演説をしている父の姿を見るのは本当に久しぶりだった。
青年期以降、意図的に政治家としての父と関わってこなかったので、記憶はおぼろげだが、幼い時、父の選挙演説に母親に連れられて立ち会ったことがある。
その時、父は身振りを交えて、熱っぽく、拳を振り上げて町の将来ビジョンを語っていた。
今、目の前で声を張り上げる父が、そのおぼろげな記憶と重なった。
父は、スーツの上着を脱ぎ捨ててワイシャツの袖をまくりあげ、己を鼓舞するかのように拳を握って語っていた。
町が慢性的な財政難に陥っていること、その体質改善をしていかねばならないこと、人口動静を鑑みるに、ファミリー層の転出が多すぎること、それを食い止めるためには、子育て支援策の充実、教育水準の向上、若者の雇用先の創出が喫緊の課題であることなどを矢継ぎ早に言い放っていく。
オーソドックスな内容ではあるが、間違っているとは言えなかった。
父が僕の存在に気が付いたのか、こちらをちらっと見た。
そして、少し踏み込んだことを語りだした。
「また、私たちは、ただただ人口増を訴えるのではなく、所得水準についても考えていくべきだと思っています。
低所得層向けの福祉政策ばかりを打ち出して、低所得層が流入してきても、果たして町としての税収増にどれほどの効果が望めるのでしょうか。
今のこの町の施策は、ただ人口を増やすことのみしか念頭にないように思われます。
私は、町として、いったいどの所得層を分厚くしたいのか、そこをきっちりと考えて、ビジョンを決めて、政策を打ち出していくべきだと思うのです。
今まで、そういったことを考え、訴える人物が議会にはいませんでした。
みんな、その場限りの都合の良い、聞こえの良い福祉政策に乗るばかりでした。
そうではなく、町としての理想像をどこへと導いていくのか、財政の問題をまず念頭に置いて、しっかりと議論すべきなのです。
私は、この町をもう少し高級な町にしたいと思っています。
そのためには、しっかりと税を払ってくれる方々の流入を促進するためにどうすべきかを、今後真剣に提案していく必要があると考えています……」
僕は冷や汗が出る思いだった。
父の演説はいつもこうなのだろうか?
正直言って、街頭演説で言うべきことではないように思われた。
もちろん、方向性や考え方としては一つのあり方だろう。
だが、選挙を目的とした街頭での市民向け演説で、低所得層の流入防止だの、税の徴収率の向上だのを口に出して、利益があるとは思えなかった。僕の後ろで、芹澤がため息をついたように聞こえた。
「お願いしまーす!」
若い女性スタッフが、こちらに歩み寄ってきて、チラシを手渡した。
下部に『内部資料・討議資料』と銘打たれたそれは、例の「大洗を新しくする会」のチラシだった。
そこには、ホームページと同じように、例の一部の議員に対する罵詈雑言が書かれ、自分たちの組織を誉めそやす言文が記されていた。父の街頭演説の内容とは全く異なっていた。
女性スタッフが、僕の後ろ手にいた芹澤にもチラシを渡そうとして、彼の存在に気づき、
「芹澤さん、戻られました!」
と嬉しそうに言った。
父が演説を止め、こちらに歩み寄ってきた。
僕を見て、表情が変わった。
「廉太じゃないか! 驚いたぞ。いつ戻ってきた」
「あ、その、今日。えっと、なんとなくね」
そんなつもりはなかったが、歯切れが悪くなった。
「そうか。……うれしいよ」
そう言う父は心底うれしそうだった。そして、鼻を掻いた。
「実は、またちょっと選挙の手伝いをしているんだ。安心しろ、自分が出るわけじゃないぞ」
「わかってる。芹澤さんでしょ」
「そうなんだ。知っていたのか」
「まぁ、ちょっとね」
「知っているのなら話が早い。どう説明すればいいか悩んでいたんだ」
「お疲れ様です」
芹澤が父に頭を下げた。
「お疲れ様。バトンタッチするかい。君もやってみなさい」
「はい」
芹澤が人だかりの真ん中に立ち、演説を始めた。
まだ慣れないのか、声が少し小さく、聞き取りずらかった。
「マイクは使わないの?」
「マイクが使えるのは、選挙期間中だけだ。彼は党にも入っていないからな。言い訳ができない」
「あぁ、そういうことか」
「廉太、お前、役人だろう。それぐらい知っておきなさい」
「選挙管理委員会に配属されたことがないからね。他の部署のことはわからないよ」
