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翌日、鏡に顔を映すといまだに腫れは引いていなかった。
殴られたことがすぐにわかる状態だった。
休みの連絡を入れようとは思わなかった。
感覚が少し麻痺していた。
登庁すると、廊下ですれ違う人々の視線を感じた。
僕はジャン・ポール・ベルモンドの真似をして「勝手にしやがれ!」と叫びたくなった。
学園艦教育局の扉を開けると、入り口にいた若い職員が唖然とした表情で僕を見た。
その後ろ手に倉橋もいた。
彼は不思議なものを見るような顔で僕を見つめていた。
彼の口が動いた。
何かを言ったのかもしれなかった。
それを無視して局長室の扉を開けた。
一人きりになると少しだけ心が落ち着いた。
僕は椅子に座り目を閉じた。
15分ほどそうしていると、机に置いてある電話が鳴った。
内線だった。
番号は1125と表示されていた。
教育長室からだった。
受話器を上げると、怒鳴り声が飛んできた。
教育長じきじきのお電話だった。
「いったい君は何をしているんだ! 辻君」
「いろいろ訳がありまして。昨日はとてもハードな一日だったんです」
僕の言葉にさらに教育長の声が激しくなった。
「いいから今すぐ私の部屋に来なさい」
僕は無気力に受話器を置いた。
教育長室の扉を開けると、先日と同じように教育長が立っていた。
不機嫌な顔つきと、腕を組んだポーズ、立っている位置まで同じだった。
時間が巻き戻ったんじゃないかと錯覚した。
それとも、日がなこうしているのが彼の仕事なのだろうか。
そんなことを考えていると、教育長が「座りなさい」と言った。
僕は言われるがままにソファに座った。
「率直に訊く。何があったんだ?」
「殴られたんです」
「誰にだ」
「知りません」
教育長のこめかみが動いた。
馬鹿にされているとでも思ったのだろう。
「本当に知らないんです。知らない人に殴られたんです。昨日の夜、酒に酔って通りを歩いていたら、若い連中に因縁をつけられて。言い返したら集団で殴られたんです。警察が来る前に彼らは逃げてしまった。それだけです」
教育長が首を振った。
彼の表情から、彼の考えていることは読み取れなかった。
「辻君。有給がまったく消化し切れていないな」
「は?」
「どうなんだ?」
教育長が僕の目を覗き込んだ。
僕は先ほど彼を馬鹿にしたことを少し後悔した。
その瞳には、彼なりの聡明さが宿っていた。
「少し休め。学園艦の件でずっと忙しかっただろう。有給を消化しろ」
「いえ、しかし……」
「これは命令だ」
僕はうなづいた。
立ち上がり、頭を下げた。
「そうさせていただきます」
退出しようとしたとき、教育長が後ろから声をかけた。
「辻君。学生時代、第二外国語は何をとっていた?」
「ロシア語ですが」
「珍しいな。ロシア語で『さようなら』はなんて言うんだ」
「ダスヴィダーニァ、ですね。私の記憶が正しければ」
「そうか」
教育長が興味深げにうなづいた。
「私は、人にさよならというのが嫌いなんだ。その言葉を言うと、少しづつ自分が磨り減っていくような気がする。だが、知らない言語ならば何も感じはしない」
「そうですか」
「辻君。ダスヴィダーニァ」
「さようなら」
僕はありったけの皮肉をこめて、日本語で返答した。
※
その日のうちに、有給の申請を出した。
5日間の有給を出し、土日をあわせると、実に一週間休むことになった。
そんなに大きな休みを経験するのはいったい何年ぶりだろうか、と思った。
学生時代の友人で大手家電メーカーに勤めた男が、勤続10年の報奨で一週間の休みを得られたときに、飛び上がるほどはしゃいでいたことを思い出した。
僕は何か、人から褒められることをしただろうか。
街をふらふらとあてどもなく歩いた。
歩きながら、先ほどの教育長の言葉を反芻した。
彼は僕に何が言いたかったのだろうか。
彼の言葉は、僕が懲戒免職になるというようにも、あるいは篠崎代議士のように消されるというようにも読み取れた。
それとも、何の意味もない気障な言葉遊びに過ぎなかったのかもしれなかった。
駅前に着く直前に、携帯電話が鳴った。
高田からだった。
「もしもし」
「辻君。俺だ」
「はい」
「庁内で噂になっているぞ。ズタボロで登庁したってな。いったい何があった?」
僕は黙った。
どこまで話すべきか悩んだ。
「まさか、俺が伝えた篠崎の伝言絡みか?」
「高田さんはそれを知ってどうするんですか?」
僕は少し考えて、そういった。
「あなたは、関わることを恐れていたじゃないですか。何も聞かないほうがいいと思います」
電話口の向こうに沈黙が下りた。
サイレントムービーの登場人物になってしまったような気持ちだった。
「私は、しばらく有給をとります。土日を合わせて一週間の大きな休みです。こんなの、滅多にないですよ。うらやましいでしょう?」
「俺は、君にいらないことを言わないほうが良かったのかな」
「え?」
「もし君が何かトラブルに巻き込まれたのだとしたら、俺のせいだ」
「そんなことはありません」
言葉がすんなりと口から出た。
「私は知るべきことを知りました。何も問題ありません」
「辻君……」
「あぁ、そうだ。ひとついいことを思いついた。休みを使って、旅行でもしようかと思うんです。先日喫茶店で芦屋の話を聞いたとき、興味が出たんです。篠崎代議士が青春を過ごした場所をふらついてみたいなと。どのあたりか、正確に教えてくれませんか?」
高田が小さく笑う声が聞こえた。
「そんなことでいいなら、お安い御用だよ」
続く