八王子駅に降り立つともう夕方の19時を回っていた。
インターネットで検索した折には、営業時間が出てこなかった。
ステレオ・ジャックは個人経営の小さなレコードショップだ。
もしかして早い時間に閉めてしまうかもしれない。
そう思い、僕は急ぎ足で店に向かった。
途中で小さな路地が連なっていて、正確な位置が良くわからなかった。
やっと、『ステレオ・ジャック』と書かれた小さな看板を見つけた時には20時に近い時間になっていた。
そして案の定、シャッターが下りていた。
シャッターには、歯並びの悪い鼠が描かれ、左手にはチーズ、右手にはレコードを持っていた。
彼はどちらを選ぶべきか思案しているのかもしれない。
僕はため息をついた。
これでは無駄足だ。
シャッターには営業時間も記されていた。
12時~19時30分。
ほんの20分ほど間に合わなかったというわけだ。
営業時間の下に記されている電話番号に携帯でコールをしたが、誰も出なかった。
レコードショップの隣には、個人経営らしき小さなケーキ屋があった。
ここまで歩いてきたことに対してせめてもの報酬が欲しくなった。
僕はケーキ屋ののれんをくぐった。
「いらっしゃいませっ」
二十歳そこそこぐらいの髪の長い、ふわっとした雰囲気の女の子がカウンターで出迎えてくれた。
少し可愛かった。
不意を突かれたような気分になり、僕は少し鼻白んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
女の子が鈴の鳴るような声で尋ねる。
つい入ってしまったが僕は甘いものを食べる習慣があまりない。
回答に困った。
「なにか、その、あっさりしたものを」
「え?」
女の子が少し戸惑ったように言った。
「あっさりしたケーキ……甘いものはお嫌いですか?」
「その。少し用事があってここまで来たんだけど、用事がなくなってしまったんだ。それでつい、ここに入った。ケーキに詳しくないんだ」
「そうですか」
女の子が、人差し指を顎に当て、ん~、と思案顔をする。
「でしたら、あまりごてごてしていないイチゴのショートケーキと、ご一緒にコーヒーはいかがですか? 苦いコーヒーと一緒に食べれば、程よい甘さになりますよ」
「ここでコーヒーを飲めるの?」
女の子が頷く。
「はい。ひと席しかありませんけど。ほら、そちらの壁際に」
見ると、奥の壁際に小さな藤編のテーブルと椅子があった。
壁際には窓があり、小さなランプ細工が備え付けられていた。
「いかがです?」
「そうだね、それじゃそうするよ」
「ありがとうございます!」
女の子が嬉しそうに微笑む。
僕はつい、商売上手だね、と言いそうになって、口を押えた。
思考回路が皮肉的になりすぎている。
藤編みの椅子に腰かけると、独特のきしみがして、心地よさを感じた。
店内には小さな音でクラシックが流れている。
窓からは、夜の街並みが見えた。
郊外の都市らしく、道が広く、そして丁寧に舗装されていた。
こじゃれたデザインの街燈が見える。
ひどく落ち着いた気分になった。
このところずっと忙しくて、こんな気持ちそのものを忘れていた。
「はいっ。どうぞ」
女の子の声で我に返る。
机の上に、良い匂いのする暖かいコーヒーが差し出された。
続いて、上品な雰囲気のショートケーキ。
「ゆっくりしていってくださいね」
そう言い残して、女の子はカウンターへと戻っていった。
僕は、しばらくぼんやりとコーヒーカップとケーキを見つめていた。
コーヒーカップからたつ深みのある香りが心を解きほぐすようだった。
僕はそれを飲んでしまうのが惜しいとさえ思った。
※
コーヒーとショートケーキのセットは美味しかった。
僕はそれらを食べ終えると、立ち上がり、カウンターで会計を尋ねた。
すると女の子は、ショートケーキの値段だけを口にした。
「コーヒーとのセットだよ?」
僕は尋ねた。
「ああ、それは……」
女の子がはにかんだように微笑む。
「サービスですよ。お客様が、甘いものがお好きではなさそうだったので、自宅のコーヒーを入れて出しただけなんです」
「え? それじゃ、あの席は?」
「あそこは本当は、混んだ時や、ご提供に時間がかかる時の待合用の椅子なんです」
まぁ、うちは混むことなんてないんですけど。
少し自嘲気味にそう付け加えた。
※
僕は礼を言って、ケーキ屋を出た。
久しぶりに胸が温かい気持ちになっていた。
と同時に、自虐の念が胸を襲った。
僕は、人に優しくされるほどの資格のある人間だろうか。
僕は齢だけを重ねた、子供のような大人で。
学園艦の件で、子供たち相手に約束を反故にしたりもした。
そのことを知っていても、あの子は僕に優しくするだろうか?
そんなことを考えながら、駅までの道を歩いた。
続く