μ'sが結成された日の放課後。
現在、俺は廊下の陰に隠れてある人の様子を窺っていた。
その人……というか、西木野は今日貼ったライブの告知ポスターの前で立ち止まっており、何やら頻りに周囲を見回している。
暫く西木野を監視していると、やがて彼女は素早い動作で俺が置いておいたチラシを鞄に仕舞い込み、そのまま挙動不審な動きで去っていった。
よし、とりあえず西木野が穂乃果達μ'sに興味を持っている事がわかったな。
後は、西木野を上手く説得して作曲して貰えれば……。
「さて、次は絵里の様子でも……ん?」
目的は達したので踵を返そうとしたのだが、遠目にいる一人の少女を見て気が変わった。
そのどこか気が弱そうな少女は、こちらまで伝わってくるほど顔を輝かせてポスターを見つめている。
……そろそろ、彼女とも接触する時期になったか。
そんな事を考えつつ、俺は一心不乱にポスターを見つめている少女の元へと近づいていく。
「早くライブの日にならないかなぁ」
「スクールアイドルに興味があるのかい?」
「はいっ! それはもう凄く気になり──ぴゃあっ!」
俺の問いかけに振り返ってそう告げた少女。
しかし、次の瞬間には可愛らしい悲鳴を上げて、少女はおずおずと眼鏡越しに上目遣いで見つめてくる。
そんなどこか保護欲が刺激される様子に内心で苦笑いしながら、俺はポスターの方へと目を向けて口を開く。
「いきなり声を掛けてすまない。でも、そのポスターを見ていたのが気になってね」
「あ、えと、すみません。その、もしかしてこのスクールアイドルのメンバーですか?」
「ん? いや、スクールアイドルをするのは私の友人達さ。私はその手伝いをしている者かな?」
「そ、そうなんですか……あの、先輩ですよね?」
「そうだね、そういう君は新入生?」
暫し残念そうに肩を落としていた少女は、やや戸惑いがちに尋ねてきた。
それに頷きを返せば、少女は慌てた様子で居住まいを正して口を開く。
「は、はい! 今年から入学した小泉 花陽です。よろしくお願いします」
「よろしく。私の名前は雨宮 朝陽だよ」
そう告げて手を前に差しだす。
俺の手を見て、少女──小泉は恐縮したように手を握り返し、俺達は握手を交わした。
そういえば、俺と小泉は同じ漢字を使っているんだよな。
読み方は違うけど、なんというか親近感が少し湧く。
「えと、雨宮先輩」
「ん、なにかな?」
「スクールアイドル、応援しています。頑張ってください!」
「ありがとう、できればライブを見にきてほしいな」
「はいっ! 絶対に行きます!」
俺の言葉にそう返し、満面の笑みを浮かべる小泉。
そんな小泉の様子から、本当にスクールアイドルを好きな事が理解できる。
とりあえず、これで小泉に関しても一安心できるだろう。
それから小泉と暫し雑談を交わしていると、遠くから一人の少女が駆け寄ってくる。
「かーよちん! 帰ろー!」
「あ、凛ちゃん」
「お友達?」
「はい、とっても大切な友達です」
「えっと、どうも」
小泉の言葉に照れる様子を見せた少女は、俺の方へと戸惑いがちに頭を下げた。
そんなどこかこちらを窺っている仕草に思わず笑みが漏れつつ、俺は小泉と同じくその少女に手を差しだす。
「私の名前は雨宮 朝陽だ。ようこそ、音ノ木坂へ。歓迎するよ」
「ほ、星空 凛と言います。よろしくお願いします」
少女──星空と握手をした後、俺達は少しだけ話を交えていく。
そして、ある程度小泉達と打ち解けた所で、そろそろ別れる事となった。
「では、また会おう。私には気軽に話しかけていいからね」
「はい。さようなら」
「さようなら!」
手を振ってくる小泉達に手を振り返しながら、俺は絵里の教室へと向かうのであった。
「絢瀬さん? 絢瀬さんならもう帰ったわよ」
「そうですか、教えてくれてありがとうございます。それと、これを」
絵里の情報を教えてくれてくれた上級生に頭を下げた後、俺は鞄からライブ告知のチラシを取り出して渡す。
それを受け取って目を通した上級生は、思い出したような表情を浮かべる。
「そういえば、最近この学校にもスクールアイドルができたんだっけ」
「はい、ここ最近結成されました。そのチラシを友達に見せていただけば、と」
