狩人の証   作:グレーテル

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お久しぶりです。
本当に、お久しぶりでございます。


第17話「それぞれの場所」

 「―――――じ、―――――るじ、主!」

 「ひゃあああっ!?」

 

 窓から眩しい光が差し込む時間。少女は一匹のアイルーを弾きながら、跳ねるように起き上がった。

 

 「はぁ、はぁ……ハン、ゾー?」

 「うぐぐ、にゃう。おはようございますニャ、主」

 

 床の方を見ると、ハンゾーがひっくり返っている。また、あの時と同じ事が起こっていた。決定的に違うのは、あの時のような嫌な汗が出ていない所だろうか。

 

 「ご、ごめんね。また乱暴しちゃって」

 「いえ、セッシャは日々鍛錬を重ねておりますゆえ、この程度ではビクともしませんニャ。それより主、どうやら呼吸が乱れている様子。ここは一つ、茶でも飲んで一息つきましょうニャ。少々お待ち下されニャ」

 「う、うん。ありがとね。ハンゾー」

 

 ひっくり返った拍子にボサついた毛並をそのままに、ハンゾーは台所の方へと向かっていく。それを見送るサヤカの心中は穏やかではなかった。

 

 「い、今の……まさか……」

 

 震える両手を頬に当てるサヤカ。眠っている間に見ていた光景を思い出すと心臓の鼓動が強くなり、みるみる内に顔を紅潮させていく。氷結晶をいくら積んでも冷めない熱が、サヤカの頬を温めていた。

 

 「こんな、こんな事って……」

 

 夢の中に出てきたその男は小振りの剣と盾を腰に携え、紫の甲殻で出来た防具に身を包んでいる。彼はそよ風に揺れる黒い髪をそのままに、優しく微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 「準備はいいかしら?」

 「ああ。いつでも出られる」

 

 ここは、渓流のベースキャンプ。いつものように支給品をポーチに詰め、アランは地図を手にエリア1へと向かう準備をする。目的は渓流で採れるハチミツの一種、ロイヤルハニーの納品である。所謂、採取クエストだった。

リリィナとハンゾーがいないという点を除けば、他に変わった点はどこにもない。今回はアランとサヤカの二人だけでクエストを受注していた。

 

 「良かったのか? オトモを連れてこなくて」

 「えっ? あ、えっと……ほ、ほらっ! 今日はアランのリハビリのためのクエストなんだから、ハンゾー達も連れて行ったらリハビリにならないんじゃないかって思って……だから、その……」

 

 バツが悪そうに視線を泳がせているサヤカを、アランは何も言わないままじっと見つめている。その視線に居心地の悪さのようなものを感じてか、サヤカは顔を俯かせ、もじもじと両手の指を絡ませていた。

 

 「……迷惑、だった?」

 

 やがて、耐え切れなくなったサヤカが思い切ってアランに問いかけた。目尻に涙を溜め、上目遣いで彼の顔を見ながら。アランは静かに首を横に振り、それをしおらしさを見せる彼女の質問への答えにした。

 

 「いいや、君がいるなら心配はいらない。行こう」

 

二人が受注したのは比較的危険の少ない採取クエストであり、フィールド内を闊歩する大型モンスターも確認されていない。それでも肉食の小型モンスターは各エリアにおり、リリィナとハンゾーがいない分の人手の減少は大きい。

 それでも、アランは不安を感じてはいなかった。出会った当初のわだかまりも、渓流を騒がせていたタマミツネの狩猟も乗り越えたサヤカがいるのなら、何の心配もいらないのだ。

 

 「私がいるから、って……あっ、ま、待って!」

 

 ベースキャンプを背に歩を進めるアランを、サヤカは慌てて追いかける。

 いつかの時とは逆の光景になっている事に、アランはそっと微笑む。その一方で、このクエストには感じなかった別の不安が彼の中で膨らんでいた。

 刻一刻と、その時は迫っていたのだ。

 

 

 

 

 

 かつてタマミツネと大立ち回りを繰り広げた、エリア5。小型モンスターのジャギィ種も見当たらない静かなここには、過去の戦闘の傷跡があちらこちらに残されている。エリアの中心にあった大きな切り株はごっそりと抉られており、タマミツネを狩猟していた時の、あの激しさをアラン達に思い出させていた。

 

 「静かね」

 「ジャギィやガーグァはいない、か。それで、ハチの巣は……」

 

 周囲を見渡し、脅威になりそうな存在がいない事を確認する。そうしてアラン達は目当ての物、つまりロイヤルハニーが採れるハチの巣を探す事にした。

 程無くして、それはすぐに見つかった。細い木の枝から吊るされた、大きなハチの巣。無数の擦過痕が刻まれ、荒れに荒れた土壌の上に。タマミツネとの狩猟に巻き込まれて破壊される事無く、しかしその巣はごく少量の蜜をぽたりと垂らしていた。

 

 「どうだ、採れそうか?」

 「うーん、駄目ね。ほとんど土と混じってる。巣から垂れてくる方を貰いたいけど、全然量が足りない。これじゃ使えそうにないわ」

 

 ハチの巣が出来ている根元。本来ならばここにたっぷりの蜜が溜まっている筈なのだが、それらしき物は見当たらない。サヤカの言う通り、巣から垂れ落ちたハチミツは土と混ざってぐずぐずになっていた。

 欲しいのは空のビン四つに入る程度の量。今回のクエストの成功への証明として採取するには、ここの巣から採れる量では到底足りそうにないのだ。念入りに探した所で、手に入るのは精々虫の死骸くらいのものだろう。今回のクエストに必要な物とは思えないし、そもそもそんなものを活用できる機会を探す方が圧倒的に難しい。

 

 「そうか。他に宛てはあるか? ハチの巣がここにしかないなら、このクエストは……」

 「心配しないで。多分、あっちの方ならあるかもしれないわね。ついて来て」

 

