愛しているわと女神は言った。   作:エターなる

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なな

 ――――

 

 私には恋人がいました。フレイヤ様に出会う前のことです。

 

 優しい人でした。思慮深く、けれど不器用で、いつもちょっと恥ずかしそうに笑っている。そのような人でした。

 

 彼の人柄は、どう言ったらいいのでしょう。気丈、というと少し違う気がします……。普通の人、普通であることを言い訳にしない人、強くはないけれど、強くあろうと出来る人。そんな感じでしょうか。

 

 温かな気質。とても心のすくよかな人。

 

 私は、たぶん、彼を愛していたのだと思います。一緒に居て安心できたし、一緒に居たいと思えたし、一緒に居てくれる人でした。

 

 彼は、ずっと私だけを見ていると、昔、そう言ってくれたのです。

 

 私はきちんと覚えています。だって、とても嬉しかった。そうです、嬉しかったのです。それこそ、わんわんと泣いてしまうくらいに。

 

 彼はそんな私を見て、いつものように困った笑顔でこう言いました。ボクはキミより、歩くのがとても遅いけれど、キミを好きでいても、いいだろうか。

 

 覚えています。覚えているのです、泣きじゃくりながら頷いたことも、しっかりと。

 

 冒険者に憧れた私が彼を引っ張ってオラリオにやって来たのは、もうどれくらい前のことでしょう。

 

 フレイヤ様と出会ったのは、そのすぐあとのことでした。ある日、一人でバベルを見上げていた私の前に、あの方は現れました。

 

 私は目を疑いました。こんなキレイな方がこの世界に居るものなのか、居て良いものなのか。

 

 ぼうっと正体を失いかけていた私に、フレイヤ様は仰いました。傍に仕えてみないかと、そのように。

 

 舞い上がる思い、と言いましょうか……。虜になる、というのは、きっとああいうのを指すのでしょう。私は、喜び勇んで、あの方のものになりました。

 

 それからしばらくは幸せでした。念願の冒険者になって、どんどん強くなっていって。

 

 フレイヤ様の寵愛も、至福のものでした。夜にお呼ばれして……、その、つまり、同衾させて頂いた日などは、このまま死んでも良いとすら思いました。

 

 まるで、夢のような時間……。そういった日々が続いて、けれど、レベルが三になったころだったと思いますが、ふと、気づいたのです。

 

 居ないのです、私の隣に。私を見ていた、私を好きでいたいと言った、あの人が。

 

 居なくなっていたのです。そしてそれは、一日、二日のことではなく……。もう、ずっと、ずうっと、居なかったのです。

 

 私は、あの人を御存じでないか、フレイヤ様にお尋ねしました。フレイヤ様は首を傾げて仰いました。あの頃欲しいと思った才人は、私だけだった、と。だから、私の周りに居た()()()()()()有象無象は、気にも留めなかった、と。

 

 この時です。私はこの時、夢から覚めたのだと思います。この時初めて、私は、フレイヤ様を恐ろしいと感じたのです。

 

 あの方は、全く、麻薬のような御方です。一度手にすると、さらにさらに欲しくなる。抜け出すことなど出来ない、抜け出そうとすら思えないのです。美しく、美しく、美しすぎて、恐ろしい御方なのです。

 

 ……いいえ、違います。本当に恐ろしかったのは、フレイヤ様ではないのです。私が怖かったのは、本当は、私自身なのです。

 

 彼がそばに居ないことに何年も気づかなかった自分。

 

 居ないと気づいて不安になった自分。

 

 なのに、フレイヤ様にお尋ねし、言葉を賜った途端、その不安をきれいさっぱり忘れた自分。

 

 選ばれたのは私だけ、そんな言葉に歓喜さえしている自分。

 

 そうしてまた彼のことを、どうでもいい物のように忘れかけている自分。

 

 私は、私こそが、私の心の動きこそが怖かったのです。

 

 私は、彼を愛していたのだと思います。容姿は普通で、強くもなく、特別に賢いわけでもない、いたって普通の人。けれど、愛していたはずなのです。

 

 雨上がりの空から覗いた陽光に、嬉しそうに目を細めたあの人を。

 

 雪解けの頃、顔を出したばかりの小さな木の芽を慈しんでいた眼差しを。

 