「まあ、別に減るもんじゃないしいいけど」
「ありがとうございます」
苦笑いして頷いた上級生へともう一度頭を下げてから、俺はクラスに残っている他の人達にもチラシを渡していく。
恐らく、知名度はない現状では俺の行動等あまり意味がないだろう。
でも、やらない後悔よりやった後悔。
ファーストライブを成功させる可能性が少しでも上がるなら、俺は迷わずそれを実行しようと考えたのだ。
ともかく、上級生に許可を貰って黒板にチラシを貼りつけ、教卓の上に残りのチラシを置く。
「ファーストライブは新入生歓迎会の日にやります。時間が空いている時にでも来てください、お願いします!」
「はいはーい。気が向いたら行かせてもらうわねー」
「ありがとうございます! では、失礼しました」
俺の告知におざなりに答えた上級生。
そんな手応えのなさを内心で嘆きつつ、俺は教室を出て学校を後にする。
そして、そのまま絵里の家へと向かうために足を進めていく。
「とりあえず、次は絵里だな……えっと」
あらかじめ鞄に入れておいた絵里へのお土産を確認する。
うん、ちゃんと持ってきていたな。
それにしても、やはりファーストライブの根回しは上手くいかない。
最初はなんとかいくと思っていたけど、全くそんな事はなかった。
そもそも、少し考えてみれば気が付く事だ。
新入生歓迎会の日というのは、つまり他の部活の勧誘の日でもあるという事。
ただでさえ自分の部のメンバーを増やすのに忙しいのに、ファーストライブを見にくる余裕等あるだろうか。
せめて、A-RISEのように人気があれば話は別だっただろう。
しかし、μ'sが結成されたのはつい最近。
とてもではないが人が集まるとは思えない。
一応、色々と聞き回って帰宅部の人を中心にチラシを配っているが、はたして何人がファーストライブに来てくれるか……。
「っと、着いた着いた」
そんな事を考えている間に、無事に絵里の家へとたどり着いた。
とりあえず、色々考えるのは後にしてまずは目の前の事に集中しよう。
そう思った俺が家のチャイムを鳴らしてから暫しの後、玄関の扉が開いて中から一人の少女が顔を出す。
「あ、こんにちは朝陽さん!」
「こんにちは亜里沙。絵里は中にいるかな?」
「お姉ちゃんなら部屋で何かをしていますよ。呼びましょうか?」
「いや、私が直接絵里の部屋に行きたいのだが。いいだろうか?」
「わかりました、中へどうぞ」
「お邪魔します」
笑顔で頷いた少女──亜里沙に促され、俺は絵里の家へと入った。
そのまま亜里沙に絵里の部屋まで案内されて、扉の前で立ち止まる。
「お姉ちゃん、朝陽さんがお姉ちゃんに用事だって」
『……中に入れてちょうだい』
亜里沙の言葉を聞いて、暫しの沈黙の後に絵里がそう告げた。
直接扉を開けにこない絵里に、不思議そうに首を傾げていた亜里沙は、振り返って俺の方へと顔を向ける。
「お姉ちゃんがそう言っていますので、亜里沙はこれで」
「あ、これお土産」
「ハラショー! ありがとうございます!」
俺が渡したお土産を受け取り、亜里沙は嬉しそうな笑みを浮かべた。
そして、そのまま亜里沙はお茶を用意してくると言って去っていった。
絵里と同じ口癖を呟く亜里沙に思わず笑みが漏れつつ、俺は扉を開けて絵里の部屋に入っていく。
「絵里」
「ちょっと待ってて、今いい所だから」
俺に背中を向けたまま、絵里は机に齧りついて何かを一心不乱にしていた。
その言葉の通りに俺は腰を下ろし、どこか必死な様子を見せる絵里を静かに眺める。
暫し間、この部屋には時を刻む音しか聴こえず、絵里の部屋は嫌な沈黙に包まれていた。
やがて、やっている事に一区切りが着いたのか、絵里は椅子ごと振り返って俺の方へと顔を向ける。
「それで、突然どうしたの?」
「いや、絵里の様子が気になってね」
「ふーん……高坂さん達のついでで?」
「どうしてそうなるのさ」
ジト目で俺を見つめる絵里にそう返せば、彼女はツーンとそっぽを向く。
そういえば、絵里が穂乃果に嫉妬をしてるって希先輩が言っていたな。
つまり絵里は、自分より穂乃果達スクールアイドルを優先していて怒っているという事か?
