目的のない旅。海図を忘れた航海。
君の漂流の果てにあるのは、迷った末の無残な餓死だ。
……だが。
生に執着し、魚を口にし、星の巡りを覚え、名も知らぬ陸地を目指すのならば、あるいは。
誰しもは初めは未熟な航海者に過ぎない。
骨子のない思想では、聖杯には届かない。
始まる第二回戦
心が混乱している。
慎二の死。投げつけられた凛の言葉。
凛は正しい。理性では分かっている。しかし感情は受け止めきれず、どこへ行けばいいのかも定まらない。
そんな姿を見かねたか、サーヴァントが声を掛けてきた。
「昨日から引き続き、まだ引きずっているのね。友人だったとはいえ、あのワカメは貴方を何度も貶めようとしていたじゃない。だからあれはアイツへの復讐よ復讐。どうせ現実では互いに、本当はどこの誰とも知れない相手だったというのが真実なんだから、気にするだけ徒労というものよ」
相変わらず、慎二への当たりが強いというか、もはや嫌っているのは明らかなのだが、これは彼女なりの励ましなのかもしれない。
だとすれば、正直なところ驚きだ。
このサーヴァントは、マスターである私にすら罵詈雑言を平気で宣うのに、今の言葉にはほとんど私を貶すようなものはなく、気遣うような言葉だって無くもない。
アヴェンジャーの意外な気遣いに、つい、何故、と問いただす。
「どうして、私を励まそうと……?」
「別に励まそうとして言った訳じゃありません。貴方のその暗い雰囲気も、間近で見ていて、そろそろ鬱陶しいと感じていただけです。でも、まあ……そうね。上手く言えませんが、今回の戦いで私はほんの少しは貴方を気に入りました」
若干どや顔でカッコつけるアヴェンジャー。
気に入られたのはかなり意外で嬉しくもあるのだが、ほんの少し、というところがアヴェンジャーらしくて、つい笑ってしまう。
アヴェンジャーのいつでも勝ち気なその態度には、私が暗闇のどん底に沈んでも、必ず引っ張り上げてくれるような、そんな気さえした。
「それでいいのよ。私がポジティブな方でもないのに、マスターまで陰気になられたら、たまったもんじゃないですからね」
いや、あなたも十分にポジティブシンキングなところがありますよ?
なんて、間違っても口にはしない。言った途端、グチグチと細かいお小言が待っているだけだし。
ネチっこいその辺り、復讐者らしいと言えばらしいのだが。
「良いですか、より強い願いが生き残るのではありません。より醜く抗った者が生き残るのです。生きたい───何よりも強い生への執着は、自らの内に眠りし、秘めたる力さえも呼び起こす事があります。願望ではなく、欲望。願いを叶えたいという願望よりも、ただ死にたくないという生への欲望をこそ、私は貴方に見出したのだから」
アヴェンジャーにしては珍しく、諭すような口調で私に語りかけていた。
言っている事は真逆だが、私はその姿に一瞬だけ、聖女のような姿を垣間見る。
復讐の魔女ではなく、誰かを導く尊き聖女───そんな風に錯覚したのだ。
……自分は優しいのか。
消えゆく慎二の姿を思い出す度に流れた涙。
あの涙は優しさから出たものなのか。
それは分からないけれど。
アヴェンジャーの言葉は私を肯定してくれているようで、心を落ち着かせてくれた。
しかし、ただ癒されてばかりではいられない。優しさに甘んじていては、二回戦を勝ち残れなどしないのだから……。
「長話が過ぎたかしらね……」
私が彼女の言葉で落ち着いたと分かったのか、当の本人は少し気恥ずかしそうに、そっぽを向くとそのまま姿を消してしまう。
うん。やっぱり、こういうのにも慣れてないんだろうなぁ……。
そんな時だった。
もはや聞き慣れたあの電子音が、突然、私の携帯端末から鳴り響いた。
そして、その画面に映し出された文面もまた、容易に想像のつくものであった。
『::二階掲示板にて、次の対戦者を発表する』
来た。やはり、来てしまった。
もはや逃れられぬ宿命だとは分かっていたが、こんなにも早くに二回戦が始まるのは、少々予想外だ。
だが、始まってしまった以上は仕方ない。二階掲示板の前へ急ごう。
掲示板には、この前と同じように、二つの名前だけがあった。自分の他にも何人かマスターが居たが、どうやらこの掲示板は見る者によって、そこに書かれている表示が異なるらしい。
要は、自分とその対戦者の名前のみが、それを見た者の目にだけ映るのだ。
私が見た掲示板の表示の一つは自分の名前。そして───
『マスター:ダン・ブラックモア 決戦場:二の月想海』
「……ふむ。君か、次の相手は」
いつの間にか隣に立っていた老人が、私へ声を掛けてきた。
髪は混じりけ無しの白。顔にも体にも老いの印が深い。
だが、何故か、衰えらしき物がこの老人からは感じられなかった。
