ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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 読者の皆様から高評価を頂けるようになってきて嬉しい限りです。
 1話が長いわ文章は気取ってるわ中二病臭いわで不安でしたので、嬉しい反面驚いております。
 これからも面白い話を書けるよう、頑張ります!



第11話 弦には弓を

 俺は洗面所にある鏡の前で、自分の格好を確認した。正直、ファッションに興味は無いから服をあまり持っていない。だから、鏡に映る自分の格好がおかしくないか分からなかった。

 普段は学校の制服か部活のユニフォームで事足りるし、部屋着なんて古い練習着を着回している有様だ。夏休みで授業がなくても部活はある。たまに友人達と遊びにはいくが、その時はクローゼットから目についたものを適当に着ていく。

「あんた何してんの?」

 姉が洗面所から顔を覗かせてきた。一番見られたくない人間に見られてしまった。両親が共働きだから、小さい頃から年が10近く離れた姉に面倒を見てもらってきたが、だからといって何を見せても恥ずかしくない関係ではない。むしろ、母親に隠していたグラビア雑誌を発見されたのと同じくらい気まずい。

「姉ちゃん、ちょっと出掛けて来る」

「今から?」

「ちょっとそこまで。晩飯までには帰るよ」

 何か言われる前に、俺は姉の横を通り過ぎてそのまま玄関に向かう。

「刹那」

「何だよ急いでるのに」

 姉は俺の頭を無造作に掴み、何かのスプレーを髪に吹きかけてきた。

「何すんだよ!」

「じっとして!」

 俺は姉の言葉に従って、抵抗していた手を引っ込めた。俺はもう姉の身長を追い越していたから、姉の目線に合わせて屈む体勢は少し辛かった。

「デートに行くなら、髪ぐらい整えなさい。寝癖だらけじゃないの」

「デートじゃねえ!」

「ほら動かない。まあ服はそれで仕方ないとして、清潔感ない男は嫌われるわよ」

「そういうのじゃねっての!」

 俺は吐き捨てるように言って、家を出た。夕日が街を茜色に染めていた。

 公園に着くと、波絵は既にいた。白いワンピースを着た彼女は日陰にあるベンチに座り、スマートフォンをいじることもなくブランコを眺めていた。その日も公園には他に誰もいなかった。

「よお」

 「ごめん、待った?」なんて言うと本当にデートみたいになってしまう。俺は照れを隠しながら波絵に素っ気なく声をかけた。

「ええ」

 波絵も素っ気なく返すと、ケースからバイオリンを出して、ベンチの目の前に立った。日陰から出ると、彼女の黒かった髪が夕日を浴びて赤みを帯びた茶色に輝いていた。

 俺はベンチに座り、彼女の演奏を待つ。波絵はバイオリンに顎を当てると、弦に弓を当てて、音を奏で始めた。

 とても静かで穏やかな音色から始まった。その穏やかさが心地良くて眠ってしまいそうだが、唐突に曲調が激しくなった。俺はびっくりして飛び上がりそうになった。この女は、俺が寝そうになったから別の曲へと変えたんだと思った。

 曲は激しくなったと思えば穏やかになり、また激しくなっては穏やかにを繰り返した。やがて、激しさが最高潮に達した所で、曲は終わった。

 俺はささやかな拍手で、波絵の演奏に賛辞を贈る。波絵はこのコンサート唯一の観客である俺に礼をした。

「それ、何て曲?」

「ヴィヴァルディの協奏曲第2番、ト短調『夏』よ」

 やけに長い曲名だな。そのくせ最後の部分だけシンプルだ。というか、曲調がコロコロ変わるのにずっと同じ曲を弾いていたのか。

「ピンと来ないって顔ね」

「まあ、知らない曲だし」

「結構メジャーな曲よ」

「何だか、クラシックなのに落ち着きが無い曲だなと思って。ヴィヴァルディって人は夏が好きだったのか嫌いだったのか、よく分かんないな」

 俺がそう言うと、波絵は前に会った時と同じように控え目に笑った。目を細めて口に手を添える仕草を見ると、俺は少し照れ臭くなって顔を背けた。少し見とれたなんて言えない。

