墓地の入り口でアンデッドの都市内への侵入を防いでいた陽光聖典の隊員達。
彼らはその力と数により、戦線をジワジワと押し上げていくことに成功していた。
とは言っても完全に掃討し最奥まで達するには時間がかかり長期戦になる、そう判断する。
だが突如としてアンデッド達の増援が途絶えた。
隊員達はそれの意味するところをすぐに理解できた。
「神と隊長だ…!」
「やったんだ…! さすが…!」
「これが神のお力なのか…」
隊員達は諸手を上げて喜び勇んで駆けだした。
自分達の尊敬する隊長の元へ。
そして敬愛する神の元へ。
◇
クレマンティーヌの一撃を水月に喰らい地に伏しているニグン。
だが意識はある。
そして急所への激しい痛みにより冷静さも取り戻していた。
次にニグンの頭によぎったのは渇望。
目の前で起こされた奇跡。
神の奇跡はいつもニグンの予想の遥か上を行く。
耐えられないかもしれない。
神に出会ってからわずか数日の内に体験した奇跡の数々にニグンの精神も体も悲鳴を上げていた。
そして今まさにニグンの目の前で行われた大勢の冒険者達の蘇生。
想像したこともなかった。
こんなことを為しえてしまう存在がいると。
だから神。
人の及ばぬ領域におられるからこそ神なのだ。
だが知ってしまえば自分にもと求めてしまう。
それが例え不敬であったとしても。
神を信仰する者として許されないとしても。
渇望してしまうのだ。
己にもその奇跡を分け与えて欲しい、と。
「か、神……! ど、どうか、わ、私の……!」
神の情けに自分から縋ろうなどとはなんと浅ましい行為か。
努力もせず、最初から諦めていた。
それはニグンが陽光聖典という部隊の隊長に就いてから彼を夜ごと苛んだ悪夢だ。
しょうがないと誤魔化してきていた。
周囲もそうニグンを慰めた。
だがニグンは今まで忘れたことはない。
ずっと思い悩んでいた。
後悔していた。
もし自分に力があればそんなことにはならなかったのではないだろうかと。
「私の身勝手で…、哀れなお願いを聞いて頂けないでしょうか…?」
毎夜毎夜、一人で口にしていた懺悔の言葉。
未熟な自分の手による失態。
取返しのつかない罪。
己の背中には耐えられない程の重荷。
涙が止まらない。
もしかしたら神は救ってくれるかもしれない。
浅ましく、醜く、罪から逃れようとする許されない願い。
だが、それでも。
「私の…、部下を…、任務で命を落としてしまった者達を…、蘇らせて貰えないでしょうか…?」
最後のほうは声が消え入りそうな程、小さくなってしまった。
怖かった。
神に対して、ただ己の欲望を吐き出してしまったのだ。
呆れられるかもしれない。
見捨てられるかもしれない。
だがしかし、それは麻薬のようにニグンを惹きつける。
最初の任務で亜人達と戦った時に自分の采配ミスで部下の命を無駄に散らせた。
とある殲滅戦の任務では成功と引き換えに数名の部下を失った。
ビーストマンとの闘いではその物量に抗えず、部下を見捨てるしかない時もあった。
将来有望な部下が何人も倒れていくのを見続けるのは地獄だった。
他にもいくらでもある。
確かに状況はどれも酷いものだった。
最初から無事に終われる任務などなかった。
本国では上場の戦果だと褒め称えられもした。
だが、それでも何か出来たのではないか。
もっと上手くやれたのではないか。
至難の業だったとしても誰一人失わず、今ここで共に笑うことも出来たのではないか。
「み、身勝手なお願いだと、わ、分かっております…! 神へ無用な負担をかけることになることも…!」
人は希望には耐えられない。
叶うのではないか、手が届くのではないか。
そう思って不釣り合いな夢を追って破滅することもある。
分かっているのだ。
ニグンという小さな器にはこの希望は大きすぎる。
これはニグンが背負うべき責。
一生その咎を抱えて生きなければならないのだ。