例えるなら、深い年輪を重ねた大樹だ。長い年月に相応した風格、揺るがぬ芯の強さが、この老人から衰えを取り除いている───
私は彼に話しかけられて、ようやく場の異様な空気に気付く。
彼を中心に、さっきまで掲示板を見ていたはずの周囲のマスターが距離を置いて、小さくざわついていたのだ。
だが、彼は周囲の様子など気にも留めず、真っ直ぐに私へとその視線を向けていた。
「若いな。実戦の経験も無いに等しい。相手の風貌に臆するその様が、何よりの証だ」
「……っ!!」
私の細かな様子だけで、そんな事まで見抜かれたという事実に、やはりこの老人がただ者ではないと再度実感させられる。
彼はそれだけに止まらず、私の目をジッと覗き込むかのように見つめると、
「それに君の目……、…………迷っているな」
私の今の心情ですらも、簡単に見抜かれてしまった。目を少し見ただけで。
「案山子以前だ。そのような状態で戦場に赴くとは……不幸な事だ」
彼は、残念そうに、それでいて哀れむように私を一瞥して、その場を去った。
私は……一言も言い返す事が出来なかった。
彼の風貌に臆したのは紛れもない事実だ。だけど、そんな事は些細でしかない。理由にすらならない。
私が言い返せなかった本当の理由は、彼の言葉が全て真実であったから。全てが的を射た言葉だったからだ。
あの老人は一切の迷いなく、私と面と向かっていた。だけど、私は彼と違い、この戦いへの迷いを抱いている。
私なんかが、本当に聖杯戦争に参加していても良いのか。慎二の命まで奪って、勝って意味などあったのか。
だからこそ、私は彼に言い返せなかった。彼のその立ち居振る舞いが、私とは比べ物にならない程に高潔だと感じてしまったから。
彼が去った事で、今度は私に周囲の視線が集まる。嫌でも、その会話内容も私の耳へと入ってきた。
「おい、マジかよ。さっきのって、あのダン・ブラックモアか?」
「まさか、あんな大物まで参加してたなんてな……」
「レオといい、遠坂といい……、なんかレベル高すぎじゃね?」
「アイツも運が悪いよな。ダン・ブラックモアが対戦相手とか、終わっただろ」
「おい、ブラックモアの対戦相手の子……めっちゃ可愛くね? ちょっと声かけてみようかな……」
ヒソヒソと話す彼らも、やがて各々の聖杯戦争の為にこの場から離れていく。
私も、とりあえず早急にその場から離れる。何故か、余計な注目も浴びてしまっていたからだ。
とりあえず教室へと避難して一息ついていたところで、アヴェンジャーが急に現界して話しかけてくる。
教室に人が少ないから、姿を現したのだろう。
「確か以前、教会の前でワカメとモメてたジジイだったわね。あのジジイ……中々に厄介です。命令に殉ずる事も厭わない意志の強さを感じます。でも、これは良い機会かもしれません。貴方の粗末な戦闘技能を洗練させる好機ですからね。強者、それもその道の達人が相手となれば、否が応でも成長するでしょう」
実力差は感じても、敗北への心配などは一切言ってこない。
自分の力があれば勝利するのは当然だ、と思っているのかもしれない。
しかしこちらは、それほど楽観視は出来ない。実力差のみならず、今の男──ダンの指摘した問題も残っているのだから。
迷いは戦いの邪魔になる。……自明の理だ。
けれど、簡単に捨てられるなら、最初から迷わないのだ。
自分の対戦相手が決まり、一つ思い出した事があった。
それは、右も左も分からなかった自分に
──遠坂凛。
あの後すぐに探し始めたのだが、結局夕方になるまで見つけられなかった。
もしかしたらアリーナにでも行っていて、だから校舎内では遭遇出来なかったのかもしれない。
だが、さすがにそろそろ帰ってきてもいい頃合いだろうし、私もアリーナに行く前に、もう一度だけ屋上を見に行っておこう。
居た。
屋上に足を運んだ私は、遠坂凛と初めて出会った所で、あの時と同じように佇む彼女の姿を見つける。
凛も、屋上に誰かが来たという事には気付いたようで、それが私だったと分かると、溜め息を吐いてこちらに手招きしてきた。
「昨日あれだけ言ってもまだ私の所にノコノコ来るなんてね。おバカさんというか、肝が太いというか……。まあ、それで世話を焼く私も大概なんだけど」
呆れるように自嘲の笑みを浮かべる凛。別に、私は凛の事を嫌っているつもりもないし、昨日のあれだって、決してマイナス面だけで受け取った訳ではない。
凛は当たり前の事を口にしただけ。どちらかと言えば、私の方にこそ問題があったのだから、それで彼女を嫌うのは間違っている。
「……はあ。それよりも、あなたの二回戦の相手、聞いたわ。もう現役じゃないけど、
匍匐前進で、1キロ…だと……!?
