6月のある日、また山下と飲む機会があった。
僕たちは例の雑居ビル3階のバーに集まった。
相変わらずマスターは寡黙で何を考えているのかわからず、山下は一人ではしゃいでいた。
彼はストラスアイラをロックで飲んでいた。
「いつも違う酒だな。節操がない」
「そんなことないぞ。ちゃんとスコッチっていう大きなくくりの中で飲んでるんだ。
それに、いろんな酒を飲み比べることができるのがバーの醍醐味だと俺は思ってるからな」
「あっそう」
その日は山下の妻が、大学時代の友人と遊びに行っているらしく、遅くまで飲んでいても問題がないとのことだった。
「辻ちゃんさ、結婚はしないの?」
山下がグラスの氷を指で回しながら問いかけた。
「全然その予定はないね」
僕は苦笑いをする。
目下その予定は見当たらない。
最近仕事以外で話した女性といえば、戦車道OG会の数名と、吉中さんだけだ。
OG会の面々とはこれから付き合いが発展するとはあまり思えなかった。
年齢が離れているし、芹澤を通じてしか成り立っていない関係だ。
吉中さんは……よくわからなかった。
電話を時々する仲にはなったが、よくよく考えてみると、僕は現在の彼女の顔さえ知らないのだった。
僕が考え込んだ表情をしていたのだろうか、山下が、
「まぁ、結婚なんてしないほうが幸せかもな」
と言った。
「婚期なんていう言葉があるから、不安になってしまうが、結婚したらしたで、別に楽しいもんでもないわ。そのへん、人によって違うかもしれんがな」
「……お前は、不幸せなのか?」
「辻ちゃん、攻めたこと訊くねぇ」
「あ、す、すまない」
「いや、いいって。
……そうだな、別に不幸せではないよ。
幸せでも不幸せでもないってところかな。
なんかこんなもんかって感じだわ。ある程度人生のノルマをクリアした感じっていうか。
結婚したら、それまで俺が持ってた価値観が通用しなくなっちゃったなぁってのはあるよ。
自分の自由な楽しみができないっていうか。
もう一度、親と同居してたガキの頃に戻ったのにちょっと似てるかもな」
「へぇ。そんなもんなのか」
「さっきも言ったけど、これはあくまで俺の主観だからな。
俺の友達でも色々だよ。
大学の同期で仕事の関係で関西に行って、そっちで結婚した奴がいて。高槻に家を買ったんだったかな。
しばらくは、結婚してから何も楽しいことがないってぼやいていたけど、子供ができた途端、新しい生き甲斐ができたってさ。
その子を育てることが新しい人生の目的だって。
要するにさ、なにか目標があるかどうかだよ。
結婚は一つのゴールだからな。
そこまで行くと喪失感があるけど、なんか新しい楽しみを見つけりゃ、それはそれで人生、明るくなるんじゃねーか?」
「なるほどね。お前は今、なんかあるの? そういう楽しみとか」
「目下は、辻ちゃんと酒飲むことかねぇ」
にひひっと笑う。
「言ってろ」
僕は山下の肩を軽く個付いた。
「いやいや、割と事実だよ。
やっぱさ、歳食うと酒飲む友達も限られてくるからな。
その高槻に家買ったやつとかさ、学生時代は本当によく飲んだもんだけど、今会えるかっていうと、関西まで行って会う機会なんてないもんな。
そいつんち、駅前からバスで30分ぐらいかかるんだぜ。
なんかの出張のついでとかに会うのもままならねーよ。
だからさ、辻ちゃんは貴重な存在よ。同じ職場に友達がいるっつー点で」
「なるほどね」
「でもよぉ」
山下がグラスをカウンターの宿木に置いた。
グラスはびっしょりと汗をかき、中はほとんど空になっていた。
「たまの休みにこうやって酒飲んでるだけじゃ、何も生み出してないよなぁって思うわ」
「どういうこと?」
「だから、さっきの人生の目標の話よ。
とりあえず仕事してさ、言われたとおりにそれをこなすことに努力を傾けてさ、んで、残った時間はこうやってうだうだして。
俺って人生で何を残してんの?って思うわけよ。
俺な、大学んとき、映研に所属してたんだ。
そのサークルで短編映画撮ったりしてさ。
後輩に、ちょっと面白い、ひねりの効いた脚本を書く女の子がいてな。
俺はカメラ担当よ。
在校中に2本撮ったなぁ。
30分ぐらいの短編2本。
3本目も撮ろうとしたんだけど、ゼミのレポートやら就活やらで忙しくなって中断して。
そのままだったなぁ。
結婚して今の家に越す時に荷物整理してたらその時の映画のデータが出てきてさ、ついつい見入っちゃったなぁ」
「すごいな、映画かぁ……」
「全然すごくはないぜ。
本当に、照明とかもろくにちゃんと使っていない、学生の作った素人短編よ。
でもな、それでも、この世の中に、なんか自分らの手で、自分らだけで作ったものを生み落してる行為なわけじゃん。
そのことにさ、ふっと思い至って……」
山下は再びグラスをつかむと、もうほぼ溶けた氷の水であろう液体を口に含んだ。
「こんなことでいいのかなぁって……」
「それ、ここで酒飲みながら言っても支離滅裂だぞ」
「そうなんだよなぁ……」
「ま、仕事は仕事で、ちゃんと世の中に何かを生み出してる行為だと思いますよ」
急に、寡黙なマスターが口を開いた。
「組織が大きすぎると、自分が何をやっているのかわからなくなるとは思いますけどね」
「うぅん、そうなんだけど。なんかなぁ。その、他人の意図の言いなりになってる感じがさぁ……」
山下が溜息を吐く。
それから、やおら首をあげ、マスターを見据えた。
「マスター。すんません。ちょっと愚痴っぽくなってたわ。チェイサーください」
「どうぞ」
トールグラスに水が注がれる。
「特別にちょっといい天然水入れときましたよ」
と微笑んだ。
「ありがとうございます」
一気にそれを飲み干す。
「酔いすぎた。俺もう帰るわ。辻ちゃんは?」
「いやいや、置いてかれても困るから」
僕も一緒に立ち上がった。
会計を済ませ、ウェスタン風のスィングドアを開け、階段を下りる。
エレベーターもあるのだが、僕たちはなぜかいつもこの非常階段のような外にむき出しの階段を使って降りることにしていた。
このほうが夜風が気持ちいいからだろう。
駅前で別れる時、僕は何となく、山下に言った。
「あのさ、さっきの目標の話だけどさ。俺は山下と違って、映画とかそういう趣味もないからさ。その分、仕事を自分なりに頑張ろうかなって思ったよ」
「お、いいねぇ。前向きだねぇ、辻ちゃんは!」
赤ら顔で僕の背中をたたく山下は、もういつものお調子者の表情を取り戻していた。
続く