 もうすぐオラリオだねと向けてくれたあの笑顔を。

 

 ただ、そばに居てくれた、彼の、あの……。

 

 私は、あの優しさを、愛していたはずなのです。

 

 愛していた……愛して……。

 

 でも、あれは本当にそうだったのでしょうか。私は、実際、あの人を愛していたのでしょうか。

 

 それならどうして、私はあの人を捨てて、フレイヤ様の元へ走ったのでしょうか。

 

 フレイヤ様を思うと胸が高鳴ります。声を聴くだけで心が弾みます。笑いかけられ、触れられたなら、もうダメになってしまいます。

 

 それが愛なのでしょうか。なら、愛とは、外見と、耳を撫でる声と、そして肉欲とで構成されたものなのでしょうか。

 

 では、あの人へ向けたアレは、今もここにあるこの感情は、一体何なのでしょう。

 

 あの人を思うと胸が痛みます。声を聴きたくて心が締め付けられます。笑いあいたい、手をつなぎたい。もう一度、もう一度……。

 

 ああ、でも、だけど、彼はここに居ないのです。

 

 私が連れ出して、私が打ち捨てたあの人は、今はもう、どこにいるかも分からないのです。

 

 この痛みの理由は、愛ではないのでしょうか。

 

 分からないのです。分からなくなってしまったのです。愛とは何なのでしょう。

 

 愛とは、愛するとは、どういうことなのでしょう。

 

 本当の愛は、真実の愛は、どこにあるのでしょう。

 

 ――――

 

 フォールクヴァング――共通語(コイネー)では『戦いの野』と呼ばれる土地がある。

 

 美と愛の女神、および、その眷族たち、フレイヤ・ファミリアの本拠地の名前だ。都市の南部、繁華街の一等地に位置する。

 

 古いノルドの言葉、古代よりもなお昔、北方を統べた神々が下界で使っていた言語だ。今となっては、一部の長命種と、物好きな学者達だけがこの言葉を知っている。

 

 この地名を共通語に訳すと『大勢の人が居る場所』という意味になる。『軍勢の集う場』というニュアンスもあるから、『戦いの野』の呼称は、恐らくはそこから転じた物である。

 

 都市オラリオに長く住む人間で、この場所を知らない者はそういないだろう。そこに大きく美しい宮殿セスルームニルが建つことも、半ば周知の事実である。こちらも同じように古く古いノルドの言葉だ。訳すとしたら『豊かなる御座』という意味になるだろうか。

 

 宮殿セスルームニルには、その名と同じ饗宴室がある。とても美しい大広間だ。ファミリアでの祝い事やパーティなどはそこで行われるのが常で、今回フレイヤが白髪のエルフを迎えようと企画した一席も、この広間で開かれることになった。

 

 

 オラリオに朝八つ目の鐘が響く。

 宴席に用意された椅子の一つに腰掛け、フレイヤは鷹揚に頬杖を突いていた。

 

 セスルームニルは今まさに華々しく彩られていく最中だ。フレイヤは会場のあちらこちらに目を飛ばし、気になったところに指示を出す。

 

 あの花は、もう少し壁より。薫りか強いから、近すぎてはいけないわ。

 テーブルクロスには、花の柄ではなくて、蔓草模様のものを。そうね、色は白と……、柔らかい翠がいいかしら。

 真ん中のシャンデリアをもう少し低くして。光は全体的に弱めにしましょう。

 料理は……、ええと、エルフはあまり獣の肉は好まないはずだから、魚や貝をメインに――。

 

 眷族たちを始めとして、住み込みの下男下女らが忙しなく動き回る。主の突然の思い付きに応えようと、彼らは懸命な様子だ。

 

「フレイヤ様」

 

 凛とした声が背もたれごしに女神の名前を呼んだ。良く知った声。ソニアという女の物だ。

 

 フレイヤは昨夜の内にこの女に一つ頼みごとをしていた。早くに出かけたという話は聞いていたから、きっと、それを終えて帰って来たのだろう。

 

 胸の高鳴りを感じる。不安か、期待か。どちらにしろ、久しく望んでいた感覚だ。

 

 さて、お願い事は、どうなったろう。フレイヤは微笑みを浮かべて立ち上がり、振り返った。

 