簡単に手放していいものではない。
「それでも…! それでも、どうか…!」
それは部下のためなのか。
あるいはただ楽になりたいという自分の身勝手さなのか。
もう自分ではわからない。
今はただ神の情けに縋りつくことしか頭になかった。
怖い。
神がなんと言うか怖い。
慈悲深い神は快諾してくれるかもしれない。
だがそれでいいのか。
神ならばお助けになられるかもしれないが、その時自分は何を代償に支払えばいいのだ。
この高価な願いに対価として払えるものなど何もない。
恐ろしい。
不釣り合いな願いを口にするという事はこれ程恐ろしいことだったのか。
ニグンは震えながら神の沙汰を待つ。
「わん(呆れたぞ、ニグン)」
反射的に体が震える。
その言葉は氷柱のようにニグンの心に突き刺さった。
希望が一瞬にして打ち砕かれる。
心に亀裂が入るのを感じる。
絶望がこみ上げる。
嗚咽が止まらず、情けなく地面に伏してしまう。
やはり自分はこのようなことを望んではいけなかったのだ。
悲しみがニグンを苛む。
「わん(そんな下らん願いのためにお前はそこまで情けない姿をさらすのか?)」
「え…?」
神の言葉が理解できずに間抜けな声と共に顔を上げるニグン。
「わん(見てみろ、後ろからお前の部下達がこちらへ走ってきているぞ、立て。情けない姿を見せるな)」
そう言って名犬ポチはニグンを立たせる。
ニグンは神の意図を理解できない。
ただポカンとしたまま神の言葉に従うだけだ。
だがこの時、名犬ポチは軽く憤慨していた。
それもそうだろう。
ニグンが急に仰々しく言うものだからどれほど重大な話かと思ったのだ。
あるいは無理難題でも吹っ掛けられるのかと思っていた。
それが部下を生き返せ、ときた。
今さっきクレマンティーヌにしたことと似たようなことを所望しただけだ。
それが不可能ではないと知っているはず。
つまり、この名犬ポチにとってそれは取るに足らないことだ。
だがここまで切羽詰まって懇願するということはどういうことか。
それはこの名犬ポチにとって、それらが難しいことだと思ったということではないのか。
それは良くない。
しかも現在、後ろから陽光聖典の隊員達がこちらへ向かってきている。
この場を見られたらどうするのだ。
たったその程度の取るに足らない願いの為にここまでさせるような存在だと思われてしまうでないか。
それはこの名犬ポチにとって格を下げる行為だ。
リアルで例えるなら、ジュースを奢るだけなのに土下座までさせるようなものだ。
人、いや犬としての品位も下げるし、ジュース一本の金に眉をしかめる程に財布が薄いという誤解も生まれる。
つまりこの名犬ポチがその程度の能力しかないと思われるということだ。
許しがたい。
だが一つ懸念があるのは事実だ。
それが無ければ確かに難しい行為ではあるから。
「わん(その部下達の遺品や形見はあるのか)」
「…! は、はいっ! こちらです!」
ならば容易い。
それならば名犬ポチにとって欠伸が出るほどの些事。
魔法を唱える。
複数の男達の体が形成され蘇生されていく。
ニグンの心を太陽が照らす。
忘れないように部下の形見は必ず肌身離さず持ち歩いていたのだ。
それらは様々だった。
部下が大事にしていたアイテムに始まり、身に着けていた衣装の一部。
多少気持ち悪いと思われるかもしれないが髪や骨などの直接的なものもある。
激しい戦闘の中では遺体を弔うことも出来ず敵地に置いてこなければならない時もあった。
撤退戦で時間が無い時もあった。
選り好みしている暇など無かったのだ。
咄嗟に持って行けるものを必死に持ち帰ったのだ。
中には敵地深くで命を落とした部下の形見を手に入れる為だけに敵陣へ突入したこともあった。
何をやっているのだと自問したこともある。
だがその全てが報われた。
そう思うと自然と心が沸き立つ。
