ちょっと仕事が忙しかったのと、展開を考えていたのとで、更新が遅れました。
朝、目覚めたときに、心に空白が生まれていた。
その空白は、氷のようなもので埋められていた。
僕はそれが何であるのかを知ろうとした。
うまく言葉で言い表すことができない。
諦念?
違う。
悔しさ?
違う。
虚無?
違う。
とにかく、心が凍りついたようだった。
僕はいつも通り顔を洗い、歯を磨き、髪をとかし、登庁した。
いつもよりも背筋が伸びているような気がした。
朝から何人もの職員が入れ代わり立ち代わり、局長室へと去来した。
そのほとんどがフィリピンでの学園艦事故の報告事項だった。
僕らはそれら報告に目を通し、対応を指示した。
危機管理課の西脇が電話をかけてきた。
「辻さん、あの艦は日本製だったみたいですね」
「やはりそうですか」
「はい。責任が追及されるという流れにならなければよいのですが……」
「そんなことにはならないでしょう。古い艦です。買い取ってから向こうで改造しているに違いありません」
僕はそう言い放った。
そして事実、世論はそう動いた。
最初は、かつてその船を提供したのは日本企業だということが話題になったが、すぐにしぼんでいった。
沈没した学園艦は、フィリピンで改造され、積載人数などが大幅に増やされていた。
もともと老朽化していた駆動部やエンジンが、その上の無理やりな改造に耐え切れなかったというのも、事故の原因の一つだった。
事故による行方不明者・死者の数は、日々ひび増えていく。
遺体の回収が進み、数が判明すればするほど、行方不明者数が死者数へと移行していく。
痛ましい事件に対する哀悼の論調は、やがて、学園艦に対する危機管理の問題へと変わっていった。
フィリピン国内で、学園艦運営に対するデモが行われているとメディアが報道する頃には、日本の討論番組でも、有識者やコメンテーターが、学園艦事業の見直しを唱えるようになっていた。
篠崎代議士の読み通りだった。
僕は唇をかんだ。
驚くほど、すんなりと仕事が進む。
この頃になると、学園艦統廃合案に対して、大手を振って反対をする議員は鳴りを潜めていた。
熱政連の議員たちから呼び出しを食らうこともなくなった。
政治家は世論に敏感なのだ。
学園艦存続を唱えれば攻撃されかねない空気が醸成されていた。
このままだと、統廃合案は与党内で合意形成され、法案としてあげることができるだろう。
法案として上程できれば、あとはもう可決は間違いない。
与野党の数のバランスから、それはわかりきっていた。
庁内を歩いていると、他の職員が僕を驚きの目で見つめることがあった。
一人の男が、ある日、僕の肩をたたいた。
「すごいじゃないか、辻君」
眼鏡をかけた、50代ぐらいのその男は、あまり知らない男だった。
恐らく、文科省の別の部局の男だったか。
「なにがです?」
「今回の学園艦の件だよ。まさに粘り腰だな。通りそうじゃないか」
「いえ、運が良かったんです」
「あの事故がなければこうはならなかったもんな」
「はい」
「運も実力のうちだ。誇っていいことだよ」
人からこのように褒められるのは珍しいことだった。
明らかに、庁内での僕の評価が変化し始めていた。
僕ははじめそのことに対して、虚しさがあった。
それは自分の行動ゆえに得られた評価ではないという気持ちがあったからだ。
どこまでも篠崎代議士の読みが見事だっただけだ。
だが、いろいろな人の話を聞くに、それだけではないということに気がついてきた。
庁内の人々は、『熱政連の議員たちに、こ突きまわされても、折れずに耐え抜き、逆転の状況まで持ちこたえた』という僕の忍耐力を評価しているようだった。
そのことがわかると、誇らしい気分になった。
僕の忍耐力。
そんなある日、議員会館の廊下で珍しい人物とすれ違った。
芹澤だった。
すっかり貫禄をつけ、以前よりもさらにいやらしい高級さを醸し出すスーツに身を包んでいた。
僕は、向こうが気がつかないならやり過ごそうかと思ったが、好奇心に勝つことができず、彼を呼びとめた。
「芹澤さん」
続く