あれから、海未の鬼指導のお蔭で瞬く間に学力を上げる穂乃果達──なんて事はなく、案の定テスト勉強は苦戦の日々だった。
穂乃果は眠気が頻繁に訪れ、凛は嘘をついて逃げようとする。
唯一にこ先輩は、最初にやられたワシワシのせいか、真面目に勉強に励んでいたが。
「ほら、穂乃果。ここが間違っていますよ」
「海未ちゃん……穂乃果、もう疲れたよ。眠ってもいいよね?」
「駄目です」
「海未ちゃんのいけずー! 鬼ー! 悪魔ー!」
バンバンと机を叩く穂乃果を見て、海未はそれはもう綺麗な笑みを浮かべた。
「ええ、ええ。私は鬼で悪魔で良心の欠片もない非道な人間です」
「う、海未ちゃん? 穂乃果はそこまで言っていないよーな」
「ですから、私は血も涙もない選択をしますね。さあ、早く腕を動かしなさい。目を教科書に向けなさい。どんどん脳を酷使しなさい!」
「ひぇっ……海未ちゃんの目が怖い!」
怯えた表情で身体を震わせた穂乃果は、海未の言われるまま勉強を再開した。
対して、ことりは俺の隣でペンを走らせている。
「うーん?」
「それはこの公式を使うんだよ」
「あ、本当だ。ありがとう、朝陽ちゃん」
「どういたしまして」
「……それにしても、朝陽は理解が早いですね。もう遅れた分を取り返したのではないですか?」
「まあ、ここ最近は家で勉強しているしね」
感心したような海未に、俺は肩を竦めた。
このままではまずいと思い、栄養ドリンクを片手にずっとテスト勉強をしていたのだ。
最低限の睡眠時間を確保しているとはいえ、一日中勉強していたからか、少しばかり身体が怠い。
しかし、この程度は問題ない。μ'sの足を引っ張る訳にはいかないので、できるだけ早急に勉強内容を理解しなければならないのだ。
結果、テスト当日まで無理なく勉強をすれば問題ない所まで追いついた。
「この分なら、朝陽は大丈夫そうですね」
「うん。だから、海未は穂乃果を頼んだよ」
「えぇっ!? それはおーぼーだよ朝陽ちゃん! 穂乃果一人じゃ海未ちゃんの扱きに耐えられないってっ!」
「大丈夫です、穂乃果。ちゃんと気合いを入れて頑張りますから!」
「それは大丈夫って言わないよ! ほ、ほら。穂乃果より凛ちゃんにも教えた方がいいって」
凛も巻き込もうとしたのだろう。顔色を明るくして告げた穂乃果だったが。
当の本人は決して彼女と目を合わせず、花陽達に教えを乞っていた。
「真姫ちゃん、ここ教えて」
「凛ちゃん無視しないで! 穂乃果と一緒にこっちで勉強しよ?」
「り、凛ちゃん? 穂乃果先輩に呼ばれているよ?」
「あれは敵だにゃ。絶対に反応しちゃいけないの。わかった、かよちん?」
「今、こっち見たでしょ! 穂乃果を可哀想な目で見たでしょ!」
「──穂乃果?」
指をブンブン振るっていた穂乃果は、海未に肩を叩かれて固まる。
油の切れたロボットのような動きで、満面の笑みを浮かべている彼女に顔を向け。
瞳に諦観の色を宿して、肩を落とす。
「はい、大人しくやります」
「よろしい」
なんていうか、どこのコント?