「わん(この程度のことで頭を下げるな。それは俺を低く見ているということに他ならない。あまり見くびるなよニグン)」
「……!!!!」
言葉にならない。
もはや慈悲深いなどというレベルではない。
思考回路が違う。
物事のレベルが違う。
何もかもが違う。
この方にとって人類を救うということは偉大なことでもなければ覚悟が必要なことでもない。
きっと呼吸をするように自然なことなのだ。
当たり前で、取るに足らない。
何かを食べる、睡眠を取る。
その程度の行為なのだ。
それを人間の尺度で持て囃されても煩わしいだけだ。
自分は神を見誤っていた。
誤解を恐れず言うのならば、まだ過小評価していたと言ってもいい。
あれほど偉大で素晴らしく次元の違う存在。
それでもなお、届かなかった。
偉大さの欠片も理解できていなかった。
もはや神という言葉すら生ぬるいのかもしれない。
だが自分はそれ以上の言葉を持たない。
だからこれからもそう呼び続けるしかない。
神、と。
ただ今までとこれからでは同じ言葉でもその重みは遥かに違う。
なぜ神という存在がこれほどまでに人々から崇められてきたのか。
その本質に近づいた気がした。
この時をもってニグンの信仰は一つ上の次元へ昇華される。
◇
陽光聖典の隊員達は名犬ポチとニグンの姿を確認するとそこへ駆け寄ろうとした。
だが目前で信じられないものを見て足が止まる。
そこに現れたのはもう二度と会えるはずが無い者達だった。
同僚、部下、あるいは先輩。
共に陽光聖典として過ごしたかつての仲間達だった。
彼らは死んだはずなのに。
中には何年も昔にこの世を去った者もいる。
なぜ。
そんなことは分かりきっていた。
神しかいない。
彼らは神に認められたのだ。
そして再びこの世で神に仕えることを許された。
信仰が報われたのだ。
これほど嬉しいことはない。
今までのどんなつらい日々も記憶も何もかも。
全て吹き飛んだ。
隊員達のタガが外れる。
嬌声が響きわたる。
隊員達が名犬ポチへと殺到する。
その波はニグンも、クアイエッセも、クレマンティーヌをも巻き込んで巨大なうねりとなる。
ニグン含め陽光聖典の者たちはもう人の言葉を発していなかった。
クレマンティーヌに至っては色んな意味で気を失っていた。
だが、ここで辛うじて自我を保っていたのはクアイエッセ一人だけだった。
陽光聖典ではなく、当事者でもなかった彼は僅かに客観性を保っていた。
だがそれでも昂ぶりを抑えることができるわけではない。
「ああっ…! 神よ…、御止め下さいっ…! こ、これ以上、私を、私達を高みへと連れ去らないで下さいっ…! 恐ろしい…! 矮小なこの身ではその奇跡に耐えられませんっ……! あああっ…! 止まらない、止められないっ…! まるで体が、心が自分のものでなくなったかのようなっ…! ダメですっ…! コントロールできないっ…! ああ、どこまで、どこまで続いていくのですか、この高まりは…! 壊れてしまうっ…! こ、こんなの壊れてしまいますっ…! 御止め下さいっ…! このままでは…! もう、もう神無くして生きられない体に…、貴方様無しではいられなくなってしまう…! 耐えられない…! 人の身では到底耐えられません…! まさか、これが、これこそが試練なのですか…!? ああ、どうかお許しください…! 私達では…! いや…! これは…、これは人の手に負えるものでは…! おっふぅ…! こ、こんなの感じたことがないっ…! こんなの、初めてっ…! うあぁぁぁ…! か、神よぉぉお!!! ど、どうか我らを、お導きぃぃぃいいいんああああ!!!! ぅくっ!!!」
長い時を経て。
やがて彼らは果てへと到達した。
◇
カジットはただ目前の光景に見入るしかできなかった。
ンフィーレア少年の復活。
それを皮切りにクレマンティーヌが殺害した者達の復活。
挙句の果てには過去に死んだ陽光聖典の隊員達の復活。