「好きでも嫌いでもなかったから、先入観なく作曲できたんだと思うけど」

 俺達はそのやり取りの後、何をするわけでもなく公園で別れて互いの帰路についた。電話番号もメールアドレスも、SNSのIDも交換しなかった。SNSくらいならと、多くの人間が思うかもしれない。でも、俺はSNSのアカウントを作っていなかった。俺の日常といえば、平日は学校と部活。休日は家で映画鑑賞と読書。たまにスタジアムでサッカーの試合を観戦するだけで、ネットに投稿するほどのものでもなかった。夏休みの間は授業が無くても、その分の時間は全て部活に費やされる。

 周囲の連中によると、そんな考えを持つ俺は「変わり者」らしい。俺からしてみれば、皆の方が変わっている。ただでさえ部活で疲れるというのに、ネットで呟く程度の出来事を探すなんてもっと疲れる。

 次の日曜日も、その次の日曜日も。俺は毎週波絵のバイオリンを聴きに公園へ通った。そして波絵から弾いた曲について教わり、現地で解散する。

 俺はその期間に夏の全国大会に進み、惜しくも優勝を逃し準優勝に収まった。表彰式の間、チームメイト達は優勝できなかったことを悔やみ涙する奴までいた。それなのに、エースストライカーとして他校から一目置かれている俺は結果なんてどうでもよくて、早く日曜にならないかなと思っていた。試合の間は集中できて何回か得点を決めたから、俺の雑念に気付く奴は1人もいなかった。

 夏休みが終わっても、俺達は会い続けた。9月の残暑が厳しい中、波絵は汗を滴らせながら俺のためにバイオリンを弾いてくれた。会う回数を重ねる内に、少しずつ公園に遊びに来ていた子供達も波絵の観客に加わるようになった。近所でも、波絵の演奏はちょっとしたイベント事になった。

 

 ♦

 

「なあ刹那」

 学校の休み時間、いつものように読書をしている俺に部活仲間が話しかけてきた。こいつはいつも俺の読書を邪魔してくる。電子書籍が主流のご時世に紙の本をめくる俺をよくからかうのが定番だ。でも、この日はいつもとは違った。

「お前、日曜に女と会ってるだろ?」

「はあ? 誰から聞いたんだよ?」

「坂本からだよ。お前と家近いじゃん。何だよデートか? どこのクラスの娘だよ?」

「違う学校の奴だよ」

「会ってるのは本当かよ! いいよなあ推薦組は。勉強しなくていいからデートする余裕があって」

「デートじゃねえ!」

 うちの中学の学区で会っていたことを後悔した。異性に興味津々の年頃である彼等にとって、女に会う事すなわち交際という発想はどうしても弁解することができず、俺に彼女がいるなんてデマがクラス中に広まった。

 しかも質の悪いことに監督にまで噂が伝わってしまい、職員室まで呼ばれて説教を食らう羽目になった。男女交際禁止なんて前時代的な校則を敷く学校なんて今の時代日本には無いけど、俺はサッカー部の強豪校への推薦入学を狙う身だ。3年生が部活を引退しても、俺は実技試験に向けて練習を続けなければならない。

「恋愛するなとは言わないし、お前が現を抜かすような奴だとは思っていない。でもな、少し気を引き締めろ」

 俺は波絵が彼女ではないことを説明しようと思わなかった。全国大会まで連れていってくれた監督に口答えなどできない。俺は素直に気をつけますとだけ答えた。

 波絵と過ごす時間を気に入っていることは認める。でもそれは恋愛感情じゃない。

 思春期だから、異性に対する興味もあるかもしれない。確かに波絵は容姿が整っている部類だ。でも俺はただ、彼女が奏でるバイオリンの音が好きなだけ。それだけだ。

 ある日、俺はクラスで吹奏楽部の女子に声をかけた。あまり話した事がなく、しかも彼女がいると噂の俺に話しかけられたことで驚かれ警戒もされた。もう冷やかしとやっかみばかりを向けられた俺は、そのリアクションも慣れたものだった。

