辻さんの人には言えない事情   作:忍者小僧

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18 恋について少しだけ考える

『こんにちは。吉中です。

今日は、名刺をいただいて、その、びっくりしました。

あなたのことなんて呼べばいいのかな。

辻君? それとも、レン? 

えっと、また、その、電話します』

 

僕は、頭を固い棒で打ち据えられたような気分になった。

まさか、本当に電話がかかってくるなんて思ってもいなかったからだ。

僕は確かに、吉中さんのポストに名刺を入れた。

でもそれは、僕の省庁での肩書が書かれただけの名刺だった。

そこには、個人的な電話番号は記されていないはずだった。

だからこそ、ポストに入れることができたのだ。

あの時、名刺を投函するとき、僕が考えていたことは二つあった。

一つは、国家公務員になった自分を吉中さんに知ってほしいという見栄だった。

もう一つは、ずっと前に高田と飲んだ時、高田が言っていたことを思い出したからだった。

 

「俺さ、前に有馬温泉に行ったんだよ。

ちょっとした仕事の付き合いで。

んで、コンパニオンの子とまぁ、ねんごろになってさ。

酔った勢いもあって、名刺を渡したわけよ。

そしたら彼女、情熱的で。

会社に電話かけてきやがるの。

びびったぜ、俺。

ある日、急に『学校教育課の高田さんに、飯田さんという女性の方からお電話です』だもんな。

飯田って誰よ、と思ったら例のコンパニオンの本名だとよ」

 

高田はそのことを、半ば笑いをとるための武勇伝として語っていたが、僕は実際にそんなことがあればそれはそれで場合によってはロマンチックだと思った。

それで、仕事の名刺を入れることで、吉中さんから電話があることを期待した部分もあった。

ただし、職場に電話など掛けにくいものだ。

ほぼありえないことだからこそ、ちょっとしたスリリングなゲームとして、名刺を投函できたのだ。

 

それがどうして、自宅に留守録が入っているのか。

僕ははたと気がついて、今日使っていたバッグから、名刺ケースを取り出した。

名刺の幾枚かに、ボールペンの手書きで自宅の番号が記されている。

しまった。

これを入れたんだ。

思い出した。

この春に教育課に配属になった時、新しい上司の1人に、自宅の番号も一応教えてくれと言われて、何枚かの名刺に記したんだった。

その時に自宅番号を書いた名刺の余りをそのまま名刺ケースに入れっぱなしにしていたらしい。

 

どうしようか……。

僕は逡巡した。

吉中さんに対して、甘酸っぱい思い出をまだ抱えていることは事実だ。

だからと言って、今再び会って何になる?

いったい何を言えばいい?

 

僕は、留守録の再生ボタンをクリックした。

もう一度、吉中さんの声が聞こえてきた。

女性の声は、齢を経てもあまり変わらない場合があるという。

吉中さんの声は、僕の記憶の中の声とほとんど違いがないように感じられた。

 

『あなたのことなんて呼べばいいのかな。辻君? それとも、レン?』

 

彼女のその言葉が僕の胸を激しく衝いた。

レンという呼び方がひどく懐かしかった。

廉太だからレンなのだが、彼女以外に僕をそう呼ぶ人は誰もいなかった。

口数が少なくて内向的なイメージの吉中さんが、僕の下の名前を省略して呼び捨てにする。

その不思議な親密の距離に、あの頃僕は強く興奮していた。

そのことをありありと思いだした。

 

僕は受話器を手に取った。

ナンバーディスプレイに表示された番号をプッシュしようとしたが、勇気が出なかった。

時計を見る。

早くに帰ったから、まだ20時だった。

もう少ししてからでも、失礼には当たらない時間だ……。

僕は棚から先日、神保町で購入したCDを取り出す。

これを一曲だけ聞いて、気持ちを落ち着けてから、コールしよう……。

まるで中学生か高校生みたいだ、と苦笑した。

 

結局、Out Of The Blueを丸一枚聴いてしまい21時になってから、再び受話器を手に取った。

数コール後に、女性の声がした。

 

「はい、吉中です……」

「あ、その、辻です……」

「え? もしかして、辻君?」

「あ、う、うん」

 

僕は頭を掻く。どこか照れ臭かった。

 

