今回は、山下さんの話です。20話の逆視点と+αとなります。
35歳を超えてから、めっきり酒に弱くなった。
そのことが山下の目下の悩みだった。
以前は一晩中強い酒を飲んでもせいぜい頭が痛くなるぐらいだったが、最近は、すぐに酔いが回ってくる。
ろれつが回らなくなり、ふわふわと浮ついたことを口にしてしまう。
これまでになかったことだ。
幸い、付き合いの飲みの少ない部署に配属されていたので、仕事上の問題はない。
しかし、山下は酒そのものが好きだった。
付き合い云々ではなく、自分自身で酒を飲むことが好きだった。
だから、酒に弱くなってきたのは、死活問題だった。
ハードな仕事が終わった時、行きつけのバーあるいは自宅で、ウィスイキーをロックで飲む。
これを抑えることなんて出来るわけがない。
ウィスキーを買い揃えることは、山下の趣味の一つだった。
行きつけのバーで、気になったウィスキーを一杯飲んでみて、気に入ったら自分でボトルを購入する。
結婚する前は、一人暮らしのアパートに、これまで飲んだウィスキーのボトルをずらりと飾っていた。
お気に入りは、ポットスティールの形をしたオールド・プルトニーのボトルだ。
愛嬌と美しさを両立させた良いボトルだと思う。
友人の中には、「本当に好きな銘柄を一つに固定すればいいのに」と言うものもいたが、あれこれと試してみるのが山下にとっての至極の喜びだった。
これだけは、結婚して妻にとやかく言われようとも、できるだけ続けていきたいと思っていた。
なのに最近は、飲み終えていない、3分の1ほど残ったボトルが増えてきている。
酒を飲む量が減った証拠だ。
飲む量が減ったのに、珍しい銘柄を見かけると買いたくなってしまうから、飲み終えていないボトルが増えていく。
それを見るたびに、自分が情けなくなって溜息が出る。
※
6月のある日、行きつけのバーに同期の辻と連れ立って飲みに行った。
辻はさほど酒をたしなむ男ではないが、おとなしく、誘いに嫌な顔をせずついてきてくれる。
酒をあまり飲まないものは、バーに誘うと嫌がる場合が多いが、辻は、オーセンティックなバーに誘ってもついてきて、ハイボールを横でちびちびと飲んでくれる。
山下にとっては貴重な存在だ。
辻との会話は気楽だった。
辻には、灰汁がない。
理性的ではあるが、どことなくフラットな男だ。
ウィスキーならば、味わいに複雑みが無さ過ぎてつまらないのだろうが、夜に二人で話すには、灰汁のない奴の方が疲れない。
灰汁の強い奴と話すのは、仕事の場だけで十分だ。
だが、その日は、珍しく辻相手に踏み込んだことを語ってしまった。
いつも通り、軽いジャブの打ち合いのような会話で終わるつもりだったのだが。
酒の酔いが回るのが想像よりも早く深かったのだ。
学生時代の思い出や、生きがい、結婚観について自分語りをやってしまった。
話しながら自分が面倒くさい奴になってしまっていると実感はしていた。
だが、言葉を止めることができなかった。
頭の中で、「後悔」の念がじわじわと滲んでいた。
語りすぎているということに対してではない。
自分の今のありように対してだ。
自分自身の今の姿に対してだ。
20代前半ごろまでの、「これから俺は何かになれる」「これから俺は何かをやってやる」という無計画に前向きな気持ちを、いつの間に失っていたのだろう。
どうして俺は、こんなにもただ毎日を消費するだけのつまらない中年になってしまったのだろう。
そういった、普段は心の奥底に抑えている「後悔」が、まるで、堅牢な壁の小さな隙間から侵食してくる液体のように、胸の中で広がっていく。
やめろ、やめろ、やめろ……。
誰だってこんなもんなんだ。
そんな、後悔なんてするな。
ないものねだりだ。
それこそ、青臭いぞ。
頭の中で自分に言い聞かせる。
だが、ウィスキーを一口飲むごとに。
辻に向かって一言を発するごとに。
自責の念が、後悔が、漠然とした不安が、胸を襲う。
山下は……辻に向かって、学生時代に映研に入っていたことを話した。
ほとんど誰にも言ったことがない話だった。
あまりクールな思い出ではないからだ。
20歳の頃、山下は所謂「シネフィル」を気取っていた。
難しい顔をして名画座の前方の席に座り、ゴダールやタルコフスキー、フェリーニやヴィスコンティの作品のリバイバル上映に見入っていた。
そんな自分は、特別な存在だと思っていた。
この良さが分からんガキどもは相手に出来んぜと思っていた。
だが、実際には山下には、「映画を見ること」以上の何かをする才能がなかった。
そのことにはたと気が付いたのは、映研に菅原千砂という後輩女子が入ってきてからだった。
菅原千砂は、小柄で可愛らしい女の子だった。
小動物のように華奢な体つきをしていたが、前向きで気が強い一面があった。
そして、いわゆる「芸術」映画のようなものには一切興味がなかった。
彼女は、ヌーヴェルヴァーグやイタリアンネオリアリズモを否定した。
フィルムノワールも見なかったし、ロシア映画も見なかった。
サム・ペキンパーもエリック・ロメールもテオ・アンゲロプロスも知らなかった。
だが。
彼女は、なかなか捻りの効いた面白い脚本を書いた。
実のところ、自分で脚本を書き上げたのは、映研で彼女だけだった。
映研は、「映画監督になりたい」とぼやきながら、こ難しい映画に見入り、煙草をふかして強い酒をあおる。
そんなワナビーの連中のたまり場に過ぎなかったのだ。
「ねぇ、ちゃんと、みんなで自主製作映画作ろうよ!」
