女を見つけたら「ナンパでもされたらどうすんだ!」と叱りつけた。でも俺が叱ったのは一度だけだった。叱られたナミエは拗ねてバイオリンを聴かせてくれなかった。俺はそれに耐えかねて謝った。

「ごめんナミエ、俺が悪かった。頼むから許してくれよ」

「じゃあ、もっと良いバイオリン買って」

「ああ買ってやるよ。でもその前に家な」

 機嫌を直してバイオリンを弾く彼女を見て、俺は亭主関白にはなれないなと思った。

 2ヶ月間必死になって戦い働いて、ようやく俺達は目標金額を得ることができた。モンスターとクエスト報酬から得た額では足りず、手持ちのアイテムの殆どを売り払った。道具屋のNPCでは相場が低いため、プレイヤーを相手にできるだけ高く買い取ってもらうために交渉を重ねた。職人プレイヤーに強化してもらった剣も、強化にかかった額よりも高く売ることができた。

 買う家は既に決めていたが、急遽変更することになった。2月上旬に解放されたばかりの第22層をナミエはとても気に入った。常緑樹の森林に湖が点在するフロアの南西エリアに小さな村があり、そこでいくつかのログハウスが売りに出されていた。金額が足りていた事もあって、俺達はそこの小さな2階建てログハウスを購入した。

 ほぼ全財産をつぎ込んだせいもあって家具は必要最低限のものしか揃えられなかったが、俺はようやく定住地を見つけた事に満足していた。正直、ナミエと一緒ならどこでも良かったのだが。

 俺達は引っ越してから3日間、モンスターが出ないそのフロアを散歩して過ごした。

 ようやく生活が落ち着いたからか、その頃から俺はとある不安にとり憑かれた。

 このままで良いのだろうかという、誰もが根拠もなく抱くであろう不安。

 俺はナミエと夫婦になって、家を買って、伸び伸びと暮らせばいい。何も不安な事は無いはずだった。

 でも俺は漠然と感じていた。

 この世界は、いつか終わってしまうと。

 ひたむきに攻略を目指すプレイヤー達によって、何年経つかは分からないが最終ボスが倒され、俺達は現実へと引き戻される。

 引っ越してから、ナミエはよく窓から外周から開けた空を眺めるようになった。空の雲間から覗く太陽や月、それを物憂げに目蓋を垂らして見つめていた。

 ある日の夕方、俺は気に入った葉のお茶を飲みながら、ナミエと夕陽を眺めていた。いつもはナミエのバイオリンを聴いている時間だが、何日か過ごすうちにこうしてソファで2人ぼんやりとしている事が多くなった。

「ナミエ。お前、現実(あっち)に帰りたいんだろ?」

 俺がそう聞くと、ナミエは黙って頷いた。

「こうしてセツナといると幸せ。それは本当なの。でも、何だか虚しくなっちゃって………。ごめん。セツナは私のためにこの世界に連れてきてくれたのに」

「いいんだよ。俺も、同じ事思ってた………」

 この世界の俺達の体は成長しない。ゲームクリアが断念されて、何年何十年経っても、俺達はずっと15歳の子供の姿のまま。いくら年を重ねても老いる事無く、いくら体を重ねても子供を産む事はできない。時間が止まったまま、このネバーランドでピーター・パンのように過ごしていく。

 それは幸せな事なのかもしれない。若い姿のまま、お互い人生で最も美しい姿のまま愛し合えるという事は。

現実(あっち)に戻るのは怖い。でも、私はセツナと本当に結婚して、セツナの子供を産んで、セツナと一緒に年を取っていきたい………」

「ああ、俺もだよ………」

 俺は想像してみる。

 現実で大人になった俺は教会で美しい女性に成長し、純白のウェディングドレスを着た彼女を迎え入れる。2人は小さい家で暮らして、そこで新しい家族の誕生を祝い、家が狭いと言いながらも笑い合って幸せな毎日を過ごしていく。

「俺達に子供ができたら、どんな子になるかな」

「気が早いよ。現実(むこう)に戻ったら、今度こそ私達会えなくなるかも」

「ああ。でも、俺は絶対にナミエを迎えに行く。両親を説得して、皆に祝福されて、結婚式を挙げよう。現実じゃこんな小さな家じゃない。もっとでっかい、豪邸を建てて暮らそう」

