レコードショップの内装を整えるのは、美砂が手伝ってくれた。
彼女は絵が好きだった。
蓮田は嫌がったのだが、レコードショップのシャッターに、マスコットキャラクターを描くと言ってきかなかった。
仕方なく蓮田が了承すると、どこからがペンキを調達してきて、嬉々として絵を描いた。
不細工なネズミが、レコード盤とチーズの切れ端を見比べている絵だった。
「なんなんだよ。これは」
蓮田はため息をついた。
ついでに美砂のおでこを軽くチョップ。
「あいたた。ひどいよー」
美砂が口をとがらせる。
それから、
「なかなか可愛いでしょ?」
と胸を張った。
「いや、可愛くないから」
「ひどいなー。これね、ちゃんとメッセージになっているんだよ?」
「メッセージ?」
「そう! 君がね、お仕事をちゃんと毎日頑張るようにっていうメッセージ」
「どういうことだよ?」
「レコード盤が、毎日のお仕事。チーズの切れ端が、享楽とか怠惰。どっちを選ぶか、よく考えてねっていう意味」
「ふぅん……」
蓮田は、鼻筋を掻いた。
「ま、とりあえず俺はレコード盤を選ぶよ」
言いながら、美砂のペンキをとりあげる。
「さてと。店名を書かなきゃな」
「決めてるの?」
美砂が問いかける。
「おうよ。題して、ステレオ・ジャックだ!!」
「ふぅん」
「……反応薄いな」
「だって、けっこー普通だから」
「普通でいいんだよ。普通で」
実はこの店名には一つ意味が込められていた。
ジャックは、スティーリー・ダンのデビュー曲『ドゥ・イット・アゲイン』の歌の中から取られていた。
『ドゥ・イット・アゲイン』は、何かに失敗した男・ジャックに『やり直すんだ!』と繰り返す歌だ。
この店は、蓮田にとっても再起をかけた挑戦だった。
やり直せ!!
自分自身に、そう伝えたかった。
もっとも、のちに気がついたことだが、『ドゥ・イット・アゲイン』の歌詞は、悪癖へと再びジャックを誘っているようにも聞こえるのだが……。
※
それから1年が過ぎた。
店の売り上げはそれほど芳しくはなかった。
蓮田が選び抜いたレコードの数々は、玄人ウケはした。
しかし、所詮はマニアックなものだった。
視聴して聴かせたとしても、一発で良さをわかってもらえない時がある。
店内には、いかにもレコードマニアといった風体の中年が多かった。
展開の中心であるプログレッシヴ・ロックがそもそも下火になっていたことも理由だろう。
その中で。
こぎれいな服装をした若い男は、ひどく目立っていた。
男は蓮田と同じ齢か、少し若いぐらいに見えた。
20歳ぐらいだろうか。
髪を短く刈り込みつつも、ワックスで動きを持たせ、清潔感と遊び心を共存させている。
淡いグレーにヴィヴィッドなブルーのストライプが入ったボタンダウンシャツを身にまとい、ラルフローレンの刺繍が小さく入った高級そうなジーンズを穿いていた。
靴は、ダークブラウンのなめし皮だ。
先が尖っていないのが、粋がりすぎていず、余裕を感じさせる。
一見して気に入らないタイプだと思った。
蓮田にとって、ロックンロールとは鬱屈だった。
恵まれていない人間の、恵まれた社会への攻撃だった。
若い男はどう見ても、恵まれているように見える。
お前のような男がロックを語るな。
心の中でそう思った。
どうせ、こんなやつ。
物見遊山気分でこの店に入ってきたのだろう。
と、そんなことを考えていると、若い男がレコードを手に近づいてきた。
「これ、ください」
年齢に似合わない、品のある声とともに差し出されたのは、オザンナの「パレポリ」だった。
多少なりとも知識がないと選ばないものだ。
適当にチョイスしたとは思えなかった。
蓮田は不思議な気持ちでレジを打った。
男は小さく礼をして店を後にした。
それが篠崎との出会いだった。
※
それからも、篠崎はきっちり週に一回、店にやってきた。
ある時はマクソフォーネを購入し、ある時はルネッサンスを購入した。
どうやらプログレッシヴ・ロックの知識は持っているようだった。
蓮田はある時、篠崎に問いかけた。
「ねぇ。君。若いのにずいぶんと詳しいんだね。何してる人なの? バンドとかやってるの?」
「え?」
篠崎が目をぱちくりとした。
「あぁ、いや。俺はただの大学生だよ」
気取った声だった。
篠崎が口にした大学の名は、都内でも有数の名門大学だった。
蓮田は絶句した。
いかにも育ちが良く、ロックの知識もあり、そして名門大学に通っている。
年齢は20歳だった。
自分と1つしか違わない。
篠崎が店を後にしてから、蓮田は歯ぎしりした。
この世の中には、恵まれた人間と恵まれない人間がいる。
あの男は、恵まれた人間だ。
奴は大学に通い、ほとんど同じ齢の俺は、こうしてあくせくと働いている。
この違いはなんだ!
