芹澤と名乗った男は、いやに人懐っこい表情を見せ、右手を差し出してきた。一瞬なんなのかわからなかった。
それが握手を求めているのだと気が付くまで数秒かかった。
僕は少し躊躇しながら彼の真似をして右手を差し出す。
「どうも。辻廉太です」
手のひらを強く握られた。
硬質な、がっしりとした手だった。
僕は基本的に他人とは距離感を保ちたい性格だ。だから、唐突な握手にはあまり良い印象を抱かなかった。
こちらのそんな気持ちは分かっていないであろう芹澤が、父に向って
「品のある素敵なご子息ですね」
と言った。
「そうか。そう感じてくれるなら親としてはうれしいが」
父が照れくさそうに笑う。
僕はかなりイライラとしていた。地味でうっとおしい僕のどこに品があるというのだ。
今までそんなことは一度も言われたことがない。あまりにも歯の浮くお世辞だ。
「あ、せっちーだ! 何してるの?」
僕がうつむいていると、通りがかった女性が手を振った。
「お昼の休憩だよ」
「お店ヒマなの~?」
「学園艦が行っちゃたからね。ユウちゃん、なんか買ってってよ」
「え~? もう私、戦車道は引退したもん」
じゃぁね、と手を振ってモールへと消えていった。
「今の人は?」
「あぁ、うちの店の常連だった子ですよ。高校生の時に戦車道やってて。寄港した時は友達何人かでよく遊びに来てくれてたんですよ。もう卒業して、陸に降りて数年経つのかなぁ。時が流れるのは早いもんです」
「あぁ、戦車道……」
「お! 興味ありますか?」
「興味というほどではないですけど。時々テレビで試合を見るぐらいです」
本当は戦車道には10年前から思い入れがあった。
だが、それは僕にとってはややインティメートな性質の思い入れだった。
他人と共有して騒ぎたいとは思わなかったので、抑え気味にした。
それでも芹澤は食いついてきた。
「へぇ。テレビで試合見てくれているんですね。それはうれしいなぁ!」
まるで戦車道が自分のものであるかのような物言いに聞こえた。
「僕はね、戦車道をすごく応援しているんですよ。うちのお店にいろいろとグッズを置いたりしているんです」
「芹澤君の店はすごいんだぞ」
父が口を挟んできた。
「試合に使う棒みたいなのあるだろ。ほら、あれなんて言うんだ。棒」
「棒?」
僕は首をかしげた。
「棒だよ棒。試合の判定に使う、審判が持ってる棒だ」
「あぁ、判定用の札のことか」
「そう。大洗市街地での試合には芹澤君の店から卸すようになっているんだ」
「へぇ」
それって単に商工会議所と行政がグルになって地元の販売店の売り上げ稼ぎをさせてやっているだけじゃないのか?
この男の店は製造元というわけではないわけなのだから。
「いやいや、恐れ多いですよ」
芹澤が笑った。
「でもね、廉太君」
いつの間にか彼は僕に対する敬語をやめていた。
「この町は、OG多いよ。戦車道の」
「そうなんですか?」
「うん。なんて言うのかな。やっぱりほら、スポーツやってる女の子たちだから。考え方がしっかりしているっていうか、ちゃんと愛郷心を持っているっていうか。さっきの子だって、船を降りた後はああやって地元に戻ってきてくれているしね。卒業後もちゃんと町に残ってくれるから。戦車道のOG会ってのもあって、けっこう頻繁に集まったりしているんだよ」
「それはいいことですね」
「そうだよ。これからの政治は、あぁいう、心身ともにたくましく、地元愛にあふれる若者を育てるべきじゃないかな」
「戦車道のOG会、名前はアンコウ肝の会略してアン肝会というんだがね、市のいろんなイベントに出てもらったり、父さんの選挙でもずいぶんと動いてくれたんだ。芹澤君はそのまとめ役をやってくれていたんだぞ」
「選挙?」
聞き間違いかと思った。戦車道と選挙が一体どういう風に結びつくのかがよくわからなかった。
それに、僕が感じていた戦車道の魅力……明るく元気な少女たち……と選挙というどろどろと薄汚れたものとはあまりにも相容れないように感じられた。
だが父は、あっけなく僕の質問に答えた。
「そう選挙だよ」
「え? でも、戦車道をやっているのはまだ子供たちだよ?」
何かの間違いだと言ってほしかった。
「だから、OG会だと言ってるじゃないか。18歳で高校を卒業するんだから、そのまま陸に降りてきたらすぐに20歳だ。大学を出たとしたら、大洗に戻ってきた時点で確実に選挙権がある年齢だ」
「廉太君、君はあまりお父さんの選挙を手伝ってこなかったから知らないのかもしれないが、スポーツ関係のOB・OG会っていうのは、選挙にそれなりの影響力を持ってるんだよ。結束が固いし、上の命令をよく聞くからな。
若者は普通はなかなか投票に行かないが、スポーツ系のOB・OG会は上を引き締めれば若い連中も促されて投票に行く可能性が強い。体育連盟の新年会にでも一度顔を出してみるといい。票を狙った町議さんたちがたくさん参加しているよ」
「野球は中野議員、サッカーは芳川議員の応援団だ。戦車道はもともと別の議員さんのものだったが、芹澤君が一生懸命まとめてくれたから、だいぶ俺に票が流れたはずだ」
「ははは、頑張らせていただきました」
「そ、そうだったんですか……」
「ん? どうしたの? 顔色悪いよ?」
「大丈夫か、廉太」
「あ、だ、大丈夫。少し疲れただけだから」
僕はふらふらと壁にもたれこんだ。
「お前、風邪か何かじゃないのか? 東京で仕事を頑張りすぎているんじゃないか?」
父が心配そうに覗き込んでくれた。
その瞳にはいやらしさは微塵もなかった。
「大丈夫? 今日は実家にいるんでしょ。ゆっくり休んだ方がいいよ」
芹澤が猫なで声で言った。
「申し訳ないね。俺は廉太を連れて家に帰るよ」
「はい。こちらこそ、親子水入らずのところを邪魔をして申し訳ありませんでした」
仕事に戻ります、と言いながら背を向ける。
父が、
「ありがとう。また、明日『増野』で」
と言った。
芹澤が振り向いて、馬鹿丁寧にお辞儀をしながら言った。
「はい。承知いたしております」
嫌な笑顔だった。