それからというもの、時折、携帯に吉中さんから電話が掛かってくるようになった。
僕は気の利いた話ができなかったが、彼女はそれで満足をしているようだった。
彼女は話し相手を求めているのだろう。
電話はたいてい夜に掛かってきた。
着信をとると、決まって
「レン、仕事は終わった?」
と問いかけられた。
夜遅いことがほとんどだったので、仕事はいつも終わっていた。
僕は必ずテンプレートのように
「うん、終わっている」
と答える。
すると吉中さんが
「そう。よかった」
とつぶやく。
それらの会話の流れは、僕と吉中さんの間で交わされる暗号のようだった。
彼女との会話は、いつもきっちり30分だった。
それほど盛り上がるわけでもなく、お互いの身の回りの報告をするだけだ。
彼女は
「あまり遅いと、明日の仕事の妨げになると思うわ」
といつも言って電話を切った。
ガチャリ、と音を立てて彼女と僕をつなぐ糸が断たれると、そのあとに一瞬やってくる音のない空白のようなものが僕は好きだった。
それは、吉中さんという向こう側の世界と、東京のマンションというこちら側の世界をつなぎ合わせる接着剤のように感じられた。
5月の最後の日に、例のスティーヴ・ハケットのライブがあった。
川崎の駅前にあるライブハウスでの公演だったので、品川で待ち合わせをして京浜東北線に乗った。
僕は、篠崎代議士の前で失礼な格好をしてはならないと思ってスーツを着てきたのだが、篠崎代議士はデニムに洗いざらしのシャツというラフな服装だった。
ラルフ・ローレンの刺繍が入ったブルーのデニムはいい具合に使いこまれていて、太ももに入ったヒゲに味があった。
二人並んで列車に乗る様子は、さぞチグハグな二人組に見えたことだろう。
「あの、もしかして、普通のカジュアルな服装の方がよかったでしょうか」
と僕はおずおずと問いかけた。
「いや、全然。どっちでも気にしないよ。こういうとき、ちゃんと俺に気を遣ってスーツを着てくる真面目さが君の良いところだ。ただし、ロックを聴くのにスーツは君自身が息苦しいだろう。次から普通に私腹を着てくるといいよ」
「あ、ありがとうございます」
僕が列車の中で頭を下げると、篠原代議士が
「おおげさだよ」
と苦笑いをした。
川崎のライブハウスは、オールスタンディングで1000人余りのキャパの箱だった。
客の年齢層は高かった。
プログレッシヴロック好きがほとんどなのだろう。
スティーヴ・ハケットやジェネシスに限らず、プログレ関係のフェスティバルのTシャツや、他のプログレッシヴロックバンドのTシャツを着ている者もちらほらいた。
「おい、見てみろよ。あれ、ルネサンスのTシャツを着てる奴がいるぞ。レアだな。あっちも見てみろ、オザンナのパレポリのTシャツだ」
興奮したように篠崎代議士が言った。
僕はそれらのバンドは名前ぐらいしか知らなかったが、確かに、キャメルやピンクフロイドのTシャツを着ているというのとはマニアックのレベルが違うのだろう。
会場の中に入ると、キャパシティに対しては多少空きが目立った。
満員御礼というわけにはいかない様子だった。
とはいえ、集まってくるのは、好きな人ばかりだ。
独特の熱気があった。
やがて、ステージに灯りがともり、コンサートらしい白煙がたなびき始めた。
グリーンのライトが大きく輝いた時、ギターの音色が聴こえた。
聴衆たちが歓声を上げた。
白煙の向こう側に、スティーヴ・ハケットがいた。
洗練された手つきで、たった一人でエレキギターを弾いていた。
さすがギタリストのライブだ。
ソロ演奏から入るとは。
ギターのみとは思えないような長尺のソロが終わると、やがて後ろに配置していた、ドラムとベースとキーボードが加わり、音に厚みが増していく。
キーボーディストが素晴らしかった。
まるで音の洪水の中に身をゆだねているようだった。
時折、芝居がかった調子でオペラ歌手のような気取った服装をした長髪の男がステージ脇から出てきて、歌を添えた。
しかし、あくまで中心はスティーヴ・ハケットのギターだった。
エレクトリック・ギター。
それが彼の武器だ。
僕たちを音の海へと誘う。
3時間近くの公演が終わった時、僕は茫然としていた。
ジェネシスはCDで聴いたことはあったが、その時の印象よりも、生で聴く音は全く違っていた。
まるで芸術だった。
音が僕をどこかへさらっていくみたいだった。
「どうだった?」
篠崎代議士が、僕に問いかけた。
彼はうれしそうにニヤニヤとしていた。
「……ただただ、素晴らしかったです」
僕は素直にそう伝えた。
「そうだろ! 最高だろ!」
篠崎代議士が嬉しそうに僕の背中をたたいた。
「さ、今日はもう遅くなったし、おとなしく帰ろうか」
「あ、は、はい」
「また今度、飲みに行こう。今後、仕事でもいろいろと連携していきたい」
「ぜひ、お願いいたします」
僕は深々と頭を下げた。
続く