あれから、なんとか気持ちを落ち着かせた後。
常備していた目薬や口臭防止の薬を使い、腫れた目等の偽装をした。
お蔭で誰も俺の変化に気が付く事なく、無事に部室へと戻る事に成功。
無難に勉強会も終わり、その日を過ごせたのだ。
以降も皆と部室で勉強をする日々だったのだが──
「はぁ……」
誰もいない教室で、一人ため息を零す。
澄み渡る青空を恨めしく思いながら、俺は勉強会をサボっていた。
μ'sには用事で先に帰ると告げていたので、俺がここにいるとは思わないだろう。
まあ、ここなら誰かに見つかっても問題ないという事もあるが。
ともかく、わざわざ教室に残っている理由は、なんて事はない。ただ、何かをする気が起きなかったというだけ。
絵里に拒絶された日から、俺は全ての事柄に集中できていないでいた。
……燃え尽き症候群というのが、今の俺に一番近い表現だろうか。
何もかもがどうでもいいと思ってしまう。
今まで精力的に動いていただけに、あの言葉は己の心に深く突き刺さった。
『──ちっとも私の事を見てないじゃない!』
全く以て、絵里の言う通り。
良かれと思ってしていた事だったが、それがいけなかったのだろう。
物語やμ'sとしてでしか見ておらず、絵里本人の事を蔑ろにしていた。
色々と考えていた内容も、全てはμ'sのため、物語のため、廃校阻止のため。
もちろん、絵里達を手伝いたいと思った気持ちは強い。胸を張って断言できる。
しかし、全部が純粋な気持ちだったかと言えば、自分でもよくわからない。ただ、実際は絵里の言葉通り、不愉快に感じさせてしまったのだろう。
で、この有様。泣かせまいと誓った彼女を、よりにもよって俺自身が泣かせてしまった。
「結局、余計な事をしただけだったんだろうな」
俺のしていた事は無駄だった。何をしても空回り。むしろ、関わらない方が皆にとって良かったかもしれない。
行き場のない感情がグルグルと回り、被害妄想のような想いが際限なく広がっていく。
頭ではわかっている。
俺程度の存在が、物語に多大な影響を及ぼす。そんな事あるはずがない。
いや、悪い方面には大きい影響を及ぼしてしまったのだろう。
ことりを追い詰めたり、絵里を泣かせてしまったり。これらの問題は、俺がいなければ起こりえなかったものだ。
俺がいなければ、ことりのは物語通り少し揉めただけだろうし、絵里だってここまで責任を感じさせなかっただろう。
もし今の俺の心を読んだ人がいたら、自意識過剰だと笑うかもしれない。
ただ、俺はどうしても杞憂だと思う事ができなかった。
悪循環……と、言うんだろうな。
理性とは違い、止められない感情。
昔から臆病だとは思っていたが、まさかここまで自分が情けなかったとは。
呆れを通り越して、我ながら笑えるのが始末に負えない。
「どうすれば良かったんだろうな……」
窓に映る自身の瞳が、暗く澱んでいた。
口元は皮肉に歪んでおり、表情からは諦観の色が漂っている。
そんな姿を見ても、俺は特別取り繕おうとは考えなかった。
思う事は、ただ一つ。
絵里に嫌われた、それだけ。それ以上でもそれ以下でもない事実。
今までだって、俺が何かをした所で物語より良い結果にはならなかった。
つまり、俺の行動でマイナスになる事はあっても、プラスになる事はないのだ。
その結論に至った瞬間、俺はようやく悟った。
「俺は何もしなくていい。全部、μ'sに任せておけば良い」
確かめるように呟きを落とし、頬杖をついてボーッとする。
ファーストライブの時は穂乃果達が自分で立ち直ったし、一年生が加入する時も穂乃果達が手を差し伸べた。
にこ先輩の時だって、穂乃果達μ'sの踊りがあったから、彼女の心が揺り動かされた。
つまり、俺の有無関係なく、結果は変わらない。
だからこそ、これからもμ'sが全てなんとかしてくれる。
絵里を救ってくれて、希先輩もμ'sに加入してくれて、廃校阻止もして……。
きっと、ことりの留学関係も上手く纏まるだろう。だって、μ'sは今までもそうやって乗り越えてきたんだから。
「後はμ'sに任せて、俺は……ん?」
いっその事、思い切って転校でもしてしまうか。と、思った時、扉が開かれて誰かが教室に入ってくる。
音のした方向へ目を向けると、なんと希先輩がこちらに歩んできていた。
「やっぱり、ここにいた」
「カードのお告げですか?」
「ふふっ、そうや。実は、朝陽ちゃんに聞きたい事が──」
恐らく、俺の表情に気が付いたのだろう。
笑顔で近づいてきた希先輩は、思わずといった様子で目を見開いていた。