まるで復活が復活を呼ぶように。
もう何人の人間が復活したのだろう。
しかもだ。
復活した者達の事を詳しく知るわけでは無いが生命力が削られている気配もない。
こんな魔法は知らない。
聞いたこともない。
少なくとも人の手が届く場所にあるものではない。
これこそが自分が長い時をかけ求め続けたものなのではないか。
先ほど放ったいくつもの魔法も桁が違った。
やっと理解が追い付いた。
ああ、これが神なのだ、と。
自分は法国に生まれ神を信仰する民だったはずなのにそれを捨ててしまった。
あの国では自分の求めるものは手に入らないのだと。
勝手にそう決めつけてしまったからだ。
祖国も、信仰も、何もかもを捨てた。
そして邪法に手を染めたのに。
間違いだった。
自分は法国で信仰を捧げ続けるべきだったのだ。
今からでも間に合うだろうか。
欲しい。
自分にも欲しい。
自分にも慈悲を分け与えて欲しい。
靴を舐めろと言われれば舐める。
信仰を捧げよと言われるならば捧げる。
何を捧げてもいい。
あれほど焦がれた魔法が目の前に存在する。
神は許してくれるだろうか。
祈ろう。
ただ神に祈る。
その御力に、慈悲に縋って。
会いたい。
おかあさんに会いたい。
どうかおかあさんに。
会わせて下さい。
神よ。
カジットは神へと祈りを捧げる。
敬虔な信者のように。
◇
陽光聖典達の狂乱に巻き込まれた名犬ポチはやっとそれらから脱することに成功した。
長い時間、悪夢のような苦痛に苛まれたがやっと終わりを告げた。
全員が全員、力を吐き出し倒れてくれたからだ。
(やべぇな…。部下達までニグン化すんのかよ…)
本当になんなんだと名犬ポチは嘆息する。
だがそこへ目の前のハゲから声がかかる。
「か、神よ、ど、どうか…!」
カジットは自分の人生、母親への思い等、その全てを名犬ポチへと語った。
神の慈悲を乞うために。
もう一度、母に会うために。
◇
カジットの話を聞き終えた名犬ポチは率直にこう思う。
(いやだな、面倒くせぇ)
名犬ポチにとってこの男はニグンやクレマンティーヌのように利用価値のある存在ではない。
わざわざ動く気になどなるはずがないのだ。
善意から助けるなどそんな選択肢は欠片ほども存在しない。
「わん(知るか、テメェでなんとかしろ)」
カルマ値:-500の極悪。
そんな名犬ポチに善意など期待してはいけないのだ。
狂乱から醒め、途中から話を聞いていたニグンが名犬ポチの言葉をカジットに伝える。
絶望に表情が崩れるカジット。
泣き叫びながら名犬ポチの足元へと縋る。
何度も何度も頭を下げ、地面に擦り付け、懇願する。
だが名犬ポチが首を縦に振ることはない。
むしろそのカジットの姿に愉悦を感じている始末である。
同じく狂乱から目覚めていたクアイエッセやクレマンティーヌはわずかながらもカジットに同情を覚えていた。
先ほどまでの奇跡によって感覚が麻痺していたのか。
あるいはカジットが再び真っ当な道を歩みなおせると思ったからなのか。
それとも神はどんな者にでも慈悲を与えると信じていたからなのか。
「か、神よ…、こ、こんなことを言うのは失礼かもしれませんが蘇生して差し上げることはできないのでしょうか…? 話を聞く限りこの者も道に迷いし哀れな子羊…。神の威光に触れられれば今後は真っ当に生きていくかもしれません…」
「う、うん、そーだよ神様ー。それにカジっちゃんって結構強いんだよ? 英雄級とも言われるくらいだし。も、もしかしたら神様の役に立つかも、なんて…」
だがクアイエッセやクレマンティーヌの援護も虚しく名犬ポチには届かない。
「か、神よ! お、お願いします! 私の全てを、何もかもを捧げます! これからは貴方の為に生きていくと誓います! 貴方の忠実なシモベとなります! 決して貴方に背きません! だから、だからお願いします! 母を、母を生き返して下さい! どうか! どうか…!」
