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マンションの扉を開け、灯りをつけると山下が歓声を上げる。
「おぉ~、広いな」
「まぁ、どちらかというとファミリー向けの物件だからな」
「いや、いい部屋だわ。それに綺麗に片付いてるねぇ。神経質な辻ちゃんらしいよ」
「そうか? こんなもんだと思うけど」
「いやいや、うちなんて俺も嫁も子供も片付けられない性格だから。スゲー汚いよ」
「それは……お邪魔したくないな」
山下が勝手に冷蔵庫を開ける。
「おっ。能勢の天然水ソーダじゃん。いいセンスしてるね。あえて山崎じゃないところが憎いぜ」
「別にこだわりがあるわけじゃないけどな。ってか勝手に冷蔵庫を開けるな」
「これ冷やしとくためだよ」
と、ペットボトルのミネラルウォーターと氷を入れる。
「さてと、お酒は……。うぉっ。ずらっと並べてある。これ、飲み終わったボトルか?」
「ああ。ずっと前にお前がそうしてるって言っていたのを真似てみたんだ」
「へぇ……。俺はもう、こういうことはずっと長い間してないなぁ」
「意外だな」
「嫁が許してくれないんだよ。ゴミを並べるなって言われちまう」
「ははは」
「さて、と」
テーブルにとりあえず座る。
「あ、どうする? さっそく飲む?」
「そうだな。飲むかぁ。ハイランドクイーン飲んだことないから気になるわ。飲ませてくれよ」
「オッケー」
僕は立ち上がり、ハイランドクイーン・マジェスティのボトルと、グラス、氷、ソーダを持ってくる。
「どんな味なん?」
「そうだなぁ。スムースなんだけど、ほのかに癖があるかな。苦味みたいなのがちゃんと舌に感じられるっていうか」
「へぇ」
「バランタイの12年を普段よく飲むんだけど、比べるとよくわかるよ」
「なるほどねぇ」
グラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぎ、マドラーでなじませる。
その上にソーダ水を注ぎ込み、もう一度軽くかき混ぜる。
「はい、完成っと。……あっ、山下、ソーダ割りで良かったっけ? いつもの癖で割っちゃったけど」
「ああ、大丈夫だよ。二杯目は自分でロックにする」
「了解」
二人同時にグラスを唇につけ、ハイボールを口に含む。
ソーダ水の爽快さとウィスキーの苦味が混ざり合い、なんとも言えない味わいが舌に広がる。
「うん。これはけっこう美味いね」
「山下大先生にそう言ってもらえてうれしいよ」
「いやいや、今じゃ辻ちゃんの方が飲んでるんじゃないの?」
「そういうとさ、山下、なんでバ-に行かなくなったの? 奥さんに怒られるとか?」
「いや、そう言うわけでもないんだけどな……。うぅん、なんというのか。もう少し、建設的に生きたくなったんだよな」
「建設的?」
「ああ。うまく言えないんだけど。俺さ、昔はすごくよく外で飲んでたじゃん」
「そうだね」
「それがさ、こう、癖みたいになっちゃってて。酒を飲むのが習慣になっちゃって、なんかこう、他に生きる意味がないというか。ただ仕事して、そんで癖みたいに飲んで、酔って家に帰って、ってやってて、それでいいのかなって思ってさ」
「へぇ……。そういう考えがあって、バーに通わなくなったんだ?」
少し照れくさそうに鼻を掻く。
「そうなんだよ。バ-で飲む時間をなくしたら、他にいろいろやることができるようになって。酔っぱらってるよりもその方が良いかなって」
「なるほどねぇ。山下ってさ、なんか酒以外にプライベートの趣味があるの?」
「まぁ、そのな、趣味というか。小説とかシナリオとか書いたりしてる。たまにネットに投稿したりしてるよ」
「へ?」
意外な単語が飛び出してきた。
「小説? シナリオ?」
「ああ。覚えてるかわかんねーけどさ。ずっと前に、お前と飲んだ時に俺、言ったじゃん。大学生の時、映研にいて自主製作映画撮ったりしたって」
「そうだっけ……そういうと、一度そういう話聞いたかな」
「うん。俺さ、本当は映画の脚本家になりたかったんだよ。そんときは何も思いつかなくて書けなくて、俺はカメラ担当だったんだけど」
「そうなんだ」
「んで、ずっとさ、自分がこの世に対して何も生み出していないっていう悔しさみたいなのが胸にあってさ」
「え? でも山下さ、昔から仕事スゲーできるじゃないか」
