第八話 物語の始まり
「──おはよう朝陽ちゃん!」
「おはよう穂乃果」
桜が咲く穏やかな早朝のある日の事。
いつも通りの時間に家を出て、気持ちの良い朝日に頬を緩めながら学校へと向かっていると、背後から声を掛けられた。
その馴染みのある声に振り向けば、穂乃果達が手を振りながらこちらへやってくる所だった。
そのまま近くまで来た穂乃果が俺に飛びつき、それを咄嗟に受けとめている内にことり達も追いつく。
「穂乃果! いきなり朝陽に飛びつくのは危ないではないですか!」
「えへへ、ごめんなさい」
「大体いつも穂乃果は──」
「おはよう〜朝陽ちゃん」
「おはよう、ことり」
海未に言われて俺から離れた穂乃果は、照れ笑いをして頭を掻いている。
それを見て穂乃果の説教を始めた海未を尻目に、ことりと挨拶を交わして歩いていく。
「やっとことり達にも後輩ができたんだよね」
「後輩……あっという間の一年だったかな」
「あはは、色々あったもんね」
「本当に色々あったよ」
穂乃果の思いつきに振り回されたり、海未の山頂アタックに付き合わされたり、ことりの服屋巡りに連行されたり。
うん、随分と濃い一年だったな。その一年が楽しかったと言えば楽しかったので、良い思い出になったとも言えるけど。
とまあ、過去を振り返るのは置いといて、俺にとって重要なのは現在。
そう。先ほどことりが言った通り、俺達は高校二年生へと進級したのだ。
穂乃果達は無事に進級できて凄く嬉しそうだけど、今後の展開を知っている俺からすればどうしても憂鬱にならざるを得ない。
恐らく、今日から動きだすのだろう。穂乃果を中心とした物語──ラブライブが。
「朝陽ちゃん?」
「な、なんだいことり?」
「さっきから朝陽ちゃんがぼーっとしてたからどこか具合が悪いのかなって」
「いや、少し寝不足なだけだよ」
俺の言葉に対して、無言でじーっと見つめる事で応えることり。
そのまま暫しの間ことりと見つめ合っていると、やがて彼女は眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべた。
ことりは鋭いからなあ……もしかして、何かを勘づかれたかもしれない。
「朝陽ちゃんって何か困──」
「助けて朝陽ちゃーん!」
「待ちなさい穂乃果! まだ話は終わっていませんよ!」
何かを話そうとしたことりの言葉を遮り、穂乃果が慌てた様子で俺の背中に隠れた。
それと同時に、海未が声を上げて駆け寄ってくるのだが、俺の前で止まると大声を出して恥ずかしかったのか、少々頬を赤く染める。
「へへーん、海未ちゃんはことりちゃんと朝陽ちゃんには怒れないもんねー」
「また調子に乗っているね」
「あはは、穂乃果ちゃんらしいや」
「穂乃果……あまりふざけていると、後悔しますよ」
俺の背中から顔だけ出して舌を見せる穂乃果の煽りに、海未は拳を掲げて肩を震わせている。
その明らかに爆発五秒前の姿を見てやりすぎたと自覚したのか、穂乃果の顔色が真っ青に染まっていく。
ああ、また穂乃果やっちゃったな。ことりもいつの間にか遠くまで離れているし、俺も逃げよう……って、背中を掴まれて動けない!?
「ほ、穂乃果。離してくれないかな?」
「そうはいかないよ。穂乃果だけを犠牲にしようなんて考えは許さないから」
「元はと言えば穂乃果の自業自得だよね」
「そ、それでもだよ!」
「遺言はすみましたか、穂乃果?」
「ひぃ!?」
穂乃果と小声で言葉を交わしている間に、海未が顔を俯かせたままゆっくりと近づいてくる。
それを見て穂乃果は悲鳴を上げて後ずさる。
うん、穂乃果が離れた今のうちに俺も退散しよっと。
「ふぅ、なんとか助かった」
「ぎゃー! こっちに来ないでぇぇぇぇ!」
「待ちなさい! 今日という今日は貴女の根性を叩き直してあげます!」
両手を上げて走り去っていく穂乃果に、怒りの表情で彼女を追いかける海未。
あっという間に二人の姿は小さくなっていき、それを見て俺とことりは思わず顔を見合わす。
「遅刻しないうちに私達も行こうか」
「そうだね〜」
なんとかことりの追求を有耶無耶にできた事に内心で安堵しつつ、俺達も急いで穂乃果達の後を追うのだった。
「──これからどうなるのでしょうか」
憂鬱そうに呟く海未の言葉に、ことりは表情を曇らせた。
現在、俺達は昼食を摂っている最中なのだが、掲示板に貼られた廃校という文字を見てしまったので、穂乃果達はいつものように昼食を楽しめないようだ。
まあ、気持ちはわかる。穂乃果なんてよほどショックだったのか気を失ってしまったしな。
と言っても穂乃果の場合、転校試験を受けると勘違いしたからショックだったようだが。
「廃校か……そういえば、一年生は一組しかないもんね」
「今の一年生には後輩ができないんですよね」
悲しげな表情を浮かべる海未とことりに対して、穂乃果は何かを考え込むような顔をしている。
「あ、このパン美味しい!」
……俺の勘違いだったみたいだな。
「それはいつも食べているパンではないですか」
「ちっちっち、違うんだよ海未ちゃん」
「……何がですか」
先ほどとは一転して呆れた表情を浮かべた海未の問いに、穂乃果は人差し指を横に振ってドヤ顔になった。
そのやたら様になっている腹が立つ穂乃果の動作を見て、海未は頬を痙攣させながら頭痛を感じたように頭に手を置く。
また、ことりも穂乃果のいつも通りの姿に苦笑いしている。
確かに、海未の気持ちもわかる。そのやれやれだぜみたいな穂乃果の煽り顔は俺もイラッとしたし。
それにしても、海未に今朝怒られたばかりなのにもう忘れているとは……穂乃果って鳥頭?