「吹奏楽部に、バイオリン弾ける人っていないか?」

 都合の良いことに、その女子はバイオリンの経験があり、聴かせてくれる事になった。部活での担当はトランペットだが、今でもたまに弾くことがあるらしい。その日のうちに約束を取り付け、部活を早めに上がった俺は吹奏楽部が部活を終えた音楽室にお邪魔した。

「誰も弾かないけど、前の顧問が置いてったんだって」

「吹奏楽って、バイオリン弾く人はいないの?」

「バイオリンとかの弦楽器は、上達するのに時間がかかるからね。中学とか高校とかの3年じゃ、ものにならないよ」

 そうなのかと俺が感心している間に、彼女は演奏を始めた。とても明るい曲調だった。波絵の弾く曲とは正反対だ。指をせわしなく動かす彼女は演奏を楽しんでいるように笑っていた。音に彼女自身の楽しさを乗せているようだ。

 そして、演奏が終わった。俺は拍手を贈る。

「彼女さんもバイオリン弾くの?」

「彼女じゃないって。ただ演奏聴かせてもらってるだけだよ」

 俺は笑っている彼女を見て、波絵との違いを探す。彼女は音を奏でる時に笑っている。彼女の奏でる音も笑っているように思える。

 なら波絵はどうだろう。今まで波絵が弾いた曲は、どれも悲しげな曲ばかりだった。演奏している波絵も、楽しそうに弾いているとは言い難い。いつも無表情で弾いていた。

「早速君が興味持つなんて、さぞかし美人さんなんだろうね」

「だからそんなんじゃないって。それに、俺が人に興味持つのがそんなに珍しいか?」

「早速君を好きな子は沢山いるから。うちの後輩も、窓からグランドにいる早速君を見てる子とか結構いたよ」

「え、そうなの?」

「鈍感だね早速君って」

 俺はさぞかし間抜けな顔をしていたのだろう。彼女は俺の顔を見てまた笑っていた。

 確かに、俺が他人に興味を持つことは珍しいのかもしれない。俺はサッカーをしていなかったら、学校以外は外に出ない完全なインドア派だっただろう。俺の悩みや心配事といえば、今は受験だが、それを除けば次はどの本を読みどの映画を観るかだった。

 俺が読書や映画に傾倒するようになったのは、父親の影響だ。大学の文学部卒の父親は、学生時代に有り余っていた暇を潰すために読書や映画を嗜み、中毒と言えるほどにどっぷりと浸かっていったという。そんな父親が若い頃から収集している、紙に印刷された本とDVDという古いディスクに記録された映画が、俺の家にはぎっしりと詰め込まれている。俺が家にあったそれらのコンテンツに手を出すことは、自然な事だったのかもしれない。

 そうなると、俺は父親に似たのだろう。姉は話題になったベストセラーを電子書籍にダウンロードして読む程度だったし、父親のコレクションが詰まった書斎兼シアタールームはかび臭いと近付こうとしなかった。

 俺の一番古い記憶は、シアタールームに改装された客間で父親の膝に座って観た「スター・ウォーズ」だった。ダース・ベイターにライトセーバーで右手を斬り落とされたルーク・スカイウォーカーを見て、俺はあまりのショッキングさに泣いた。それでも俺は、父親と2人で映画を観る時間が好きだった。今は1人で鑑賞するようになったが、たまに父親と映画を通じて親子の時間を楽しんでいる。

 そんなサッカーを除けば純粋な文学少年になっていたであろう俺が、波絵に興味を持つ理由はいまひとつ釈然としないものがある。初恋の相手も「ハムナプトラ」でヒロインを演じたレイチェル・ワイズで、画面の外にいる人間に興味を示さなかったというのに。

 波絵以外の人が奏でるバイオリンの音を聴いたその日、俺は家で「レッド・バイオリン」を観た。赤いバイオリンに魅せられ破滅していく登場人物達のように、俺も波絵に惹かれているのだろうか。不気味に赤い艶を出すバイオリンに、日陰では黒いのに陽を浴びると赤褐色に輝く波絵の髪が重なる。俺はあの髪と、琥珀色の瞳にいつの間にか吸い寄せられているのだろうか。

 彼女は、俺を自覚させないまま破滅へと導く運命の女(ファム・ファタール)なのだろうか。

 

 ♦

 

