すずかの家でのお茶会から数週間。
季節は七月に入り本格的に夏を迎える。もうすぐ期末試験、それが終われば夏休みになる。
楽しい筈の夏休みに補習を受けるのは全力で回避したい。
その為にアルバイトを減らし、その空いた時間をテスト勉強に当てている。
「おい、余り無理をするなよ」
そうして私が座っている机の横に立ったのはクロだ。
手には、氷が入った麦茶を持っていて私に差し出した。
「うん、ありがと。お風呂に入ったら寝るよ」
最近のクロは魔力が回復した様で、人の姿で過ごしている。
日本独特の暑さが苦手みたいで、部屋に籠りっきりなのは正直どうかと思うけれど、出不精の私が言う台詞でもないので、見て見ぬふりをしているのが現状だ。
「ああ、そうしろ。最近寝つきが悪いだろう?」
「良く解ったね…」
「夜中に魘されていることが多くなっている。
この暑さだ、仕方が無い事とはいえあまり無茶はするなよ?
私の飯を用意する奴が居なくなるのは困る」
そんな軽口を言いながら、笑うクロ。
クロとの生活も慣れて、クロが家に居る事が当たり前になってきた今日この頃。
家に何度か帰宅した兄に、クロの正体を話してない事は申し訳なく思うが、
魔法や管理世界の事を説明しなければならなくなるし、はやて達と約束した事も有るので、
兄が帰ってくるときには猫の姿になってもらっている。
「う~ん」
凝り固まった筋肉を伸ばすために、両手を組んで天井へと掲げた。
パキパキと鳴る骨と、ミシミシと唸る筋肉。大分固まっていたようで、痛みよりも気持ち良さが上回る。
「しかし、この世界の人間はこんなに勉強をする物なのか?」
「どうだろう、人それぞれじゃない? 得手不得手もあるし。
私は数学と科学は得意だけど、それ以外は苦手だし。その辺り重点的にやっとかないとマズイ事になるし…」
以前サボってしまった時の記憶が蘇る。本当不思議なくらいに、数学と科学は頭に入ってくる。
だけれどそれ以外、歴史・国語等は苦手である。人より倍の勉強をしてやっと平均以上取れるのだ。
気が抜けない、と言うのが本音である。
「私も教えられるものなら教えたいが、この世界の事は疎くてな。力になれなくてすまん」
最近のクロの大きな変化がこれだ。
慣れて来たのか、結構優しい一面が見られる様になった。
「仕方ないよ。クロは地球に来たばっかりなんでしょ? 知ってたら逆に怖いよ」
「そう言うものか?」
「そうだよ。さて、お風呂入ってくる」
知識を吸収するのが私なんだがなぁ、とぼやいているクロを残して、私は着替えと下着を手に取ってお風呂へと向かう。
今日の一日の疲れを吹き飛ばすように、湯船に入り身体を癒す。
クロが来てから私の生活は一変したとまではいかないが、充実しているように思う。
家に帰っても誰も居ない、寂しいと感じていた気持ちは消えてしまったのだから。
逆にクロが居なくなってしまう事を恐れているが、
今の所その気配は微塵も感じていないので、その心配はしていない。
仮に居なくなってしまったとしても、元に戻るだけだと自分に言い聞かせている。
「…契約者ねぇ」
以前話していたクロの言葉。『名も無き教典』の主になる資格が私にあると言っていた。
言葉どおりなら私とクロが主従契約を結ぶことになるのだろう。
ずっとクロが傍に居てくれるのは魅力的ではある。
クロの大仰な態度からしてどちらが主従か解らなくなるような気もするけど。
けれど、この地球には魔法文化は無い。
クロの言ったとおり、私が管理世界出身ならすぐさま何も迷わずクロと契約したのだろう。
――管理局か。
黙っているなら見過ごしてくれると言っていたのはどうやら本当の様だった。
あれから、なのは達との接触は無い。
クロが言うには、なのは達は魔導師として破格の力を持っているらしい。
彼女達が管理世界にどう関わったのかは知らないけれど、管理局員として働いているそうだ。
そんな彼女達が地球に戻ってきた理由。
クロ曰く、魔法に関連する何かが起こっているらしい。
昏睡事件が怪しいと言っていたけれど、最近はニュースに取り上げられていない。
続いているのなら、妙な事件だしメディアに取りざたされてもおかしくないのだ。
