注ぎ方やステアの仕方の違いなのだろうか。付き合いで飲まされる酒よりも、ずいぶんと美味く感じた。しかし、マスターが言ったとおり、このホワイトホースはなかなかに飲みごたえを感じた。油断をしていると必要以上に酔ってしまいそうだ。
「また難しい思案顔かい?」
気が付くと山下が覗き込んでいた。
「さっきエレベーターで見かけた時さ、以前よりも明るい表情になってるなって思ったんだけどなぁ」
「あぁ、いや、その。思ったよりもパンチがあるハイボールだったから、酔わないか心配になっていただけだよ」
「酔わないでどぉするんだよぉ! 酒だぞ、酒」
「お前、でも、酔って五月蠅い奴はかなわんって昔言っていなかったか?」
「節度の問題だよ! 酔って勝手気ままにふるまう奴は大嫌いだ。でも辻ちゃんは節度がありすぎるぜ。もうちょっと酔っていいんだよ」
「そうか……」
僕は思い切ったように、ハイボールを口に含む。
程よい炭酸が心地よかった。
「でも、うれしいよ」
「何が?」
「僕の表情が明るくなったって言われたこと。僕さ、最近少し、物事の考え方を変えたいと思っていて。もう少し前向きにに、何にでも興味を持って生きようかと思ってた矢先だから」
「なに? 辻ちゃん、変な自己啓発本でも読んだの?」
「バカ、違うよ。もとはというと、お前なんだよ」
「俺?」
山下がきょとんと自分の顔を指さす。
「そう。昔お前にさ、仕事の意気込みに対して苦言を呈されたことがあっただろう。ほら、『関係性を持とうとしないから、本腰が入らないんだ』みたいな」
「言ったっけ」
「言ったよ」
「ま、俺が言いそうなセリフだな」
「事実言ってたんだってば。で、だな。最近、お前のその言葉を思い出す機会があったんだよ。ちょっと身に沁みるような出来事があってさ。それがきっかけだ」
「へぇ! 俺の言葉が巡り巡って辻ちゃんの心に根を下ろしていたわけ。種は撒いとくもんだな。なんかうれしいよ」
「ははは」
もう一口、ハイボールを口に含む。
「で、いったいどういう出来事があったんよ。何年も前の俺のセリフを急に思い出すなんてさ」
「あぁ、それは。地元に帰ったんだよ。先日、土曜日を利用して」
「地元ってどこだっけ?」
「大洗」
「海水浴で有名なところだ」
「そう」
「俺さ、辻ちゃんってなんとなく奥多摩出身かと思ってたよ」
「どういうイメージだよ」
「だからなんとなくだって。それで、地元に帰って何があったのよ」
「別になんてことはないんだがな。久しぶりに父親と母親に会った。そしたら、以前感じてたほどに億劫な存在じゃなくなっていた」
山下が笑った。彼はもう、ロックのウィスキーをほとんど飲み干していた。少し溶けた丸い氷がグラスの中でクリスタルのように光っていた。
「お前、不良の高校生かよ〜」
楽しそうに笑う。
「辻ちゃんは、本当におぼこいねぇ! そういうところが大好きだよ!」
僕は少し馬鹿にされた気分になって、
「いや、それだけじゃないんだって」
と言った。
「なに、他にも何かあるの?」
「あぁ、いや、その」
一瞬の躊躇が僕の中であった。山下も省庁の人間だ。もう一つのきっかけ……篠崎代議士との関係性のことを話していいものだろうか。
しかし、いつもよりも少し濃いアルコールの力が、僕の口を軽くさせる。
「なぁ。ほかの奴には言うなよ」
「ん、あぁ」
「実はな、篠崎代議士と、いろいろとやり取りをしているんだ。これは多分だけど、僕は気に入られたらしい」
「へぇ……」
肩のこわばりが抜けるほどに山下の反応は薄かった。
「篠崎って、あの舌鋒鋭い篠崎先生だろ?」
「あ、あぁ……」
「ふぅん、としか言いようがないなぁ。ま、それがきっかけで辻ちゃんがやる気出してくれるなら、俺があれこれ言うことはないけど」
「なんだよ、その物言い」
「あぁ、いや、悪かった。たださ。どういう付き合いか知らんけど、あんまり子飼いにされて利用されん方がいいと思うぜ。いいか、俺たち役人と代議士は、別に上司と部下じゃないんだ。雇用関係の契約を結ばれているわけじゃないんだぞ」
「そ、それはそうかもしれないが……」
思い出してみると、10年前の委員会の時から、山下は篠崎代議士に対して否定的だった。あの時の言葉を思い出す。『あいつらはどうせ与党だからな』。
「山下さ、その、もしかして……野党寄りのスタンスだったり、する?」
「なに言ってるんだよ。ノンポリが俺の主義だっての。与党野党じゃなくさ、行政マンとしてどうかってことしか考えたことねーよ」
空になったグラスを持ち上げ、
「マスター。もう一杯お願いします」
と言った。
「同じものでよろしいですか?」
「そうですね……そこの、スプリングバンク12年にします」
「ロックで?」
「はい」
新しいグラスが用意され、そこにアイスピックで丸く形を整えられた氷がすとんと降ろされる。マスターは無表情にマドラーでその氷を回転させ、グラスになじませていく。
スプリングバンクが注がれると、濃厚な香りが周辺に一瞬漂った。
僕は少しばつが悪くなり、ハイボールをもう一口飲んだ。
「そういうとさ」
話題を変えようと思った。
「大洗に帰って、おかしな奴に会ったよ」