 俺は次の日曜日に、またいつものように波絵と会った。波絵が公園に来ると、「あ、いつものお姉ちゃんだ」と遊んでいた子供達が集まってきた。

「なあ、波絵」

「何?」

「今日は、俺がリクエストしてもいいか?」

「いいわよ、何の曲?」

「いや。曲とかじゃなくて、明るい曲を聴きたいんだよ」

 俺のリクエストに、波絵は少しだけ目蓋を落とした。困っているのか微妙な所だ。いつも無表情で人形みたいだから、何を考えているのか分からない。

「いいわよ」

 でも波絵は俺のリクエストに応えてくれた。俺はいつものように、ベンチに座って波絵の奏でる音を聴いた。

 リクエスト通り、明るい曲調だった。でも、波絵は楽しそうじゃなかった。いつものように無表情で、淡泊で。音楽室で弾いてくれた彼女と違って、波絵は自分の感情をバイオリンの音に乗せていなかった。明るい曲なのに、何故か俺は悲しい曲だなと思った。

 クラシック通を気取っているだけかもしれない。俺には波絵の演奏の良し悪しなんて分からない。でも俺は、波絵の奏でる音から滲み出る悲しみを知りたいと思った。

演奏が終わると、子供達は力いっぱい拍手した。俺の拍手がかき消されてしまう程の大きな拍手だった。

「波絵」

 俺はケースにバイオリンをしまう彼女に言った。正直、とても勇気が必要だった。

「この後、どこか行かないか?」

 絶対に断られるだろうなと思った。でも、波絵の答えは意外だった。

「……ええ、どこに行くの?」

 俺は自分から提案したにも関わらず、「え?」と聞き返してしまった。それを見て、波絵はくすりと微笑んだ。

「自分から言ったのに」

 俺は頭をぼりぼりと掻いて、照れた顔を見せたくなかったから顔を背けた。

「いや、何ていうか……。意外だったからさ」

「いつも私が弾いてあげてるんだから、お礼くらいはいいでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 俺にはそんな陳腐な言葉しか出なかった。友人や姉に冷やかされる度に否定してきたが、これじゃ完全にデートと言われても仕方ない。

 いや、デートじゃない。俺と波絵は男女の仲じゃない。

 波絵と駅の改札を潜る途中、俺はそう自分に言い聞かせた。

「親に連絡してもいい?」

「ん、ああ……」

 見るからに育ちの良さが出ている波絵の親が、娘を過保護なほど大事にするのは何となく予想できた。ホームで電車を待つ間、俺も親に夕食はいらないとメールを打った。

 電車に乗っている間も、波絵に対する謎は深まるばかりだった。吊り革を掴む彼女は窓に広がる景色を眺めるばかりで、俺の女友達のように携帯ゲームに興じることはしなかった。学校の休み時間、殆どのクラスメートが携帯でゲームをするかSNSをチェックするかで時間を潰すというのに。まあ、その時間は紙の本を読んでいる俺も、変わり者扱いされているが。

 俺が波絵へのお礼として選択したのは、映画だった。我ながら捻りが無い。でもこれはデートではないし、行き先は任されているのだから良いだろう。

 2020年を過ぎても、映画というコンテンツは廃れることがない。Vシネマのような劇場公開せず観たい人にだけ売るという形の作品は増えたが、それでも劇場まで足を運んで一度きりの鑑賞に金を払う人は後を絶たない。

 俺は、家よりも映画館で観る映画の方が好きだった。広い劇場の、外部からの音と光の一切が遮断された空間。映画と観客だけの世界が好きだった。ヘッドマウントディスプレイでも同じ空間は作り出せるが、肌で感じる劇場の冷たい空気までは再現できない。要は、映画館という場所が好きなのだ。

 俺達が観たのは、海外文学が原作のファンタジー映画だった。CGが凝っているが、正直な所退屈だった。俺は20世紀と21世紀の境目にある、CGを取り入れ始めた頃の映画が好きだった。当時はCG技術はまだ手探りで、それを補うために特撮技術の嗜好を凝らした演出が好きだった。「ジュラシック・パーク」のCGで作られたティラノサウルスは7分だけだったが、CG以外でも作り込まれたティラノサウルスは本当に生きているようで、観ていて寒気がしたほどだ。「ターミネーター」シリーズでシュワルツェネッガーの顔面が剥げて金属骨格が剥き出しになるシーンも、CGよりも1作目と2作目の特殊メイクの方が生々しい。

