翌日。
想像以上に私は快眠だったらしく、目が覚めた時には既に全身から疲れが消え去っていた。
それどころか、いつもより体が軽い気さえする。ただ、起きた時にアヴェンジャーの顔がすぐ側にあった時は、流石の私も面食らったのだが。
私が目覚めて間もなく、彼女もパチリと目を開けたのだが、ひたすら無言で、顔を無感情のままゆっくりと私から体ごと顔を背けた時は少しホラーだった。
何を聞いても黙りこくって、一言も喋ってくれないし。寝ている間に何かあったのだろうか?
そんな事もあり、私はマイルームに居るのが気まずくて外へと出ていた。気分転換に、購買で何か買って食べようと思い、
──ふと、廊下の先から、誰かの話し声が耳に届いた。片方の声は聞き覚えがある。
「はじめまして。サー・ダン・ブラックモア。高名な騎士にお目にかかれて光栄です」
丁寧な口調で挨拶しているのは、間違いなくレオだった。予選の頃の記憶を鮮明に覚えているのだ、聞き間違える筈がない。
背後には今日も、あの長身のサーヴァント──ガウェインが不動で直立している。
「…………」
ガウェインは沈黙を守っている。もう一方の話し声は彼ではなく、レオの前に居る──
「こちらこそ。ハーウェイの次期当主殿に、このような場所でお会いするとは……」
ダンだ。今思えば、昨日も聞いた声に、私はよりいっそう息を殺して、気配を殺す。
偶然とはいえ、聞き耳を立てている形となっている。あまりバレるのはよろしくない。
「そう驚く事もないでしょう。僕はただ、我々の手に在るべき物を回収するために来ただけです。未だ戦場を知らぬ若輩ですが、一族で協議したところ、適任者は僕でしたので。それも、貴方を前にしては、恥ずかしい話ですが」
あのレオが、皮肉でそんな事を口にしているとは思えない。あれは、レオの心から言葉。彼は、ダン・ブラックモアという人間を高く評価しているのだ。
「万能の杯……。聖杯はあなたの物であると?」
「ええ。あれは
「王は人にあらず。超越者であると。……なるほど。あなたなら口にする資格がある」
レオとダン……、互いに知り合い……ではなさそうだが、どうやら共に有名人らしい。
「これは、いよいよ聖杯も真実味を帯びてきましたな。正直なところ、わしは半信半疑でしたが……。いやいや、年甲斐もなく楽しくなってきた。まさかこの歳で、聖杯探求の栄誉に関われるとは」
「もちろん。聖杯は真実です。少なくとも、あなたの国にとっては」
「ほう。それは如何な理由で?」
「それはあなたですよ、ダン卿。軍属でありながら女王陛下に騎士勲章を賜った程の戦士。そのあなたを派遣する事が、何よりの証に思えます」
女王陛下に、騎士勲章……そんな古き時代を思わせる単語が、現代でなおも使われ、そして
もしや、彼の出身は
女王が存在し、レオをしてここまで言わせしめるとすれば、未だ王政を敷く英国くらいしか思いつかない。
いや、地上の世界情勢を詳しくは覚えていないのではあるが。英国がまだ続いている国だというなら、その可能性は高いだろう。
「なにを仰る、若き王よ。わしはこの通り老兵だ。生還の保証のない戦いと知り、老い先短いわしに、声が掛かっただけの話です」
「女王陛下の懐刀であるあなたが? 風聞ですが、陛下は現在の同盟体制に一言あると聞きましたが?」
「さて、女王の意向は分かりかねますな。所詮、一人の軍人に過ぎませんので」
先程からずっと、二人は話している間、その表情を全く変える事なく相手の出方を窺い、互いに合わせているようだった。
印象としては、腹の探り合いをしているような。
極めて高度な応酬が、そこでは繰り広げられていたのだ。隠れているとはいえ、私なんかはあまりに場違いな程に。
だけど、そのやりとりも終焉を告げる。
「ああ、なるほど。これは失礼しました。では僕はこれで。行きますよ、ガウェイン」
「御意」
ダンに別れを告げて踵を返したレオは、そのまま歩みを進め───って、あ。
「おや? お久しぶりですね、岸波さん」
……うん、そりゃバレる。だって呑気に様子を見ていただけだし。いきなり会話が終わったもんだから、逃げる暇さえなかったもの。
「一回戦を突破したとお聞きしました。おめでとうございます。次は二回戦ですね。どうかお気をつけて、と言いたいところですが……」
その祝辞はどちらかと言えば、ありがた迷惑だ。だけど、彼の言葉の本質は、祝いよりも後にあった。
「……どうなんでしょうね。黒騎士の槍は折れている。いえ、槍を剣に持ち替えたのでしょうか。もし彼の信念が以前と違うものなら、あるいは……あなたにも、勝機はあるのかもしれません」
それだけを告げ、レオは去っていく。
どこに消えたのか、いつの間にかダンの姿もない。次に顔を合わせる時が気まずい……。多分、隠れて聞いていたのはバレているだろうし。
……結局あの二人は、何を話していたのだろうか?