「仕事はまた別っていうか、自分で創作して何かを作り上げるわけじゃないしさ」
そういうことを僕は考えたことがなかった。
目の前にある仕事をこなしていくことが、生きていくことだと思っていて、それ以上のことに思いが及んでこなかった。
だから、山下の言葉には少し驚かされた。
自分にはない価値観。
「そっか。そういう考え方もあるんだな」
「辻ちゃん、50歳にもなって何言ってるんだよ。って、でもそういうもんか。社会人になってからずっと忙しくて、なんか目先の糸を手繰るばっかで、違う世界を見る機会なんてほとんどないもんな」
「うん、まぁね……。山下はさ、なんかきっかけがあったわけ? プライベートで小説書こうとか考えるようになった」
山下は考え込むように沈黙した。
グラスに口をつけて、ハイボールを一口飲み、天を仰ぐ。
「そうだなぁ。あるっちゃぁあるよ」
「どんな?」
「あのさ、俺さ、一度、自殺未遂っていうのかな? そういうことがあったんだ」
「自殺未遂?」
また予想外な言葉が出てきた。
陽気な山下からは想像もつかない。
「自分でもよくわかんないんだけど。30代の頃、ちょっと鬱っぽくなっちゃって。ストレス晴らすために、仕事終わると酒飲んでさ。その頃ちょうど、学生時代の事とか思い出して、自分の人生ってなんなんだろうとか、なんか変な気持ちになっちゃったのよ」
僕は頷きながら、山下の言葉に耳を傾ける。
「で、ある日、確かあれって辻ちゃんと飲んだ日だったと思うんだけど、スゲー酔ってて。虚しくってさ。気が付いたら街をうろついてて。忘れもしないわ。なんか急に東横線に乗りたくなって、武蔵小杉で降りたんだよ。でも、立ち寄る店もなくてさ。またホームに戻って。で、列車を見てたら、急に飛び込みたくなって」
そこまで言葉を紡いで、あははっと笑う。
「飛び込んだわけじゃないぜ。一瞬の気の迷いみたいなの。自分でもはっきりとわかんねーんだけど。でも、踏みとどまって。家に帰って。そしたらさ、なんか、もっと真っ当に生きようって思ったんだよ」
山下の目は真剣だった。
冗談ではないのだろう。
僕は、友人の知らない側面を聞かされて少し狼狽した。
それと同時に、自分にはそういう機会がなかったことに少し複雑な思いを抱いた。
僕もこれまで、山下と同じぐらい生きてきて、いろいろな局面に差し掛かってきた。
庁内での仕事。
大洗での選挙。
襲撃されたこと。
父を失ったこと。
吉中さんを失ったこと。
だが、結局は僕は今、山下が止めた一人酒を飲み、流されるように仕事に没頭している。
この違いはなんなのだろうか。
僕に、ものを考える力が欠落していたというのか?
僕は首を振った。
わからない。
……いいや、そうじゃない。
たぶん。
僕と山下は、価値観が違ったのだ。
山下には、シナリオだとか小説だとか、プライベートでやりたいことがあった。
一方で僕には、趣味らしい趣味はなかった。
この違いが大きいのだ。
僕だって、ずっと若い頃、自己改革をしようとした。
篠崎代議士についていこうと思ったのも、大洗に帰って人と関わろうとしたのも、「なにもない自分が情けない。もっと積極的に生きたい」と思ったからだったはずだ。
だから、僕にとってのやるべきことは、仕事に没頭することになっていったのだ。
しかし……僕はいつの間にか、そのもともとの理由を忘れていた。
ひたすらに目の前の仕事をこなし、庁舎内での立ち回りに夢中になり、出世レースに乗ることに自分の軸をシフトしていた。
そんなつもりはなかったが、無意識のうちに、そうなっていたのだ。
僕は……。
僕がしばらく黙ってしまっていたからだろう。
山下が、陽気な声を上げた。
「ごめんごめん、なんか変なこと言っちゃったな! 久しぶりに酒を飲むとダメだ。辻ちゃん、忘れてくれ。さぁ、飲もうぜ」
矛盾したことを言いながら、ぐいっとグラスを傾ける。
「よぉし、飲み終わったぞ。次はロックだ」
「あ、あぁ。ロックグラスをとってくるよ」
「サンキュー」
僕が立ち上がり、キッチンでロックグラスを探していると、山下が尋ねてきた。
「俺の話はまぁ置いといてさ。辻ちゃん、久しぶりに俺を呼んだわけじゃん。なんかあったんじゃないの? 悩み事とかあるなら、聞くよ?」
「……ありがとう」
僕は机の上にグラスを置いた。
続く
山下のエピソードは、「21話 外伝 山下氏の茫洋たる夜」に書いてあります。