なんていうか、今の絵里は子供っぽくて可愛らしい。
「別にいいのよ? 私の事を気にしないでも」
「そんな事を言わないでほしい。あ、これ絵里へのお土産」
「そんな事じゃ誤魔化されないわよ……ハラショー!」
俺が渡したお土産の中身を見て、絵里は興奮したような声を上げた。
うん、とりあえず気に入ってもらえたようだな。
今俺が渡したのは、絵里が好きな店で販売しているチョコだ。
それで、絵里は自分の大好物をお土産に貰って嬉しくなったのだろう。
ともかく、絵里は満面の笑みでこちらまで近づき、勢いよく俺の手を握る。
「ありがとう朝陽! これで私はまだ闘えるわ!」
「いや、一体何と闘うつもりなんだい?」
俺の疑問には答えず、早速チョコを一つ頬張る絵里。
そして、幸福の絶頂にいるかのように身悶えした後、絵里は頬に手を当ててうっとりと目を細める。
うん、一々仕草が大袈裟だと思わなくもないが、それほど絵里はチョコが好きなのだろう。
とりあえず、絵里の機嫌が直ったようで良かった。
そんな風に考えていた時、扉からノックの音が響く。
「お茶を持ってきたよ」
「ありがとう、亜里沙」
「そこに置いといて」
「はーい。では、ごゆっくり」
絵里が示したテーブルの上に置いた亜里沙は、俺の方へと頭を下げて去っていった。
お茶の中身は俺がお土産で渡したハーブティーのようで、絵里の部屋に爽やかな香りが漂いだす。
「あら、この匂いは?」
「亜里沙にお土産で渡したハーブティーさ」
「へー、ハーブティーね。……あ、美味しい」
「気に入ったようで良かったよ」
リラックス効果があるものを店員に聞いて買ってみたんだが、どうやら絵里の口に合ったみたいだ。
これで少しでも絵里の疲れを癒す事ができたなら良いんだが……。
そんな事を考えつつ、暫く絵里と雑談を交わしていく。
「朝陽も飲んでみて」
「じゃあお言葉に甘えて……確かに、さっぱりして美味しい」
「朝陽の言う通り、このハーブティーは飲みやすいわよね」
絵里は俺の言葉に笑顔で頷き、亜里沙がお茶請けに置いていったクッキーを口に含む。
俺もクッキーを手に取って食べてみると、口の中で仄かな甘味が広がる。
うん、このハーブティーともよく合っているし、亜里沙のチョイスは素晴らしい。
ともかく、カップを傾けて喉を潤している絵里に、俺は机の上に目を向けながら口を開く。
「そういえば、絵里はさっきまで何をしていたんだい?」
「え? ああ、ちょっと音ノ木坂の廃校を止める方法を探していたのよ」
「音ノ木坂の?」
「そ。生徒会でも色々と議論しているんだけど、思うような成果が出なくて」
そう告げると、絵里は憂鬱そうにため息をついた。
そして、そのまま絵里は自嘲げな笑みを浮かべて俺を見つめる。
「絵里?」
「情けないわよね。あれだけ朝陽達に啖呵を切っておいて、まともな案一つ思い浮かばないなんて」
「そんな事ないと思うけど」
「ううん。希達にも迷惑をかけているし、やっぱり私は情けないわ」
俺の言葉にも首を横に振り、絵里は目を伏せた。
違う、絵里はよく頑張っている。
音ノ木坂の事を一番考えているのは絵里だし、そのために最も奔走しているのも絵里だ。
そんな風に励ましの言葉を告げるのは簡単だろう。
でも、今の絵里にそう慰めても、真面目に聞いてくれるように思えなかった。
……今の俺にできる事はなんだろうか。