「ソニア、お帰りなさい」

「はい。ただいま戻りました」

 

 黒い髪が優雅に下げられ揺れる。

 

 どこぞの貴族令嬢と言われても違和感ないソニアの所作に、フレイヤは少しだけ笑みを深くした。容姿であれ動作であれ、美しいものは何でも、この女神の寵愛するところである。

 

 フレイヤの見出した才ある卵たちの中では、ソニアという女は平凡な方だ。ただ、美の女神の眷属に相応しくあろうとして、驚くほど変わった一人だった。

 

 細々した気配りが必要な、言っては何だが冒険者に向かない事務的なことを頼める人間は、フレイヤ・ファミリアの中には実は多くない。英雄的な人物は、とかく我が強い。

 

 ソニアも初めはそうだったものの、いつからか、理知的で大局的な物の見方をするようになった。こうして大切なお願いをするくらいには、フレイヤは彼女のそういった面を評価していた。

 

(そういえば、この子とはしばらくご無沙汰だったわね)

 

 ソニアが上手くやったなら、あのエルフが今日館にやって来るはずだ。今日の件が終わって、そしたら、彼女にご褒美をあげてもいいかもしれない。

 

 ベッドの中で乱れる女の顔がフレイヤの頭に浮かぶ。シーツを掴む指、汗と愛液の甘い香り、悦楽に跳ねる肢体、フレイヤの名前を呼ぶ声、途切れ途切れの嬌声と、涙。

 

 ――お慕いしています、フレイヤ様、フレイヤ様、お慕いしています、お慕いしてっ……!

 

 ソニアが頭を上げ、フレイヤは浮かんできた記憶の景色をひとまず置いておくことにした。とまれ、今は何より例のエルフの話である。

 

 かなり早い帰館だから、たぶん、うまくいったに違いないと思うのだけれど……フレイヤは僅かばかりそわそわしながら問いかけた。

 

「どうだった?」

「はい。例のエルフには、フレイヤ様の招待状をたしかに渡してまいりました」

「それは、来る、ということで良いのね?」

「もちろんです」

「そう……。よかった、支度をさせていたはいいのだけれど、もし断られたらどうしようと思っていたところなの。朝早くから貴女たちを駆り出して、くたびれもうけさせただけ、なんて申し訳ないものね」

「まさか。フレイヤ様のお誘いを断るようなものが居るはずもありません。もしそうする者が居たとして、それはフレイヤ様の威光を理解できていない愚か者だけでしょう。

 それに、あなたさまの願いとあれば、どんなものでも私たちは喜んで取り掛かります」

 

 至極まじめな表情で言うソニアに、フレイヤは曖昧な笑みで応えた。

 

 フレイヤ・ファミリアは、少し前からオラリオの最大派閥として知られるようになっていた。オラリオで最大なら、世界でもそうである。女神フレイヤの名声は今や世界中に轟いていて、よほどの世間知らずでなければ、彼女が神々の中でさえ下にも置かれぬ存在だというのは常識だ。

 

 普通の人間は、神々からの召喚を拒否しない。卑近な例えをすれば、役所や国家の元首からの召致を断らないのと同じである。いわんや、それが、最も力ある神々の一柱による物だったとしたら……。

 

(そうね、普通なら、その通りだわ)

 

 しかし、少なくとも、あのエルフは『普通』ではない。億年を数える生の中で見つけた『初めて』なのだ――そうだとも、初めて、初めて! なんてステキな響きだろう!

 

(そんな彼までが、同じとは限らないじゃない)

 

 どうなるか分からない。だからこそ、フレイヤはこんなにも性急に事を運ぼうとしているし、こんなにも気をもんでいるのだ。

 

「ええと……」

 

 フレイヤは気を取り直して話を続けた。

 

「それで、彼のことだけど。直接話してみて、何か分かることはあった?」

「何か、とは……」

 

 ソニアが小首を傾げる。長い黒髪が揺れた。何となく手を伸ばしてそれを梳いてやりながら、フレイヤは一つ頷く。

 