「役人の悪いところだ」
「しょうがないよ」
「あの……もしかして、辻先生の息子さんの廉太さんですか?」
おずおずと、女性スタッフの一人が声をかけてきた。
凛とした雰囲気が美しい、20代後半ぐらいの女性だった。体つきは一見華奢に見えるが、背筋がしゃんと伸びている。無駄な贅肉がそぎ落とされた印象もある。
戦車道のOGだろうか、と思い問いかけた。
「そうです。あなたはもしかして、戦車道の?」
「よく御存じですね」
女性が微笑む。ビンゴだった。
「OG会の渡良瀬と申します。お父さんにはずっとお世話になっていたんですよ。今は、芹澤さんの選挙スタッフをやっています」
「そうですか。こちらこそ、父がお世話になりました」
握手を交わす。
「渡良瀬さんは、俺の最後の選挙の時にウグイス嬢もやってくれたんだ。美しいからな、実に見栄えがあって助かった」
「いえ、そんな」
渡良瀬さんが照れたようにうつむいた。
父の最後の選挙ということは、7年前だ。もしかしたら、20代後半ではないのかもしれない。
「あ、これ、いま配っているチラシです。廉太さんもどうぞ」
「あぁ、先ほどもういただいたんです」
僕は、チラシを前に掲げた。
「そうでしたか」
再びチラシに目を通す。
何度読んでも、無内容で、下品なチラシだった。
そこには大きな見出しで
『現職町議たちは税金ドロボウだ!』
と書かれていた。
政策を訴えるのではなく、憶測による他人の中傷ばかりが書かれていた。
しかし、芹澤は自らが税金ドロボウ呼ばわりするその職に就こうとしている。
とんだ矛盾だった。
裏返してみても、先ほど父が訴えているような政策は一言も書かれていなかった。
唯一政策らしきものは、
『税金泥棒の議員どもの数を減らそう! 定数削減と給与カット!』
というもののみだった。その文字の下には
『私は、即座に提案します!』
とだけ書かれていた。
僕はどうにも腑に落ちなかった。父は、先ほどの演説を聞いていても、言葉は過ぎる部分があるのだろうが、基本的に町の方向性的なものを考えている。
一方で、このチラシに書いてあることは、議会に対する不満ばかりだ。
議会改革ももちろんやればいいが、それは政策とは違う。
議員定数や給与を減らすことと、町をどのように発展させるかそのグランドデザインを語ることとは、種類が異なっているはずだ。
「ねぇ、父さん」
「なんだ?」
「このチラシって、父さんが書いてるの?」
「いや、俺は関係ないよ」
父はあっさりと言い放った。それから、少しばつが悪そうな表情をした。
渡良瀬さんが、こちらを見ていた。
「まぁ、なんだ、その。廉太、ちょっとこっちへ来い」
父が僕の手を引いた。
二人で、少し離れた自販機の前へと移動する。父が缶コーヒーを二つ買った。
「微糖でよかったか?」
「何でもいいよ」
「そうか。あのな、廉太。芹澤君からどこまで話を聞いている?」
「いや。ほとんど何も」
「彼が選挙に出るというのはどうやって知ったんだ?」
「前に家に帰った時だよ。家に『大洗を新しくする会』のポスターが貼ってあっただろ?あれを見て、HPを検索したんだ。そこに芹澤さんの名前があった」
「そういうことか」
父が息をついた。それがため息なのか、安堵の息なのか僕には測りかねた。
「ということは、父さんが顧問をやっていることも知っているんだな?」
「一応ね」
「芹澤君はどのように言っていた?」
「行きに少し話しただけだよ。自分から、実は選挙に出る、とだけ言ってきた。それだけさ」
「……今回、急に帰ってきたのは、もしかして芹澤君の提案か?」
「まぁね。前に帰ってきて、懐かしくなったから、その気になったわけだけど。ねぇ、父さん、彼の意図はなんなの?」
「……別に大したことじゃないさ」
父が缶コーヒーのプルタブを開ける。
「大方、俺に対する点数稼ぎだろう。息子をもう一度、帰郷させてやったという美談を演出したかったに過ぎんさ」
「ふぅん」
僕もプルタブを開ける。
「彼ってどんな人なの?」
「素直な男だ。一直線すぎるぐらいだがな」
父のその評は意外だった。
僕からすれば、あのわざとらしい猫なで声の芹澤は裏表がありそうな人物だった。
それが父には、素直で一直線な人間に見えているのだろうか。
「素直で一直線な人間が、点数稼ぎ?」
少しいやらしい質問をしたつもりだったが、父は何食わない声で答えた。
