翌朝、ホテルを出ると阪神の三宮駅へと向かった。
阪神電車は地上を走っているという印象があったのだが、三宮駅は地下にあった。
ところどころレンガ風の意匠が施された駅のコンコースに立ち、線路を見つめた。
枕木はいつも同じように横たわっている。
僕はもしも自分が枕木ならば、そんな生活には耐えられないだろう。
やがて直通特急が来た。
御影まで直通特急に乗る。
美術館で有名な岩屋駅を通過したあたりから、列車が地上に上がった。
窓の景色が開けていく。
阪神間特有のクリスプな明るさが目を刺した。
御影で降りると、普通列車に乗り換える。
香櫨園までは11分かかった。
香櫨園駅は、どことなくレトロな雰囲気を漂わせていた。
細い川をまたぐような構造になっている。
これが高田の言っていた夙川だろうか。
地図でチェックする。
その通りだった。
川をまたいだ駅の構造からもすぐにわかるように、夙川オアシスロードは駅と直結していた。
どことなく、多摩川駅と雰囲気というか空気感が似ているなと思った。
駅を出てすぐに、緑と川の匂いがするところが。
僕は川沿いの道を海へと下ることにした。
平日なので人はまばらだった。
それでも、幾人かの老人がジョギングしている姿を見かけた。
犬を連れて散歩をしている夫人もいた。
静かだった。
ほとんどだれも言葉を発さない。
繁華街の三宮とは大違いだった。
夙川沿いには、松と思われる木がずっと植えられていた。
少し珍しい光景だと思った。
川沿いに松。
だが、その事がかえって、海へと続く道であることを強調しているようにも感じられた。
海辺の白砂には松がつきものだからだ。
道は、ところどころ幹線道路で分断されていた。
僕は歩くのが早いほうだが、そのたびに、犬を連れた老婦人に追い付かれることになった。
犬は白いダックスフンドだった。
何かを欲しがるように、舌を出して息を吐いていた。
僕が犬に視線をやっているのに気が付いて、老婦人がこちらに微笑みを向けた。
僕は頭を搔いた。
やがて、明らかに海辺の空気を肌が感じ始めた。
空の遠景に、カモメのような鳥が見えた。
もう少し歩くと、病院が見えた。
西宮回生病院とファサードに銘打たれている。
その後ろ手に、いかにも南国風のヤシの木が見えて、僕は笑ってしまいそうになった。
そこまで来ると、もうほとんど海だった。
川沿いの公園道という雰囲気が消え去り、コンクリートで河口を囲んだ突堤という装いが現れだした。
向かいから、犬を連れて歩いてくる中年の男性がいた。
犬の毛足が濡れていた。
海で遊んでいたのだろうか。
僕は心の高鳴りを感じた。
コンクリートで固められた道を端まで辿ると、眼前に海が広がっていた。
それは、港ではなかった。
浜だった。
コンクリートは、唐突に途切れ、途中から砂へと変わっていた。
僕は驚いた。
実際にこうして目で見るまで、コンクリートの突堤で固定された港のような海だと思っていた。
だが、ここは、昔ながらの浜だ。
僕はぴょんとコンクリートの跡切れから飛び、砂浜に降り立った。
砂特有の柔らかさが、スニーカーに心地よい衝撃を与える。
小さな浜だった。
これが本当に海なのだろうかと思うほどに、小さい。
対岸がひどく近かった。
対岸にはビル群が見える。
まるで、内海のような光景だ。
だけど、砂浜を歩き、海辺へとたどり着くと、それは確かに海だった。
柔らかな波が、押しては引いていく。
それは何時間眺めても飽きないほどに、心休まる光景だ。
かつて僕が暮らした大洗の海を思い出した。
子供のころ、大洗の海を、僕はこういう風に、飽きもせず眺めていた。
はたと思い立ち、砂浜を左へ歩いた。
ざくざくと、砂を踏みしめる。
砂粒が靴の隙間に入り込んでくる。
左方向へ向かえば向かうほど、道路と砂浜を隔てるコンクリートは高くなるようだった。
まるで一つの世界だ。
外界と隔てられた、とても小さな海と砂の世界。
やがて、目前に、古びた一台の砲台が現れた。
それは予想よりもずっと大きくて、そして迫力があった。
これが、西宮砲台か。
雨と風に耐え抜いてきたのだろう。
おそらくは白磁のような色であった外観は、ところどころ黒々と黒ずみ、灰と煤でペイントされたようになっている。
1886年に竣工されたということだ。
100年以上を、こうして鎮座しているというのか。
先日の電話口で、高田が僕に言った言葉が思い出された。
「篠崎はな、子供のころ犬を飼っていたんだ。大きな毛むくじゃらの犬だ。裕福な家庭につきもののやつさ。
俺はうらやましかった。俺も犬が欲しかった。でも、うちの親はそんなもの絶対に飼ってくれなかった。
俺が篠崎の家に遊びに行くのが嫌だった理由の一つがその犬さ。遊びに行くと篠崎は必ず、犬を連れて御前浜に散歩に行こうというんだ。犬は無邪気でさ。篠崎を追いかけて、砲台の周りをぐるぐる回るのが好きだった。ぐるぐるぐるぐる、回りやがるのさ。まるでバターになりたいみたいに。俺はふてくされて、いつもそれを眺めていたもんさ」
砲台のそばは、今はもう柵で覆われていて、丸くぐるぐると回ることは不可能だった。
それでも僕の瞳の裏に、幼いころの篠崎代議士と、大きな毛むくじゃらの犬が見えた。
僕は、バッグからウィスキーのボトルを取り出した。
篠崎代議士の遺品のスコッチ。
もう、それを飲む気はなくなっていた。
この海へ帰すべきだと思った。
僕は、それを持って、海のぎりぎりまで歩いた。
押し寄せる波が、靴を濡らす。
スコッチの蓋をあけ、海へと注いだ。
10月の晴れた午後の光にきらきらと照らされた海に、スコッチがとけていく。
その光の明滅を見ている時。
僕の目の中に、懐かしい人々の顔が映った。
父、母。
そして篠崎さん。
すべての、すでに死んでしまった人たち。
僕の人生から損なわれ、消えてしまった人たち。
涙は出なかった。
だが、いつのまにか僕は肩で息をしていた。
ずいぶんと長い間、海辺に立ち尽くしていたのだと思う。
気がつくと空が茜色に染まり始めていた。
砂浜に戻り、砲台の柵のそばに腰を下ろした。
そして、じっと海を見つめた。
海はただそこに佇んでいた。
続く
次回、最終話です。