ある時期を境に、ぱったりとニュースからその話題は消えてしまった。
「どう、なってるんだろ…」
そうぼやいて、天井を見る。
クロから、私はリンカーコアを所持しているから狙われる可能性が有るから気をつけろと、
言われていたが結局昏睡事件はどうなったのか解らずじまい。
私が悩んでも仕方がないし、解決する力を持っているわけでもない。
ヤバイ人が居るなら警察が捕まえてしまうだろうし。
そんな事をおぼろげに考えながら、大分長湯をしてしまったようで、見上げた天井が揺れていた。
「出よう」
のぼせてしまう事を危惧して、お風呂から上がった。
身体を拭き、頭もタオルドライで水分を十分にふき取る。
鏡に映る、自分の裸体。
左腕の上腕にある、少し肉の削げた古傷。
夏場は良いが、冬場は寒さで痛む時が多々ある。
右手で傷を覆い、目を瞑る。
歳を重ねるごとに風化していく事故の時の記憶。
――忘れない、絶対に。
父と母が命を賭して助けてくれたのだ。
忘れてしまえば、向こうで再開した時に合わせる顔が無くなってしまう。
せめて父と母に恥じぬ生き方をしなければ。
たとえそれが、私の人生の重荷になるとしても。
深く陥ってしまった思考を振り払うために、ひとつ息を吐く。
時折こうなってしまうのは、仕方の無い事だと思う。
すこし湯冷めした肌を擦り着替え、私は部屋へと戻って眠りに就いた。
「何も起こらない、か」
「そうだね」
アースラ管制室で、クロノと私が深い溜息を吐く。
私達が地球に着いてから数週間、新たに昏睡事件は起こっていない。
鳴海市内に仕掛けたサーチャーにも引っ掛かる様子も無い。
事件に巻き込まれる人が居ない事は喜ばしい事だ。
けれど犯人を取り逃がしてしまっている以上、執務官としては情けない結果となってしまっている。
「犯人が僕たちの存在に気が付いたのか、それとも唯の偶然か…」
「どっちにしても、犯人が行動を起こしてくれないと私たちは何も出来ない…」
犯人の狡猾さに、歯噛みする。
管理局の性質上、後手に回ってしまう事が多々ある。
ミッドで起こる事件も違法研究所も然り。
「なのはとはやて達を本局に還したのは正解か」
「何もせずに三週間近く過ごすわけにはいかないからね」
といっても、こちらに動きが有れば駆けつけてくれる手筈にはなっている。
ロストロギアが関わる事件だ。今の規模で収まれば良いけれど、それ以上になる可能性は大いにある。
戦力は有るだけ有った方がいいだろう。
「ところで、佐藤上総だったか? 彼女はリンカーコアを持つと聞いているが…」
はやては上総に黙っていると言っていたが、海辺の公園で話し合った後、
アースラに戻って皆で協議した結果、密かにサーチャーで監視していた。
「うん。本当に偶然で、アリサとすずかの友達って事で紹介を受けたんだけど、
ひょんな事で念話を失敗して私達に見つかったって言えばいいかな?」
「念話を失敗するなんて珍しいな…魔法が無い世界だから仕方ないと言えば仕方ないのだろうが」
こればっかりは笑うしかない。
念話なんて本当に基礎中の基礎なのだから。
此処に居るアースラスタッフが聞けば、呆れて失笑するだろう。
そのくらい魔法を知っている人間からすれば笑える出来事なのだ。
クロノにも上総の事は話してある。
上総に監視の為サーチャーを付ける事を命令したのもクロノだ。
仕方の無い事とはいえ、アリサとすずかの友達なのだ。
黙ってそんな事をするのは、抵抗が有った。
私となのはは反対したけれど、結局クロノとはやてに押し切られた結果になっている。
「彼女の様子は?」
「普通に過ごしてるよ。学校に行ってアルバイトをして、家に帰って使い魔と一緒に暮らしてる」
楽しそうに学校生活とアルバイトをしている上総。
魔法を使えなければ私もきっとそうして暮らしていただろう。
「彼女が犯人と言う線は薄いか…しかし、何が起こるかわからない。監視は継続しよう」
「…うん」
「不満そうだな、フェイト」
「友達にそんな事をするのは気が引けるかな…」
本当に気が滅入る事だった。
何の罪も犯していない彼女を監視せざる負えなくなってしまった事は。