いや、鳥頭はことりか。これはトサカのような髪型に鳥頭を掛けて──
「朝陽ちゃん? 今、何か変な事を考えたでしょ?」
「そんな事ないさ」
「本当に〜?」
「本当本当」
「絶対嘘だよ! 朝陽ちゃん変な事考えたでしょ」
俺の言葉を聞いて、ことりはジト目で顔を近づけてくる。
そのまま頬を膨らませて更に追求してくることりをなんとかあしらっている間に、一通り海未を煽って満足したのか、穂乃果は満面の笑みを浮かべてパンを突きだす。
「なんとですね! このパンはいつもより二割引だったんですよ海未さん! いやー、割引きされたパンは美味しいなあ」
「はぁ……私達にできる事をしたいと思うのですが、どうでしょうか?」
海未をビシッと指した後、幸せそうな表情でパンを頬張っていく穂乃果。
その穂乃果の能天気な様子を見て諦めたのか、海未はため息をついてから俺達に尋ねてきた。
俺への追求を止めて顔を離したことりも、海未の言葉に同意するように何度も頷いており、二人が心からこの学校が好きな事がわかる。
まあ、ことりの場合は親が理事長だしなあ。俺もこの過ごしやすい雰囲気がある音ノ木坂が好きなので、海未に言われるまでもなくなんとかしたいと思う。
「朝陽ちゃんはどうかな?」
「うん、私も──」
「ちょっといいかしら?」
不安げな様子を見せることりに頷こうとした俺を遮り、誰かが声を掛けてきた。
その僅かに焦燥感が滲みでる聞き慣れた声の方へと目を向ければ、そこには案の定絵里と絵里の親友である東條先輩がいたのだ。
いきなりこの学校の生徒会長に声を掛けられたからか、緊張した面立ちになる海未とことり。
それに対して、いつの間にかパンを食べ終えた穂乃果は、こっそり俺の方に体を寄せてきて耳元で囁く。
「朝陽ちゃん、あの人達って誰?」
「はぁ……彼女達は生徒会長と副会長だよ」
「えぇ!? 生徒会長!?」
「う、うるさいよ……」
突然耳元で叫ばれたせいで、鼓膜に響いて耳が痛い。
思わず耳を抑えている俺と、口を半開きにして間抜けな姿を見せている穂乃果。
ことりと何やら会話をしていた絵里も、この声には驚いたのかこちらへと振り返った。
そこで絵里は初めて俺に気が付いたようなので、手を振って挨拶をすると数瞬表情を和らげる。
しかし、直ぐに厳しい表情に戻った絵里は、穂乃果を一瞥してからことりへと向き直った。
「それで、南さん。理事長から何か聞かされていなかった?」
「い、いえ。私も初めて知ったので」
「そう……」
「絵里ち?」
申し訳なさそうに首を横に振ったことりを見て、絵里は顎に手を当てて暫し考え込む素振りを見せる。
暫くすると考えが纏まったのか、絵里は俯いていた顔を上げて決意を瞳に宿す。
そして、絵里はそのまま俺達を見回しながら口を開く。
「昼食の邪魔をしちゃってごめんなさいね。貴女達は気にしないで今まで通り学校を楽しんでちょうだい。後は私がなんとかするから」
「は、はあ……」
「ほな頑張ってなー」
困惑気味な声を上げる海未を見つめて微笑んだ絵里は、東條先輩を連れて去っていってしまった。
嵐のように現れて消えた絵里の姿に、海未やことりは首を傾げていたが、穂乃果は難しい表情で唸っている。
「むむむ……穂乃果わかんない!」
「穂乃果ならそうでしょうね」
「とりあえず、生徒会長は学校を楽しめって言ったんだよ」
「うーん……」
絵里の言葉を要約したことりの言葉に、穂乃果はやはり難しい表情のまま腕を組む。
穂乃果には言葉より行動で示した方がいいだろう。
そう思い、俺は色々考えすぎたのか目を回している穂乃果へと問いを投げかける。
「どうする穂乃果? このまま指をくわえて見ているかい? それとも廃校を止めるために何かをするかい?」
「……やる! 穂乃果この学校が好きだもん! だから穂乃果も何かをして廃校を止めたい!」
拳を突きあげてそう叫んだ穂乃果を見て、海未達の表情の強ばりがほぐれていく。
海未達は穂乃果が絵里の言葉にどう反応するか不安だったのだろう。
でも、穂乃果は自分のやりたい事をすると宣言した。
そして、一度やると決めれば即行動するのが穂乃果だ。
「それで、まずはどうする?」
「まずは……」
『まずは……?』
「もう一個パンを食べてからね!」
『はぁ……』
そう告げると新しいパンを取りだし頬張っていく穂乃果。
そんないつも通りでぶれない幼馴染みの様子に、俺達はお互いの顔を見合わせ揃ってため息をつくのだった。