カジットの叫びだけが響く。
だが名犬ポチが答えることはない。
もうすでに名犬ポチの中では決定されているのだ。
カジットという男に慈悲を与えるつもりなどないと。
「か、神よ…! こ、この者は確かに大罪を犯せし愚かな罪人…! しかし貴方は罪を犯した妹まで救って下さいました…! どうか再びその慈悲をこの男に分け与えるわけにはいかないのでしょうか…?」
「か、神様ー…。別にカジっちゃんがどうなろうといいっちゃいいんだけどさ、なんていうかこのままだとモヤっとするっていうか…、なんとかして上げられないのかなー…」
続くクアイエッセとクレマンティーヌの言葉に名犬ポチは思う。
一度思い知らせる必要があるか、と。
名犬ポチはこの世に災厄をまき散らす邪悪なる者であり、またそれを喜びとしている。
今回、クレマンティーヌやニグンに甘かったのは利用価値があるからに過ぎない。
砕けて言うならば身内以外がどうなろうが知ったことではない。
だがこいつらは少し勘違いをしているようだ。
なぜこんな見ず知らずのハゲの願いを聞かねばならないのか。
この名犬ポチがどういう存在か。
子供に教育が必要なように、こいつらにも理解させる必要がある。
直接的にではないが恐怖の一旦を味あわせてやると決意する名犬ポチ。
絶望を見ろ、ニンゲン共。
「わん(ニグン、俺の言葉を伝えろ)」
「はっ! 仰せのままに、神」
「わん(カジットといったな? 俺はお前の願いを叶えない。むしろお前を否定する。お前のこれまでの努力、長い間焦がれたその想い、その全てを否定してやろう。お前の努力に意味は無く、お前の生に意味は無かった。無為に過ごした長い時間をただただ悔いろ。泣き叫び、震えて生きるがいい)」
ニグンから伝えられた神の言葉にカジットの心が死にかける。
クアイエッセとクレマンティーヌも一体何を、といった不安そうな表情を浮かべている。
ただニグンだけは何も言わず、疑問を抱かず、神を信じていた。
「わん(《グレーター・レイズ・ドギー/犬の上位蘇生》)」
ある意味で予想を裏切るその言葉に一同が安堵する。
やはり神はお救い下さるのだと。
カジットが持っていた母の形見を元に、母親が蘇生される。
天にも昇る気持ちに包まれるカジット。
この世界に感謝し、神に感謝し、全てに感謝する。
だがふと嫌な予感がした。
目の前の神の表情が邪悪に歪んでいたからだ。
まだ終わっていない。
この先がある。
恐ろしい何かが。
「わん(ニグン、カジットを抑えつけておけ)」
「はっ!」
「なっ!? 何をする! は、離せ! 離してくれ!」
ニグンが後ろからカジットを羽交い絞めにし、動けなくさせる。
「わん(浮かれた顔をしやがって。馬鹿が、誰が貴様を母親に会わせてやると言った? 覚えてないのか? 俺はこう言ったぞ? お前の全てを否定すると)」
ニグンからカジットへ神の言葉が伝えられる。
絶望に染まるカジット。
何をするのだ、と。
やめろ、やめてくれ。
そう懇願しようとするが喉から声が出ない。
「わん(いい顔をするじゃあないかカジット。見ろ、お前の努力や気持ち等と関係なく母親はここに復活したぞ。お前の思惑などと無関係にな。何を言いたいか分かるか? お前など存在してもしなくても同じということだ)」
その神の言葉にカジットは、殺されるのではと思った。
もはやそれならそれでもいい。
だがそれでも最後に、死ぬ前に母親に会わせて欲しかった。
母親の声が聞きたい。
目覚めた母親にこの名前を呼んで貰いたい。
「か、神よ! ど、どうか最後にかあさんと、おかあさんと…! 少しでいいのです…! 死ぬ前にどうか、どうか一目だけでも、一言だけでも、お願いします…!」
「わん(うん? 何を勘違いしているのだカジット。俺は言ったぞ? 震えて生きるがいい、と。お前は自分の無力に嘆き悲しみ余生を過ごすのだ。殺すなんて生易しいことするはずがないだろう?)」