 ここではロイヤルハニーを採る事が出来ない。二人は早々に見切りをつけ、エリアを離れる。サヤカの案内の下、タマミツネを討伐したエリア6と、彼女らが初めてタマミツネと遭遇したエリア7を抜け、西にあるエリア9へと到達した。

 

 「着いたわ。ここならタマミツネやロアルドロスが入った形跡もなさそうだし、ロイヤルハニーもすぐに集まるはずよ」

 

 北と南、それぞれの端に小さな段差がある以外は、比較的平坦な地形のエリア。東には蔦で出来た橋があり、北側には皮のはがれた大きな倒木がある。

 

 「ほら、あそこ。見えるかしら」

 

 サヤカが指差した先、エリア西の外周。赤く染められた木の骨組みのようなものが置かれた場所に、ハチの巣はあった。日の光を跳ね返して黄金色の艶を見せるたっぷりの蜜が、大きく膨らんだハチの巣から溢れ返るようにとっぷりと垂れ落ちていた。

 

 「あれだけあれば、すぐに集まりそうだ」

 

 地面に溜まっている蜜の量も、先程のエリアにあった巣の物とは明らかに違っていた。

 これならば、クエスト内容に定められた必要数のロイヤルハニーを納品できる。アランとサヤカは空のビンを出して、すぐさま採取の為に巣へと近づいた。

 

 「ロイヤルハニーは普通のハチミツとは少し色が違うの。まずは私が先に採るから、その色を見て……っ!?」

 

 ビンの栓を開け、ぽたぽたと垂れている蜜を集めようと巣へ近付いた時、サヤカの身体が岩のようにがちりと固まった。

 

 「どうした?」

 「あ、あ……あれ……」

 

 突然の事にアランは眉を顰め、彼女の顔を窺う。ハチの巣を見ていない彼女の視線の先には、あるものが地を這っていた。

 頭、胸、腹からなる三つの部位で構成された身体と、その身体を支える為の三対の脚。黄色と緑の色が鮮やかな甲殻に、太い木の枝も難なく断ち切れそうな力強さが窺える立派なアゴ。

 彼女の視線の先にいたのは、甲虫種に分類される小型モンスター、甲虫(こうちゅう)オルタロスであった。

 

 「オルタロスが、どうしたんだ」

 「……て」

 「なに?」

 

 サヤカは手に持っていたビンを落として、アランの肩をがっしりと掴んでいた。黒狼鳥の甲殻を通して、サヤカの手が震えているのが伝わってくる。サヤカはあのオルタロスに怯えていた。

 

 「アレ、何とかして。私……虫、駄目なの」

 「なんだって? それじゃあ、今までどうやって―――――」

 

 アランが疑問を投げるよりも早く、オルタロスがアラン達の存在に気付いた。糧にしているハチミツを盗られると思ったのか、はたまたテリトリーに侵入した外敵と見なされたのか、オルタロスは真っ直ぐアラン達を目指して、その六本の足を忙しなく動かしてはカサカサと足音を立てて駆け寄って来ていた。

 

 「ギュイ、ギユゥオォ」

 「いやああぁぁ! こっち! こっち来てる! 駄目アラン何とかしてぇ!!」

 

 アランの肩を掴んでいるサヤカの手に力が入る。自身の着る防具から甲殻が軋むような音が聞こえたアランはぞっと背筋を凍らせ、額に冷や汗を浮かべた。慌ててサヤカを離そうと体を揺するが、がっしりと掴んだ手は離れる気配がまるでない。言葉による説得が必要だった。

 

 「ま、待て! 分かった、何とかするからその手を離すんだ! そんなにしがみつかれてたらこっちも動けない!」

 「で、でも……うぅ、分かった」

 

 サヤカがその言葉を信じ、ゆっくりと、躊躇うように肩から手を離したのを確認すると、アランはすぐさまオルタロスへ目掛けて地を蹴り駆け出す。

抜刀したツルギ【烏】の刃が捉えたのは頭と胸を繋ぐ節の部分。黒狼鳥の素材を加工して作られたその刃は、小さな甲虫種の身体をあっさりと両断する。衝撃に脆いその体は、断たれた拍子に脚も千切れ飛び、アランの足元でオルタロスだった甲殻の断片が散らばっていた。

 

 「ほら、これでいいだろう?」

 「う、うん……」

 

 念の為に、アランはオルタロスの死骸を遠くへと放る。生き物の死体にこんな真似をするのは気が引けるが、サヤカがあのまま動けないのも、それはそれで困るのだ。

 

 「……ひぅ」

 

 遠くへ放ったオルタロスの足が僅かに動き、サヤカの肩がびくりと跳ねる。オルタロスの残骸から目を離さず、気を抜かず、すり足でゆっくりとハチの巣へと距離を縮めていた。

 

 「まだ駄目なのか?」

 「へ、平気、だから……」

 

 オルタロスの亡骸をさらに遠くへやろうとするアランを、サヤカが止める。その言葉と彼女の表情は正反対の模様を見せており、時折動くオルタロスの脚を見ては再び肩をびくりと跳ねらせていた。

 

 「ほら」

 「……?」

 

 このまま放置しておく訳にもいかず、アランは紫色の甲殻に包まれた防具を外し、素手の状態でサヤカへと手を差し伸べた。いきなりの事に意図を読み取れず、サヤカはアランの顔と手を見比べて首を傾げている。

 

 「手を握るんだ。そうすれば少しは落ち着くはずだから」

 

 その言葉を聞いて、サヤカは恐る恐るアランの手へと自身の両手を伸ばした。ナルガアーム越しに感じるアランの手の感触は、サヤカの気持ちを少しずつ落ち着かせていた。

 

 「少しは楽になったか?」

 「うん、もう大丈夫。あの……ありが、と」

 「よし、それじゃあ採取をしようか」

 

 サヤカの手が感じていた感触が離れていく。アランはもうガルルガアームを嵌め直して、手には小さなビンを握っている。両手が空へと伸びていき、サヤカは名残惜しくなったのか、思わず小さな息を漏らしていた。