いや、常人のレベルを遥かに逸脱している、それは。
それに、西欧財閥ってどこかで聞いたような……?
「……分かる? 一回戦とは何もかもが違う。見たところ記憶も戻ってなさそうだし……。ホーントご愁傷様。ただでさえ弱いのに、そんなハンデまで持っちゃってねー。根性論はあんまり口にしたくないけど、勝利への執念は目的から生まれるもの。記憶が戻らないのは祟るわよー」
どこまで本気なのか、からかうように遠坂凛は言う。
しかし、ハンデとは何の事だろう?
確かに記憶が戻っていない事はマイナスではあるだろう。だけど、聖杯戦争は個人の戦いだ。記憶が戻っていない事が、それほど影響する大きなマイナスとは思えないのだが……。
「その顔……分かってないとでも言いたげね。言っておくけど、大アリよ。勝利への執念イコール集中力だもの。義務だけで戦えるのは、それこそ軍人だけよ。あなたには、そのどちらも不足している。一回戦を勝ち抜けたっていうのに、まだふわふわしてるのはそういうコト」
「ふわふわ……、そんなにふわふわして見える? 私……」
他人に言われるのと、自覚するのとでは全く違う。私自身、そんなつもりはなくても、外から見ればそう見えているというのは、違和感しかない。
「してるしてる。風船かってくらいにね。ともあれ、あんたのサーヴァントの宝具がどんなに強くても、このままだとあっさりサー・ダンに殺されるでしょうね」
「宝具……? ……宝具っていうと、慎二とライダーの使ってきた、アレ?」
「いや、私に聞かれても困るんだけど。って、なにハトが豆鉄砲食らったような顔してるのよ。宝具よ宝具。アーサー王ならエクスカリバーって風に、サーヴァントをサーヴァント足らしめる絶対的な力」
うーん、切り札的なものとだけアヴェンジャーから聞かされていたが、サーヴァントをサーヴァント足らしめるとは、どういう事なのだろうか。
問い詰めてみると、遠坂凛は唖然とした顔で絶句する。
「……宝具を持ってない? え、それって、サーヴァントの力を完全に使ってないってわけ? そんな状態でエル・ドラゴを倒したの?」
「宝具? なにそれおいしいの? みたいな心境です」
いや、スキルとかなら使ってはいたけど、決定的な必殺技らしき必殺技ってのはなかったな。
それがあまりに驚愕の事実であったらしく、凛は初めて会った私をNPCと勘違いしていた時くらい驚いた顔をして、若干固まっていたが、少しして再び動きだす。
「いや、驚くわよ、そんなの。私はてっきり、あなたのサーヴァントの宝具が桁違いに強いから、エル・ドラゴも宝具頼みで倒したと思っていたわ……」
確信した。今の今まで、凛は完全に私を残念な子だと認定していたのだ。サーヴァントに頼り切った残念マスターだと。
失礼にも程がある。少なくとも、私はアヴェンジャーとは対等とまではいかなくとも、二人三脚でやってきたつもりだ。
アヴェンジャーを頼りにしてはいるが、依存しているつもりは一切ない。
「…………ふうん。少し、見直したかも。でも、ますます危なっかしいなぁ。予選を突破したのに記憶を取り戻せていない事といい、宝具を使用出来ない事といい、あなたのパーソナルデータは、問題を抱えすぎているわ」
思案顔で私の現状を推測し始める凛。場違いだとは思うが、物思いに
予選の頃、学園のアイドルなどと言われていたのも頷けるというもの。