いやまぁ、穂乃果にとっては真剣な事だったのだろうが。傍から見れば、笑えるというかなんというか。
実際、今のやり取りを見ていた真姫は呆れた表情を浮かべているし。
内心で苦笑いしながら、頭では別の事を考えていく。
テスト勉強については、おおよそ問題はないだろう。
穂乃果達もなんだかんだ言って学力が上がっているし、ラブライブの出場停止なんて事態は起こらないはず。
……問題は、絵里。
元々、μ'sのPVが終わったら直ぐにメンバーに勧誘するつもりだった。
わざわざ廃校ギリギリまで待つ必要がないし、こういうのは早いに越したことはないから。
しかし、あの時の出来事。
絵里に拒絶された日から、俺達の間で会話がなくなっていたのだ。
どうにかして話しかけたいのに、絵里は逃げるように俺から離れ。
希先輩からも心配されたが、こればかりはどうしようもない。
独りで重圧と戦っている絵里に対して、俺はμ'sと仲良くしている。
どう考えても、俺に腹が立つだろう。
なんで私ばっかり、どうして貴女は楽しそうなのって。
でも、もう時間がない。
μ'sのクオリティーを上げるためには、少しでも廃校阻止の確率を高めるためには。
テストが終わった直後辺りで、絵里達に加入して貰うのが望ましいだろう。
……今でも話しかけるのが怖い。また拒絶されてしまうのが恐ろしい。
震えそうになる身体を叱咤し、深呼吸をしていく。
俺の感情より、μ'sの事情。結局、他の廃校阻止の案が思いつかなかった以上、やはり絵里には直ぐにでもμ'sに入ってほしい。
そうと決まれば、即行動。今から絵里に頼みに行こう。
「あれ、朝陽ちゃん? いきなり立ってどうしたの?」
「ちょっとお手洗いに」
「私も、これから部活動があるので。ことり、穂乃果がサボらないように見張っておいてください」
「わ、わかってるよぉ」
部室を出た俺は海未と別れ、絵里の教室へと向かうのだった。
希先輩が言っていた通り、彼女はここで勉強をしていた。
誰もいない教室で、一人。真剣な表情で腕を動かしている。
暫し声を掛けるか悩んだが、頭を振って近寄っていく。
「絵里」
「っ……朝陽。何か用かしら?」
振り返った絵里は、僅かに息を呑んだ後。冷静な顔つきで、俺に促す。
いつものように笑顔を向けてくれない事に、思わず手が震えそうになる。
拳を強く握ってそれを抑え、できるだけ自然な笑みを浮かべて。
「実は、絵里に頼みがあって来たんだ」
「私に?」
「うん、絵里に」
「……そう」
呟きを漏らし、目を伏せた絵里。
対して、俺は場に漂う嫌な雰囲気を不安に感じていた。
彼女との間には、以前までの暖かな空気がない。あるのは気まずさのみ。
喉はカラカラに渇き、大きく波打つ鼓動の音が耳を駆け抜ける。
ゆっくりと息を吐いてから、逃げそうになる足に力を入れて口を開く。
「あの、さ。無事にテストが終わった後、絵里には希先輩と一緒にμ'sへと入ってほしいんだ」
「私、が?」
「そう。絵里が」
「……どうして?」
「私が入ってほしいと思ったから」
端的に返すと、絵里の瞳が僅かに揺れる。
唇を噛み締め、握っているペンからは嫌な音が響く。
だがそれも数瞬の事で、直後には何色も映さない空虚な瞳へと変わった。
「…………また、あの子のためなのね」
「えっ?」
「なんでもないわ。それで、μ'sだったかしら。悪いけど、私は入るつもりないわ。ただでさえ時間がないというのに、スクールアイドルをしている暇なんてないの」
「で、でも! 絵里が入ってくれれば、μ'sが九人になって更に有名になるんだ! 彼女達なら、廃校だって阻止できるはずだよ!」
「何故、そんな根拠のない事が言えるのかしら? スクールアイドルが廃校を阻止する? いくらなんでも非現実的よ」
強く断言する絵里の表情は非常に冷たく、とても知り合いに向けるものではなかった。
ゴクリと唾を飲み込み、思わず身体を震え上がらせてしまう。
……怖い。今まで向けられた事のない表情が、凄く怖い。
やはり、絵里には余裕がなくなっている。
少し前までの彼女ならば、ここまでμ'sを強く否定していなかった。
しかし、現在は心からμ'sを……いや、俺に敵愾心を持っている。
きっと、廃校が決まるまでの時間が近づき、焦っているのだろう。
──私がなんとかしなければ。私以外に誰が廃校を阻止するんだ。μ'sのように遊ぶ暇なんてない。生徒会長である私が、ここが好きだと思っている私個人が、祖母の母校の音ノ木坂を守らなければ。
と、考えているのだろう。
前に俺が言った時、確かに絵里は自分の意思で廃校を止めたいと返してくれた。
でも、今はその気持ちのせいで、絵里の心の焦燥に拍車をかけている。
自覚したからこそ、余計に責任や重圧を強く感じてしまう悪循環。
「絵里達が入れば、必ず廃校が阻止される! 今だって、μ'sの評価がどんどん上がっていってるんだ!」
「だから、私が入れと? 馬鹿馬鹿しい。確かに朝陽の言う通り、今のμ'sは有名になっていっているんでしょうね」
「なら!」