 

 「ぁ……」

 「どうした?」

 「ううん、何でもない」

 

 二人はハチの巣の下へと再び歩み寄る。先程までパニック状態だったサヤカはすっかり落ち着きを取り戻し、アランと共にロイヤルハニーと、少しばかりのハチミツを採取し、しっかりと栓をしてポーチに詰め込んだ。

 

 「結構集まったな。これだけあれば十分だろう」

 「あとはキャンプに戻って納品すれば終わり、だけど……」

 

 サヤカはエリアの西にある道を一瞥し、思案を巡らせる。このまますぐに村へと戻るのは、どうにも抵抗があったのだ。

 

 「ねえ、アラン。少しだけ、回り道してもいいかしら」

 「回り道? そうだな……目的の物は集まったから、あまり長居しないなら平気だと思う」

 「本当? 良かったぁ……。目当ての物はこっちにあるの。ついて来て」

 

 差し出がましいようで言い出すのに抵抗があったが、アランはあっさりと了承してくれた。もう少しだけ、長居が出来る。サヤカはすぐさま、一瞥していた道を指差し、逸る気持ちを表すように、その足取りを急がせた。

 

 「向こうに……ぅ!?」

 

 サヤカの指差した先を目で追っていき、アランは息を飲んだ。サヤカが向かった先、エリアの西にある、いくつもの蔦が絡み合って出来上がった吊り橋のような道がそこにあった。

 

 「あ、あれを渡っていくのか……?」

 「ええ、そうよ。こうやって、絡まってる蔦に足を乗せるの。人が乗ったくらいじゃ千切れたりしないから、心配しないで」

 

 言うが早いか、サヤカはもうその道と呼んで良いのか分からない道をスイスイと渡っていた。置いていかれると困るので、アランも続いて蔦へと足を踏み下ろす。足場になりそうな太い蔦を見つけて、とにかく慎重に進んでいた。

 そんな折、アランはうっかり、蔦の下に広がる風景を見てしまう。一面が霞に覆われた、地表の見えない真下の風景を。

 

 「何でオルタロスが駄目で、これは平気なんだ……」

 

 不和を乗り越えて分かり合えたような気がしたが、今回の件でサヤカに抱いた謎が出来たアランであった。

 

 

 

 

 

 「ウニャ、ハンターさん。今日も採りに来たのかニャ」

 「ええ。はい、いつもの」

 

 獣人族が棲み処を置く狭い岩場、エリア3。古代林で見かけるような樹木とは仕組みの異なる緑色の植物に囲まれたここで、サヤカはアイルー達と取引のようなものをしていた。

 

 「確かに、受け取ったニャ。あとは自由にしていいニャ」

 

 サヤカがポーチから出していたのはマタタビだった。アイルーにマタタビを渡して、それを対価にして何かを得ようとしているのだろう。アランに手招きをして、サヤカはエリア奥の段差を上っていた。

 

 「この上にあるの。んしょ、っと……」

 「上か……」

 

 サヤカの後ろに続いていたアランが、サヤカを見上げる。

段差を上っている最中の、サヤカを。

 

 「っな、あ……ッ!?」

 

 アランは見てしまったのだ。闇夜に紛れ込んだかのような錯覚を見せる漆黒に包まれた、白を。ナルガグリーヴの隙間から覗くサヤカの太股を。

 

 「……っ」

 

 ガルルガヘルムの奥で赤面しながら俯くアランの脳裏に浮かんでいるのは、つい先程見た景色。数多の狩りの中で引きしめられ、尚且つ傍目からもその柔らかさが想像できそうな瑞々しい肌。そこから視線を上へ向けた先にある曲線を思い出した所で、アランはぐっと歯を食いしばる。

 

 「アラン、どうしたの?」

 「……何でも、ない。なんでも、ないん、だ」

 

 閉じた瞼の奥に見えた景色に悶絶しながら、アランは段差に手をかけ、直後に手を滑らせた。

 

 「ッ、あああーっ!?」

 

 どしりという重い音を皮切りに、アイルー達が一斉に毛を逆立ててエリア中を駆け回り始めた。

 

 

 

 

 

 「平気? 凄い音だったけど……」

 「いいんだ。きっとこれは天罰だから」

 

 縦に長く、横に狭いエリア2。岩場で占められたこのエリアで、アランとサヤカはマタタビとの交換でアイルー達から受け取った特産タケノコを抱えながら、このエリアを渡ってキャンプへ戻ろうとしていた。

 

 「とにかく、君は何も悪くないんだ。それだけ分かってくれればいい」

 

 傍らに断崖絶壁が見える中、サヤカが急に立ち止まったのは、そこいらを呑気に歩いているガーグァ達の間をすり抜けてエリア1へ辿り着こうとしていた時だった。

 

 「どうした?」

 「…………名前」

 

 アランに返ってきた小さな声。それはガルルガヘルムの向こうから微かに聞き取れた、サヤカの声だった。

 エリア1へ向かおうとしていたサヤカが振り返り、アランと向き直る。その目つきは真剣そのものだ。気の置けないあの親友のような、軽口の一つでも叩くような雰囲気は微塵も感じられなかった。

 

 「私の事、名前で呼んで。君じゃなくて、サヤカって」

 

 過去の出来事。具体的にいうと、アランがユクモ村に来て、サヤカに会ってからの事を思い返す。彼女の事を名前で呼んだ事があったか。結論は、まるで思い当たる節がない、だった。今になってそれを言われるという事は、名前で呼んでも良いと思われるだけの信頼関係を築けたからだろうか。

 そんな事を思いつつ、アランは早速名前で呼ぼうとして、出そうとした声が喉の辺りで急に詰まってしまう。

 

 「…………、…………。…サヤカ」

 

言葉で言い表せない妙な緊張感に邪魔をされながら、アランはなんとかして名前を言おうと声を振り絞る。

 サヤカ。アランが呼んだその名は、その名前の持ち主の耳にしっかりと届いた。

 