カジットの知る何よりも邪悪な気配をまき散らし神は語る。
やっと気が付いた。
目の前の存在は聖なる神などではない。
人を苦しませて喜ぶ魔の存在。
邪神だ。
神は神でも邪悪なる神。
もしかすると盟主ズーラーノーンが焦がれた存在なのかもしれない。
どちらにせよ自分は対応を間違えた。
邪神としての祈りを捧げなければならなかったのに。
秘密結社ズーラーノーンの一員として生きた自分は間違っていなかったのに。
最後の最後で迷いから。
闇から光へと舞い戻ってしまった。
そんなこと邪神様がお許しになるはずがない。
自分の夢はここで終わる。
何をどうやるのかは分からないが、きっと自分は母親に会えることなくこのまま生きて行かねばならなくなるのだ。
母親が生き返ったという事実が逆につらい。
生きているのに会えないなんて。
それはカジットの考えうる最大の地獄だ。
希望が転じて絶望になる。
これ以上はない。
想像も出来ない、苦しみ。
その中で死ぬことすら許してもらえないのか。
そして審判が下る。
「わん(さらばだ、カジット)」
そう言うと名犬ポチはアイテムボックスから一つのアイテムを取り出す。
それは
超位魔法《ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを》を経験値消費無しで性能もアップさせて3回利用できる超々希少な指輪。
ユグドラシルの課金ガチャで手に入る超レアアイテムだ。
モモンガと共にボーナスをつぎ込んで当てた思い出深い一品。
実はモモンガには言っていないが名犬ポチはモモンガの倍以上の金をつぎ込んでいた。
それほどのアイテム。
簡単に使えるものではない。
だがここはカルマ値:-500の極悪。
人を恐怖、あるいは絶望のズンドコに落とすためなら何を引き換えにしようとも構わないのだ。
どれだけ多大な犠牲を払ってもいい。
それが喜び。
まさに邪悪。
「わん!(さあ、指輪よ。I WISH!)」
邪神の口から呪いが吐き出される。
「わん!(カジットという男の母親を生き返すために費やした全ての努力! あらゆる労力を無に帰せ! 母親を生き返す為に過ごした人生を否定しろ!!!)」
指輪から魔力が迸る。
何十にも重なった巨大な魔法陣が展開され、表示された文字は留まることなく変質していく。
第10位階を超える超位魔法に相応しい魔力の波動。
その全てがカジットの元へと収束する。
そして願いは聞き入れられ、名犬ポチの願いは叶えられた。
カジット・デイル・バダンテール。
母親を生き返すために生きてきた人生。
英雄級の域に達するまで練られた魔法の力も、その想いも、努力も、苦労も、悲しみも、喜びも。
全てがこの一瞬で無に帰す。
何十年もの努力や苦労が消え去っていくのを嘲笑う名犬ポチ。
まさに悪魔。
まさに邪神。
「わんっ!(あっはっはっはははははは!!!!)」
高笑いが響き渡る。
無慈悲に、無秩序に、不条理が一人の男を襲う。
これから絶望に打ちひしがれ無力を嘆き、生きて行かねばならない。
それが楽しくて楽しくてしょうがない。
そうだ。
これが俺だ。
これが名犬ポチだ。
己を取り戻した邪神はただ高らかに笑う。
◇
この中で一番驚愕していたのはクレマンティーヌだった。
なぜなら彼女はカジットという男と短いながらも付き合いがあったからだ。
そのことからこう思っていたのだ。
カジットという男の結末はろくなものじゃないと。
恐らくは母親を蘇生できる魔法なんて見つからない。
仮に見つかっても人の手に負える魔法なんかじゃない。
あるいは、カジット自身がアンデッドになることは成功するかもしれない。
だがその続きはどうだ?
アンデッドとなった息子を母親は愛せるのか?
そもそも息子として認識してもらえるのか?
