「──それで、あの時に私から逃げた弁明を聞こうかしら」
笑みを浮かべた西木野がそう告げると、脚を組み替えて俺を見据えた。
現在、俺達は音楽室にあるピアノの前で向かいあっており、西木野は椅子に座って立ったままでいる俺を見上げている。
「逃げたなんて人聞きの悪い事を言わないでほしい」
「逃げたじゃない、私から」
「あの時は大事な用事があったんだよ」
「ふぅん……用事、ね」
そう呟くとジト目で俺を見つめる西木野。
それに対して、俺は西木野の綺麗なアメジストのような瞳を見返す事で応える。
「納得してくれたかな?」
「そうね、理解はしたわ。あの時は私にも非があったし」
「理解は、ね」
つまり、まだ納得はしていないという事か。
そもそも、西木野から逃げた時は関わりたくないと思ったからで、既に腹を括った今となれば逃げる必要はない。
まあ、絡まれるのが嫌で今まで避けてたという事は否定しないが。
「そういえば、貴女って上級生だったのね。今さらだけど、言葉遣いを変えた方がいいかしら?」
「いや、無理して敬語にする必要はないさ。それに、君に敬語は似合ってなさそうだしね」
「なっ! ちょっとそれはどういう意味よ!」
からかい混じりの笑顔を作ってそう告げれば、西木野は声を荒らげて勢いよく立ち上がる。
そして、そのまま俺の方へと顔を近づけていくのだが、西木野はわかっているのだろうか。
その反射的な回答が、俺の言葉に説得力を感じさせるという事が。
「まあ、細かい事は気にしなくてもいいさ」
「私が気にするの!」
「それより、西木野ってピアノが得意なんだろう?」
「話を逸らさないでよって、なんで貴女がその事を知っているのよ?」
訝しげな視線を俺に送ってくる西木野。
それに対して、俺はピアノ方へと目を向けて口を開く。
「西木野が私を音楽室に連れてきたから、もしかしていつもここを使っているのではないかと考えてね」
「本当にそれだけ?」
「まあ、後は穂乃果から聞いたというのもあるかな」
「穂乃果?」
「君に曲を作るように頼んでいる先輩の事だよ」
「ああ、あの人の事」
小首を傾げていた西木野は、俺の言葉に納得したように頷いた。
そして、西木野はそのまま俺の方へと迷惑そうな視線を送る。
「どうしたんだい?」
「貴女からも言ってくれないかしら、曲作りを頼むのを止めてくれって」
「どうして?」
「あの先輩にも言ったけど、私は興味ないのよ。アイドルとかそういうジャンルの曲は」
そう告げると椅子に座りなおし、西木野はゆっくりとため息をつく。
そして、自分の髪の毛を指に巻きながら、西木野は俺から目を逸らす。
口や素振りでは興味なさそうな様子を見せている西木野だったが、俺は彼女の微妙な変化を見逃さなかった。
「本当に興味がない?」
「ええ、私が好きなのはクラシックやジャズ──」
「では、どうして口元が笑っているのかな?」
「──っ!」
俺がそう告げた瞬間、西木野ははっとしたように口許を手で抑えた後、目を見開いた。
自分で触ってみてわかったのだろう。口許が僅かに綻んでいる事が。
その事に気が付いたからか、西木野は頬を紅潮させて俺から顔を背ける。
「本当は、穂乃果のお願いを聞いてもいいかなって思っているんじゃないかな?」
「そ、そんな事ないわよ! 貴女の勘違いじゃないかしら」
「へぇ……じゃあ、そういう事にしておくよ」
「ふんっ」
全く、素直じゃないんだから。
そっぽを向いて不機嫌そうな表情を浮かべる西木野を見て、俺は内心で微笑ましい気持ちになる。
とりあえず、今の反応で西木野がスクールアイドルに興味があるという事がわかった。
後は、物語の通りに曲を作ってくれれば良いのだが。
……念のため、駄目押しもしておくか。
「お願いだ、どうか穂乃果の頼みを聞いてほしい」
「ちょ、ちょっと!? いきなり頭を下げないでよ!」
「私にできる事はこれぐらいしかないから、ライブが成功するためならば何度だって頭を下げるよ」
「だ、だからって……ああ、もうっ!」
深く頭を下げたから西木野の様子は窺えないが、彼女の苛立ったような声色からおおよそ把握した。
やはり、西木野は上級生から頭を下げられて困惑しているようだ。
俺だって上級生……例えば、矢澤先輩辺りに頭を下げられると戸惑ってしまうだろう。
特に西木野の場合、実際に話して感じた性格から、俺に頭を下げられてどこか落ち着かないはず。
だから、俺はそんな西木野の良心につけ込んで、彼女に罪悪感を植えつける。
そんな打算的な考えに自己嫌悪しつつ、俺は頭を下げたまま続きの言葉を告げる。
「確約しなくてもいい。ただ、少しでも穂乃果達の事を考えてほしいだけなんだ」
「わ、わかったわよ! ちゃんと曲作りの事を考えるから早く頭を上げて!」
「──ありがとう」
今の俺の呟きは、はたして何に対して向けられたものだったのか。
自分でもわからない色々と混ざりあった感情に蓋をしてから、俺は頭を上げて西木野へと微笑む。