 「……うんっ」

 「っ。ぁ、あ……」

 

 頬を薄く染め、柔らかく微笑んだサヤカが頷く。その笑みを見た途端、アランの身体がびくりと強張らせた。

大型モンスターを狩猟している時とは違う緊張を感じるアラン。心臓の鼓動が次第に強まり、胸の奥が徐々に熱くなっていく奇妙な感覚に見舞われた。

 

 「行こ、アランっ」

 

 再びエリア1への道へと振り返り、サヤカは歩きだす。その足取りは軽く、そのままスキップでもしそうな程上機嫌な足音を立てていた。

 

 (なんだ、一体……)

 

慌てて、アランはサヤカの後を追う。急に様子が変わったサヤカと、そのサヤカを見てから妙に落ち着かなくなっている自身に戸惑いながら。

 

 

 

 

 

 ユクモ村への帰り道。アランとサヤカはいつものようにガーグァに牽引される荷車に揺られていた。

 

 「お疲れ様。上手くいって何よりね」

 「ああ。体の方も何ともなさそうだ」

 

 ヘルムを外しているからか、サヤカの表情がはっきりと窺える。荷車で村へと戻る道中、風に乗ってふわりと揺れる髪を手で押さえてリラックスしていた。

 目を細めて心地よさそうにしている様子を、アランはじっと見ている。それから少しして、アランの視線に気付いたサヤカと目が合った。

 

 「どうしたの?」

 「いや……なんでも、ない」

 「んー、本当に?」

 「本当だ。なんでもない」

 

 気になったサヤカが問いかけるが、アランからは曖昧な返事しか返ってこない。さらに気になったサヤカが腰を浮かせて身を乗り出し、アランをじっと見つめる。アランは顔を横に向けてしまった。これ以上何か聞くことは出来なさそうだと、サヤカが諦めて腰を下ろそうとすると、荷車ががたりと大きく揺れた。

 

 「そう……ならいいけど―――――きゃっ!?」

 「っ、危ない!」

 

 ガーグァがけん引している荷車の上で中腰になっている状態のサヤカは、あっという間にバランスを崩して倒れ込む一歩直前になっていた。

 アランは慌ててサヤカの肩を掴むが、なおも小刻みに揺れる荷車の上でしっかりと受け止めるのは難しく、サヤカがアランに向かって倒れ込む形で二人はもつれ合ってしまった。

 

 「意外と、揺れるな。怪我は……あ」

 「ううん、私は平気。たまにあるのよ。小さい石に引っかかって……ぁ」

 

 もつれ合った状態から立て直そうと二人が顔を上げると、お互いの顔が真っ先に視界に入る。アランがサヤカの肩を掴んだ状態のまま、二人は腰を掛け直すという目的も忘れて見つめ合っていた。

 

 「…………」

 「…………」

 

 吐息と吐息が混じり合ってしまいそうな、もう少し近付けば鼻先と鼻先が触れ合う程の至近距離。アランはサヤカの目を、サヤカはアランの目を覗く。荒く揺れる荷車や髪を撫でていた風の事も意識の外に追い出され、サヤカはアランの腕にそっと両手を添えた。サヤカに触発されたのか、はたまた無意識の内にか、サヤカを受け止めていたアランの手にも力が入る。丁度、サヤカを抱きしめようとする形になっている。

 少しずつ、ゆっくりと。アランとサヤカは徐々に身を寄せ合っていく。ナルガヘルムを脱いだサヤカの髪の甘い匂いに鼻孔をくすぐられ、アランの思考はすっかり弛緩しきっていた。

防具越しに触れあう事に夢中になり、サヤカ以外の物に意識を向ける事が出来ない。荷車が今、どの辺りを走行しているかなど、とっくの昔に頭の中から消えていたのだ。

 

 「ハンターさん、村へ到着しましたニャ!」

 「ッ!」

 「っ!」

 

がたがたと揺れていた荷車の動きがぴたりと止まる。御者のアイルーの声によって二人の意識は一気に現実へと引き戻され、二人はバネで弾かれたように離れ、それぞれが腰かけていた場所へと戻ってしまった。

 

「…………」

「…………」

 

二人の間に圧し掛かる沈黙。何をやっていたのか。いや、何をやろうとしていたのか。熱を持った体と高鳴り続ける心臓をそのままに、アランとサヤカは二人して下を向いて先程の一連のやりとりを思い出しては内心で悶絶していた。

 

 「ハンターさん、降りないのかニャ?」

 「あ、いや……今降りる」

 

 首を傾げるアイルーに促されて、二人はようやく荷車から降りて村へ入ろうと思い至る。

 

 「…………」

 「…………」

 

 軽く荷物を纏めてそれぞれの自宅へと戻る。アランとサヤカはそれぞれ、時折ちらりと隣にいる人物を一瞥する。が、たまたまタイミングが合わさったのか互いに目が合い、再び下を向く、という行動を何度も繰り返している。先程の荷車の上での出来事が頭から離れないでいた。

 

 「ニャニャ。お戻りになられましたかニャ。ハンター様」

 

 そんな二人の帰りを待っていたのは、村の集会浴場の番台を担当しているアイルーだった。

 

 

 

 

 

 ユクモ村に備え付けられてある農場。木の実やキノコ、ハチミツや鉱石に魚まで採取が出来るこの場所で、二匹のアイルーがせっせと特訓に勤しんでいた。

 正確には一匹が特訓し、もう一匹がその監督をしている形ではあるが。

 

 「ぜえっ、ぜえっ、ウニャアーッ!」

 「次は丸太で特訓にゃ。モンスターの攻撃にもビクともしない頑丈な身体を作るにゃ!」

 「は、はいですニャーッ!」

 