困惑気味に眉を寄せ、俺の前の席に座る。
「──朝陽ちゃん。一体、何があったん?」
「別に、どうもないですけど」
「そんなわかりやすい誤魔化しが通じると思ってるん?」
「じゃあ、何かあったんじゃないですかね」
「朝陽、ちゃん?」
目も合わせず投げやりに返せば、息を呑む気配が伝わる。
相変わらず憎々しいほどに綺麗な青空を眺め、平坦な口調で口を開く。
「それで、なんの用ですか?」
「……朝陽ちゃん。絵里ちと何があったん? 最近の朝陽ちゃん達、変や」
「そうですね。あったと言えばありましたし、なかったと言えばなかったと思いますよ」
「真面目に答えて!」
バンッと机を叩き、怒気を孕んだ声を荒らげる希先輩。
思わず肩を震わせて目を合わせば、眉尻を吊り上げた彼女の表情が視界に入った。
深いため息を一つ。表情に自嘲の笑みを張りつけ、俺は肩を竦める。
「まあ、絵里に嫌われたって事ですよ」
「絵里ちに?」
「ええ。自分がしてきた事が全部無駄で、なのに絵里を傷つけ。今までの足掻きも意味がなく、むしろ余計に悪化をさせ。より良い未来のための行動が全て無意味で、逆に不幸な結末を呼んでしまう」
「な、何を言ってるん……?」
どこか怯えるように瞳を揺らす希先輩を尻目に、俺は立ち上がって窓を開け放つ。
蒼天に輝く太陽へと手を伸ばし、自身の無力さに拳を握り締める。
「希先輩。イカロスの翼って神話を知っていますか?」
「えっ?」
「自分も詳しくないんですけど。ロウで創った翼を生やしたイカロスが、太陽へと近づくんです。だけど、ロウが溶けてしまって、翼がなくなったイカロスは墜落してしまうんです」
「それがどうしたん?」
「いえ。ただ、今の自分にピッタリな話だと思いまして」
翼を手に入れて調子に乗り、届かないはずの太陽へと目指す。
無謀にも手を伸ばすが、翼が溶けて逆に太陽から離れてしまう。
結果、深い深い海の底へと沈み込む。
背後から漂う戸惑い気味な希先輩の様子に、俺は苦笑いしつつ口を開く。
「馬鹿ですよね。わかりきっているのに、わかっていたはずなのに、届かない輝きに手を伸ばすなんて。遠くから見ていれば何も起こらなかったのに、無謀にも近づこうとするから、逆に輝きが色褪せる」
そこで言葉を区切り、希先輩に顔を向ける。
「希先輩。絵里の事をお願いします」
「えっ?」
「今の絵里に必要なのは、希先輩ですから」
微笑んだ俺を見て、希先輩は酷く驚愕した表情を浮かべた。
一度お辞儀してから踵を返し、ゆっくりと扉へと向かっていく。
しかし、途中でガタンと勢いよく椅子が倒れる音が響き、背後から希先輩に呼び止められてしまう。
「ちょ、ちょっと待って!? さっきから朝陽ちゃんの言ってる事がわかんないんや! 絵里ちを任せるってどういう事!?」
「どういうも何も、言葉の通りですよ。親友の希先輩が絵里を支えてくれれば、全部解決するんです」
「そうじゃなくて! さっきの絵里ちに嫌われた事とか、どうして朝陽ちゃんがそんな顔をしているとか、色々と聞きたい事があるんや!」
「私には話す事はもうありませんよ」
「朝陽ちゃん!」
「さようなら、希先輩」
無視して扉に手をかけると、不意に場の雰囲気が変化する。
先ほどまで必死な声色だった希先輩は、どこか蔑むような口振りで。
「──逃げるん?」
ピタッと手が止まり、僅かに肩を震わせた。
数瞬してから、俺は同じ姿勢のまま疑問の声を上げる。
「……どういう意味ですか?」
「言葉の通りや。朝陽ちゃんが何を言っているのか、今でもよくわかってない。でも、今の朝陽ちゃんが逃げてるって事だけはわかるんよ」
「逃げてる……?」
「だって、そうやん? 要は、絵里ちと喧嘩したから会うのが怖いってだけや。仲直りできるか不安だから、ウチに丸投げして逃げようとしている」
思わず唇を噛み締め、口元から血を垂らす。
違うと咄嗟に返事をしたかったが、何故か希先輩に言い返す事ができなかった。
俺の無言を肯定と受け取ったのか、彼女は挑発するような口調で言葉を募る。
「朝陽ちゃんが考えている事だって、絵里ちから逃げるための言い訳や。そうやって悲劇のヒロインのように振舞って、自分は悪くないって思い込んでるだけ」
「………………れ」
「自分を正当化して、わざと自己嫌悪して、勝手に諦めて。だから、嫌われたって決めつけて」
「…………まれ」
「あれのせい、これのせいって考えて。そうして仕方ないっていう理由を作って」
「……黙れ」
