「え? あれ? 篠崎先生ですか?」
僕は驚いた声を上げた。
「ああ、そうだよ。すまない、急に電話をして」
「あ、いえ」
彼の低く洗練された声に、背筋が伸びる思いだった。
「驚かせてしまったかな。実は中さんから君の番号を訊いていたんだ」
「左様でございましたか。申し訳ありません、取り乱してしまいました」
「いや、こちらが悪いんだ。知らない番号から着信があると驚くのも無理はない」
ところで今何をしている?と篠崎代議士が問いかけてきた。
「僕はさっきまで、新宿の紀伊国屋でぼんやりとしていたんだ。このところ忙しくて、急に休みができたら、休み方を忘れてしまっていた」
小さく笑う。
「それでふと、先日一緒に飲んだ君のことを思い出したんだ」
「あ、ありがとうございます」
僕は携帯を持ったまま頭を下げた。
「それで、今何をしてる?」
「神保町にいます。今日は予定がありませんでしたので私も暇を持て余していました」
「神保町か。良いな。好きなカレー屋があるんだ。もうお昼は済ませたか?」
「いえ、まだです」
「よし、それじゃ、合流してもいいか? それとも、女性と一緒だったりするか? もしそうならそうだと言ってくれて構わない。野暮な男にはなりたくない」
「女性なんていません。むしろありがたいお誘いです。あの、こちらから新宿に行くこともできますが」
「いや、神保町が良いんだ」
「承知いたしました」
数十分後、改札口に篠崎代議士が現れた。
彼は淡い茶色のヘリボーンの質の良さそうなジャケットを羽織り、紺色のチノパンツをはいていた。
シャツは真っ白なスタンドカラーで、洗いをかけたようなざっくりとした生地がカジュアルさを演出していた。
「やぁ。待たせたね」
「いえ、こちらこそ、わざわざ来ていただいて本当にありがとうございます」
「怒っていないか?」
「え? 何をですか?」
「勝手に中さんにアドレスを訊いたことをだよ」
「むしろありがたいですよ。気にしてくださって」
「そうか」
「神保町はよく来られるのですか?」
「いや、久しぶりだ。若いころ、議員向けセミナーをこの辺のビルの研修室で受けたことがある」
ほら、あそこのビルだ、と、代議士が8階建ての細長いビルを指さした。
「研修ですか」
「まぁ、つまらん内容だぜ。同じような顔ぶれが同じような内容をいつも語っている。セミナーは政務調査費で落ちるからな。払う方は腹が痛まないから、どんな内容でも成り立つ。俺は二度行く気にはならなかったけどな」
僕は苦笑いした。
「で、俺の行きたいカレー屋なんだがな……」
と言いかけて、彼が僕の手元に目を止めた。
「ディスクユニオンの袋じゃないか。何か買ったのかい?」
「あ、実は昨日、実家に帰りまして」
「へぇ、実家に」
「はい。それで、父が好きだった音楽があって。たまたまそれを聞いたので、懐かしくなって、買いなおしたんです」
「なんのCD?」
「エレクトリック・ライト・オーケストラの『Out Of The Blue』です」
「ELO! ジェフ・リンか。『Out Of The Blue』は宇宙船の表紙のやつだな」
「ご存知ですか?」
少し意外だった。
「ELOのファンじゃないが、70年代のイギリスのロック全般が好きなんだよ。ジェフ・リンといえば、知ってるか? ELOのヒット曲のDO YAは、実はもともとジェフ・リンが最初にいたMOVEというバンドの曲のリメイクだ」
「そ、そうなんですか」
あまりの食いつきに少し圧倒される。
「そうだ、ちょうどいい。今度、一緒にライブに行かないか?」
「え、ライブですか?」
「あぁ。元GENESISのスティーブ・ハケットの来日公演が来月あるんだ。『魅惑のブロードウェイ』の全曲を再現するらしい。どうだ?」
「しょ、承知いたしました」
「よし、決まりだ! それじゃ二枚買っておこう」
「いえ、恐れ多いです。私が買っておきます」
「まぁまぁ、こういうのは買うのも楽しいんだ」
そのあと我々はカレー屋でパキスタン風カレーというものを食べ、しばしロック談議に花を咲かせた。
カウンターで私服でロックを語っている篠崎代議士は、無邪気で熱く、青年然として見えた。
しかし、考えてみれば彼は、委員会に於いても舌鋒鋭く、攻撃的で激しい熱量を持った男だった。
僕は明らかに彼のキャラクターに魅力を感じていた。
昼過ぎに店を出ると、「この後は少し仕事をする」と言って、彼は駅の方へと去っていった。
僕は篠崎代議士と懇意になっていく自分が少しうれしかった。
これまで、淡々と仕事をこなしていくばかりだった。
しかし、こうして、篠崎代議士に気に入られることによって、自分が行政という仕事に、今までよりも一歩踏み込んでいるような気持になることができた。
昔、何事にも反応が薄い僕に対して、同期の山下が「お前はさ、物事に関係性を持とうとしないから、本腰が入らないんだよ」と言ったことを思い出した。
「関係性?」
「そう。関係性。辻ちゃんさ、どっかで一歩引いちゃってるでしょ。でも俺は関係ないから、みたいな醒めた態度」
「いや、僕は僕なりにちゃんと仕事をこなしてるつもりだけど」
「そこだよ、そこ! その淡白な態度! もちろん、辻ちゃんさ、きっちり仕事してると思うよ。てきぱきしてるし、俺より丁寧だし。でもさ、熱が感じられないんだよ」
「熱、ねぇ……」
「もっとこう、深入りしなきゃ。深入り。そうしたら、『このことは俺が何としてでもやらなきゃ』って意地とか熱とかが出てくるんだよ!」
「うう~ん、そうなのかな」
今、ようやく僕も、山下が言っていたような仕事との『関係性』を持ち始めているのかもしれない。
そう思いながら、日曜日の街をぶらぶらと歩いた。
続く