唯一の救い、と言うべきなのかどうかは判らないけれど、彼女の監視は犯罪者に向けているモノではない。要警戒対象者としての監視。出来る範囲は公の場と家の出入り位であった事だ。それ以上踏み込んでしまうと、管理局法違反になってしまうのだから。
サーチャーから送られてくる映像を見るたびに、彼女の行動を隠れてみていることに罪悪感が沸々と湧きあがる。
「仕方ないさ、それが僕たちの仕事だ」
「そう、だね」
割り切れない部分は確かにある。
でも何かあってからでは遅いのだ。
これも彼女の為であると、自身を納得させて私に宛がわれている執務室へと戻った。
「…」
カーテンの間から差し込む日差しを浴びて、目が覚める。
七月中旬の鳴海市は、もうすぐ夏真っ盛りだと告げる様に朝から太陽が照りつけていた。
「…だるい」
最近、と言っても夜の記憶がすっぽり抜け落ちた日から体が重いと言うべきか。
夢に魘されているとクロに言われたが、目が覚めると夢の内容を覚えていない。
そんな不思議な感覚を味わいながら、寝不足なのである。
それでも体に違和感を覚えるくらいで病院に行く程でもない。
ある意味たちの悪い物に悩まされているような気がするが、日常生活は問題なく送れているので、
目を瞑っている状態と言っていい。
「起きよう」
その言葉を合図に、ベッドから起き上がる。
私が寝ていたベッドには人間の姿のクロが未だに寝息を立てている。
時折、私のベッドに侵入してくるのはどうかと思う。
冬ならば、暖かいかも知れないが今は夏。
狭いし、暑いのだ…
そんなクロの行動に仕方がないか、と苦笑して制服に着替えた。
さて、腹が減ったとクロに言われる前に朝食を用意しよう。
「おはよう」
「やっと起きてきた。おはよう、クロ」
未だ寝ぼけた様子のクロは、足取りもおぼつかなままリビングのソファーに座り込んだ。
きっとまた、ネットに集中して夜更かしをしていたのだろう。
「はい、クロ。目が覚めるよ」
そう言って手渡したのは、氷水。
暑いこの時期だ。寝汗を掻いて体の中の失った水分補給の意味合いも含めてある。
「すまないな」
グラスを手に取り、余程喉が乾いていたのか一気に飲み干した。
「…眠れていないのか?」
真剣な表情でクロの青い瞳が私を射抜く。
「え?」
「顔色が酷いぞ」
顔をしかめたクロにそう言われて、脱衣所の洗面台に急いだ。
覗き込んだ鏡には、ずいぶんと酷い顔をした自分の姿が映り込む。
――この目の下のクマは隠しようが無いな…
こんな姿を見られたら、アリサとすずかが確実に心配して世話を焼いてくるはずだ。
仕方がないと、滅多に開けない机の引き出しの一つを開けて、目的の物を手に取る。
これで多少は誤魔化せるはず。
そう思いながら慣れない手つきで、ファンデーションを肌に付ける。
「嗅ぎ慣れない匂いがするな」
朝食を食べる為にキッチンのテーブルに就いたとたんにクロの言葉。
そんなに匂う物でもないと思うのだけれど、クロは鼻が利くようだ。
「あ、ごめん。化粧した匂いだと思う。ちょっと我慢してね」
「そうか」
軽い返事をして、クロは食事を再開。
相変わらず食事の所作は綺麗だ。
クロの人の姿が、綺麗すぎるって言うのもあるけれど。
そうして食事も終わり、洗い物をして、何時もの様に学校へと向かう準備をする。
「じゃぁ、いってきます」
「ああ、いってこい」
そうして今日も一日が始まった。
何時もの教室。何時もの風景。
何も変わらない日常は愛おしい、と思う。
「おはよう上総」
「おはよう上総ちゃん」
「アリサ、すずか、おはよう」
こうして既に習慣となりつつある教室での挨拶。
幾分かのやり取りを終えた末に、予鈴が鳴り暫くすれば担任である教師がHRの為にやってくるだろう。
「ねぇ、すずか…アイツの顔色悪くない?」
「そうだね。上総ちゃん、なのはちゃんみたいに隠さないけれど、
無茶をするみたいだから…」
そんな友人達の心配を余所に私は授業の準備を始めていた。
「全く! なんなのアイツは!!」
昼休み。穏やかな時間の始まりの筈なのに、今日はアリサちゃんの怒声から始まった。
私たち二人は、何時もの屋上でお弁当を食べていた。
当然、日差しが強いので物陰で。
「な~に~がぁ! ちょっと予定が有る、よ!!