「考えられるのは、予選を突破した時にバグが発生して、パーソナルデータに傷を付けたか。それとも、あなたの魔術回路に、何らかの異常が発生してるか。いずれにせよ、何とかするしかないわ。とにかく、原因が分からない以上、サーヴァントを使いこなして、魂の改竄を繰り返しなさい。サーヴァントとあなたの繋がりを強化すれば、もしかしたら宝具が使える様になるかも知れないわ」
考えがまとまり、結論が出たらしい凛は、私へ
なんだかんだと言いつつ、やっぱり凛はお人好しなのだろう。だから、こんな私の事で真剣に考えてくれるのだ。
「セラフは基本的に、参加している全てのマスターに対して平等の筈よ。なんで、宝具が使えないマスターがいると分かれば、何らかの形で修正処理を施すでしょう。あ、それと。もう倒した相手だからって、戦った相手のチェックを怠るのもマイナスよ?」
「……それって慎二とライダーの事? でも、どうして……」
「そんなの、倒した相手でも、そのプロフィールを知れば何かの助けになるかもしれないからよ。暇を作ってマトリクスを見ておきなさい」
マトリクス……そういえば、あの決戦後は茫然自失となっていたので、確認する余裕もなかった。精神的にも、身体的にもキツかったし。
慎二の最期を思い出すのは辛いが、凛の言うようにマトリクスをチェックするのだけは、しておいて損はないだろう。
「ありがとう、色々と教えてくれて」
「別に? 無知なヒヨコを放っておくと寝覚めが悪かっただけよ。でもまあ、いずれにしても、覚悟が足りないなら、宝具を手に入れる必要は無いとは思うけどね」
こういうキッパリサッパリしたところが、凛の良さでもあるのだが、何というか一言余計ではある。
「それより、あなたもアリーナにでも行きなさい。まだまだ未熟なあなたには、少しでも自身を鍛える事が何より重要かつ不可欠でしょ?」
そう言って、私に背を向けた凛は、ヒラヒラと手を振って、露骨にどこへなりとも行けと伝えてくる。
聞くべき事は聞けた。彼女の言う通り、アリーナで自分を鍛えるのは私が聖杯戦争で戦っていく上で必要不可欠。
もともと、アリーナに行く前に彼女と話したかったのだし、そろそろお
私は軽く凛に礼だけ告げて、屋上を後にした。ダン・ブラックモア、彼の情報収集にも手を付けていかなければ……。
戦いへの覚悟はまだハッキリとはしていない。だけど、準備だけは怠ってはいけない。
備えだけでも万全にせねば、万に一つも私に勝ちの目など残されていないのだから。
「不具合……ね」
岸波白野がこの場を去ってから、誰に言うでもなく、彼女はポツリとそれを呟いた。
「そういえば、黒い学生服──運営AI達が何かバタバタとしていたようだけど……。ええ、何かの問題が見つかったって」
否、彼女一人ではない。ここには、彼女のサーヴァントたる存在が、姿を消しているだけでしっかりとあったのだ。
「少し気になるわね……。私もちょっと探りを入れてみるから、『ランサー』もお願い。それに、霊体化出来るあなたの方が、そういうのには最適だし」
普通の人間が見れば、彼女が独り言をブツブツと呟く異常者に映るだろう。だが、ここは普通の世界ではなく、月の中に広がる電子の海。
故に、彼女が誰と話しているのかは、聖杯戦争に関わる者からしたら、一目瞭然である。
「なんとなくだけど、嫌な予感がするわ。何事も無ければいいんだけど……」
溜め息を吐くと、彼女は空を見上げた。そこに広がるのは、データの飛び交う月の海。
地上とはルールの異なるこの異世界にも等しい場所で、頼れるのは自分と、その相棒たるサーヴァントだけ。
あのヒヨコへの心配と悩みの種も尽きないが、これ以上の厄介事だけは勘弁とばかりに、遠坂凛は憂うのであった。