 映画を観た後、俺達はファミレスで夕食を食べた。俺はカルボナーラを食べる波絵に尋ねた。

「俺の方から誘ってなんだけど、良かったのか?」

「連絡はしたんだし、問題ないわ」

「もしかして、本当は親の許可貰ってないってことじゃないのか?」

「いいのよ、たまには外で食べたいし」

 俺はとんでもないことをしているのではないかと、今更ながらに気付いた。親が子を想うのは自然なことでも、上流階級の親というのは娘に対する思い入れも尋常じゃないのかもしれない。俺は自分が注文したマルゲリータの味が分からなくなるほどの罪悪感に捕われた。

「家まで送ってくよ。そんで一緒に親に謝る」

「それは止めて」

 波絵はきっぱりと断った。これまでの彼女からは想像できないほど、はっきりとした口調だった。

「女の子の友達と行くって嘘ついたのに。男の子と一緒にいたなんて知ったら父は卒倒するわよ」

「ああ、ごめん……」

「謝らなくていいわ。それよりも、来週はどこに行くの?」

「え?」

 危うく食べたピザを喉に詰まらせそうになった。波絵はそんな俺を見てまた笑った。

「あなたといると面白いんだもの」

「お前……、性格悪すぎだろ」

「うん、私は良い子じゃないもの」

 俺達は食事を終えた後、店の前で別れた。今度は、電話番号とメールアドレスを交換した。

 その次の週から、俺と波絵は公園以外にも出掛けるようになった。日曜日だけでなく、土曜日にも会うようになった。俺は土曜日の部活は午前だけで終わるし、波絵も塾は午前だけらしい。

 俺達は映画を観て、カフェでお茶を飲んで、ショッピングモールで買い物をした。もう俺は、それがデートと呼んでもいいと思っていた。約束を取り付ける度に俺はコンビニでファッション雑誌を立ち読みし、そのまま服を買いに行った。服に小遣いを使うなんて初めての事だった。小遣いなんて新しいスパイクや試合のチケットにしか使わないし、服なんていつも姉が量販店で安物を適当に何着か買ってくるだけだ。

 姉は俺の変化に気付いたみたいだった。当然かもしれない。休日になると弟が精一杯のお洒落をして出掛けていくのだから。

「ねえ、刹那」

 洗面所の鏡の前で髪を整えている俺に、姉は話しかけた。

「あんた、彼女でもできた?」

「彼女じゃないよ」

「はあ!?」

 姉はわざとらしいと思う程、声に険を込めていた。その迫力に俺は少し怖気づいてしまう。

「あんた友達と出掛けるとき、いっつも野暮ったい格好だったじゃない。それがお洒落するなんて完全にデートでしょ?」

「デートっていうか、ちょっと出掛けるだけだよ」

「それをデートっていうのよ。相手は女の子なんでしょ?」

「まあ、そうだけど……」

「はあ、情けないわ………」

 姉は額に手を当ててため息を吐いた。

「何度もデートするって事は、そういう仲じゃないの」

「そう……、なのか?」

「そうよ。好きでもない相手と何回もデートするわけないじゃない。完全にあんたが告るの待ってるわよ、その子」

 それは期待のしすぎじゃないかと、俺は思った。俺は波絵のバイオリンじゃなくて、波絵に興味があることは認める。でも、その興味が恋愛へと飛躍するかは話が別だ。そもそも、俺達は好意を持つほど互いのことを知らない。俺は波絵がどんな環境で育ち、どんな気持ちを抱きながら生きてきたのか、全く知らない。

「誰もかれもが、姉ちゃんみたいにがっつくわけじゃないんだよ!」

 俺はそう言って、家を出た。

 その日俺と波絵が出掛けたのは、電車とバスを乗り継いで2時間程の湖だった。幼い頃、俺が父親に連れられてキャンプに行った所だ。穴場的な絶景スポットで、しかも9月の半ばでレジャーシーズンが過ぎたこともあってあまり人影は無い。まだ残暑はあるが、ひんやりとして肌寒かった。

