東京までの常盤線の間、心臓が鐘のように脈打ち、動悸が激しかった。隣の席に座っていた老婆が、そんな僕のことを嫌がったのか、途中で違う席に移動した。
かまうもんかと思った。
心を落ち着かせたくて、缶ビールを3本ほど空けた。
とにかく感覚をマヒさせてしまいたかった。
東京に着くころにはそれなりに酔いが回っていた。
もうすっかり深夜だった。
東京の夜のネオンサインを見ると、少しだけほっとした。
ここまでくればもう大丈夫かもしれないと思った。
もちろんそんなのは相手の意図次第だろう。
なにがなんでも僕を殺すという意思があるのならば、東京でもどこでも追ってくる。
だが、この間、僕を殺すタイミングなどいくらでもあった。
商店街でも、僕は動けず、しばらく固まっていた。
そのあとも、おずおずと現場に戻っているし、家に帰る間も、荷物をまとめて駅まで向かう間も丸腰で一人きりだった。
これは恐らくは、脅しなのだ。
ではいったい誰が?
それを確定するには情報が足りなさすぎた。
状況から推測はできる。
だが、推測は推測でしかないし、わざとミスリーディングに導かれている可能性もある。
僕はポケットに入れてきた、戦車道OG会の名刺を取り出して宙にかざした。
単純に考えれば、これはOG会からの警告だというようにとることもできる。
逆に、狙撃と名刺を結び付ける証拠もない。
どん詰まりだ。
無性に飲みたくなった。
家に帰りたくなかった。
だが、山下と違って、普段一人で飲み歩いたりしない。
行きつけの店の一つもなかった。
僕は、山下の「ドクター」の店に行きたくなった。
あそこなら、少しだけ落ち着けるような気がする。
だが、考えてみると僕は、あの店の名称を知らなかった。
いつも山下についていっていただけだからだ。
いかに自分が無為に生きてきたかの一つの証拠であるような気がした。
検索をしようにも、そもそも携帯がない状態だ。
記憶を頼りに、夜の街を歩いた。
大体の位置はもちろんわかる。
だが、夜の繁華街は、似たようなビルが似たような光を放ち、路地と路地は複雑だった。
一時間ほどかけて、やっとあの雑居ビルを探し出した時には、午前一時になっていた。
三階に上がる。
その時、看板を見て、初めて僕は、店の名前が『Moonburn』であることを知った。
扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
山下と一緒に来ていたころと同じマスターがいた。
客は誰もいなかった。
平日の午前一時だ。
そういうこともあるのだろう。
僕は小さく頭を下げてカウンターに座った。
「お久しぶりですね」
と、マスターが言った。
「え?」
僕は驚いて顔を上げた。
「あ、違いましたでしょうか? 以前、ご友人と来ておられましたよね」
「あ、そ、そうです。その通りです」
山下はここの常連だったが、僕は彼に連れられてたまに来ていただけだ。
それに、ここ数年は一度も来ていない。
覚えられているとは思わなかった。
「今日は何に致しましょうか」
「えと、何か、おすすめのハイボールを」
「かしこまりました」
マスターが背を向け、並べられたウィスキーの瓶を吟味する。
よく見ると、頭に白髪が混じっていた。
いつ来ても年齢の分からない人だと思っていたが、彼もしっかりと年老いているのだ。
彼は、一本の瓶を手にして僕に見えた。
「ボウモア12年の旧ボトルです。サントリーに買収される前のものです。こちらなどいかがでしょうか」
「お願いします」
僕は、ハイボールを一口飲む。
それはしっかりとした味で、おいしかった。
マスターが言った。
「今日は、いつものご友人と待ち合わせですか?」
「いえ、今日は一人なんです。その、ちょっといろいろあって。飲みたいなって」
「左様ですか」
「あの、僕、覚えていてもらってうれしかったけど、この店の名前すらわからなかったんです。いつも友人に連れられてきてばかりだったから」
「Moonburnっていうんですよ。古い歌からとったんです」
「そうなんですか?」
「ええ。1930年代のヒットソングです。日焼けならぬ、月に焼けるという意味です」
「どういうことですか?」
「私はまぁ、夜のお店なので、太陽は見えませんので、洒落としていいかなと思ったのですが。もともとはなかなかエッチな意味みたいですよ」
「え?」
意外な単語が出てきた。
「月に肌が焼けてしまうほど、一夜間、野外でメイクラブするという歌みたいですね」
「は、ははは」
僕は思わず笑ってしまった。
寡黙で渋いと思っていたマスターから、メイクラブなんて古臭い言葉が出てくるとは思わなかった。
それに、ついさっきまで狙撃されたことへの恐ろしさで緊張していたところに、唐突に卑猥なジョークを聞いて、現実に帰ってきたような気がした。
僕は、ハイボールを一気に飲み干した。
「ありがとうございます。なんだか、気が楽になった。これからは一人でもまた来ます」