「それだけ単純ということだ。俺に気に入られたいと必死なんだろう」
その表情は少し楽しげにも見えた。僕は話題を変えたくなった。
「で、あのチラシは?」
「だから、あれは俺は関与していないんだ。会が勝手に使ったものだ。あのな、廉太。お前はもしかしたら勘違いしているのかもしれんが、俺は何もあの会の主催者じゃないぞ」
「顧問なのに?」
「顧問だの相談役だのというのは名義貸しみたいな役柄だ。あの会はできて間もないから、俺みたいに、町議を何年もやった名前のある人物のお墨付きが欲しいんだ。
俺は、顔を出して、こうやって街頭に立って、自分なりの演説をする。
そうすることによって、会のブランドに対する信頼度が向上する。それ以上のことは知らん。チラシは、会の中の連中の考え方だ」
「それって、芹澤さんのこと?」
「まぁ、彼と、おそらくはそのブレーンだろうな」
「ブレーンって誰さ。議員にもなっていない人にブレーンがいるの?」
「さぁな。それも俺は深くは知らん。ただ、ぱっと出の泡沫じゃないのは見ればわかるだろう? 通るための選挙をやっている。こんなカラーのチラシ、無所属の泡沫新人には不可能だ。もちろん、俺を動かすこともな」
「じゃぁ、父さんは誰に動かされてんのさ」
「それは、牧原という……いや、お前に言ってもわからん。とにかく、俺には俺の理由があるし、事情があるんだ。何も、無意味にこんなことをしているわけじゃない」
「あ、っそう」
僕は盛大にため息をついた。父が僕をにらんだ。
「あのさ、父さん」
「なんだ」
「でも、このチラシは、その、少しおかしいと思うよ」
「なにがだ」
「父さんがさっき街頭でしていた主張と違いすぎるじゃないか」
「だから、俺とは関係ないと言っているだろう?」
「でも、これを配っている中心で演説をしていたのは父さんでしょ。僕は、一応役人だよ。このチラシがおかしいのはわかりきっている。これは政策の提案じゃない。ただのルサンチマンの発露だ」
「…………そんなことはないさ」
父が、言葉を選ぶようにつぶやいた。
「でも」
「お前は、子供の頃からおとなしく、内面的だった。考え方が批判的で斜に構えている。確かにな、俺は自分ではこんな主張はせんよ。
でも、芹澤君は真剣なんだ。彼は若い。本当に現状に憤っているんだろう。この町の議員を変えたいと思っているんだ。実現など不可能だろうが、初めての選挙だ。若者が何を主張したって自由じゃないか」
父と眼があった。
彼は、まっすぐに僕を見据えていた。
その眼を見て、父が本気でそう言っていると分かった。
僕にはもう、返すべき言葉がなかった。
まただった。また、叱られてしまった。
僕は、物事に対して批判的すぎるのだろうか。ほんの少し、前向きになろうとした矢先だというのに。
僕は力なくうなだれ、
「わかったよ」
と言った。
父が、
「さぁ、戻ろう」
と言った。
連れ立って、演説がまだ続いているモールの入り口まで戻る道すがら、僕は問いかけた。
「さっき、実現は不可能だと言っていたけど、なんで?」
「あぁ。考えてみろ。議会は多数決の民主主義だ。その上、基本的に、全会一致の法則が暗黙のルールとしてある。かりに芹澤君一人が当選して、議員定数の削減案を提案しても、議決されるはずがない」
「確かに、それはそうだね。でもそれって、根回し次第じゃないの?」
「それは非常に難しい。あんなふうに、他の議員を馬鹿にするようなチラシを配っているわけだからな。みんな良い気分はしないだろう。彼が当選して、根回しをしようにも、ケンカを売られていた人たちが賛同すると思うか?」
「無理、だね」
「そういうことだ」
僕の頭の中で、今までで一番大きな疑問が顔をもたげた。
芹澤は、そのことをわかっているのだろうか。
父は、おそらくは、芹澤が『素直で一直線』だから計算もなしに突っ走っているだけだと考えているのだろう。
だが、役人の僕からすれば、『否決されることを前提にしてわざと大見得を切っている』ように感じられた。
もしそうだとすれば、なかなかの大衆向けパフォーマンスだ。
人だかりに戻ると、ちょうど芹澤は演説を終えたところだった。
幾人かの人々が拍手をしていた。その数は、父が演説をしていた時よりも少し多いように感じられた。
父のこ難しい演説よりもよほど聞きやすかったのかもしれない。
続く