「何でも良いの。名前、身振り、話し方、声、ちょっとした印象。何でも」

「……。随分と、ご執心のようで……」

「執心……。ええ、そうね、否定はしないわ。とても、うん、とっても、興味深い子だから」

「名前も御存じでない相手を……」

「あら、貴女に声を掛けたときだって、名前は知らなかったわ」

「それは、そうですが……」

 

 ――私のことを、貴女はこれほど直向きには求めて下さらなかった。ソニアの目に浮かんだ不満の色から、そんな思いが見てとれる。

 

 可愛い嫉妬だ。フレイヤは当然のようにそれを察しながら、やはり当然のこととして受け流した。女神は頑是ない子にするように、ただ髪を撫で、微笑んでやった。

 

 それだけのことが、不満を堪えさせ、口を開かせるに十分な慰めとなる。フレイヤは、自らの美しさの使い方をよくよく心得ていた。

 

「スバル・ヴリシャン……彼はそう名乗りました」

「スバルに、ヴリシャン? へえ、エルフらしくない姓ね。本名かしら?」

「さあ、分かりかねます。けれど、偽名を名乗る必要もないかと」

「まあ、そうね」

 

 ソニアの言にフレイヤは同意を示した。エルフは高潔な種族である。聡明で、美しく、自らの信念に頑なだ。彼らの名前には意味があり、多くはそれを誇りにしている。

 

「振る舞いは求道者のそれに近いものです。寡黙、無愛想、しかし、実直。オッタルさんに似た気配で、強烈な自我と自負を感じました。

 高貴とはまた別ですが、古風な言葉を遣います。古いエルフでしょう。年は、少なくとも、百を超えるかと。ロキ・ファミリアの副団長と親しげという話でしたから、もしかしたら、五百近いかもしれません」

 

 なるほど、古いエルフ。それなら、団員のエルフたちの中に何か知っている子が居るかもしれない。後で確認してみよう。フレイヤは相槌を打ちながら先を促す。

 

 熱心に耳を傾ける女神に、ソニアは口惜しそうにエルフの印象を語り連ねる。

 

 強い自尊心。しかし、傲慢ではない。むしろ謙虚であり、年かさなエルフに多く見られる自種族への過剰な誇りもない。少なくとも、パルゥムとヒューマンには対等に接する。

 

 武に携わる者である。堅く大きく、傷の多い手。手合わせをせねば実力の程は分からないが、体幹は地に突き立つ槍のように保たれている。挙手投足から窺われる技量は、レベル四のソニアをして果てが見えない。

 

「また、これはフレイヤ様にとっては重要だと思われましたので、たしかに言質を取って参りましたが……」

 

 僅かな接触から読み取れたあれこれを報告し、最後に、ソニアはこう付け加えた。

 

「やはり彼は、冒険者ではなく、ただの旅人である、と」

 

 女神の顔に大きな笑みが浮かんだ。決まりだ、これで、誰にも気を遣う必要はなくなった。

 

 

 ――――

 

 

 日が中点を過ぎ、暫く。

 

 先の農夫に聞いた花屋の軒先にて、スバルは色とりどりの花たちを眺めていた。

 

 美しいエルフが美しい花々に見とれている。長命の麗人が持つ悠久の輝きと、短い生が放つ瞬間の煌きと。見る者が見れば、何かの絵画になりそうな情景だった。

 

 ところで、時折花弁に顔を近づけ香りを楽しんでいるようにさえ見えるエルフの男が、この花はまずいとか食えないとか、そういう旅の知恵について考えているとは誰も思うまい。

 

 美しいものは誰が見ても美しい。しかし、スバルはその先を見据える男だった。わーすごいきれい、で、それ、食えるの? 俗に朴念仁とも言う。

 

「あの、お兄さんは、冒険者さまですか?」

 

 先ほどから近づいては離れてを繰り返していた小さな気配が、とうとうスバルに声を掛けて来た。

 何度も視界の端をうろちょろしていたから、それが年端も行かぬ可愛らしい少女であることはとうに分かっている。年のころは十に届くかどうかといったところだ。

 

 視線を向けると、少女は、ひぅ、と叱られたように身を竦めた。蛇に睨まれた蛙、ヤクザに絡まれた一般人の心境である。とにかく、目が怖い。スバルの美人恐怖症もさすがにこんな子供にまでは適用されないはずだが、彼の眼光は美人云々除いてもそもそも鋭かったようである。