「本当はわかってるんやろ? それらしい言葉で自分を誤魔化して、μ'sや絵里ちから逃げてる──」
「黙れぇぇぇぇぇぇッ!」
素早く振り向き、希先輩を睨みつけた。
心の底から絞りだすように声を張り上げ、唾を飛ばしながら頭を掻き毟る。
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ! 俺は逃げてなんかねぇ! この選択は正しいんだよっ! 俺がいる事で悪影響が出るんなら、こうして全部他人に任せた方がいいだろうが!」
「それが逃げてるんや!」
「違う! あんたは知らないだろうけどな! 俺が介入したせいで余計に悪くなってるんだよ! ことりを悲しませてしまったし、絵里を泣かせてしまったし! 俺がどう頑張ってもより良くできないくせに、悪い方面だけは変わっていく!」
怒鳴り散らすが、希先輩は強い眼差しで見据えているまま。
その表情に苛立ちが募り、俺は歯軋りをして更に鋭く睥睨。
「いつもいつもいつもいつも! 考えて悩んで苦悩して足掻いて! そうやって常に綱渡りの状態でやって来たんだよ! でもな! 俺は間違えた! 誓ったはずなのに、絵里を傷つけちゃったんだよッ! 失敗したんだよッ!」
「だから、絵里ちに会わないの? また、絵里ちを傷つけるのが怖いから? そのせいで自分が傷つくのが嫌だから?」
「っ!?」
思わず息を呑み、言葉に詰まった。
そんな俺の様子を見て、希先輩は淡々と言葉を紡ぐ。
「一度の失敗をグズグズと引きずって。また失敗するのが怖いから、耳を塞いで心を閉ざす。もう、傷つきたくない。絵里ちに拒絶されたくない。だから、自分から拒絶する。そうやって、朝陽ちゃんは目を背けているんや」
「ち、ちがっ……俺は」
「勇気を持つんや!」
「っ!」
目を見開いた俺に、希先輩は力強く言い放つ。
「目を逸らさないで! 逃げようとしないで! もう一度、絵里ちと向き合ってっ!」
「……これ以上、辛い事は沢山なんだよ! ああ、そうだよ! 俺は自分が傷つくのが怖くて逃げたんだよ! 絵里に拒絶されて、心が折れて、諦めたんだよ!」
「嘘! 朝陽ちゃんはまだ、心が折れてない!」
「なんでそんな事がわかるんだよ!」
「だって朝陽ちゃんの目に、絵里ちと仲直りしたいって書いてあるから!」
そう告げた希先輩の瞳は、確信の色を含んでいた。
対して、俺は呆然として崩れ落ち、俯く。
「まだ……まだ、俺は絵里に未練があるのか?」
あれだけ傷つけたのに。取り返しのつかない事をしたのに。
互いのために離れようとしたのに、いまだに諦め切れていないのか?
「絵里ちだって、後悔しているはずや。朝陽ちゃんを突き放すような事をして」
「……」
「だから、朝陽ちゃんが謝れば、絵里ちもきっと許してくれる」
「……もう一度、絵里は俺に笑ってくれるのか?」
「うん。絵里ちなら、間違いなく」
「……絵里は、俺を必要としてくれるのか? ”雨宮朝陽”としてじゃなくて、俺自身を」
「……? よくわからないけど、絵里ちと朝陽ちゃんは友達やん? だったら、必要とかじゃないと思うんよ。一緒にいたいかどうかじゃない?」
「──」
あっけらかんと告げた希先輩。
その言葉を聞いた俺は、いつの間にか無意識に涙を流していく。
鼻を啜って何度も目を擦るが、とめどなく雫が溢れて止まらない。
「あ、朝陽ちゃん!?」
慌てた足取りで駆け寄る希先輩の足音に、滲む視界を上げる。
辛うじて彼女が膝を着いている事がわかり、何かで顔を拭かれていく。
「大丈夫、朝陽ちゃん?」
「……希先輩。俺、怖かったんです。また、絵里に拒絶されないか、泣かせないか。そんな俺を見て、皆が俺を見捨てないかって」
「大丈夫。ウチはずっと朝陽ちゃんの味方だから。……きっと、朝陽ちゃんは色々と辛かったんやね。独りで悩んで苦しんで、だけど誰にも相談できないで。でも、支える事だけならウチにもできる。だから、悲しい事や辛い事があったら、ウチになんでも言って? 少しでも、朝陽ちゃんの心を楽にしてあげたいから」
抱き締められ、ゆっくりと背中をさすられる。
慈愛の篭った声色で、慈しむように微笑む希先輩。
そんな聖母の如き雰囲気に、柔らかく包み込む抱擁に。
もう、俺は己の感情を抑える事ができなかった。
彼女に縋りつき、あらん限りの力で号泣する。
「──うぁぁぁぁぁぁん!」
制服が汚れるのも気にしない素振りで、希先輩は優しい手つきで頭を撫でていく。
教室内に響き渡る、一人の泣き声。
暫しの間、俺は希先輩の胸で赤子のように泣き続けるのだった。