道中、蓮田と篠崎は様々な話をした。
蓮田の話題のほとんどは、音楽と、今のレコードショップと、生まれてくる赤ちゃんのことだった。
一方で、篠崎は自分が今、何の仕事をしているか、これから遊べる機会が減るのがなぜなのか。
そういったことを話そうとしなかった。
大学はすでに卒業しているはずなのだが。
だが、あまり詳しく訊くのも野暮かと思い、訊きそびれてしまった。
途中で何度か、インターに止まった。
インターで休息するというのは、なかなかに楽しいものだ。
インター独特の食べ物や施設がある。
※
昼過ぎに淡路島に到着し、洲本という港町に降りた。
海の香りがした。
「あぁ。洲本の港だ」
篠崎が感慨深げにつぶやいた。
その瞳は、じっと海を見つめていた。
淡路島は、歩くには広いが、車があればぐるっと一周回るのは難しくない。
港で軽く海の幸を食したのち、車で一周した。
それでも、安藤忠雄が設計したという花壇を見ている頃には、もう15時に差し掛かっていた。
「そろそろ帰らないか」
蓮田の提案に、篠崎は頷いた。
車に乗り込み、神戸淡路鳴門自動車道を抜ける。
途中で大型バスを追い抜いた。
「神戸から出ている高速バスだ」
篠崎が言った。
そして、何かを思案する表情になった。
「なぁ」
山陽自動車道を走っているとき、篠崎が口を開いた。
「神戸で降りて、夕食を食べないか?」
「え?」
「今が16時だ。さっとどこかで、2時間だけ夕食をしても、18時にもう一度高速に乗り込めば24時には東京に着く。今日中に帰ることはできる」
「いや、でも。適当にインターで食べればいいじゃないか」
「……神戸がいいんだ」
篠崎の声はいつになく真剣だった。
「今日一日だけ、お前の時間を俺にくれ」
蓮田はうなずいた。
神戸ジャンクションで高速を降り、高速の高架下をしばらく走る。
古びた店構えのうなぎ屋の前で篠崎が車を止めた。
「ここにしよう」
そこは、時が止まってしまったかのような店だった。
年季の入った木製の椅子は、傷んではいるがよく手入れされていて、軋んだりはしない。
ブラウン管のテレビが置いてあり、大きな音で相撲の中継をしていた。
耳の少し悪いらしい老婆が、注文を取りに来た。
二人とも、うな重の竹を選んだ。
美味だった。
湯気が立つような温かい鰻の身は柔らかく、箸でほぐすと肉が白身魚のように崩れた。
しかし、しっかりとした食べごたえもあり、粒だった米との相性も抜群だった。
お互いに、ほとんど話をせずに黙々と食した。
鰻を食べ終え、再び車に乗ると、もうあたりは暗くなり始めていた。
神戸ジャンクションから、中国自動車道に乗り込む。
吹田ジャンクションへ向かう途中、高速道路の柵の隙間から、夜の街並みが見える瞬間があった。
それは驚くほど美しかった。
山の斜面に沿って立ち並んだ家々に、ぽつぽつと灯りがともっている。
まるで光の宝石で斜面を彩っているかのようだ。
蓮田は、思わずつぶやいた。
「今日は、ありがとう」
「え?」
篠崎が素っ頓狂な声を上げる。
「なにを言ってるんだ。無理を言って困らせたんだぜ、俺は。礼を言われるなんて……」
「いや。楽しかったよ」
「……そうか」
「あぁ。お前は、金持ちで、恵まれていて、頭が良くて。俺の持っていないものをたくさん持っている嫌な奴だが。一緒にいると最高に楽しいよ」
その言葉に、篠崎がふきだした。
「なに言ってるんだよ」
「あ、そうだ」
「なんだ?」
「お前さ、生まれてくる俺たちの子供に、名前を付けてくれよ」
「いいのか?」
「あぁ。お前がつけてくれたら、最高に楽しい子になると思う」
「わかったよ」
篠崎が柔らかく笑う。
「男の子か? 女の子か?」
「女の子の可能性が高いらしい」
「だったら、凪子なんてどうだ?」
「凪子?」