 農場の外周を、後ろ足で駆けるハンゾー。いつもの武者ネコ装備に加え、石を使った(おもり)を巻きつけて走っている。アランとサヤカがクエストに向かっている間、リリィナは彼ら二人からの要望により、ハンゾーの特訓のコーチを務めていたのだ。

 

 「ふんぐぐ、ニャーッ!」

 「もっと腰を入れて頑張るにゃ! そんな事じゃあ大切な旦那さんのオトモは務まらないにゃ!」

 

 リリィナに言われるがままにハンゾーが向かったのは、ロープで吊るされた大きな丸太。これを手で押して、振り子の要領で返ってきた丸太を体で受け止めるという物だった。

 

 「もう、一度……ニャギャアーッ!?」

 

 最初の一回は体で受け止めたものの、ハンゾーの身体は二度目の挑戦にてあっさりと弾き飛ばされていた。ぼてぼてと地面をバウンドしながら転がり、ハンゾーは仰向けのまま目を回している。

 

 「うぐぐ……なんの、これしきニャ!」

 

 武者ネコヘルムにバッテン印の絆創膏が貼られたハンゾーが再び立ち上がる。力一杯丸太を押し、先程弾き飛ばされた時よりも強い勢いで帰ってきた丸太をがしりと受け止める。

それからハンゾーは2回、3回と丸太を受け止め、弾き飛ばされればすぐさま起き上がって丸太に向かっていく。気合と根性を支えに、ひたすら自分を鍛え上げていく。

 

 「うにゃ。主人の為にがんばるその気持ち、ワタシもよく分かるにゃ」

 

 丸太を使った鍛錬に打ち込むハンゾーの姿を眺め、うんうんと頷くリリィナ。自分を雇ってくれた大切な主人のアランに対して、何が出来るだろうか。手探り状態の中で模索し続けていたあの頃を振り返る。

 

 「体を動かしたら、次は頭を動かそうかにゃ」

 

 武者ネコ装備に増えていく絆創膏など気にも留めず、ハンゾーは一心不乱に丸太を受け止めていく。彼に必要なのは、勝手に突撃を繰り返さない、そこで一歩踏みとどまろうとする冷静さだとリリィナは考える。オトモアイルーとして自らが培ってきた経験の数々を引っ張り出し、何を教えようかと考えを巡らせるリリィナであった。

 

 

 

 

 

 「……と、いう訳ですニャ。タマミツネを狩猟し、村の平和を取り戻してくださったハンター様に、この村の温泉で疲れを癒して頂こうと思いまして」

 

 石の階段を上った先にある集会浴場。その中にある温泉が使えるようになった。それが、クエストから帰ってきたアラン達を待っていた番台のアイルーから伝えられた事だった。

 

 「集会所の温泉って、今は清掃期間中だった筈よ」

 「ええ、そうですニャ。だから、特別に、なのですニャ」

 

 うんうんと頷きながら、番台は手に持った扇をばさりと広げる。

 

 「さあさ、こちらはいつでも準備が出来ておりますニャ。ユクモ自慢の温泉を心行くまでご堪能くださいませニャ」

 

 

 

 

 

 湿り濡れた石造りの床を素足で歩く。辺り一面を湯気が包むここは、ユクモ村の集会浴場と呼ばれる場所である。村で待ち受けていた番台のアイルーに案内されるがままにここへ来たアランは、一言も声を発する事なく、ユクモの湯に浸かっていた。

 

 「…………」

 「…………」

 

 どういう訳か、サヤカも共にいた。それも、アランのすぐ隣に。

 

「何で、サヤカもここに……」

「混浴なの。ここの温泉」

「そう、なのか……」

 

集会浴場にある温泉は体を洗い流す場なので、防具の類を装備したまま入る事はまずない。男であれば貸し出されるタオル一枚を腰に巻く程度にしか着る物はなく、女の場合も大した差はない。体に巻くタオルが大きいか小さいか位の僅かな差なのだ。

タオル一枚を体に巻いただけのサヤカの肢体に思わず視線が向き、すぐに目を逸らす。ウェストのくびれや細い肩、すらりと伸びた健康的な足にくっきりとY字を描く胸の谷間も、立ち上る湯気の曇りやゆらゆらと揺れる湯の水面に薄らと遮られながら見えていた。

堪らずアランは、少しずつサヤカから離れようとする。が、ここは湯の中。ゆらゆらと波紋が広がり始めた事と、彼女がその不自然さを察知するのには、そう時間はかからなかった。

 

 「アラン。どうして離れてるの?」

 

 少しずつ離れていこうとするアランに気付いたサヤカの声に、アランはびくりと肩を跳ねさせた。

 

 「……嫌、だった? 私が隣にいるの」

 「いや、そんなつもりじゃなくて。その……分かった、分かったから。もう動いたりしない」

 

 物悲しそうに見つめるサヤカに根負けして、アランは元居た場所に腰を下ろす。どういう訳か、アランはサヤカに逆らえなくなっているような気がしていた。二人で向かったあの採取クエストの時といい、今回の温泉の事といい、あの目に見られると断れなくなってしまう。

 

 「じゃあ……もう少し、近くに行ってもいい?」

 「っ……もう、好きにしてくれ」

 

 嫌ではない事が分かったので、サヤカはさらにアランに近付く。アランの隣に近付くにつれて、心臓の鼓動が強くなっていく。温泉の湯とは違う熱の温かさに、サヤカは得も言われぬ心地よさに頬を緩めていた。

 

 「なんか、楽しいね。こういうの」

 「楽しい?」

 「私ね。今、とっても楽しい。こうして誰かと一緒にクエストに行って、一緒に温泉に入って……アランと一緒にいろんな事が出来るのが嬉しくて、こんな毎日がずっとずっと続いてくれたらって、そんな風に思えるの」

 

 心に芽生えた心地よさのままに、サヤカはその思いの丈を静かに呟く。

ずっと続いたら。その一言に、アランは胸がぐっと締め付けられるような苦しさに苛まれた。

 

 「駄目だ。それは出来ない」

 