理解出来ない言葉はただ、手の隙間から零れ、頭に浸透する事なく消えていく。
ただ一つだけ分かった事は、彼らは本気で聖杯を手に入れようとしている。
万能の願望機と言われても実感が湧かないが。
彼らが言うのであれば、その価値は真正の物なのだろうか───。
時は進み、夕刻。
アヴェンジャーも、朝の出来事を流石にいつまでも引っ張るつもりはないようで、互いにあの一件は暗黙の了解として忘れる事になった。
あれは偶然の事故だったんだ……。そう、自分に何とか言い聞かせて。
「マスター。不仲であるとしても、貴方とあの老いぼれ騎士とでは、その差は歴然です。アリーナに行きますよ。少しでも戦闘経験を積んで、その差を縮めないと」
うん、そうだね。アヴェンジャーの言う事も、もっともだ。
少しでも差を縮める努力を。それなくして勝利など有り得ないのだから。
そうと決まれば早速アリーナ!
と、私はマイルームから出て階段の方へと向かった。
向かった、のだが……。
「ごきげんよう」
階段の前で、待ち伏せていたのかと思うくらい、私の前で立ち尽くす一人の少女。
何度か校舎内で見た、どことなくエジプト風味なエキゾチック眼鏡っ子は、私の姿を確認するや、ひらりと優雅に会釈する。
「ご、ごきげんうるわしゅう……?」
私も思わず、釣られて似たような会釈をするが、如何せん不意打ちな上に慣れていない事もあり、声が若干上擦ってしまう。
ハズい……!! 超ハズい……!!
だけど、それも私の杞憂で、目の前の少女は気にするどころか、眉一つ動かさず平静を保ったまま。
ジッと見つめてくる視線が、少しこそばゆくさえ感じる。
それにしても、相変わらずの、機械的な表情と言葉。
一体、この娘は何なのだろうか。
「こうして、人間らしく対話するのは初めてですね」
と、やはり先程の私の失敗に触れる事もなく、話を進め始める少女。というか、え? 対話が初めてって、何度か話した事があるような気がするんだけど……?
「私はラニ。あなたと同様、聖杯を手に入れる使命を負った者」
そういえば、名前を聞いたのはこれが初めてだ。
改めて聞けば、澄んだ鈴のような声に感情が少し乗った事で、彼女が、同じ人である事に安堵する。
「あなたを照らす星を、見ていました。他のマスター達も同様に詠んだのですが、あなただけが…霞に隠れた存在」
眼鏡に手を添え、恥ずかしげもなくポエムのような言葉を口から奏でるラニ。真顔で表情変える事なく、割と真剣な話なのだろうか。
「では、改めて質問を。どうか答えてほしい。あなたは、何なのですか?」
「月海原学園、二年A組、岸波白野です」
聞かれたから答えた。それだけの事さ。
割と失礼な質問ではあると思うけど、それは言わないお約束。だって、見た感じ、学年で言えば後輩な感じがするし、この娘。
先輩たるもの、後輩には常に優しくあれ───どこかのヒゲが素敵なうっかりオジサマもそう言っていたはずだ。
「困ります。今の回答は、正解ではありません」
む。そういう事ではない、と。
いや、無いとは思ったが、反射的に自己紹介してしまった……。
ラニ、と名乗った少女の失望の眼差しが、痛い。
「正体を隠すのですか? 昨日、ブラックモアのサーヴァントにはあんなに無防備だったのに」
「─────え」
……見られていた!?
いや、あの場には自分と相手しか居なかった筈。
私が不審に思ったのに気付いたのか、ラニは変わらぬ声色で続ける。
「警戒しないで下さい。私は、あなたの対戦者ではないのですから。見ていた、というのは正確ではありません。星が語るのです、あなたの事を。私は、ただそれを伝えただけ」
……けっこう本気で警戒しているのだが、ラニは少々イタい病気を患っているのか?
星が、語る?