「ねえ、刹那がサッカーしている時って、どんな感じ?」

 湖畔のベンチに座ると、波絵はそう尋ねてきた。こんな事を聞かれるのは初めてだ。俺達の会話といえば、もっぱら映画や本の事だった。俺が好きな映画の演出や監督について話し、波絵は自分が好きな小説について話す。波絵は海外文学が好きだった。「ハリー・ポッター」や「指輪物語」のシリーズは全て読破していた。

 俺はスマートフォンに記録してある写真と、監督から送られた試合のビデオを波絵に見せた。彼女に見られたことのない自分の姿を見せるのは、結構恥ずかしかった。

 俺は画面の中で、ユニフォームを着ている自分と写真を撮った時の状況を説明した。俺が中学に入って初めて試合に出た時の写真。大会で優勝した時の集合写真。合宿の夜に部員全員で夕食を食べている写真。続けて実際に俺がプレイしている動画を見せる。

「楽しそうね、刹那」

 画面の中でボールを運ぶ俺を見て、波絵は言った。

「ああ、楽しいよ。サッカーしてる時は」

「良い事ね」

「波絵は楽しくないのか? バイオリン弾いてる時」

「楽しくない」

 波絵はファミレスで食事をした時と同じようにきっぱりと言った。あまり快活ではないが、波絵は物事をはっきりと言う質らしい。

 俺はその理由が知りたくなった。俺はサッカーが楽しくなかったら、当然続けていない。なのに、なぜ波絵は楽しくないバイオリンを続けているのだろう。俺にバイオリンを弾いてくれた学校の女子は、弦楽器は上達するのに時間がかかると言っていた。だとしたら、波絵は何年もバイオリンを弾いてきたはずだ。

 彼女の中では踏み込んでほしくない事なのかもしれない。でも、俺は聞かずにはいられなかった。

「楽しくないなら、何でバイオリン弾いてるんだよ?」

 楽しくないからといって、何事も辞めていいなんて世の中甘くはないだろう。

 楽しくなくても、教師からの叱責を怖れて課題をこなす俺の同級生。

 楽しくなくても、学費を稼ぐために飲食店でアルバイトをしている大学生。

 楽しくなくても、上司の命令に逆らえず残業するサラリーマン。

 楽しい楽しくないではなく、義務があるからやらなければならないことは多い。でも俺達はまだ、自分のやりたいことを存分にやることが許される年齢のはずだ。だから、自分を押し殺してまで続けている波絵の事を知りたかった。

「ただ、私がバイオリンを弾けるから……、かな」

 俺はその先を黙って聞く事にした。余計な口を挟んで、波絵の言葉を途切れさせてはいけないと思った。

「私、小さい頃から色んな習い事してきたの。お茶とかバレエとか英会話とか。その中で、一番上手くできたのがバイオリンだった。教室の先生にセンスが良いって褒められたの。そうしたら、お母さんから他の習い事を全部辞めさせられて、バイオリンだけ続けてきた。正直、お茶の教室の方が楽しかった。美味しいお菓子とか食べられるし。バイオリンなんて、指が痛くなって耳がおかしくなるもの。至近距離であんな甲高い音が出るのよ。下手だと難聴になるわ」

 波絵の口から出る、波絵の過去。それを語る波絵の口調は、俺が聴く度に感じてきた彼女のバイオリンと同じく悲しみを乗せているように思えた。

「でも、お父さんとお母さんに反発する気にはなれなかった。私がコンクールで優勝すると2人はとても喜んで、社交界で私に演奏させて自慢していたんだもの。教室の先生も、私が少しでも楽譜と違う音を出したら凄く怒った。私に要求されるのは、楽譜に込められた作曲家の人物像を再現することだけ。私の意思や感情を出すことは許されなかった。教室では先生の厳しさで、家では両親の優しさで絞め殺されそうになる」

 波絵の奏でる音に込められた悲しみ。それを完全に理解したと、俺は確信できなかった。両親と、教室の講師が求めた波絵への要求。彼等からすれば、波絵の才能を引き出した功績と見るべきかもしれない。でも、それを引き出された波絵は、それ以外に何かをする自由を奪われた。そんなものなのだろうか。