 やがて、重苦しい声音でサヤカの申し出に否と答える。俯き、サヤカから目を逸らすアランの表情に、サヤカの顔も曇りを見せる。サヤカは不安に眉を寄せて、アランの顔を覗きこんだ。

 

 「アラン?」

 「龍歴院から通達が来たんだ。俺はもう、向こうに戻らないといけない」

 

 このまま黙っているままでいる訳にもいかない。アランは全てを白状する事にした。

 

 「俺とリリィナはタマミツネを狩猟する為にこの村に来た。あの渓流でタマミツネを討伐して村が穏やかになった今、俺はもう必要ないんだ。ここにはもういられない」

 「……そう。そう、よね。元々その為に、こっちに来たんだから」

 

いつか言おうと思っていて、ただそれが今になっただけの事。アランがこの村へ来た、当初の目的は達成された。あとは故郷のベルナ村へ帰り、今まで通りの生活に戻るだけだ。

それなのに、それがどうしようもなく口惜しくなってしまう。少しずつ、確実に迫ってくるその事実に、胸が苦しくなってしまうのだ。

 

 「いつ、帰るの?」

 「……四日後。四日後に、ベルナ村に行く飛行船が来る」

 

 本当は、明日にでも帰る事は出来る。ベルナ村へ向かう飛行船が明日、このユクモ村に来るのだ。もっといえば、帰る為の荷造りも一通り済ませてある。それでも四日後と答えたのは、アランなりのせめてもの抵抗だった。何に対しての抵抗なのかは本人にも分からないが、それでも抗わずにはいられなかった。

 

 「四日……四日後に来るのね」

 

 四日。それが、サヤカに残された時間。アランと一緒にいられる時間だった。今日のように二人でクエストに行くべきか、それとも村を回っていくべきか。様々な考えが浮かび上がり、頭の中で議論を繰り返していた。

 

 「だ、だったら!」

 

 ばしゃりと湯を跳ね散らし、サヤカはアランへと向き直った。サヤカが勢いよく動いた事で、タオルに巻かれた胸がふるりと揺れ、アランの視線がちらりとそちらへ向かってしまいそうになるが、何とか堪える。何とか耐えて、サヤカの両目を見続けた。

 

 「だったら……もう少し、この村を見ていって。もっと見てもらいたい物、いっぱいあるから」

 

 

 

 

 

 翌日。アランとサヤカは、なるべく二人きりになれるような状況を作るようになっていた。

 

 「ここは足湯になってるのよ。こんな風に座って、足だけ温泉に浸かるの」

 「足用の温泉……。結構、熱いんだな」

 「もう。そんな端に寄ってないで、もっとこっちに来て」

 「待て。そんなに、腕を引っ張ったら……っ」

 

 小さな腰掛けに隣り合うように座り、足湯を堪能する二人。あの採取クエストの帰りの時のように、アランはまたあの甘い匂いを感じて落ち着かなくなっていた。

 足湯に浸かりながら、サヤカからベルナ村の事やアランがコンビを組んでいるもう一人のハンターについて聞かれたりと、二人は会話に花を咲かせていた。

 

 「今日の特訓は肉焼きセットを使って肉や魚をこんがりと焼く事にゃ。その為に、まずはこの農場で魚を釣る所から始めるにゃ。生肉は旦那さんから幾つか貰ったから、これを使うにゃ」

 「はいですにゃ。師範!」

 「にゃ……師範?」

 

 アランとサヤカが足湯に向かっていた一方で、ハンゾーはタマミツネの狩猟を経て、今までよりもより一層の修練に励むようになり、そんなハンゾーの特訓をコーチ役として手伝うようにと、アランはリリィナに言い渡していた。

 

 「んしょ、っと……これはサシミウオね。アランはどう? 何か釣れた?」

 「こっちも釣れた。小金魚だな」

 「あまりやった事がないのよね。釣りの為に採取ツアーに行くのって」

 「たまにはこういうのも悪くないだろう? ……また小金魚か。結構多いな」

 「そうね。誰かと一緒なら、結構いいかも。あ、はじけイワシ」

 「一人だったら欠伸が止まらなそうだ。また、小金魚」

 「同じのばっかり来てるわね。あ、またサシミウオ。これで二匹目ね」

 「……小金魚」

 

 次の日は二人で渓流へ向かい、のんびりと釣りを楽しんでいた。日が昇るのも、沈むのも、あっという間に起こっている程、二人は時間を忘れて二人きりの時間に夢中になっていく。

 そうして、三日目の夕方。アランはサヤカの自宅に招かれた。他でもない、サヤカからの頼みで。

 

 「……この、人は」

 「サチエ・ミカヅキ。私のお母さんよ」

 

 アラン達の前にいるのは、病的な細さの四肢をベッドに寝かせた女性。青白い血色のやつれきった顔は瞼が閉じられており、眠っている事が窺える。

 

 「これが、私がハンターになった理由。お母さんを看病しながら生活するには、たくさんのお金が必要なの」

 

 今は、何とかなってるけど。

そう締め括り、サヤカはぐっと両手を握っていた。一方で、アランは息を飲んだまま、サチエと呼ばれたサヤカの母親の顔をじっと見ていた。

 

 「昔は目を開ける事も何度かあったけど、半年くらい前から殆ど目を覚まさなくなってるわ。いつも、私の方から話し掛けてる。相槌もないから、一方的だけど」

 「いつから、こうなんだ」

 

 髪や鼻筋にサヤカの面影を感じながら、アランはサヤカに問いかけた。依然変わらず、サヤカの母へと視線を注いだまま。

 

 「五年前ね。今まで見た事がない位大きな嵐が、ユクモ村に来た日の事だった。私のお母さんはその時、タケノコを採るために渓流に向かっていたの。お母さんを助ける為に、その時の村のハンターだった私の兄が助けに向かったの。名前はゲンジ。ゲンジ・ミカヅキっていうの」

 

