辻さんの人には言えない事情   作:忍者小僧

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99 御前浜

翌朝、ホテルを出ると阪神の三宮駅へと向かった。

阪神電車は地上を走っているという印象があったのだが、三宮駅は地下にあった。

ところどころレンガ風の意匠が施された駅のコンコースに立ち、線路を見つめた。

枕木はいつも同じように横たわっている。

僕はもしも自分が枕木ならば、そんな生活には耐えられないだろう。

やがて直通特急が来た。

御影まで直通特急に乗る。

美術館で有名な岩屋駅を通過したあたりから、列車が地上に上がった。

窓の景色が開けていく。

阪神間特有のクリスプな明るさが目を刺した。

御影で降りると、普通列車に乗り換える。

香櫨園までは11分かかった。

香櫨園駅は、どことなくレトロな雰囲気を漂わせていた。

細い川をまたぐような構造になっている。

これが高田の言っていた夙川だろうか。

地図でチェックする。

その通りだった。

川をまたいだ駅の構造からもすぐにわかるように、夙川オアシスロードは駅と直結していた。

どことなく、多摩川駅と雰囲気というか空気感が似ているなと思った。

駅を出てすぐに、緑と川の匂いがするところが。

僕は川沿いの道を海へと下ることにした。

平日なので人はまばらだった。

それでも、幾人かの老人がジョギングしている姿を見かけた。

犬を連れて散歩をしている夫人もいた。

静かだった。

ほとんどだれも言葉を発さない。

繁華街の三宮とは大違いだった。

夙川沿いには、松と思われる木がずっと植えられていた。

少し珍しい光景だと思った。

川沿いに松。

だが、その事がかえって、海へと続く道であることを強調しているようにも感じられた。

海辺の白砂には松がつきものだからだ。

道は、ところどころ幹線道路で分断されていた。

僕は歩くのが早いほうだが、そのたびに、犬を連れた老婦人に追い付かれることになった。

犬は白いダックスフンドだった。

何かを欲しがるように、舌を出して息を吐いていた。

僕が犬に視線をやっているのに気が付いて、老婦人がこちらに微笑みを向けた。

僕は頭を搔いた。

やがて、明らかに海辺の空気を肌が感じ始めた。

空の遠景に、カモメのような鳥が見えた。

もう少し歩くと、病院が見えた。

西宮回生病院とファサードに銘打たれている。

その後ろ手に、いかにも南国風のヤシの木が見えて、僕は笑ってしまいそうになった。

そこまで来ると、もうほとんど海だった。

川沿いの公園道という雰囲気が消え去り、コンクリートで河口を囲んだ突堤という装いが現れだした。

向かいから、犬を連れて歩いてくる中年の男性がいた。

犬の毛足が濡れていた。

海で遊んでいたのだろうか。

僕は心の高鳴りを感じた。

コンクリートで固められた道を端まで辿ると、眼前に海が広がっていた。

それは、港ではなかった。

浜だった。

コンクリートは、唐突に途切れ、途中から砂へと変わっていた。

僕は驚いた。

実際にこうして目で見るまで、コンクリートの突堤で固定された港のような海だと思っていた。

だが、ここは、昔ながらの浜だ。

僕はぴょんとコンクリートの跡切れから飛び、砂浜に降り立った。

砂特有の柔らかさが、スニーカーに心地よい衝撃を与える。

小さな浜だった。

これが本当に海なのだろうかと思うほどに、小さい。

対岸がひどく近かった。

対岸にはビル群が見える。

まるで、内海のような光景だ。

だけど、砂浜を歩き、海辺へとたどり着くと、それは確かに海だった。

柔らかな波が、押しては引いていく。

それは何時間眺めても飽きないほどに、心休まる光景だ。

かつて僕が暮らした大洗の海を思い出した。

子供のころ、大洗の海を、僕はこういう風に、飽きもせず眺めていた。

はたと思い立ち、砂浜を左へ歩いた。

ざくざくと、砂を踏みしめる。

砂粒が靴の隙間に入り込んでくる。

左方向へ向かえば向かうほど、道路と砂浜を隔てるコンクリートは高くなるようだった。

まるで一つの世界だ。

外界と隔てられた、とても小さな海と砂の世界。

やがて、目前に、古びた一台の砲台が現れた。

それは予想よりもずっと大きくて、そして迫力があった。

これが、西宮砲台か。

雨と風に耐え抜いてきたのだろう。

おそらくは白磁のような色であった外観は、ところどころ黒々と黒ずみ、灰と煤でペイントされたようになっている。

1886年に竣工されたということだ。

100年以上を、こうして鎮座しているというのか。

先日の電話口で、高田が僕に言った言葉が思い出された。

 

「篠崎はな、子供のころ犬を飼っていたんだ。大きな毛むくじゃらの犬だ。裕福な家庭につきもののやつさ。

 俺はうらやましかった。俺も犬が欲しかった。でも、うちの親はそんなもの絶対に飼ってくれなかった。

 俺が篠崎の家に遊びに行くのが嫌だった理由の一つがその犬さ。遊びに行くと篠崎は必ず、犬を連れて御前浜に散歩に行こうというんだ。犬は無邪気でさ。篠崎を追いかけて、砲台の周りをぐるぐる回るのが好きだった。ぐるぐるぐるぐる、回りやがるのさ。まるでバターになりたいみたいに。俺はふてくされて、いつもそれを眺めていたもんさ」

 

砲台のそばは、今はもう柵で覆われていて、丸くぐるぐると回ることは不可能だった。

それでも僕の瞳の裏に、幼いころの篠崎代議士と、大きな毛むくじゃらの犬が見えた。

僕は、バッグからウィスキーのボトルを取り出した。

篠崎代議士の遺品のスコッチ。

もう、それを飲む気はなくなっていた。

この海へ帰すべきだと思った。

僕は、それを持って、海のぎりぎりまで歩いた。

押し寄せる波が、靴を濡らす。

スコッチの蓋をあけ、海へと注いだ。

10月の晴れた午後の光にきらきらと照らされた海に、スコッチがとけていく。

その光の明滅を見ている時。

僕の目の中に、懐かしい人々の顔が映った。

父、母。

そして篠崎さん。

すべての、すでに死んでしまった人たち。

僕の人生から損なわれ、消えてしまった人たち。

涙は出なかった。

だが、いつのまにか僕は肩で息をしていた。

 

ずいぶんと長い間、海辺に立ち尽くしていたのだと思う。

気がつくと空が茜色に染まり始めていた。

砂浜に戻り、砲台の柵のそばに腰を下ろした。

そして、じっと海を見つめた。

海はただそこに佇んでいた。

 

 

 

続く

 




次回、最終話です。

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