「我が師が言った者が誰なのか。私は新たに
いけない。先入観で判断するのは。
星を詠む──占星術、と言う奴だろうか。
彼女の言には分からない事が多かったが、今の言葉も輪をかけて分からないが、少なくとも敵意は…感じない。
鳥……新たに
……思い出したらちょっぴり腹が立ってきた。
「私は、もっと星を観なければならない。ですので協力を要請します。ブラックモアの星を、私にも教えてほしい。如何でしょう? 彼の星を詠み、知る事は、あなたにも有益な事だと思いますが……
『アトラス……!?』
姿は見えないが、アヴェンジャーがラニの言葉に驚いているらしい。
彼女の目的自体はよく分からない。だが、これは協力関係を築きたいという申し出なのだという事は、なんとなくだが伝わった。
「私はあなたを利用し、あなたは私を使用する。あなた達風に言うのでしたら、win-winの関係、というものでしょうか。……どうでしょう。私の頼みを、聞いていただけますか?」
目の前のこの少女の言い分は理解した。ならば、私を待ち伏せていた事も納得がゆく。
だけど。
「勝手にこっちを調べたの……?」
ダンの調査がしたいと言う以前に、こちらの事も既に…見られていたというのか。
その事に気が付いた事で、軽い戦慄が走る。
『ホント、おバカなマスターね。何を当たり前のコトを。この戦いは情報戦だと以前も言ったでしょう? むしろ、アンタが無防備すぎる上に疎すぎるのよ。情報を得るために動いているのは、こちらだけではないという事を理解しておくコトね』
…アヴェンジャーに叱られてしまった。
むう、よく考えれば私の方こそ軽率だった。次に誰が対戦者になるかも知れないのに、要注意な人物をこそ対戦者でなくとも調べて当然なのだ。
ラニもまた、それをしているに過ぎない。
だけど、彼女は素直に謝罪を口にする。ラニに非があるという訳でもないのに。
「申し訳ありません。しかし、師が言った事の意味を知るためには、私は人間を知る必要があるのです。師は言いました。人形である私に、命を入れる者が居るのかを見よ、と」
「あなたが、人形……?」
それはつまり、どういう事か。どこからどう見たって、私と同じ人間にしか見えないのに。
彼女が言う師とは、彼女を虐待でもしていた? 人間扱いされなかった、という事なのだろうか。
「師が言うのであれば、私は探さなければならない。人間というものの在り方を。あなたがそうなのか、それは分かりません。でも、あなたには少し……他のマスターと違う星が見える。私は……もっと人を見なければならない。あなたも、そしてブラックモアも。だから私に、見せて欲しいのです」
懇願とは程遠い、その願い。
でも何故か、切実な気持ちがそこには込められているように思えてならなかった。
人間の在り方を知りたいと、ラニは言う。それが哲学的な意味を持つのか、それとも
自身を人形と宣言するだけあって、その心の内をまるで読む事が出来ない。
それでも、純粋な気持ちだけは伝わってきた。それは確かな事だ。
「何か彼の遺物を見つけたら、私の所まで来て下さい。私は三階の廊下の奥で待っています。その時、空を見てみましょう。ブラックモアの星を詠む事は、あなたにも無益な事ではないでしょう? 今から三日後には、星を詠むのに適した時が満ちるでしょう。その時までに、遺物をお持ち下さい」
そう言うと、いつものように、「ごきげんよう、ではまた」と彼女は微笑んだきり、私に背を向け、廊下から空の見える窓際へと歩いて行った。
不思議な少女だが、少なくとも……敵意は感じなかった。
ダンの情報が得られるのであれば、彼女に協力をするのもいいかもしれない。こちらが損をする事は一切無いのだし。
何かそれらしきモノを手に入れた時は、三階に会いに行ってみよう。確か……三日後、だったか?
『それにしても、あの女……まさか
なんだか一人で納得しているアヴェンジャー。そもそも、その『アトラス』って何?
『……説明が面倒くさいわね。えーと、つまり要約すれば、頭のおかしい魔術師の集まりよ。それと、下手にアトラスの魔術師には喧嘩を売らない事を推奨します。なんたって奴ら、世界を救うために世界を七度滅ぼせる兵器すら創り出したとかいうキチガイなのに、それでも満足していない連中なんですから』
おおう……。この性根のひねくれたアヴェンジャーにここまで言わせるのか、そのアトラスとやらの魔術師は。
え? じゃあラニを怒らせないで済んで、私って運が良かったの?