「久しぶりだね。びっくりした。急に名刺入ってたから」

「あぁ、その、今日、ちょっとね」

「東京にいるんでしょ? 今日は大洗にいたの?」

「その、里帰りをしたんだ。それで、君の家を見て、懐かしくなって」

「そうだったんだ」

「そっちこそ、わざわざ電話をかけてくれてうれしかったよ」

「だって、手書きで番号書いてあったから。掛けてほしいっていう意味だと思って」

「そ、そうだね」

「うん」

「ねぇ」

「なに?」

「その。昔みたいに、レンって呼んでよ。さっきの留守録みたいに」

「……いいよ。レン」

「……ありがとう」

「それで?」

「え?」

「用事があるから、名刺を入れたんでしょ? どうしたの?」

「あ、いや。その……」

 

僕は言葉に詰まってしまった。

本当に馬鹿だ。

一時間も音楽を聴いている時間があったら、電話の理由ぐらい考えておけばよかった。

 

「何でもないんだ」

 

降参だった。

何も理由が思いつかない。

僕は素直に白状した。

 

「ただ懐かしかっただけだ。それ以上何も理由はないんだ」

「そうなんだ」

 

受話器の向こうで、吉中さんが柔らかく笑った。

 

「レンのそういうところ、嫌いじゃないよ」

「あ……」

 

一瞬、言葉に詰まる。

 

「その……」

「待って。子供が帰ってきた」

「え?」

「小学生の娘がいるの。水戸まで塾に行ってるから、いつもこんな時間」

「結婚、してるの?」

 

当たり前のことをつい問いかけてしまう。

 

「してたけど、離婚したわ。でないと実家に帰ってないわよ」

「そ、そっか……」

「また電話する。今度は、外から、携帯で」

 

言って、電話が切れた。

僕は受話器を持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。

一瞬ここがどこかわからなくなった。

長く暮らしている、東京のマンションだ。

……受話器を置き、ベッドに座り込む。

今の自分の気持ちがなんなのか、よくわからなかった。

吉中さんに子供がいた。

年齢的に考えれば、当たり前だ。

そして、離婚している。

だからなんだというんだ。

僕は何を期待している?

振り返ると、これまでの人生で、恋らしい恋をしたことがなかった。

根本的に、他人に対して淡白だというのもあるのだろうが。

大学時代は、アルバイトと国家公務員になるための勉強に夢中で、恋愛をしている余裕がなかった。

就職してからは、さらに忙しかった。ひたすらに上司の言うことを聞き、与えられた仕事をこなし、休日は疲れて眠ったりしているうちに過ぎ去っていた。

女性に興味がないわけではない。だが、深入りする機会というものがなかった。

30代になり、同期たちがちらほら結婚をしだすと、「いったい彼らはどうやってそこまで女性と深い関係を築きあげることができたのだ?」と不思議な気持ちになった。

それと同時に、「いったいどうやって恋愛に時間を割けというのだ」という気持ちがあった。

働いて、付き合いの飲みをして、疲れ果てて。

残りの時間を、これ以上さらに他者との関係に費やしたくないのが本音だった。

恋愛は楽しい部分だけではないだろう。

人と人との付き合いだ。

いろいろと気苦労が絶えない部分があるだろう。

仕事ですり減った心を、さらに疲弊させる気にとてもなれなかったのだ。

 

「…………また、関係性だ」

 

人との関係性から逃げてきた結果が、僕のこの一人ぼっちの人生なのか。

 

「あぁ~あ……」

 

ため息をつきながらベッドに横たわる。

都心の5階のマンションの窓からは、夜の街灯りが見えた。

どこかのビルの常夜灯が点滅している。

目を閉じた。

そして、芹澤のことを考えた。

僕は今日、なんであんな奴の手伝いをしたんだろう。

わざわざ自転車で外回りの手伝いなんて……。

 

僕は首を振った。

理由は決まっている。

一つは、前向きになって、何にでも首をつっこんで、自分を少しづつ変えていこうと思っているからだ。

もう一つは、きっと戦車道のためだ。

昨日の夜、OG会の女性たちに頼まれたんだから。

芹澤自体は、僕はそんなに好きなタイプではないが、彼女たちは真剣だった。

竹谷さんだっけ、あの、ショートカットの女性……。

帰り道で僕に懇願した様は、きな臭い政治にかかわる女性というよりも、僕が画面の向こうに見てきた戦車道に打ち込むまっすぐな女性の姿と同じだった。

それに芹澤だって、彼なりの苦労をしているんだ。

僕にはとてもあんな外回りを毎日やることはできない。

胡散臭い男だが、まったく尊敬できないわけではない。

 

僕はベッドから起き上がり、服を脱いだ。

今日はもう寝よう。

明日も仕事だ。

そのためにはまず、シャワーを浴びなければならなかった。

 

続く

 


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