ロンデス・ディ・グランプは馬上で風を切りながら、己が信じる神に今日幾度目かの祈りを捧げる。人の命を奪うことに対する贖罪の祈りだ。異教徒とはいえ、無辜の民を殺すことについて心が咎めないわけではない。
しかし、大いなる目的を遂げるための小さな犠牲だ。ロンデスは倫理観を封じ込め、一頭身前を走るべリュース隊長の声を聞く。
「さぁ、目標地点だぁ!これより作戦を開始する!私に続けぇっ!」
そのべリュースの口端は嗜虐に歪み、目は血走っている。もしも目の前の村に顔立ちの良い女がいたならと考えると、ロンデスは神にべリュースの色欲の邪を払い給えと願わずにはいられなかった。
任務の内容は簡単だ。
村の家々を焼き払って住民を半分まで間引き、残った住民に大なり小なり怪我を負わせる。あとから追ってくるだろう王国戦士団の戦力を削げるようにする狙いだ。全ては王国戦士団長、ガゼフを抹殺するため。
ロンデスはたづなを強く握り、片手で剣を抜いた。これから殺しをするというのに、手は震えない。もはや己の血は赤色ではなくなってしまったのかも知れない。
「──作戦開始ぃッ!」
べリュースの叫びを聞き流し、ロンデスは眼前に迫る村を見据える。その時だ。
前を走っていたべリュースが馬ごと横薙ぎに吹き飛び、追ってロンデスの顔を暴風が叩きつけた。
「……っ!?──全軍停止ッ!停止せよッ!」
ただならぬロンデスの声に後ろの兵が馬を止め、消えたべリュースの姿を目で追う。──そして誰もが言葉に詰まる。
鋭い牙を煌めかせた巨大な獣が、泣き叫ぶべリュースの身柄を大足で抑えていた。
獣は亜麻色と白銀の混ざった毛並みを逆立て、べリュースを前足で蹴飛ばして空へ浮かばせる。
『グルルルルゥゥゥァッ!』
「──伏せろッ!」
瞬間、烈風を纏った獣がロンデスたちの間を駆けた。ロンデスを始めとする少数の精鋭は、咄嗟の判断で馬から飛び降りて身を伏せる。しかし高く飛ばされたべリュースの姿を目で追ってしまった未熟な隊員は、その一瞬の隙に隊長と同じように空を舞った。
ロンデスはすかさず立ち上がると、獣の方に向いて剣を取る。宝玉のような眼光を鋭く煌めかせ、獣は未だ動く騎士を見定めていた。その視線に射抜かれ、騎士たちは気づいてしまう。
──アレは災害だ。竜巻や地崩れと同じような、自分たちの力ではどうしようもないたぐいの。
『──ルグァァァァァッ!』
騎士たちはようやく獣の全身を視認する。それは叡智に溢れた顔つきをした、身の丈4メートルはあろうかという巨大な狼だった。荒々しいその空気に気圧された者は、つい口を開く。
「おぉ、神よ……」
己が信じる神への一抹の信仰心が口をついて出たのか、それとも目の前の人智を超える化け物が神に見えたのかは定かではない。
その祈りに、大狼はあからさまに顔をしかめて不快感を示した。
「──落ち着け!!アレは少し大きいだけの狼だ!神などではない!立てる者は剣を取り戦うぞ!」
ロンデスは猛り叫ぶ。周囲を確認してまだ立っているのは、己を含めて6名。この部隊の中では熟練度が高い者達だ。まだ戦える。
「……でやぁぁぁぁっ!」
狼に一番近い距離にいた騎士が、ありったけの勇気を振り絞って大狼に斬りかかる。しかし大狼が無造作に前足を振るうと、騎士はいとも容易く撥ね飛ばされた。
「囲め!!!五人で同時に攻めるぞ!」
騎士たちはロンデスの怒号に従い、ジリジリと大狼を包囲していく。この間大狼は、その動きを歯牙にも掛けず、悠然とした態度で騎士の行動を待っていた。
「──かかれえぇぇッッ!」
「うぉぉぉぉっ!」
「おらぁぁっ!」
騎士が飛び出したのに合わせ、狼は大きく息を吸い込んだように見えた。
『オォォォォォォォォンッッ!!!』
大狼を中心として暴力的な爆音が生まれ、周囲のものを衝撃波が襲う。水たまりに水滴を落とした時のように、騎士たちは放射状に吹き飛ばされた。
狼は動かない騎士達を睨んだ後、悠々とした足取りで村の中へ戻っていった。
◇◇◇
「──お、狼様が村を守って下さった……?」
「何が起きているんだ……!?」
村人の多くは村の入口に集まり、巨大な狼が現れて騎士を蹴散らす一部始終を見ていた。カルネ村の人間に騎士を庇うものはいない。毎年の戦争に巻き込まれるせいで騎士たちへの好感度は最低まで下がっているし、なによりも騎士達の付けている紋章がバハルス帝国のものだったからだ。