 そして、サヤカの話が始まった。一回り程年が離れている事、とても頼もしい人だった事、ハンターとしての実力もあった事。一つ一つ話していく度に、サヤカの表情が優しくなっていく。それだけで、良好な家族仲である事が窺えた。

 

 「一晩が経って、嵐は去ったわ。お母さんも村に戻って来て、命は助かった。けど、意識不明の重体だった。何か月もかかって治療を続けたけど、良くなったり悪くなったりを繰り返していって、今は見ての通りよ」

 

 快方に向かえば希望を抱き、衰弱していけば見ている事しか出来ない焦燥感に駆られ、ハンター生活を続けていく中で立ちはだかってきたものに疲弊しながら、それでもサヤカは生き続けていた。

サヤカの母親の命を、彼女の兄がその身と引き換えにして繋いでくれたから。彼女の父が、今もどこかで奔走し続けているから。だからサヤカは今も戦い続けていた。

その行為は、果たして誰にでもできる事なのだろうか。もし自分だったら出来ただろうか。アランは自身に問いかけ、しかし出てくる答えはどれも揺らいでいた。そして、同時に思った事もあった。サヤカは強い。自分よりも、ずっと。

 

 「サヤカの兄も、村を出たのか? 母親の治療費を集める為に」

 「……ううん。もう、いないの。お母さんは助かったけど、渓流に向かった兄は帰って来なかった。ギルドの人が来て捜索を続けてたけど、それも打ち切り。消息不明って事で話が終わったわ。生きてるか死んでるかも分からなかったの」

 

 もう諦めてるわ。とっくの昔に。いなくなったって考えた方が、辛いのもすぐになくなったから。

 アランの疑問に首を振って返したサヤカが俯く。先程の表情から一転して悲しみに満ちたサヤカの顔を見ると、身を切られるような心持ちに苛まれる。それでも、それを表に出すような真似はせず、アランはただ、サヤカの話を聞き続けた。

 

 「医者をやっていたお父さんも、村を出て街に向かったわ。ここよりも情報が集まる場所だから、そこにならきっとお母さんが助かる方法もあるから、って。そしたら、家には私とお母さんが残ったわ。街に行ったお父さんからの仕送りがない月もあったから、自力でお金を集める方法を見つける必要があった。それが、ハンターになる事だった」

 

 ハンターになる者には、様々な理由がある。名声を求める者、己の力を極める者、断ち切れる事のない絆を求める者。そして、生活の為に金銭を求める者。

サヤカも、その一人だった。彼女は年端もいかない身一つで、自然の中で生きる力の数々に挑む事を選んだのだ。

サヤカの話を聞きながら、アランはサヤカと彼女の母の顔を見比べる。サヤカをここまで突き動かしたこの女性は、とても素敵な人だったのだろう、と。

 

 「……ぅ」

 

そんな時。アランでも、サヤカのものでもない誰かの小さな呻き声が聞こえたのは、心を痛めたアランがサヤカの母の手をそっと握った時だった。

 

 「……ゲ、ン……ジ」

 「な、に……!?」

 「え……? お母さん、なの……? 」

 

 手を握ったアランは驚愕に目を見開き、サヤカは飛び付かんとする勢いでサチエが寝かされているベッドに近付いた。

 

 「お母さん! ねぇ、お母さんっ!!」

 「……嵐、が……ぅ、ぁぁ……」

 

 必死に声を掛けるサヤカを余所に、苦悶の息を漏らしていたサチエはすぐに反応がなくなる。彼女は気にかかる言葉を残しながら、再び眠りに就いてしまった。

 

 「……眠った、のか?」

 「アラン……今、何をしたの? 今の一体、何なの!?」

 

 今まで見た事がない程必死な剣幕で、サヤカはアランに掴み掛った。何をしたのか、何がきっかけだったのか、サヤカは聞き出そうとしていた。今まで眠ったままの母が、ほんの僅かとはいえ意識が戻ったのだから。

 

 「手を握っただけだ! それ以外は何もしていない、本当に何もしていないんだ!」

 「そう、なのね……ごめんなさい。急に掴んだりして。でも……」

 

 しかし、アランも動揺を隠せないでいた。ただ、ただ手を握っただけなのだから。それで何かが起こるなど思いもしていなかったのだ。

 

 「こんな、こんな事があるのね……」

 

 サヤカはアランと同じようにサチエの手を握り、そしてアランへと向き直る。

 サヤカは確信した。アランに母の事を話して良かったと。タマミツネとの狩りを終えてから今の今まで悩み続けていたが、間違ってはいなかったと。アランはきっと、周りにいる人達を変えるなにかを持っているのだ。誰かの為に、何かの為に向けたひたむきな気持が、奇跡を起こしてくれたのだ。

 

 「ねぇ、アラン。アランが嫌じゃなかったら、もう少しだけこのままお母さんと一緒にいてあげて。お願い」

 「ああ、嫌じゃないさ。リリィナ達が戻って来るまでここにいる」

 

 アランが傍にいる事で、何かが変わるかもしれない。アランと触れ合う事で、良い兆しが現れるかもしれない。いいや、何も起こらなかったとしても、このまま何もせずにアランを宿へ帰す訳にはいかない。サヤカに出来る、サヤカなりのお返しがしたいのだ。

 

 「本当! 良かった……待っててね。今お茶淹れてくるからっ!」

 

 そんなサヤカの頼みを、アランは快く引き受けてくれた。間を置かずに帰ってきた返事にサヤカは笑みが浮かべ、急ぎ足でキッチンへと向かっていった。

 

 「そうだ、せっかくだから夕飯も食べていって。とびっきり美味しいタケノコご飯を作るから!」

 「なに? サヤカ……行ってしまった」

 

 それから少しして、キッチンの方からは微かにだがサヤカの鼻歌のようなものが聞こえてきた。その歌を聞いていると、アランの顔は次第に綻んでいく。サヤカが幸せそうにしていると、アランも嬉しい気持ちになってくる。サヤカが暗い顔をしていると、アランも落ち込んでしまう。アランにとって、それは少しくすぐったいような気がして、それ以上にとても心地の良い感覚だった。