「でも、音ノ木坂の入学希望者は増えているの? 廃校が阻止できそうな確かな実績を残せているの?」
「そ、それは……」
絵里の言葉に、俺は咄嗟に返事をする事ができなかった。
μ'sが世間に認められている。それは間違いない。前にグッズ関係についての問い合わせが来た事がある。
そして、理事長と一緒に相談した結果、近い内に秋葉原のグッズショップに売られる事になったのだ。
着実に実績は積んでいる。しかし、音ノ木坂の廃校阻止までには行けていない。
もう少し、あと一歩が足りないのだ。ネットの反応を探っていると、どうしても中学生を入学希望に踏み切らせる事ができていない。
だからこそ、絵里達がμ'sに加入すれば、そんな人達が音ノ木坂に来てくれる。そう俺は確信している。
ただ、実際に絵里の言う通りに現段階では、グッズが売れそうなスクールアイドルでしかない。
……絵里の言葉を反論できる実績はなかった。
「その様子じゃあ、期待できそうないわね」
「違う! 確かに、今は入学希望者が来ていない。理事長にもそう聞かされたよ。でも、世間でμ'sはかなり注目されているんだ! あと一押し、もう一つ何かがあれば廃校を阻止できる。そう、私は考えているよ」
「だから、それは確実に言える事なの?」
「言える!」
「っ!」
息を呑む絵里へと、強い眼差しを送る。
今までμ'sの側にいた俺だけが、音ノ木坂の事をいつも調べていた俺だからこその断言。
μ'sに何か一つの……絵里達の加入というきっかけがあれば、必ず入学希望者は殺到するはずだ。
μ'sはそれだけの事はしてきたから。皆はそれほどの軌跡を描いてきたから。
暫くジッと見つめていると、絵里は表情を歪ませる。
「……もう、時間がない。恐らく、近い内に廃校までのカウントダウンが知らされると思う。だから、その前に少しでも早く絵里達に加入してもらって、μ'sを輝かせたいんだ!」
「…………ぃ」
「お願いだ。私達μ'sには、どうしても絵里の力が必要──」
「うるさいッ!」
「──えっ?」
キッと鋭く睨みつけてきた絵里は、机を強く叩きつけた。
思わず目を見開く俺を尻目に、彼女は唇を噛み締めて言い放つ。
「いつもμ'sμ'sμ'sって、なんなのよ! 貴女にとって大事なのはμ'sで、私はその付属品なわけ!?」
「い、いやそんな事は」
「そうじゃない! 貴女は何をするにしてもμ'sを優先して、ちっとも私の事を見てないじゃない!」
「っ!」
「私だって最初は期待したわよ! 色眼鏡なしで見たら彼女達は凄く頑張ってたから。でも、それじゃあ遅いの! 彼女達が世間に認められる時には、もう手遅れなのよ! 廃校になっちゃうの! だったら、私が! 生徒会長の私が他の方法を考えるしかないじゃないっ! 彼女達が失敗してもいいように、私が誰よりも頑張らなきゃいけないのよッ!」
肩を大きく上下させて息を乱している絵里。
呼吸を整えた後、手早く荷物を纏めて立ち上がり、扉へと向かう。
「え、絵里……」
「ごめんなさい、少し取り乱したわ。……さっきも言ったけど、貴女達のグループに入る気はないから」
背を向けたままそう呟くと、絵里は教室を後にした。
呆然とその姿を見送っていた俺は、やがて自然と崩れ落ちる。
「絵里、泣いてた」
隣を横切る時、彼女の瞳は潤んでいた。今にも決壊しそうだった。
俺のせいだ。俺がμ'sばかり贔屓していたから、絵里の事を疎かにしたから。
彼女の気持ちに、押し殺していた感情に、見てほしかった本当の想いに気が付かなかった。
だからあの時も拒絶されて、今のように途中から名前で呼んでくれなく──
「うっ!」
咄嗟にポケットから取り出した袋に、こみ上げてきた不快感をぶちまける。
大量の胃液が吐きだされ、辺りに鼻を刺激する臭いが漂う。
暫くえずいた後、ポケットのハンドタオルで口を拭く。
「は、はは……本当に滑稽だな、俺」
喉はひりつく痛みに襲われ、視界は涙で滲み。
意味もなく乾いた笑いを零す事しかできない。
たかが絵里に拒絶された程度で、この体たらく。どれだけ彼女に依存していたのだろうか。
わかりやすい自身の変化に、思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。
「やっぱり、俺は余計な事をするべきじゃなかった」
もう、大人しくしていよう。
穂乃果達μ'sに、絵里の親友である希先輩がなんとかしてくれる。
そう、いつものように。今までのように。彼女達が、絵里も救ってくれるはずだ。
何より、もう俺は絵里を勧誘する権利はないだろう。
だって、あんなに嫌われてしまったのだから。
「うぁ……ぅぅ……」
身体を丸め、静かに嗚咽の声を漏らす。
もう少し、後少しだけこの痛みを涙と一緒に洗い流そう。
大丈夫。まだ、やれる。”雨宮朝陽”として、しっかりと演じ切れる。
皆には心配をかけられない。だから、この場で表情を取り繕わなければ。
「…………たすけて」
その呟きは、絵里へ向けられたものだったのか。それとも、自身へ向けられたものだったのか。
自分でもわからないまま、暫し泣き続けるのだった。