「岸波さん、ちょっと、大変なの。先生のお願い、聞いてくれない?」
そして唐突に発令されるタイガークエスト。
ラニとの会話を終え、階段を下りた所ですぐに私はタイガーに物理的に拘束された。
肩をガシッと掴まれ、まるで虎が獲物を逃がさないようにしているかの如く。
力が強く、逃げるに逃げられない。となれば、ここは素直に頼みを聞いてあげるしかないだろう。
「………ハア。いいですよ」
「キャー! 先生嬉しい!! ちょっと深い溜め息が気になったけど、そんなの関係ないわ! あのね、知り合いから貰った柿が、手違いで誰かのアリーナに転送されちゃったのよ」
何やってんのこの虎!?
どうやったら手違いで柿がアリーナに飛ばされるのか、その詳細がすごく気になる!!
「誰のアリーナに送られたか分からないから、みんなに声を掛けてるんだけど──あなたのアリーナも、探してみてくれないかしら」
……それで見つかったら、驚く以外の何物でもない。いや、探すけど。
「たぶん、二日もしたら、エラーとして消去されちゃうだろうから、その前に回収お願いね」
なんと、ラニの依頼期日よりも日数が少ないときた!
ホントなんなんだこのタイガー……。それにしたって、今度は柿って。この前は蜜柑だったのに、そもそもその知り合いって誰だ。
AIで知り合いに柿くれる人……、謎すぎる。
『……ここまで自由だと、いっそ清々しいわね。私、あの虎女みたいなジャガー女に心当たりがあるわよ……』
ジャガーって。まさかタイガーがジャガーの皮を被ってサーヴァント化してたりなんてしないだろうな……?
あ、なんか割とありそうで嫌だ。召喚しようものなら、聖杯戦争が未曽有の大混乱に陥りそうな気がする。
もちろん、カオスという意味で。
『それにしても面倒ね。まさかオーダーが一度に二つも来るなんて。もちろん、あのアトラスの魔術師の方を優先しなさい? 柿なんて二の次です。ついでよ、ついで』
そりゃそうだ。柿探しに躍起になって、ダンの遺物探しが捗らないなんて事になったら、タイガーを末代まで祟ってやる。
こんな事が言えるのも、その当の本人がクエストを発令するや、既に風のようにこの場を去っていたからだ。
『ふぅん? なかなか復讐者のマスターとしての心構えがなってきたじゃない。ま、まだまだ規模が可愛いものだけど』
そんな事で誉められても、全然嬉しくない……。
岸波白野との邂逅から、ラニは変わらず窓から空を見つめていた。
星を詠む───ならば、より詠みやすいのは夕刻から朝に掛けての時間帯。故に、彼女は昼間アリーナへと行き、帰ってからはもっぱら星を詠むために空を眺めるのが日課となっていた。
「………」
聖杯戦争本戦が始まり、既に一週間以上の日数が経過している。本戦へと進むのが早ければ早い程、この本戦の校舎で過ごす時間も、後から来たマスター達より長くなる。
ラニは本戦への参加資格を勝ち取ったマスターの中では、かなり早い段階からこの本戦用の校舎に来ていた。
与えられた仮初めの役割も、本来の彼女の在り方が故に、時間を掛けるまでもなく看破したからだ。
いち早くここへ来たからこそ、ラニは多くのマスター達の星を見る時間を得られた。だからといって、すべてのマスターの星を把握出来たかと言えば、そうではないが。
そんな中、彼女はとある一つの星を見つけた。
他の星とはどこか違う、それでいてどの星よりも輝きの弱い星。
「……岸波白野」
それが、その星のマスターの名前。
最後の本戦通過者。噂では、記憶に障害が残り、予選からそのままこちらの本戦会場へシフトして来たような状態で、その影響かサーヴァントも弱体化してしまった、文字通り最弱のマスター。
その最弱のマスターの星故に、その輝きも弱いものだと、ラニは最初そう思っていた。
だけど、違った。
岸波白野は最弱でありながら、有力なマスターの一人に数えられていた間桐慎二に勝った。
日が進むにつれ、その星の輝きも強さを微弱ながらも増して行かせて。
気になった。他とは違う輝きを持つ星、そのマスターの事が。
自分が対戦者に当たった時の為とか、そんな事とは関係なしに。ただ純粋に、『岸波白野』という一人の人間に興味を持ったのだ。
もしくは、彼女が、師の言っていた───
───それはどうかな?
ふと、声が聞こえた気がした。
振り返り、声のした気がした方へと視線を向けるが、誰も居ない。
ただ、視界の端で、真っ白な長い髪が揺れていたのが、見えた気がしたのだった……。
空に輝く弱き星の光。その裏に隠れるように、小さな、真っ黒な輝きがある事を、ラニはまだ、気付いていない。