 

「そう、怯えなくていい」

 

 おろおろと目を泳がせる少女に、スバルは片膝つくように身を屈め、なるたけゆっくり話しかけた。人界を流離うこと幾星霜、初対面の子供に怯えられるのは慣れっこであった。

 

「ひ。あの、その」

 

 少女は泣きそうになっている。

 何故だ、何もしていないのに。と慌てていたのはもう昔の話だ。美女のあしらいかたはいざ知らず、こういう時の対処法なら、スバルは長い生の中で学んでいた。

 子供の心を掴むのは、いつの時代も新鮮な驚きと相場が決まっている。彼は落ちていた石ころを拾うと、ことさらゆっくりかざして見せた。

 

「ようく、見ていなさい」

 

 小石とスバルとを交互に見つめる少女に向けて、彼はそれから簡単な手品を披露した。

 石を握りこんで二、三度、振るう。開いて見せると、そこは空っぽだ。もう一度握り、逆の手で拳の上から叩く。小石が姿を現す。手の平に乗せたまま両手を打ち合わせる。無くなる。目の前で素早く手の平を振る。突然、指の間に石ころが現れる。少女は目を丸くして、ただ見つめている。

 同じようなことを何度か繰り返して、彼女の涙が引っ込み警戒心が少し薄れたところで、スバルは一工夫加えた。

 

「これが菓子に変わったら、ステキだと思わないか」

 

 普通、鉄面皮でそんなこと聞かれても、怖いだけである。変な人認定されること請け負いだ。ただ、少女は今ではもうこのエルフの不思議な魔法に魅せられていたから、ちょっとだけびくつきながらも、こくりと頷いた。

 

「さて、大きさからして、飴か錠菓だろう。どちらが良い」

「……えと、じょうかって、何ですか?」

「粉と砂糖を練り固めた菓子だ。知らないなら、そちらにしよう」

 

 スバルは今までと同じように拳を作り、それを上から叩く。開けてみせると、少女は驚いてスバルと手の平との間で何度も視線を移した。

 

「あの、えと、石のまま、です?」

「む。では、今度こそ」

「……、ま、また石です」

「おや。おかしいな」

 

 もちろん、故意だ。スバルは三度ほど、握っては叩き、開く、という動作をただ繰り返した。

 少女は気落ちした顔で小さな灰色の塊を見つめている。不思議な魔法は解けてしまった、そのように感じられたのだろう。

 スバルは子供の純真さに心の中で微笑んでいた。当然、見た目は仏頂面である。

 

「どうも今日は調子が悪い。どうしたものか」

「……」

「そうだ。キミがやってみてくれないか」

 

 スバルはそっと拳を差し出した。ぎょっと見上げてくる少女に、身振りで以て、叩くように伝える。

 恐る恐る出しては引っ込め、やっと触れた少女の手の力加減は、叩くというより撫でるに近かった。それでも彼女から歩み寄った証だ。

 スバルはそっと握り拳をほどいて、手の中を見せてやった。ちょうど石と同じくらいの大きさの、けれど、角ばったそれとは違う、薄い紙に包まれた丸い塊が現れた。

 

「……成功したようだ」

「……うそ」

 

 目をぱちぱちと瞬かして、少女が自分の手を見つめている。スバルは紙包みを剥いで、やはりゆっくりゆっくりその手に塊を乗せた。

 

「キミのおかげで出て来た物だ。キミが食べるといい」

「え、でも」

 

 困惑しきりの少女の頭を優しく撫で、言葉を遮る。

 元々これをあげるつもりで始めた寸劇だ。懐には行動食として同じものが幾つも入っているのだし、たった一つで子供から怖がられずに済むなら安い投資である。

 

「俺はスバルという。少し変わったエルフだが、ただの旅人だ。キミは?」

「たびびと、さん……」

 

 少女はしばらく手の上の菓子を見つめていた。それから、大切そうに胸元に握りしめ、初めてスバルの目をはっきり見返した。

 

「リリは、リリって、いいます。ふつうのパルゥムで、このお店の店員、です?」

 

 スバルの問いかけに応える声は、最後だけ、自信なさげに語尾が上がっていた。

 

 


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