目の前で困っている友達一人救う事すらできない。
そんな自分が嫌になり、歯がゆく思う。
そんな風に自己嫌悪する気持ちを抑えながら、俺は絵里の顔を上げさせて目を合わす。
「絵里。私は絵里が凄く頑張っている事を知っている」
「朝陽?」
「一生懸命廃校をなんとかしようと足掻いているも知ってるし、そのために一人で何もかも背負い込もうとしているのも知っている」
「そ、そんな事……」
弱々しく否定の声を上げ、目を逸らそうとする絵里。
それに対して、絵里の顔を抑えた俺は真っ直ぐその蒼い瞳をのぞき込む。
「機密上の関係で私に話せない事があるのはわかってる。でも、少しぐらいは私に頼ってくれないか? 私はいつでも絵里の味方だ」
「でも、これは生徒会長としての──」
「絵里!」
俺の強い口調に、絵里はビクリと肩を震わせる。
そして、瞳に疑問の色を宿した絵里へと俺は語りかけていく。
「絵里にとって、廃校を止める事は義務感からかい?」
「違うわ! 私はただお祖母様の母校を救いたくて!」
「じゃあ、絵里自身はどう思っているのかな?」
「私、自身?」
「そう。絵里自身の気持ちを聞かせて」
そう言って俺が抑えてた手を離せば、絵里は考え込むように俯く。
そんな絵里の様子を、俺は近くで腰を下ろして静かに見つめる。
暫く部屋が静寂に包まれていると、やがて絵里は顔を上げた。
「私は、朝陽や希達との思い出が詰まった音ノ木坂を廃校にしたくない」
「それは生徒会長だからかい?」
「いいえ、これは私個人の気持ちよ」
そう告げると、俺の方へと力強い視線を送る絵里。
どうやら、絵里の中で何かしらの結論が出たらしい。
そして、その瞳の輝きから結論が良い内容だという事も。
……これで、いいんだろうか。
本来の物語ならば、この時点で絵里はまだ余裕がなかったはずだ。
しかし、俺が動いた結果、絵里はどこか余裕を取り戻している。
これで、本格的に物語とは展開が変わってしまう。
その影響がどこまで広がり、どこまで変化するのだろうか。
いや、ここは物語の中じゃない。
今ここにいるのは、俺の友達である絵里。紛れもなくここにいるのだ。
そんな事を考えながら、俺はこちらを見つめる絵里を見返す。
「その個人の気持ちを手伝いたいと思うのに、理由はいるかい?」
「……いらないと思うわ」
「では、改めて。私の事を頼ってくれないか、絵里?」
俺の問いかけに、絵里は数瞬迷うように目を泳がせる。
しかし、絵里は直ぐに気持ちが固まったのか、真剣な表情を浮かべて俺の方へと頭を下げる。
「お願い、朝陽。廃校を止めるための知恵を貸してちょうだい」
「喜んで!」
「──ありがとう」
俺の返事を聞いて頭上げた絵里は、花が咲くように頬を綻ばせた。
そして、絵里は目許に指を当て、じんわりと滲んでいる涙を拭う。
「じゃあ早速対策会議を開こうか。私なりに調べて資料を作ってみたんだけど」
「え、朝陽ったらそんなの作ってたの?」
「うん。それで、調べてみてわかった事なんだが──」
「なるほど、じゃあこっちは──」
鞄から取り出した紙の束を見て、絵里は驚いたように目を見開く。
それに笑みを返しつつ、俺はある項目へと指を這わして説明していく。
そして、そのまま亜里沙が夕御飯を知らせにくるまで、俺達は様々な議論を交わしていくのだった。
……なお、時間も遅かったので絵里達の夕飯のご同伴に預かる事となった。