それどころかアンデッドになることでカジットは人の心を失い母親の命に価値を見出さなくなるかもしれない。
他にも様々な可能性が考えられるがどれもろくな終わりを迎えられない。
ハッキリと言えば初めから詰んでいる。
最初から無理だったのだ。
カジットの夢は最初から破綻していた。
夢ではなくただの妄想。
ハッピーエンドなんて存在しない。
そのはずだった。
そのはずだったのに。
こんな結末がありえるのか、と。
クレマンティーヌはただただ唖然とする。
目の前の出来事が信じられない。
蘇生ならば信じられる。
神の行う蘇生のレベルには達していなくても、蘇生という魔法を知っているし概念を理解しているからだ。
より高位な蘇生魔法を目にしても凄いと驚嘆し受け入れることができる。
だが、これは知らない。
この発想は無い。
なぜならこれに該当する魔法は存在しないからだ。
もしかすると御伽噺とかでは見たことはあるかもしれないが。
だが言ってしまえばそのレベルの話だ。
現実世界の可能性として想定などしようはずもない。
結論から言うならばカジットという男は消えた。
いや、母親を生き返そうと生きてきた男は消えたのだ。
ハゲ頭の中年男はもうどこにも存在しない。
蘇生されたカジットの母親の横。
そこに眠るように一人の少年が寄り添っていた。
それだけで全てが理解できた。
神はカジットを見捨ててなんていなかった。
神の心を理解もせず口を出した自分が恥ずかしい。
神の奇跡に当てられたクレマンティーヌの瞳から一筋の涙が流れた。
「良かったね、カジッちゃん…」
◇
ニグンもクアイエッセも陽光聖典の隊員達も名犬ポチを前に片膝を突き、祈りを捧げるポーズを取っていた。
敬虔な信者のようにひたすら真摯に。
本来ならばこのような奇跡の前では誰も自我を保つことなどできなかっただろう。
だが今は違う。
すでに度重なる奇跡によって全員が賢者状態であったのだ。
だから目の前で起きた奇跡を真っすぐに見つめることができた。
全員の信仰心は限界点を突破し、器を破壊し、無限に広がっていく。
クアイエッセはクレマンティーヌと同じく、神の心を理解できなかったことを恥じていた。
ニグンはすでに神を完全に信じ切っており、先ほども何かお考えがあるはずと信じていた。
そしてその通りであった。
やはり神の慈悲は計り知れるものではないのだと。
改めて神の力に触れてその想いは強くなるばかりだ。
「神…! 我々一同、より一層の…いえ、絶対の信仰を誓います!」
ニグンの言葉と全員の態度に名犬ポチは満足していた。
きっと彼らは自分の邪悪さに触れて恐怖しているのだと。
そう思ったからだ。
今までならこのような時は狂乱の限りを尽くしていたが今回はそうではない。
やっとこの名犬ポチの凶悪さを理解できたのであろう。
(ふふ、殊勝だな。この俺が恐ろしくなったのか? だが安心しろ…。お前達は大事な手駒だ…。悪い様には扱わないさ…。くくく、俺の役に立つならばその命くらいは保証してやろう…!)
名犬ポチはその身体に浴びせられる畏怖の感情を心より享受していた。
◇
漆黒の剣が墓地に着いた頃にはもう戦いは終わっておりアンデッドの姿はどこにも無かった。
「マジかー、結局いいとこなしかよー!」
ぶつぶつと文句を言うルクルット。
「無事に済んだんだから今は喜びましょうよ」
「そうである」
そして彼らは墓地の奥でニグン達を発見する、のだが。
「え? なんでしょうアレは? ニグンさん達みたいですが」
そうして名犬ポチの前で整列するニグン達に駆け寄る漆黒の剣。
「ニグンさん! 無事だったんですね!」
「おお、君たちか。もちろんだとも」
ペテルと言葉を交わすニグン。
だが横ではクレマンティーヌとクアイエッセが口をあんぐりと広げていた。
「あ、あんたたち、なんでっ!? だってカジッちゃんが魔法で…」
「あ、貴方達は…! そんなバカな、一体どうして…!?」
二人とも驚きを隠せない。
クレマンティーヌはカジットがアンデッド化の魔法をかけるところを見ており、クアイエッセはアンデッド化したこの4人を屠っていたからだ。
そして漆黒の剣もクレマンティーヌに気付く。
「ああっ! お前は! ニグンさん離れて下さい!」
「おう! こいつは危険だぜ!」
「である! 恐ろしい剣士である!」
「今回はニグンさん達もいます! 逃げられませんよ!」