 

 「このまま、時間が止まってくれたら……」

 

 無論、アラン自身も分かっていた。そんな事は起こらないと。だからこそ、せめて彼女の前でだけは何事もないように振舞い続けた。

サヤカが笑ってくれれば、それでいい。サヤカが喜んでくれるなら、アランはそれで十分なのだから。

 

 

 

 

 

 そして、四日目の朝が来た。アランとリリィナがベルナ村へ戻る日である。飛行船の発着場にはユクモ村の村長を始め、コノハやハンゾー、そしてサヤカ達村の者達が見送りに来ていた。

 

 「ハンター殿。いえ、アラン殿。オトコとオトコに別れの挨拶は不要ですニャ。また、またいつか……どこ、かで……ズビビッ」

 「全く、こんな事で泣きべそかいてるなんて。今までの特訓の成果はどこへ行ったにゃ」

 「泣いてなどいませぬニャ。これは、ただの汗ですニャ!」

 

 くしゃりと顔を歪ませては、ごしごしと両手で顔を拭うハンゾー。思えば、タマミツネを狩猟したのは彼の活躍があったからこそ出来た事かもしれない。サヤカと共に在れる道を開いてくれたのも、彼がいたからだった。

武者ネコヘルムを脱いでいる彼の頭を、アランはそっと撫でる。毛の質はリリィナよりも硬く、そして短かった。

 

 「アラン。私、もっと頑張る。お母さんが目を覚まして、あの頃みたいに一緒に暮らせるように。ハンター生活を続けて、今まで変な奴らに会った事もあったけど、でも、アランにも出会えた。たくさん辛い事があって、嬉しいと思う事も少なくて……でも、アランが奇跡を起こしてくれた。ならきっと、また奇跡は起こってくれる。お母さんも、きっと戻って来てくれる。いつか、きっといつか。そう信じてるの。アランが、それを教えてくれたから」

 

 続いてハンゾーを傍らに置くサヤカと向き直り、彼女の紅い瞳をじっと見つめる。サヤカは兄の話をしていた時のような、優しい顔をしていた。

 

 「……サヤカ」

 「なに? って、これ……剥ぎ取りナイフ?」

 

 アランがサヤカに向けて出した物。それはアランが腰に下げていた、片手剣よりも更に小振りな刃物。ハンターならば誰もが持っている、所謂剥ぎ取りナイフだった。

 

 「こんな物しか渡せないけど、良ければ受け取ってくれ」

 

 受け取ったナイフの外観を流し見ると、鞘にはベルトや防具とぶつかったのだろう擦れた跡が付いていた。ナイフの柄は塗装が擦り切れており、下地の金属の色がうっすらと見えている。アランが長い間使い続けていただろう事が窺えた。

 サヤカはアランからの贈り物の剥ぎ取りナイフを大事そうに両手でぎゅっと握っていた。

 

 「うん。大事にするね」

 「お客サマー! そろそろお時間ですニャーッ」

 「っ……あぁ、くそ」

 

 飛行船で待っているガイドのアイルーの声。時間が来てしまった。

 

 「行ってあげて。あの子達のお仕事もあるから」

 「……わかった。行こう、リリィナ」

 「にゃ」

 

 一歩一歩踏みしめながら、飛行船に乗り込んでいく。ガイドのアイルーはアランとリリィナが乗り込んだのを確認して、発着場と繋がっているゲートを閉じた。飛行船に連結されていたロープも解かれ、ゆっくりと高度を上げていく。

 

 「アラン! もう風邪ひかないでね! 向こうに行っても、ずっとずっと元気でいてねーっ!」

 

 徐々に、徐々に。ユクモ村の風景が遠ざかっていく。コノハや村長を始め、手を振って見送る村人たちの姿も小さくなっていく。ナルガクルガの装備に身を包んだ少女、サヤカの姿も。彼女は精一杯の大きな声で、アランに向かって叫んでいた。いつまでも、いつまでも健やかでいる事を願っていた。

 

 「ああ、約束する! だからサヤカも、サヤカもずっと元気でいてくれ!」

 

 目を熱くさせながら、肩で息をしながら、アランもサヤカに叫び返していた。二人が叫んでいる間も、飛行船はいつものように定められた空路を進んでいる。声が届かなくなっても、きっと想いは届いている。アランはただひたすら、小さくなっていくユクモ村を見続けていた。

目では見えなくなる程小さくなるまで。涙で滲み、雲に遮られるまで。

 

 

 

 

 

 こうして、アランの任務は終わりを迎えた。ユクモ村を騒がせていたタマミツネは無事討伐され、村には再び平穏な一時が訪れたのだった。

 

 

 

 

 

 「ちっきしょお……やっぱり納得いかねぇよぉ……」

 

 時は遡り、アランがベルナ村を発ってから少しした時の事。アランと共に村を出た若きハンターは、飛行船に設けられた一室でそうぼやいていた。

 

 「ボウガンの整備も終わってる。腹も減ってねぇし、これといってやる事も特にねぇ。暇すぎるぜ」

 

 飛行船が向かうのは、とある伝説が言い伝えられている村。その名はココット村。

 かの村に向かうのは、ユクモ村へ向かったアランの戦友。その名はガッシュ。

 

 「……ちきしょう、向こう着いたらとりあえず何か食いまくってやる。アランに話す土産話も作りまくってやる。だからさっさと着いてくれよ。暇なんだよぉ!」

 

 ココット村を騒がせている電竜(でんりゅう)ライゼクス狩猟の為に、龍歴院が向かわせたハンターである。

 




という訳で、ユクモ編はこれにておしまいになります。
で、最後の方に出てきた彼をメインにココット編が始まる形になると思いますね。

もしかしたらまた更新が遅れるかもしれませんが、どうかお付き合い下さいませ。

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