 俺はその場で、波絵にかける言葉を見つけることができなかった。同年代の子供より多く本を読み、多く言葉を知っていると思い上がっていたというのに。その自信を失った。

「波絵。次の土曜に、いつもの公園に来てくれ。今は何も言えないけど、その日までには考えとく」

「……うん、待ってる」

 俺達の間に流れた煩悶とした雰囲気に反して、湖面は日光を受けてきらきらと輝いていた。

 波絵は周囲の要求と期待に応えるために生きてきた。拒むことを、無言の圧力で許されないまま。親というのは、子に無意識のうちに期待してしまうのだろうか。それが子を苦しめる事になっても、子のためと苦しめ続けるのだろうか。少なくとも俺の中で、会った事のない波絵の両親とバイオリン講師は彼女を苦しめている。それが彼女の輝かしい未来のためであってもだ。

 なら俺はどうだ。

 俺は両親から、これまで何かを要求されたことも、期待されたこともない。俺が本と映画に手を出したのは自分の意思。サッカーは父親の勧めだったが、最終的にクラブチームに入るかの決断は俺の意思を尊重した。

 俺が両親から要求されたのは、自分の「刹那(せつな)」という名前だけだ。

 俺にこの名前を付けた父親は、俺にどんな要求と期待を込めたのだろう。

 

 ♦

 

 波絵と会う約束をした土曜日の午前中、珍しく部活が無いため、俺は家にいた。普段なら1人で観る映画に、仕事が休みの父親を誘った。息子からの誘いが嬉しかったのか、父親は上機嫌でシアタールームに入った。

 俺と父親が親子の会話をするのは、もっぱら映画を観ながらだ。作品の選別は父親に任せた。正直あまり期待はできない。父親はいつも俺が驚くような映画を観させる。良い意味でも悪い意味でも。小学5年の頃に「ソドムの市」を観た時は途中で抜け出し、3週間くらい口をきかなかった。思えば、あれが反抗期の始まりだったのかもしれない。

 俺の不安とは裏腹に、父親のチョイスは「ジングル・オール・ザ・ウェイ」だった。安心して観られる作品だ。俺達はソファにだらだらと座り、スクリーンに映写された映像を眺める。

「父さん」

「ん?」

 シュワルツェネッガーがデパートで抽選ボールの取り合いに参加しているシーンで、俺は父親に尋ねた。

「前に俺が名前のことで文句言ったの、覚えてる?」

「ん、あったかそんなの?」

「ったく……。まあいいや、あったんだよ。そん時父さんは姉ちゃんの後に生まれる子供は、男でも女でも『刹那』にするよう決めてたって言ったけどさ、何で『刹那』にしたわけ?」

 父親は「あー」と天井を見上げ、缶ビールを一口飲んだ。意外な光景だった。父親は昼間から酒を飲む人間ではなかったからだ。多分、父親も俺と同じで久し振りの親子の時間が照れ臭かったのかもしれない。酒の力に頼らなければ、息子に偉そうな口をきけなかったのかもしれない。

「俺は若い頃、自分の人生がとてつもなく長く感じてなあ。でも母さんと出会って、麻沙美が生まれてから一気に短く感じるようになった。2人目の子供ができたら、もっと短くなるような気がしてな。それで『刹那』って名前に決めたんだ。『刹那』ってのは、仏教用語で1秒よりも短い時間のことらしい。刹那、ちょっと立ってみろ」

 俺は言われた通りソファから立ち上がる。遮光カーテンで日光は差し込まず、スクリーンが反射する光だけが、俺達親子を照らしている。おぼろげな光の中で、俺より僅かに背の高い父親は俺の頭に優しく手を乗せた。

「あんなに小さかったのに、こんなにでっかくなってなあ。俺はもうすぐ越されそうだ。お前と麻沙美を育てるために必死こいて働いて、もう45だ。人生の折り返しだな。お前もいつか、毎日とても早く過ぎていくように感じる時が来るだろう。その短く感じる日々を大事に生きていって欲しくて、『刹那』にしようと決めた。まあ、確かに男に付ける名前じゃないかもなあ」

