羽鳥と別れた後、すぐには駅に戻らず、一人でもう一度喫茶店に入った。
一人きりで、ゆっくりと考え事をしたかった。
先ほどとは違う店を選んだ。
駅前にあるチェーン店だったが、そこそこ空いていたし、ガラス張りの大きな窓が心地よさそうだった。
僕はラージサイズのホットコーヒーをマグカップで入れてほしいと注文した。
アルバイトらしき若い女性が、マニュアル化された流れの良い受け答えをした。
彼女は僕ににっこりと微笑んでくれた。
僕は不思議な気持ちになった。
僕が若かった頃、アルバイト店員なんてものは、もっといい加減だった。
こんな冴えない中年相手に、にっこりと微笑んでくれなどしなかった。
マニュアル。
マニュアルさえあれば、あんな素敵な微笑みを見せてくれる。
僕はため息をついた。
マグカップになみなみと注がれたコーヒーは、先ほどの『ルーファス』の丁寧にハンドドリップされたコーヒーとはまた少し違う香りがした。
だが、僕にはこの安っぽい香りが落ち着いた。
トレイを持ちながら、窓際の席を選んだ。
午前11時過ぎの陽光が、なんとも幸せそうに差し込んでいた。
こんなにも、世の中は美しかっただろうかと僕は思った。
省庁に勤めてから、ひたすらに働いてきた。
目の前にある物事をとりあえず消化する。
そんな生き方を知らず知らずにしてきた。
こんな風に、午前11時過ぎにゆっくりと、街中のコーヒーショップに立ち寄ることなど、ほとんどなかった。
仕事の打ち合わせ以外では。
仕事の打ち合わせの時は、常に向かいに相手がいる。
心はすべて、目前の相手と、その手元の書類に集中される。
向かいの席に誰もいないコーヒーショップというのは新鮮だった。
僕はホットコーヒーを一口、口に含む。
そして、先ほどの会話を思い出した。
羽鳥は、赤坂がもとは役人で、20年前に犯罪を起こして失脚したと言った。
彼は当時の野党に恨みを持っている。
芹澤は、その赤坂をおそらくはブレーンにしている。
選挙の時のやり取りを見ていて、そのことは容易に想像がついた。
父は、赤坂の犯罪歴を知っている。
だが、芹澤の陣営に入った。
芹澤は、かなりきわどい手法で、『新しくする会』を勢力拡大させ、それが評価されて県議選に出馬できた。
中傷ビラ。
父の中傷ビラは、16年ほど前にばらまかれ始めた。
そして、戦車道はもともとは、西出という議員のモノだった。
……何かが、つながりそうな気がする。
僕は、携帯電話を取り出した。
そして、竹谷さんにコールをした。
彼女に電話をするのは少し気が引けた。
結局、もらったDVDの感想も何も伝えずじまいだったからだ。
彼女には、少し申し訳ないことをしたと思っていた。
昨日、葬儀場で声をかけてくれなかったら。
僕は、彼女に電話をする勇気を持てなかっただろう。
「はい。竹谷です」
「あの、久しぶり。辻です」
「廉太さん……あの。ご愁傷様です」
「気を遣ってくれて、ありがとう。あの。急な電話で、しかも頼みごとで本当に申し訳ないんだけど。以前、西出議員さんっていたよね」
「うん。私が学生だったときの人だね」
「その人のこと、詳しい知り合いっていないかな?」
「西出さんに詳しい……。私より年上じゃないとダメですね。たぶん、戦車道の先輩なら、知ってると思う」
「あの。引き合わせてもらえないかな」
「いつですか?」
「……できれば、今日。明日には東京に帰っちゃうから」
「………わかりました。連絡を取ってみます。私も、同席していいの?」
「え、うん。もちろん。その方がありがたいよ」
「よかった。私も、帰っちゃう前に廉太さんと合いたかったから」
「……ありがとう」
少しだけ頬が火照った。
別に変な意味はないと思うが、予想外の言葉だった。
僕たちは、18時に居酒屋で会うことにした。
電話を切ると、緊張が解け、どっと疲れが噴き出した。
僕は息をつき、コーヒーの残りを飲んだ。
昼過ぎに実家に帰った。
僕は自室のベッドに寝転び、二つのチラシを見比べた。
一つは、『大洗を新しくする会』のチラシだった。
ずっと前、芹澤の最初の選挙の時のものだ。
僕はそれを一つ、捨てずにとっておいていた。
それから、昨日、父のレコードの間から出てきた、16年前の中傷チラシ。
これら二つのチラシは、驚くほど構造や文体、方向性が似ていた。
どちらもほとんどゴシップと言えるレベルのことが書いてある。
正確な数字を持ち出して、政策を批判するというたぐいのものではない。
感情に訴えることを第一義としたものだ。
それから。
文体が非常によく似ていた。
『怠惰で間抜けな現職議員の代表、辻誠一郎。我々は彼を許さぬ』
『怠惰で間抜けなベテラン現職議員どもに食い物にされた大洗。我々は許すわけにはいかぬ』
この部分なんて、ほとんど同じだ。
他にも、言葉使いの癖のようなもので、相当似通った箇所がいくつもある。
僕は、一階に降りていき、母に尋ねた。
「あのさ、父さんの仕事関係の書類とかって、どこかに纏めてある?」
「どうしたんですか、藪から棒に」
母は、居間のソファに座り、何をするともなくぼんやりと目の前の空間を見つめていた。
「ちょっとね。思い出に浸りたいんだ。古いチラシとか、そういうのってスクラップしていないかな?」
「していますよ」
「え、本当? どこにしまってるの?」
「お父さんの部屋の机の隣の棚の下の段です」
「ありがとう」
僕は、父の部屋に向かった。
続く