握りしめているお箸が折れそうなほどに力がを入れているアリサちゃん。
何時もの事だけれど、もう少し落ち着いてくれれば良いのにとも思う。
それでも、このアリサちゃんの怒りは上総ちゃんを心から心配していての事だ。
「アリサちゃん、落ち着こうよ。上総ちゃんにも私達以外のお付き合いとかあるかもしれないんだし」
「何よ、すずか! アイツが私達意外の誰かと居る所なんて見た事ある!?」
実際、アリサちゃんの言うとおり、上総ちゃんが誰かと仲良くしているところは見た事が無い。
話すようになる前は窓際の席で、ぼんやりと外を眺めていることが多かった。
「全く!」
今にも頭から湯気が出そうな程に怒っている。
怒っていながらも、お弁当を口にかき込んでいる姿は、他の人には見せられない姿かもしれない。
「何で、なのはもフェイトも上総も何も言わないのかしら!
私達そんなに頼りない訳?」
はやてちゃんを言わなかったのは、彼女の性格を加味しての事だと思う。
言う必要が有るならはやてちゃんは私達に伝えだろうし。逆の場合もあるけれど。
「そうじゃないと思うよ。心配かけたくないだけだと思う。
アリサちゃんだって、逆の立場なら隠しちゃうんじゃない?」
「私が体調を崩す訳ないじゃない! 健康管理もお嬢のたしなみよ!!
それに体調壊したらきっちり休みを取るわ!」
言い切ってしまったアリサちゃんに私は苦笑するしかない。
「それが出来れば、なのはちゃんも上総ちゃんも苦労してないと思うけど…」
懐かしい記憶が蘇る。
小学校三年生の時だったか、確かなのはちゃんが魔法と出会った時の事だ。
なのはちゃんはこの鳴海市で起こっていた事件をユーノ君と一緒に解決しようと奔走していたっけ。
そうして私達には心配を掛けまいと黙っていた。
なのはちゃんが無理をしていたのは傍から見れば明らかで。
それに対して怒ったのがアリサちゃんだ。
「ふん!」
最後に鼻を鳴らして、それ以降アリサちゃんは何も言わなくなった。
恐らく言うだけ言って、少し気が晴れたのだと思う。
長年、友達をやってきたのだから、これくらいの事ならすぐ解る。
そうして屋上でのランチタイムを終えて、珍しく校内を散策してみようという事になった。
慣れてきたとは言え、知らない場所や行った事の無い場所がまだ残っている。
高校生になり、四か月。いつの間にか、もうすぐ初めての夏休み。
アリサちゃんが色々と楽しそうに遊びに行く計画を練っている。
私や上総ちゃんも巻き込まれるのだろうな、と笑みが自然と浮かんだ。
広い校内の森林区画に辿り着いた。
遊歩道が整備され所々にベンチが設置されてある。
こんな所があったんだ、とアリサちゃんと感心していた。
暑さの為か人気は余り無い。
二人で遊歩道を歩いていると、少し奥まった場所で人の足が見えた。
「アリサちゃん、あれ」
私が先に見つけて、指をさした。
「誰か倒れてる? 急ぎましょ、すずか!!」
「うん!」
こんな暑い日だ。熱中症の可能性もある。
急いでその人の元へと駆け寄った。
そうして、見つけたその人は私の良く知る人物だった。
「上総ちゃん、こんな所で寝てる…」
木陰になった場所の木に凭れて、上総ちゃんが寝ていた。
気持ちよさそうに寝息を立てている姿に、アリサちゃんと顔を見合わせて溜息を吐いた。
アリサちゃんが両膝に手をついて項垂れた。
「何よ、心配して損したじゃない!」
腕時計で時間を見たアリサちゃんは、もうすぐ午後の授業が始まる事を確認。
少し乱暴な手で上総ちゃんの肩を揺すり声を掛ける。
「ほら! 起きなさい、上総!」
「…う、うん?」
焦点の定まらない目で、私たちを見つめる。
「あ、れ? どうしてアリサ達が此処に居るの?」
「偶然見つけたのよ、こんな所で寝るなんて! 疲れてるのなら保健室で寝なさいな!」
「大丈夫だよ。保健室は体調の悪い人が行くところ。ただの寝不足で、私がベッド占領するわけにはいかないし」
へらりと笑って上総ちゃんが誤魔化した。
あ、不味い。
そう思った時には既に遅かった。
「あ、ん、た、ねぇぇええ!」
怒りが頂点に達したアリサちゃん。
上総ちゃんの右腕をむんずとつかみ、無理やり上総ちゃんを引き連れて歩き出した。
「アリサちゃん!?」