※
蓮田のそんな内心とは裏腹に、篠崎はちょこちょこと店に通い続けた。
そして、マニアックなレコードを買っていった。
ある時、篠崎が顔を真っ赤にしてふらふらと店に入ってきた。
蓮田は驚いてレジから出て篠崎の体を抱きかかえた。
「お、おい、どうしたんだよ」
「ごめん、ちょっと、その。飲みすぎたんだ」
篠崎は明らかに酒臭かった。
「嫌なことがあってな。飲みすぎちまった。行くあてがなくなって、気がついたらあんたの所に来ていた」
よく見ると、気障なシャツにべっとりと反吐がついていた。
「なんだよ、そりゃ」
蓮田は笑った。
蓮田も一時期良く飲んだ。
荒れている時期だった。
安いブレンデッド・ウィスキーを浴びるほどあおって、このまま死んでやろうかと思ったこともあった。
「天下の大学生様にも、嫌なことなんてあるのかい」
「そんなの、毎日だ」
ろれつの回らない声で篠崎がつぶやく。
「良いご身分で、なにを甘えたことを」
「良いご身分には、良いご身分なりのストレスがあるのさ」
その言い訳は悪くなかった。
あっけらかんとして自分を認めている。
蓮田は笑った。
こいつは恵まれている。
恵まれているが、憎めない奴だ。
そう思った。
※
それ以来、二人で飲むようになった。
篠崎は蓮田を高級店に連れて行こうとはしなかった。
大概は蓮田に合わせて、路地裏の立ち飲みか、蓮田の自宅で宅飲みをした。
時折、篠崎が高級ウィスキーを差し入れに持ってくることがあった。
「こいつはシークレットだぜ」
篠崎は冗談めかしてそういった。
そんな様子が微笑ましかった。
二人で、しこたま酒を飲み、音楽談義に花を咲かせた。
朝まで飲んで、ヘロヘロになって、美砂に怒られることもあった。
※
そんな風にして、数年が過ぎた。
蓮田は美砂と結婚し、美砂はお腹に子供を宿していた。
5月の最後の日の夜、篠崎が蓮田をドライブに誘った。
買ったばかりだという車を見せてくれた。
それは、白のマーク2だった。
美砂が入院していることで、蓮田は少し渋った。
もうすぐ子供が生まれそうだったのだ。
「でもさ、今すぐというわけじゃないんだろ?」
篠崎はいつになく強く押してきた。
「あ、あぁ。まぁな。お医者さんの話だと、もうすぐというだけで、今すぐというわけじゃなさそうだ」
「だったら、頼むよ」
篠崎が頭を下げた。
「ちょっと色々あって、もうあまり遊べそうにないんだ。最後の晩餐だと思って、付き合ってくれ」
その言葉に、心が動いた。
美砂のことは心配だったが、病院に連絡を入れ、篠崎の車に乗り込んだ。
車は、東名高速をどんどんと走っていく。
「どこへ行くんだ?」
蓮田は篠崎に尋ねた。
「淡路島だ」
篠崎が答えた。
「淡路島!?」
「あぁ」
「どういうことだよ?」
「子供の頃、何回か行ってな。とても好きなところなんだ」
「どうしても行きたいんだな?」
「あぁ」
蓮田はため息をつき、バックシートに体を預けた。
「わかった。付き合うよ」
「恩に着るぜ」
篠崎が笑いながら、片手で煙草に火をつけた。
サイドガラスを開き、器用に外へ向けて煙を吐く。
「淡路島って行ったことあるか?」
「いや、一度もない。兵庫県だっけ? それとも、四国になるのか?」
「馬鹿。兵庫県だよ」
篠崎が苦笑する。
「国生みの島と呼ばれていてな。日本書紀の最初に出てくる島なんだ」
「へぇ」
「魚が美味いぞ」
「東京から淡路島って、どれぐらいかかるんだ?」
「そうだな。ざっと6時間ぐらいだ」
「6時間か」
「あぁ。だから、寝ていてくれていいよ。昼過ぎには着いている」
「別に寝たりなんかしないよ。話してるさ」
続く