「おかしな奴?」
「そ。芹澤っていってな。僕たちよりも少し年上なんだが、今度、町議会選挙に出るみたいだ」
「俺たちよりも少し年上ってことは、40歳ぐらいか」
「たぶんな。妙な猫撫で声でさ。わざとらしい感じなんだよ。篠崎さんとは全然違うタイプだ」
「そいつって、どこか党には所属してるの?」
「どうだろうな。詳しくは知らないが、スポーツショップの店員をしてて。スポーツ関連とか、そういうのから票をもらう算段みたいだ。たぶん無所属か、小さな地域政党から出るんじゃないかな。『大洗を新しくする会』って胡散臭いのに所属してるみたいだった」
「ふぅん」
山下が新しいウィスキーを口に含んだ。
「篠崎氏はお坊ちゃまだからな。若くして与党の国会議員になった。ある意味では堂々としていられるし、媚びる相手は俺たちじゃない。だから、あんなふうに直情的でいられるんだよ。その、芹澤ってやつは、たぶん無所属で町議を狙ってるんだろ? 仕事ができるかどうかは知らんが、媚びた猫撫で声を演じている方が選挙には得かもしれんな」
「あぁ、それは一理あるのかも」
僕は大洗のあの閉鎖的な空気を思い出した。
洗練とは程遠いあの町では、おべんちゃらでもなんでも使いこなして、他人に気に入られた方が選挙には有利かもしれない。
そう考えると……芹澤のあのいやらしい猫撫で声は、いやらしさが表出してしまっている分だけ、彼の本心ではないことの証左でさえあるような気がしてきた。
「まぁ、辻ちゃんにわざとらしさを見抜かれちゃうようなら、そいつはまだまだかもな!」
山下が豪快に笑った。
「で、その人、何のスポーツやってるの?」
「本人はやってないと思うけど。戦車道のOG会から票をもらう算段みたい」
言ってから、また嫌な気持ちが湧き上がってきた。僕の戦車道。
「あれ、そういうと昔、辻ちゃんさ、戦車道好きだって言ってなかったっけ?」
「そ、そこそこね」
「そうだよ、思い出した。そもそもあれじゃない。あれ。篠崎さんが決算委員会で。めちゃくちゃに戦車道せめてたんじゃん」
「あ、あぁ」
「辻ちゃん、すっげー矛盾してない? 戦車道せめてた篠崎さんのこと好きなわけ?」
「いや、それとこれとは別っていうか。篠崎代議士だって、いつも戦車道ばっかり責めてるわけじゃないし。僕は彼のあの、物おじしない鋭さに感心してるんだよ。僕には、その、ないものだから。あんなふうに成りたいってのも心の片隅にあって。戦車道云々じゃないんだよ」
「そういうもんなんかね」
「そ、そういうもんなんだ!」
気が付くと、ハイボールのグラスが空になっていた。
「もう一杯いっとく?」
山下が尋ねる。
僕は空になったグラスと、彼の顔と、自分の手元をにらめっこして。
「薄めのハイボールを、もう一杯」
と言った。
フェイマス・グラウスのかなり薄いハイボールにレモンピールをひとかけら添えたものが出てきた。
「あ、あ、あ……そんなに薄くしたら、美味くないのに……」
と山下が残念そうにつぶやいた。
「いいんだよ、僕は。やっぱり酔いすぎるのは性に合わない」
「そっかぁ……辻ちゃんさ、酒に強くなれよ。もっと時々俺と飲もうぜ」
「強くなれるもんでもないでしょ。それはそうと、戦車道ってさ、そんなに……票になるの?」
「どうだろう。地域にもよると思うけど。大洗はどうなのかな?戦車道自体はまぁ、他のスポーツに比べてめちゃくちゃ人気があるわけじゃないよなぁ。やっぱ金もかかるし。
装備の差がものをいうスポーツでもあるから、どうしても金持ってる学校が有利だしね。やってるところが限られてるって印象だよなぁ」
「確かに、戦車の数や性能の差はモノを言いそうだね」
「その辺がスポーツとしてどうなの?っていう人もいるんだよ。逆にその差をどう乗り越えるかが面白くもあるんだろうけど。
一時期人気あったけど、最近はもう下火なんじゃない? 好きな人はすっげー好きなスポーツって感じがするなぁ。そういう意味では、OG会ってどんなもん票になるんだろうねぇ」
「僕さ、戦車道はその、そこそこ好きだから、時々テレビで見るけど。大洗って目立っていた印象がないな。地元だし、強かったら絶対記憶に残るはずだし」
「でもまぁ」
山下が二杯目のウィスキーを飲み干す。
「熱狂的な人たちが続けているなら、その人たちは、選挙の時にも熱を持った動きをするかもね」
「…………」
僕の口の中で、ほのかなレモンピールの苦さを含んだ炭酸がはじけた。
結局、僕の酒を飲むペースが遅いことを理由に、山下はウィスキーをもう一杯飲んだ。
それで時間は23時半を回り、お開きになった。
「それでは山下2等兵、鬼嫁の待つ家へ帰還するであります!」
おどけて山下が敬礼のポーズをとる。
「なんだよそれ」
「バカ、戦車道リスペクトだよ、リスペクト」
「はいはい」
僕も手を挙げて別れの合図。
お互いの住むところが逆方向なので、駅の改札口で離れ離れだ。
僕は、夜のプラットフォームに立ち、空を見上げた。建造物に邪魔されて月は見えなかった。ただ真っ暗闇が、空を覆い尽くしていた。だがそれは何も不思議なことではなく、東京の当り前の夜に過ぎなかった。
続く