完全に臨戦態勢に入る漆黒の剣の面々。
名犬ポチとニグンが仲介し事情を説明する。
その間クレマンティーヌの表情はずっと引きつっていた。
「というわけなのだ。彼女も神の信徒の一人。どうか許して欲しい」
「ご、ごめんねー。本当に悪かったよ…。ま、まさか神様がお世話になった人達だったなんて…」
思わぬ展開とクレマンティーヌの謝罪。
漆黒の剣としては思う所はあるが自分達の恩人の頼み事ならば無碍に扱えない。
謝罪を受け入れ和解する。
それを見ていた名犬ポチは思う。
(命拾いしたな、漆黒の剣とやら。今日はもう満足しているから何もせずにおいてやるが次に会う時がお前達が恐怖のズンドコに落ちる時だぜ…。くっくっく…)
そんなことを思われている等と思っていない漆黒の剣。
知らぬが吉である。
◇
ふと名犬ポチの鼻へ懐かしい匂いが香る。
その正体に狂喜し、その匂いの元へと思わず駆けだす。
その先にいたのは何よりも焦がれた大事な存在。
このためだけにエ・ランテル含めこの墓地まで制圧したのである。
その姿を目にすると嬉しさのあまり飛びつく名犬ポチ。
「わんーっ!(ブリターッ!!!)」
「きゃっ! ニ、ニグンさんの魔獣! こ、こら! くすぐったいってば!」
ちなみにブリタの中では未だに名犬ポチはニグンの魔獣という認識で止まっている。
体に抱き着いたあとそのまま体をよじ登っていき頭の上に収まる。
「わん…!(ああ、最高だぜこの感触…! これだよこれ…!)」
「おお! ブリタではないか! 良かった! 無事だったのだな!」
ブリタの姿を確認するとニグンが声をかけ近寄ってくる。
「ニ、ニグンさん…! ごめんなさい! わ、私ニグンさんに失礼なこと…」
「いいのだ、気にするな。それよりも神がずっとお前のことを心配していたのだぞ? 私などよりも神に声をかけて上げてくれ」
「ああ、なるほど、この子カミちゃんて言うんですね。ありがとねーカミちゃん」
ブリタがそっと名犬ポチの頭を撫でる。
完全にリラックスしている名犬ポチは全く抵抗せず受け入れる。
だがそこへクレマンティーヌが鬼のような形相で割って入ってくる。
「ちょっと! あんた神様の何なのよ!」
「えっ!?」
「ベタベタしちゃってさ! しかもちゃん付け!? 少し馴れ馴れしいんじゃないの!?」
「えっ、えっ…!?」
困惑するブリタにクレマンティーヌが畳みかける。
だがそこへニグンが助け船を出す。
「落ち着けクレマンティーヌ。ブリタは神が最も大事にしている人間だ。丁重に扱え」
「な、な、な…!?」
逆効果であった。
「く、くそぉ! 少し神様に目掛けられてるみたいだけど、いい気になんないでよね! 私なんて神様にあんなことやこんなこと、凄いこと沢山されたんだからっ! 足腰立たなくなるぐらいヤラれたんだから!」
「え…? 凄いこと…? ヤラれる…? な、何言ってるんですか貴方…。はっ! ま、まさか変態…!」
あながち間違いではない。
「うるせぇ! いいからとっとと離れろよ! ほら、神様! 私の上とかどう!? 私はいつでもオッケーだよー!」
「わん(いや、俺ここがいい)」
「クレマンティーヌよ、神はブリタのほうがいいみたいだぞ」
「っ!」
突如クレマンティーヌがプルプルと震えだす。
悔し涙を浮かべ、口は強く噛み締められていた。
「……ろす」
「えっ?」
「殺すぅ! 殺してやるうぅうう!!!!」
「きゃあああ!!!」
クレマンティーヌがスティレットを抜き放ちブリタへと襲い掛かる。
名犬ポチが慌ててブリタから飛び降りクレマンティーヌを止める。
「わんっ!?(ちょ、おまっ! 何やってんだ! しまえ! あぶねぇ!)」
「神様どいて! そいつ殺せない!!!」
その後、クレマンティーヌを説得するのにしばしの時間がかかった。
クアイエッセはもちろん陽光聖典の隊員達をも巻き込む一大事となってしまったが。
終わった頃には名犬ポチの表情は死んだように焦燥していた。
邪悪なる者としての威厳はこのわずかな時間で再び消え去ってしまっていた。
頑張れ名犬ポチ。
いつかまた己を取り戻すのだ。
次回『凱旋!しない』エ・ランテル後日談的な。
ブリ「カミちゃん」
濡れ「何よこの女!」
今回に入れ込めなかった話を次でやります。
やっとここまで終わった…。
これを最初は1話でやる想定だったのは見積もり甘々でしたね…。