 父親はばつが悪そうに笑って頭をぽりぽりと掻いた。

「何で、俺にサッカーをさせようと思ったの?」

「俺は色んな価値観を映画や本で学んできた。でも、そういうのは直に人と話して培っていかなきゃ身に着かん。俺や母さん、麻沙美だけがいる環境にお前を閉じ込めるわけにはいかないからな。色んな人と出会って、その分の価値観を学んでいって欲しかった。それで、お前が人生で何かを選択する時、そうやって学んできた沢山の価値観の中から、お前自身の答えを出せるようになって欲しいと思った」

 父親は再びソファに座った。俺もソファに腰を落ち着ける。

「親って、大変だな」

「ああ大変だ。赤ん坊の頃のお前を『可愛い』なんて言ってる暇もなかったな」

 俺達はその後、特に会話もなく映画を最後まで鑑賞した。

 人は誰しも、親からの願いや祈りを背負っている。波絵はバイオリン。俺は「刹那」という名前。俺は少なくとも、自分の名前に込められた意味に反発心を抱いていない。

 これから自分の名前を名乗る時、名前を呼ばれる時、恥ずかしさは少しだけ無くなりそうだ。

 その日の夕方、俺は公園で波絵と会った。波絵はバイオリンを持ってきていた。彼女にとって呪いのようなその楽器を。

「……弾いてほしい?」

「ああ。でも、その前に言っておきたい」

「……うん」

 俺はしっかりと波絵の目を見据える。その琥珀色の瞳。無感情の中に悲しみを宿した瞳に。

「楽しくないならバイオリンやめろとか、そんな無責任なことは言えない。やっぱり、俺はお前のバイオリンが聴きたい。でも、俺に聴かせる時は、好きなように弾けよ。楽譜なんて気にしなくていい。俺は音楽分かんないし。俺はお前にあれこれ言ったりしないからさ」

 これが、俺の出した答えだ。俺が15年という短い人生の中で学んできた多くの価値観の中から選び出した、最善のもの。

 波絵は何も言わなかった。代わりに、これまでの中で最上級の笑顔で応えてくれた。細めた目から、今にも涙が零れそうだった。

 俺は確信する。俺は波絵に惹かれていると。

 彼女の奏でる音から、悲しみを取り除きたい。もっと彼女の音を聴きたい。俺だけのために、バイオリンを弾いてほしい。

 波絵は無言のまま、ケースからバイオリンを出した。俺はいつものように、ベンチに座る。この日は公園で遊ぶ子供達はいなかった。俺達2人だけ、観客が俺だけのコンサートが始まった。

 波絵の音に変化が訪れたことを、俺は直感的に感じ取った。最初はとても激しくて、悲しい。でもその後に流れたのは、とても優しい音だった。穏やかで、心地良い。

 俺が目を閉じると、波絵は金切り声のような音を出した。俺が驚いて目を開けると、波絵は意地の悪い笑みを浮かべる。そして演奏を再開する。

 多分、波絵は助けを求めていたんだと思う。鬱屈した自分の感情を誰かに知って欲しかったのかもしれない。

 私は苦しんでいます。

 私は両親と先生に押し潰されそうです。

 私の今の音を聴いて下さい。

 そして私を助けて下さい。

 その波絵の助けに引き寄せられたのが、たまたま俺だったのだ。偶然か運命か。俺は合理主義で神なんて信じていないけど、どうか運命であって欲しい。

「ありがとう、刹那」

 演奏が終わると、波絵は笑顔でそう言った。俺に誰かを助ける力があるだなんて思っていない。でも、彼女が演奏を通じて気持ちを吐き出すことができるのなら、それを受け止めたいと思った。たとえ彼女が嫌悪する汚い感情でも、俺は幻滅なんてしない。

 これからも、彼女の音を聴きたい。純粋にそれだけだった。

 でもそれは、唐突に終わる事になった。

 前触れも、前兆もなく。




 前回を読んでくれた友人から「アスナ嫌いなの?」と言われました。
 そんな事ありません。アスナ大好きです。結婚したいです。キリトの嫁だけど。

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