「俺たちは二人とも、関西で生まれ育ったんだ」
高田が、いかにもつまらない事実だというようにつぶやく。
「俺は大阪北東部の街、篠崎は兵庫県南東部の街で育った。芦屋って知っているか?」
「ええ、なんとなくは……」
それは、関西屈指の高級住宅街だったはずだ。
「たぶんお前は今、山手の高級住宅街を思い浮かべているんだろう? 芦屋といってもピンきりだ。篠崎の家は、香露園のあたりさ。海側なんだ。
途中からはたしか、魚崎のあたりに引っ越した。これも海側だ。それでも、俺が暮らしていたところよりはずっとマシだ。北河内に行ったことがあるか?」
名前ぐらいしか知らなかったので僕は首を振った。
「ろくでもないところさ。動脈みたいに国道一号線が走っていてな。いつでも五月蠅くて、排気ガス臭い。
南に行けば工場地帯だ。喧嘩っ早い男が多い。高度成長期に一気に宅地化されたから、住宅密度も凄い。狭苦しくて、息苦しいんだ」
その言葉には、幾分高田の主観が含まれていたような気がした。
彼はどうにも、故郷に恨みがあるようだ。
「淀川っていうでかい河があってな。その河を渡れば、向こうは北摂だ。大阪の高級住宅地なんだ。
俺はいつも、淀川から対岸を見つめていた。向こう側に行きたいと思っていた」
僕の脳裏に、川べりに佇む少年時代の高田が思い浮かんだ。
その顔は黒く塗りつぶされていたが。
「でもな、行けないんだよ。俺の父親は、地元で荒物屋をやっていた。地元密着なんだ。その土地を離れることなんてできやしない」
高田が悔しそうに唇をかむ。
その表情から、当時の想いが汲み取れるようだった。
「幼いころ、俺は何度か、篠崎の家に遊びに行ったことがある。裕福な家庭だった。
なんというか、空気感が違うんだ。俺の家とは。余裕があり、すべてが豊かなんだ。あくせくとしていないんだ」
言いながら、コーヒーカップを強く握る。
「篠崎は俺よりも5歳年上だった。彼はどことなく気風が良くてな。俺を弟みたいに可愛がってくれたよ。
でもな、どこか、鼻に着く部分があるんだ。俺を見下しているような。そんな感じが。俺を見下して、それで優しくしているように感じるんだ」
それは明らかに、高田の劣等感から生まれた妄想のように思われた。
「俺は篠崎家に遊びに行った帰りに、母親を責めたよ。どうして、父さんなんかと結婚したんだ?ってね。
あんな荒物屋のつまらないオヤジと。篠崎家はあんなに金持ちなのに、と」
それは残酷な言葉だ。
僕は首を振った。
「母親は困ったように微笑むだけだったよ。親父のことが好きだったんだ。
俺は……篠崎家には二度と行くまいと幼心に誓った。勉強して、偉くなって金持ちになってやろうと思った」
その物語は、少しだけ僕の幼い頃とも似ていた。
僕は父親のようになりたくなかったから、勉強して役人になろうとしたのだ。
「俺は勉強して、中学受験で上本町にある進学校に入学した。そこそこ有名な中高一貫校だ。そこでトップレベルになれば東大や京大に行ける。
俺は合格通知を握りしめて飛び跳ねた。俺だってやればできるんだ、と思った。だがな、運命ってのは数奇なもんだぜ。高等部に、篠崎が先輩として在校していたんだ」
「そんなまさか?」
僕は思わず問いかけた。
「関西は東京と比べりゃ、狭い。進学校の数だって限られてくる。たまたまヒットしたんだ」
高田が自嘲気味に笑った。
「篠崎はその高校で、優等生として通っていた。俺はそのことに反発を覚えてね。なんだかどうでもよくなってしまった。
それからは、中高とやんちゃし放題さ。もう勉強する気をなくしちまった。髪を染めたり、ケンカしたり。
何度も停学になったぜ。カトリックの学校なんだ。停学になると懺悔室で懺悔させられる」
僕はコーヒーカップを口に運ぶ。
いつの間にかコーヒーは空になっていた。
「で、ろくに勉強しなかったんで、大学は関関同立だ。あとから訊いたら、篠崎は早稲田に行ったらしかった。そのことを聞いた時、俺は、また悔しさがこみ上げてきた。
俺のもともとの夢は、関西から這い出して東京に行くことだったんだ。それが、俺はいまだできずにいるのに。篠崎の奴は、のうのうと東京の大学に行きやがった」
高田が舌打ちをする。
「俺は目が覚めたよ。なんとしてでも東京に出る。そして、いい職についてやる。そう思った。それで大学では猛烈に勉強して。誰にも無理だと言われていたが、官僚になったんだ」
「そう……だったんですね」
僕は嘆息した。
ようやくこれで、高田の抱えていたコンプレックスに合点がいった。
「でもな。省庁に勤務して篠崎が議員になっていることを知って驚いたよ。俺はまた負けた、と思った」
高田が悲しげに首を振った。
「そんな時、俺を諭してくれたのが中さん……中津さんだったんだ」
中津さん。
それは懐かしい名だった。
「お前も親しくしていただろう? 中さんが、俺に言ったんだ。
『議員なんて、所詮は選挙次第で身分を失う人間だ。人から常に批判の目にさらされているし、選挙だのなんだので、金だってどんどん消えていく。役人になった君の勝ちだよ。きっと最終的にはね』とな」
中津さんの声が思い出された。
考えてみれば、中津さんは出世レースから早い時期にリタイヤした人間だった。
その言葉は、自分に言い聞かせる言葉でもあったのではないだろうか。
「俺は、その言葉をよりどころに、篠崎に怒りを露わにせず、そこそこの付き合いをやってきた。
せめてもの、自分の矜持として、彼との親類関係をちらつかせて出世レースに利用することだけはすまい、と心に誓ったんだ」
「それで、高田さんは、篠崎代議士との関係を黙っていたんですね」
「そういうことだ」
高田が唐突に手を挙げた。
近くにいたウェイトレスがやってくると、コーヒーのお替りを注文した。
「もっとも、彼からしたら、俺のその態度は、評価が高かったらしい。皮肉なもんだよ。
30年ほど前、たまたま議員会館ですれ違った時に、声をかけられた。『昔は荒れていたが、ずいぶんと男らしくなったな』と。俺は返す言葉がなかった」
それは確かに、若い頃の篠崎代議士が言いそうな言葉だった。
「ま、俺の話はそんなもんだ。思ったよりも長話になっちまった」
やれやれ、というように高田が笑う。
「そろそろ、本題に入ろうか」
続く
やっと3話ぐらいで書いておいた伏線が回収できました。