あの狼が現れなかったら、敵対国であるバハルス帝国の騎士達によって村がどうなっていたかは想像に難くない。村に入ってきた狼に、村人は自然と両膝をついて頭を下げる。
狼はその態度に満足げな反応を示すと、高く一鳴きして跳び上がった。そのまま村の奥の森へと一直線に駆け抜けると、木々の合間を縫って闇に消えていった。
「あれが噂に聞く……」
「森の賢王様か!?」
「間違いないだろ!……あんな凄まじい大魔獣、森の賢王様以外にいるものか!」
「森の賢王様が俺たちのカルネ村を守ってくださったのか!」
村人たちは狼が走り去った先の暗闇を名残惜しく見つめながら、陶酔した表情を浮かべていた。
そして未だ倒れている騎士たちのことを誰かが気づき、拘束して村へと引っ張ってくる。驚くべきことに、騎士達で命を落とした者は1人としていなかった。気を失っている者がほとんどで、全身を打撲して動くこともままならない状態の憐れな金髪の痩せ男がいる以外は、目立った外傷も無かったのだ。馬も半数以上が健在で、恐怖に支配されたかのような従順さで村人の誘導に従った。
◇◇◇
「信心というのはいとも容易く変質するものじゃな。それとも、柔軟な思考を持つ連中だと褒めた方が良いのか。……へっ──くちゅん」
「ほら、服を持ってきてやったから早く着ろ。風邪をひくと薬代がかさむからな」
裸のホロから目を背けつつ素っ気なく言うロレンスに、ホロは服を受け取らずに難しい表情で返す。
「おお、わっちの旦那様は気が利くのう!……しかし、そこは薬代ではなくわっちの身を気遣うべきではないかや?」
「お前の存在は俺が死ぬまで俺の前から消えないが、金は使えば無くなるものだからな。今の状況なら尚更だ」
ロレンスは空いている手で懐の巾着袋を指すが、ホロは裸のまま、ロレンスの手を握って己の薄い胸板に押し当てた。その瞳の中にはイジワルなものが浮かんでいる。
「愛の灯火は人の信心と同じく、いとも簡単に消えてしまうものでありんす。そうなってしまえばわっちはぬしの前から煙のように失せてしまうじゃろう。ぬしはそれを絶やさない自信があるのかや?」
ロレンスは、随分とご無沙汰だったホロの乳房、その女の子らしいふよふよとした手触りに煩悩を感じながら、目をきつく閉じた。
「……どんな消し炭の中の小さな火種だろうと、酒をかければ燃え上がるだろう。村長に交渉して、ぶどう酒を樽で用意してもらうように頼んでやる。──それよりも早く服を着てくれ。目のやり場に困るんだ」
「うむ!期待しておるからの!」
嬉しそうに言うと、ホロはロレンスから服をひったくり、ばさばさと慌ただしく着替え始めた。
◇◇◇
「お待たせしました、村長殿」
「おお、ロレンスさん!突然どこへ行かれたのかと探しましたよ!」
「妻が騎士たちを怖がって逃げ出してしまいましてね。走り回って探していたのです」
ホロはフードを深く被って一礼をした。その仕草に村長はにこやかに笑う。
「女性にとって荒々しい騎士たちは恐ろしいものですからな──しかし、森の賢王様が追い払って下さいました。もう恐れることはありませんよ」
ロレンスは村長の態度に思わず笑ってしまいそうになるのを抑えながら、ホロに合わせて礼をする。
「この後、村長殿はどのようなご予定で?」
「ええ──森の賢王様への感謝を込め、規模は小さいですが一夜の祭りを開こうと思います。ロレンスさんたちもどうぞ参加なさってください」
「ありがとうございます。では、妻共々参加させていただきます──それと」
ロレンスは一度言葉を区切り、ホロの方をちらりと窺う。
「我々の故郷では、狼は大酒呑みだと言われています。捧げ物として一考の余地はあるかと」
「ほう、それは良いことを聞きました!では早速、村の倉庫から酒樽を見繕ってきましょう」
くつくつと笑うホロに安堵し、ロレンスは村長に銀貨の重さを比べてもらうようにお願いをする。上機嫌な村長は一も二もなく承諾した。
結果的にはロレンスの持っている数種の銀貨は、どれもこの地で流通している銀貨よりも含有率の低いものだった。銅貨は遥かにロレンスのものの方が価値が高いようだが、大した金額にはならないだろう。早急に商売をする必要が出てきたことに頭を抱えつつ、ロレンスは貨幣を巾着袋に戻した。
その時、村長宅の扉がノックされる。村長が応対すると、姿を見せたのはエンリ・エモットだった。何か焦っている様子に、すぐさま用件を聞く。
「また……騎士風の人たちがこちらへ向かってきているんです」