「凪いだ海の子供。凪ってのは、平穏な様子のことだ。ひとの人生はままならない。お前だって、波乱だらけだっていつも言ってるだろ。そうならないように。平穏に過ごせるように」
「いいな、それ」
蓮田は目を閉じた。
「男の子が生まれたときは自分で考えろよな」
そんな篠崎の声を聴きながら、眠りに落ちていった。
※
目覚めると、八王子のレコードショップの前で、夜の23時55分だった。
「起きろよ。ちょうど本日中に帰ってきたぜ」
篠崎が誇らしげに胸を張っていた。
「ははは。お疲れ様。まぁ、うちに寄ってお茶でも飲んでいけよ」
蓮田は笑いながら、自宅のドアを開けようとした。
が、ドアが開かない。
「?」
家には母親がいるはずだ。
普段は、誰かが家にいるときは鍵をかけない習慣だった。
「おかしいな」
ドアベルを鳴らす。
が、反応は無かった。
「寝ているんじゃないのか? 起こすとかわいそうだぞ」
篠崎が伸びをしながら言った。
「そうだな。合鍵を使うよ」
鍵を使ってドアを開ける。
玄関は真っ暗だった。
やはり寝ているのだろうか。
軒先の明かりをつける。
と、玄関に母親の靴がないことがわかった。
「家を出ているのか?」
嫌な予感がする。
「なんだ? 何かあったのか?」
「ちょっとおかしいんだ。母親の靴がない」
「靴箱にしまっているだけじゃないのか?」
「いつも出しっぱなしなんだ」
二人は家に入り、寝室、客間、キッチンと覗いてみるが、家には誰もいない。
「まさか……」
青ざめた顔で蓮田が廊下に設置された電話の受話器を取る。
病院にコール。
受話器を置いた蓮田がつぶやいた。
「……死産したらしい」
篠崎の表情が凍りつく。
予感は当たっていたのだ。
※
妊娠中期以降の死産というのは、かなり珍しい。
そのめったにない確率が当たってしまった。
それも、たまたま二人で淡路島に行っていた間に。
携帯電話も何もない時代だ。
連絡のつけようがなかったのだ。
医者の話によると、何らかの原因で赤ん坊は胎内ですでに死んでいたらしい。
「おそらく、数日前でしょうか」
と医者が言った。
そして、「もっと早くに気がつくべきでした」とつぶやいた。
そう考えると、篠崎と淡路島に行こうが行くまいが関係なかった。
彼が旅行に誘った時点ですでに胎児は死んでしまっていた。
誰もそのことに気がついていなかっただけなのだ。
だが、篠崎はずっとうなだれていた。
自分を責めているように見えた。
蓮田は、
「君のせいではないよ」
と言おうとした。
だが、言葉が喉から出てこなかった。
子供を失った悲しみを誰かに少しでも押し付けたいという深層心理が働いた。
篠崎に、
「君のせいではない」
という言葉をかけないことで篠崎を苦しめ、少しでも自分の苦しみを分け与えたいという気持ちがあったのだ。
俺はなんて嫌な奴なんだ。
だが一方で、こんなに悲しいのだ、何をしたっていいじゃないかという投げやりな思いも頭をかすめた。
ふと顔を覗き込むと、篠崎は涙をこぼしていた。
とめどなく涙をこぼしていた。
蓮田は自分の考えを恥じた。
「もういいんだ」
と言おうとした。
だが、言葉を発する前に篠崎は深々とお辞儀をして、駆け足で病室を出て行ってしまった。
蓮田は追いかけなかった。
妻の方が心配だったからだ。
篠崎にはまた今度、謝ればいいと思った。
ところがそれ以来、彼は二度とステレオ・ジャックにやってこなかった。
数週間後、『本当にすまなかった』とだけ書かれた手紙が一通、届けられた。
先出し人の名前も住所も書いていなかったが、篠崎からだということはわかりきっていた。
返事を書きたかったが、書きようがなかった。
考えてみれば蓮田は篠崎の住所も下の名前さえも知らないのだ。
どんな手紙を書いたところで、宛先のない手紙は戻ってくる。
続く