「すずか! 無理やりにでも保健室にコイツを連れて行くわよ!」
「うぇ? 大丈夫だって。てかアリサ、痛い」
「うるさい! 化粧して顔色隠して、大丈夫なワケないでしょうが!!」
言い返せない、と微妙な表情を上総ちゃんが浮かべる。
結局大した抵抗もせず、そのまま一緒に保健室へと向かった。
「失礼しますっ!」
「バニングスさん、保健室では静かにね」
そう諭しつつも、穏やかな顔を浮かべるている養護教諭。
こういう事態に慣れているのか、驚いた様子は無かった。
「すみません先生。佐藤さんが体調悪いみたいなので休ませてもらえませんか?」
先生に出鼻を挫かれたアリサちゃんに変わって私が言葉を紡いだ。
「あら本当。顔色が悪いわね。ベッドなら空いているから好きな方で休みなさい」
そう言って有無を言わさず、未だ入り口で動かない上総ちゃんの肩を抱いてベッドへと案内した。
納得していない様子の上総ちゃんは、ベッドの傍に立っているだけで布団の中には入ろうとしない。
「あなたたち、後は私に任せて教室に戻りなさいな。担任の先生には私から話しておくから」
健康な人間に用事はないと言わんばかりに、保健室から追い出された。
「大丈夫かな? 上総ちゃん」
「あの教諭なら、大丈夫でしょ」
確かに、あの仕切り振りなら頑なな上総ちゃんも説き伏せそうな気がする。
少しでも体調が良くなればいいと願いつつ、午後の授業を受けるべく私達は教室へと向かった。
「…ただいま」
少しバツが悪そうに上総が教室に戻ってきた。
先程怒ってしまった手前、彼女には声を掛けづらい。
「上総ちゃん、大丈夫?」
「うん、ありがと。大分楽になったから。先生からも授業を受けていいって言われたし」
どう彼女に声を掛けたものかと自分の席で思案している途中にすずかに先を越されてしまった。
と言っても立ち位置的に声を掛けるのはすずかの役目だ。
それは、何年たってもずっと変わらない私達の暗黙のルールの様なもの。
確かに、上総の顔色は昼休みの時よりも大分良いようになってきている。
あの様子なら、今日の最後の授業を聞くくらいなら平気だろう。
すずかと上総の方に行かない私を気にしてか、二人が視線を私に向けた。
すずかはきっと何時もの事で、私の心中なんてお見通しだろう。
問題は上総だ。
自分の性格は自分が一番熟知している。
私は私の信念に付き従い、それに相反するものならば例え自分一人になろうともそれは譲らない。
幼い頃は、その性格が災いして周りと対立することが多々あった。
そうして年齢を重ね、少しはマシになったとは言え、きっとこれは変わらないのだと思う。
私の性格に耐え切れずに離れて行った人は数知れず居る。
そんな性格の私と上総はつい最近知り合ったばかりだ。
上総もそのうちの一人になってしまうかもしれないと言う不安はある。
結局、上総には声を掛けられず授業開始のチャイムが無情にも鳴り響く。
帰り際にでも話せるといいけれどと思ったその時、上総と視線が合った。
『あ り が と う』
声が聞こえた訳じゃない。
けれど確かに彼女の口元が、笑ってそう言ったのだった。
――全く。
心配して、損したじゃない!
昼休みと保健室で仮眠を取った私の体調は大分戻っていた。
アリサとすずかにアルバイトが有るのなら休めと言われたが、流石に簡単に休む訳にもいかず、出勤したのだった。
「夜なのに暑いな…」
陽もとっくに陰り、涼しい風が吹いても良い時間帯のはずなのに、今日は特に蒸し暑い。
早く帰って、大分遅い夕ご飯を作らなければお腹を空かせたクロに急かされるのは目に見えていた。
額に浮かぶ汗を拭い、背中に張り付いたTシャツの不快感を無視し、人気の無い夜道を速足で歩き住宅街を進む。
「嗚呼、やぁっと見つけた」
「誰!?」
突然聞こえてきた声と、私が言葉を発したと同時。
何かが大きくずれるような感触と不快感。
――何かが違う…
何が違うのかと問われれば答えることは出来ないが、とにかく違和感が酷い。
何時もの光景の筈なのに、雰囲気が重いとでもいえばいいのか…
背中を伝う汗が止まらない。
嫌な予感がして、ごくりと喉が鳴る。
そして、声が聞こえた方に振り返ると、誰かが佇んでいた。
「Faint」
短く言葉を誰かが発した瞬間、私は意識を失った。