「なぁ、大丈夫か廉太。本当に体調に問題ないのか?」
おろおろとしている父を見るのは心地よかった。
僕の心配をしてくれているということが単純にうれしかった。
父を心の半分で疎ましく感じながらも、「褒めてほしい・見て欲しい」、そういう気持ちがどこかに潜んでいる。
官僚を目指そうと思った10代の頃から僕は成長できていないのかもしれない。
それで僕はわざと甘えるように
「少し気分がすぐれないかも。家に帰りたいよ」
と言った。これが30代後半の男のセリフだろうか。自分で自分を嘲笑したくなる。だが、故郷の空気がそうさせているのかもしれない。ここにいる間は、子供でいたいのかもしれない。
「わかった。今日は家でゆっくりと休もう」
父が歩き出した。
「一人で歩けるな?」
僕は頷いた。そしてまた笑いそうになった。
歩けないと言ったらどうするつもりなんだ、この人は。負ぶってくれるとでもいうのか? それはさすがにまっぴらごめんだ。
父の背中を見ながら歩く。
お互いに言葉数が少なくなった。僕は黙って、先ほどの父の言葉のことを反芻しながら歩いた。
父は芹澤に「明日また『増野』で」と言った。
『増野』というのは、おそらくは海岸に近い通りにある料理屋だろう。大洗の地の魚をふんだんに出すということと、有田の名のある窒の器を使用しているということを売りにしている店だ。
確か3代ほど続いているいわゆる老舗というべき料理屋だが、父は以前その店を嫌っていたはずだった。
僕が大学生の頃だったと思う。実家に帰った折に、高校時代の同級生に飲みにいかないかと誘われた。
「ほら、海岸の方に『増野』ってあるだろ? あそこの二階に行ってみたいんだよ。俺たちも酒の飲める齢だしさ。お前の親父さん議員だろ? 連れてってくれよ」
僕がそのことを父に伝えると、父は吐き捨てるように
「行きたければ行けばいい。ただし、あんな店、旨くないし美しくもないぞ」
と言った。
「え? そうなの?」
「良い魚を出すだけだったらもっと安くて旨い店がいくらでもある」
「でも、なんだかお座敷とかあって、すごい器で出てくるらしいけど?」
「お座敷なんか薄汚れてボロボロだ。器? あぁ、有田の何とかいう窒の12代目の器を飾ってはいるな。それはちょっとした値打ちもんだ。今が14代目だが、12代目のは高いんだ。しかし、お前らみたいな若造が行ってもそんな器で料理が出たりはせんぞ。そもそも、客に出すもんじゃない」
「全然噂と違うのかよ」
「そうだ。あんな店、しがらみだけで生き残っているんだ。使うのは各種団体や議員、そういう『お偉方』の付き合いばかりだ」
「じゃ、父さんは使ってるんでしょ?」
「俺は使わんよ。あの店の店主は、いろんな議員を呼んで会合を開かせて、ある種のフィクサー気取りなんだ。いけ好かん」
「へぇ……」
結局僕と高校時代の同級生は、水戸に出て普通の居酒屋で酒を飲んだ。
父が芹澤と会う約束をしているのが、その『増野』だとしたら、妙だと思った。
父は頑固な人間だ。
いけ好かないと自分で言っていた店を使うだろうか。
それに、「明日『も』」と言っていたはずだ。
そんなに頻繁に?