そんな言葉に、嫌々ながらも頷いたものが多かったのは、菅原千砂が、後輩で女の子で可愛かったからだろう。
気が付くと、彼女を中心に自主製作映画製作スタッフが出来上がっていた。
山下は、カメラ担当になった。
出来上がった映画を見て、
「まぁ。まぁまぁだね」
山下はつぶやいた。
内心では
「こんな程度のもの。俺だって」
と思っていた。
山下は、書いたことはなかったが、本当はカメラではなく、シナリオと監督をやりたいと思っていたのだ。
彼は、菅原千砂が映画を完成させた後、しばらく講義をさぼって、自宅でノートパソコンに向かってシナリオを打ち続けた。
……書けなかった。
意味のない会話や、断片程度は書ける。
だが。
しっかりとした構成のある展開や、人物像の掘り下げ、そういったものが、何一つ浮かばなかった。
「どうしてなんだ」
強いウィスキーをあおった。
その時だけ、何かが書けるような気がした。
だが、すぐに何も書けなくなる。
「くそっ!」
山下は、挫折した。
数か月間講義を休んでいたので、友人たちは心配していた。
山下は、自分がシナリオ執筆をしていたことは誰にも言わなかった。
「ちょっと、見分でも広めたくて一人旅に」
そんな嘘をついた。
以来、映画はあまり見なくなった。
※
山下にとって、映研時代の出来事は、総括すればそんな苦い思い出だった。
そのことそのものを話したわけではないが、すらすらと話題に出した自分に驚いた。
そして、酔って話すことによって、「結婚生活」に漠然としたむなしさを覚えている自分自身の心がむき出しになっていた。
あの、小柄で可愛らしくて、前向きな菅原千砂は今、どうしているのだろう。
彼女も、もういい歳だ。
小柄でも華奢でもなくなっているかもしれない。
普通の主婦になっているのかもしれない。
それとも、あの才能をどこかで生かしているのか。
今でも変わらず愛らしいかも知れない。
ひどくもやもやした。
自分が、すべてから置き去りにされたつまらない男であるような気がした。
こんなものは本当の俺ではない、というような気がした。
山下は……陽気でひょうきんなしゃべり方のせいで、人から「お調子者」と言われることが多々あった。
省庁での職に就いてからは、世渡りも考えて、わざとそうしている部分もあった。
だが、自分の本質は、どちらかと言えば、内向的で後ろ向きなところがある人間だと思っていた。
そうでなければ、どうしてゴダールなんかにはまるだろうか。
ある意味では、俺は、この、隣で飲んでいる辻と似ている、内向的な男なんだ。
※
辻と別れた後、猛烈に喉が渇いた。
そして、何かが足りないという気持ちになった。
もっと酒が飲みたかった。
嫌な自分が分からなくなるまで飲みたかった。
腕時計を見た。
まだ、深夜までかなり時間があった。
だが、あのバーにもう一度一人で戻るのははばかられた。
駅の改札口で、時計を眺めているうちに、ふと、知らない場所へ行きたくなった。
気が付いたら、山手線で渋谷に出て、そこから東横線に乗り換えていた。
東横線は、山下の生活圏内からは少し離れていた。
あまり降りたことのない駅名が多いのが良かった。
武蔵小杉に差し掛かった時、無意識に列車から降りた。
改札口を出る。
駅前は再開発されて、整然とした佇まいをしていた。
東急ストアの3階に、スターバックスがあるのが見えた。
酔いを醒まさなければ、という本能が働いた。
ふらふらとエスカレーターを上る。
だが、スターバックスは閉店間際だった。
顔つきはいかめしいが丁寧な口調の男性店員が
「申し訳ありません。もう、お持ち帰りしかありません」
と言った。
山下は、紙コップが嫌いだった。
だから、
「じゃ、いいです」
とつぶやいて、エスカレーターを降りた。
どう歩いたのかよく覚えていない。
グランツリーの周辺を一周し、法政通りの商店街を横切り、気が付くと、一軒のショットバーの前に佇んでいた。
猛烈に飲みたかった。
だが、ドアを開けようとすると、中から、常連客達の楽しげな話し声が聞こえた。
とてもそこに加わる気になれなかった。
舌打ちをしてその場を立ち去った。
再び駅前に戻り、ローソンで缶ビールを一本買った。
缶ビールを買うのは久しぶりだった。
プルタブを開け、口にすると、麦汁のひどい苦みが広がった。
「くそっ!」
つぶやいて、缶ビールをどこかへ投げ捨てた。
よたついた足取りで改札口を入り、家へ帰ろうと、駅のホームに立った。
空虚だった。
どこまでも空虚だった。
もうすぐ列車が来る。
山下の頭の中で、ビーチボーイズのキャロライン・ノーの最後に入っている踏切の音が再生された。
山下は、ホームから、線路の枕木を見つめた。
自分の体と、深い暗闇が空間としてあり、その奥に、線路があった。
足を、一歩、踏み出す。
その瞬間、列車がやってきた。
山下は、硬直したように、その場に固まっていた。
「俺は今、何をしようとしていた?」
絶句した。
飛び降りようとでもしていたのか?
わからなかった。
自分が本当にわからない。
首を振り、列車に乗り込んだ。
※
そのあとのことはあまり覚えていない。
だが、その日のうちに家に帰り、階段にしがみついて眠っていたらしい。
翌朝、呆れ顔の妻にそう教えられた。
ずいぶんと怒鳴られると思った。
そのことが嫌で仕方なかった。
だが意外にも妻は、微笑んで、
「きっと疲れてたのよ」
と言った。
「しばらく、酒は控えるよ」
山下はつぶやいた。
「うん。あまり無理はしないで」
妻が頷いた。
彼女の顔には、知り合った頃の優しげな空気が感じられた。