そんな俺の姿を見て、西木野は不愉快そうに俺を睨みつけてくる。
「随分と腹黒いのね、貴女」
「なんの事かな?」
「……はぁ、まあいいわ。貴女に言質を取られたのは事実だし、その責任は自分でとるわ」
ため息を一つ零して気持ちを切り替えたのか、西木野は脚を組んで指に髪を巻きつけていく。
良かった。とりあえず、西木野は穂乃果のお願いを考慮してくれるらしい。
「そういえば、私はまだ西木野の伴奏を聴いた事がないんだよね」
「でしょうね。何、私のピアノでも聴きたいの?」
「正直、西木野の伴奏は聴きたいかな」
「そう? そこまで聴きたいって言うのなら、聴かせてあげるわ」
満更でもなさそうに頬を綻ばせた西木野は、そう告げるとピアノの蓋を開いた。
そして、ピアノの近くに椅子を持ってきて座った俺をチラリと見てから、西木野は鍵盤に指を置いて伴奏を始めるのだった。
──音が、踊っている。
ある時は楽しげに、ある時は悲しげに。
感情豊かに変化するその音色は、まるで生きているかのよう。
子供のように無邪気にはしゃぎ、老紳士の如く優雅にステップを踏む。
様々な動きを見せる音色達。
それらを奏でている西木野は、瞳を閉じて軽やかに指を跳ねさせていく。
大胆でもあり、繊細でもある。
一見矛盾しているかのように思えるそれらを、西木野は見事に表現していた。
凄い……いや、凄いなんて陳腐な表現では説明できない。
西木野がピアノが得意なのは知っていた、理解していたつもりだった。
だが、どうやら俺は西木野を想像以上に過小評価していたようだ。
これは、天才等といった生易しいものではない。
それほどまでに、俺は西木野の伴奏に心から聴き惚れていた。
──曲が佳境に入る。
徐々に指の動きを速めていく西木野。
窓から降り注ぐ夕陽に照らされているその姿は、酷く幽玄的だ。
口許を僅かに綻ばせながら、西木野の指は躍る、躍る、躍る。
そして、華麗に舞う。
流れるような手つきで旋律を奏で、音楽室を即席のコンサートホールへと変貌させていく。
西木野は鮮やかな紅髪を揺らし、紫色の煌めく瞳を開いて俺を見つめる。
表情には不敵な笑みを張りつけ、ピアノを弾きながら、西木野は俺へと目で問いかけていた。
──私の伴奏はどうかしら、と。
それに俺が思わず頷きを返せば、西木野は満足そうに微笑む。
そのまま俺から視線を外して、ピアノの方へと目を向ける西木野。
これからラストスパートに入るのだろう。
西木野が奏でる旋律に併せて、音の妖精が宙を飛ぶ。
その音の妖精達が、即席のコンサートホールを今度は幻想的な場所へと変えていく。
聴いている者に空想的な風景を想像させる、躍動感溢れる演奏。
徐々にその数を増やしていく妖精達は、楽しげに音楽室を飛び回る。
そして、妖精達で音楽室が埋め尽くされた瞬間──
──世界が、弾けた。
「ふぅ……どうだったかしら」
「……」
「ねえ、ちょっと聞いてるの?」
「はっ!」
あまりの凄さに、どうやら意識が飛んでいたらしい。
気が付けば、西木野が訝しげにこちらを見つめていた。
「それで、伴奏を聴いた感想は?」
「あ、ああ。私の語彙力じゃあ説明できないほど素晴らしかったよ」
「そ、そう? まあ当然よね。私が本気を出せばこれぐらい楽勝よ」
口ではそう強気に言っているが、西木野は口許を緩ませて視線を泳がせている。
うん、やっぱり西木野は西木野だな。
どんな素晴らしい演奏をしようと、伴奏者の西木野はちょっと素直になれない高校生。
ついさっきまでどこか遠くのような存在に感じていたけど、西木野は目の前にちゃんといるのだ。
そんな風に考えつつ、俺は椅子から立ち上がる。
「では、感動的な伴奏も聴き終わった事だし、私はそろそろお暇するよ」
「そうね、そろそろ陽が沈むし私も帰るわ」
そう告げた西木野と力を合わせて音楽室を軽く掃除し、綺麗に椅子を整頓してから退室した。
「改めて、今日はピアノを弾いてくれてありがとう」
「ま、まあこれぐらい大した事ではないわ」
「それでも、だよ」
「ゔぇぇ」
俺が何度も褒めたからか、西木野は奇妙な声を上げて後ずさる。
て言うか、その台詞を生で聞くとは思わなかったな。
うん、ある意味得をしたのかも。
「とりあえず、ここで別れようか。穂乃果のお願いをくれぐれも頼んだよ」
「はいはい……それじゃ」
最後に呆れたように俺を一瞥した後、西木野は手を振って去っていった。
その西木野の後ろ姿を見送りながら、俺は先ほどの伴奏を脳内で反芻していく。
心地よい余韻に浸らせてくれたその伴奏は、今でも俺の心に響いている。
やはり、作曲者は西木野しかいない。
あの自信満々な表情から、俺が聴いた曲は西木野が作ったものだろう。
あのような素晴らしい曲を作るセンスと、それを完璧に演奏する技術。
それらができるのは、西木野だけだ。
「よし、まずは穂乃果達と作戦会議だな」
頬を叩いて気合いを入れ直した俺は、今後の展開に考えを巡らせつつ、帰路につくのであった。