家に帰ると、本当に疲れが噴き出してきた。
僕は、
「久しぶりに自分の部屋でゆっくりするよ」
と言った。
「あぁ。そうするといい」
父が煙草に火をつけながら言った。
二階にある自室のドアを開けると、予想していたような埃っぽさはなかった。窓が半分ほど開けられていた。
換気のためだろう。床の掃除も行き届いている。母が、僕がいない間、清潔に保ってくれていたようだった。
僕は窓を閉め、ベッドに横たわった。ベッドはきっちりとメイクされていて心地よかった。
天井はさすがに経年で少し染みが浮かんでいたが、それでも不快な感じはしなかった。
春先の陽光が窓から差し込んでくる。窓越しの日差しが、子供の頃ずっと使っていた机をきらきらと照らしている。
机の上のブックエンドには、いまだに入試用の問題集と、当時読んでいた漫画が並べられていた。
それだけ長い間、家と疎遠だったし、ほんの少し帰ってきてもこの部屋に入っていなかったというわけだ。
僕はなんだか懐かしいような柔らかい気持ちになった。このまま眠ってしまおうか、と思った。
目を閉じる。
目を閉じると、父の顔が浮かんだ。
今日の父は矛盾だらけだった。
『大洗を新しくする会』とのかかわり、『増野』での会合。
おおよそ僕の中の父の像とはかけ離れている。
一方で、直接話すときの父の雰囲気は何も変わっていなかった。
独善的であくが強いが妙な甘さがある。
今度は、芹澤のことが頭をよぎった。
彼の顔が、どこか頭の隅に引っかかっていた。
そのまま少し居眠りをしてしまい、気が付くと夕刻になっていた。
のどがカラカラに乾いていた。
僕は起き上がり、1階の今へと移動した。
キッチンから母が出てきた。
「あら、起きたのですか?」
「うん。もう6時だね。寝すぎたよ」
「体調が悪いと聞いたけれど。大丈夫ですか?」
「何の問題もないよ」
「そう。それはよかったです」
相変わらず淡々と丁寧に話す母の様子からは感情が読み取れなかった。だがこの人は僕がいない間も僕の部屋を掃除してくれていた。
「あまり遅くなるといけないから、帰るよ」
「あら」
母が口元に手を当てた。
「せっかくお料理を用意したのですけど」
「そうなの?」
「ええ。食べて帰りなさいな」
「うぅん……」
僕は少し悩んだ。今までなら絶対に食べなかったが、今日は後ろ髪ひかれていた。だが、ここでズルズルとこの家にはまり込んでしまうことが怖くもあった。
「いや、東京に帰るよ。父さんによろしく」
「わかりました」
母が頷いた。僕のこういう態度には慣れているのだ。
荷物をまとめ、玄関の門を開けると、そこに芹澤がいた。
「え? 芹澤さん?」
「あぁ、どうも」
芹澤が頭を下げた。
「いや、体調が悪そうだったから、気になっちゃって。早めに店を閉めて飛んできたんだ」
人懐っこい声を出した。
「えと、あの、少し眠ったのでもう大丈夫です。これから帰ろうかと」
「そうか! よかった。あとさ、せっかくだから、連絡先の交換でもしておこうと思って。ほら、これも何かの縁だから」
「そ、そうですか」
で、僕が出てくるのをそこで立って待っていたと言うのか?
その慇懃すぎる態度が僕には理解できなかった。
それとも偶然、軒先に着いたタイミングだったのか?
「名刺でいいですか?」
僕は名刺ケースから、仕事用の名刺を取り出す。
「携帯の番号は入ってる?」
「あ、いえ……」
「じゃ、アドレスも書いてほしいな」
「は、はぁ……」
ボールペンを手渡される。
彼のスピード感についていけず、僕は名刺の空白に携帯番号を書いた。
「ありがとう。大事にするよ」
芹澤が笑顔で会釈する。
「これ、僕の名刺ね」
何の変哲もないスポーツ店の名刺かと思いきや、カラーでしっかりとした顔写真が入っていた。
紙もそこそこ、上質なものを使用している。
僕はそれを受け取ると、
「で、では」
と頭を下げて、彼の横をすり抜け、家を後にした。
しばらく歩いて振り向くと、彼はまだ軒先にたたずみ、こちらを見ていた。
目が合うと、小さく手を挙げてきた。
帰りの列車の中で、もう一度、芹澤の名刺を見た。
その瞬間、脳が記憶を呼び戻した。
急いで携帯を開け、「大洗を新しくする会」のサイトへとアクセスした。
スクロールするのがもどかしい。
…………やはり、そうだ。
サイトの下部、「改革に賛同する市民会員」のリストの中に芹澤の顔があった。