「無駄に広い家なんて嫌よ。私は小さい方が良いな」

 俺は苦笑する。ナミエも俺の顔を見て微笑んだ。

「約束する。俺は現実(むこう)でも、絶対にナミエに会いに行く。ずっとお前の傍にいる」

 俺達はソファの上で寄り添い、唇を重ねた。

 俺はデスゲームが始まったあの日と同じように、誓いを立てた。このキスは、誓いの証だ。

 この彼女の感触を、仮想だけで終わらせない。

「ゲームを、クリアしてみせる」

 

 ♦

 俺は誓いを立てた翌日に動き出した。

 2月も半ばになったその頃の最前線は第27層。俺は金を稼ぐついでに経験値も稼ぎそれなりのレベルに達していたが、それでも安全マージンを取れるに至っていない。しかも、家を買うために攻撃力の高い剣も売りに出してしまった。

 それでも俺は、やると決めたらじっとしていられない質だった。一刻も早く、攻略組の仲間入りをしたかった。

 俺達のレベルで最前線に挑むのは無謀だが、その分得られる経験値はボーナス級に高い。俺達は最新版の攻略本をしっかりと暗記し、買えるだけの武器と回復アイテムを揃えてフィールドに出た。

 第27層のフィールドはうっそうとした森林が広がっていて、モンスターも手強かった。俺はナミエに回復を任せて、モンスターと戦った。危うくHPが半分以上減ることもあったが、モンスターの動作を予習しておいたおかげで何とかエンカウントを乗り越えることができた。たった1時間で、俺達のレベルは1つ上がった。

「この調子なら、迷宮区に行く日も近いな」

 俺は意気揚々と、しかし警戒しながらナミエと森の北東を向けて歩いた。何度目かのエンカウントを経て、まだポーションの数に余裕があった俺達は外周まで進んでいた。

 そこは、攻略本の地図には載っていない場所だった。森を抜けたそのエリアは花が咲き乱れ、中央には開けた空を背景に1本の樹が立っていた。

「きれい……」

 風に乗って外周から空へ飛んでいく花弁を見て、ナミエはそう呟いていた。俺も、この世界でこんなに美しい景色は初めて見た。

 俺達はその秘境とも言える花畑を、モンスターへの警戒なんて忘れて眺めていた。

 ナミエが深緑の葉を広げる樹の幹に触れた時だった。

 唐突に、俺の体は草花が生い茂る地面に吹き飛ばされた。HPが一気に4割削られた。俺は咄嗟に周囲を見渡した。いつの間にか、複数のプレイヤーに囲まれていた。

 彼等のカーソルを見て、俺は一瞬モンスターなのではないかと思った。彼等のカーソルは俺が見慣れたグリーンではなく、オレンジだったからだ。彼等がプレイヤーを狙う《オレンジプレイヤー》という犯罪集団だと悟ったのは、ナミエが樹の影から出てきた男に突き飛ばされた時だった。

 俺はポーションも飲まずに、剣を抜いて走った。ナミエを突き飛ばした男は俺との距離を一気に詰めて、腹に短剣を突き刺した。ダメージは少なかったが、短剣には麻痺毒が仕込まれていた。モンスターから麻痺毒を食らったことは何度か経験したが、プレイヤーも武器に毒を仕込めることを後になって知った。

 地面に突っ伏した俺の前に、その男はしゃがんで顔を覗き込んできた。髪を掴まれて頭を持ち上げられた俺も、そいつの顔を見た。フードを被っているせいで上半分は見えなかったが、俺は奴の頬にあるケロイドの傷を視界に収めた。奴はにたりと笑った。

「これから起こる事を、よく見ておけ」

 奴は俺と同じように麻痺毒で動けなくなったナミエの首根っこを掴んで無造作に放り投げた。力なく、ナミエは俺の前で地面に伏した。

 ナミエは俺に手を伸ばした。俺も重い腕を伸ばし、彼女の手を掴もうとした。

 

 そして、俺達の手が触れようとした瞬間―

 

「ゲームオーバー」

 いつの間にか装備を変えていたケロイドの男が、赤い光を纏った直剣をナミエの背中に突き立てた。俺の視界に映るナミエのHPバーが縮んでいき、消滅した。

 琥珀色をしたナミエの瞳から、一粒の涙が落ちた。

 その瞳が色彩を失った。彼女は俺の目の前で一瞬だけ眩い光を放ち、無数のガラスのようなポリゴン片となって飛散した。欠片は花畑に散る花弁と共に舞い上がり、蒸発していく。

 俺の手が掴んだ彼女の欠片も、光の粒子になって消えていった。


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