愛しているわと女神は言った。   作:エターなる

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やっちまった感はある。


よん

 ――――

 

 下を向いて歩いていたからだろうか。

 それとも、少しぼうっとしていたのかもしれない。

 ふと気づいた時には、見知らぬ背中がフレイヤの前にあった。

 

 紫紺のマントを纏う男だった。槍と弓と(ふくろ)を持っていて、濡れた白い髪を首筋に張り付かせている。すらりと長い笹穂形の耳が、その人物がエルフであると示していた。

 

 ちょうど、その背を挟んだ向こう側にバベルの塔の入り口が見える。

 その場所は、市壁で丸く囲われたオラリオの真ん中、中央広場の一角だった。

 

 周囲には大勢の人間が行き来している。

 塔へ入る者、塔から出てくる者、あるいは、ただ通りすがっただけの者。しとしとと間断なく降る雨の下で、誰も彼もが忙しなく足を動かし先を急いでいる。

 そんな中、目の前の男だけが、何をするでもなく、じっとバベルの塔を見上げていた。

 

(旅人、かしら。びしょ濡れね……、雨具くらい、使えば良いでしょうに)

 

 目に見えるあれこれからそう判断した彼女は、自嘲も含めて口角を上げた。身体にまとわりつくローブのことを思う。濡れ鼠は、彼女も同じだった。

 

 フレイヤは男の視線を追って、同じように眼前の巨塔を見上げてみた。

 どんよりと重たい鈍色の天を衝いて、白亜の摩天楼は揺るぎない。

 

 雄大で、荘厳で、厳威に満ちた姿だと思う。――けれど、それだけだった。

 初めて目にするなら心震わせる余地もあったろう。しかし、フレイヤにとっては馴染みの場所、仰々しい感慨など抱きようもなかった。

 

 下界に降りてから、幾たび月が巡ったか。見慣れるのも当然だ。

 ふと来し方に思いを馳せたフレイヤは、そういえば、もう何年も、感動という感動をした覚えがない、とそんなことに思い至った。

 それどころか、時を経るにつれ感情の起伏が小さくなっている気さえする。

 

 思うにこれは、下界で初めて手に入れ、一時は寝る間も惜しんで読みふけった詩集を、いつしか、最初の数ページで閉じてしまうようになった、あの感覚と良く似ている。

 この(うた)たちは、こんな程度のものだったかしら、と、昔ほど動かなくなった自らの心に首を捻り、かといって、手の中の本を捨てようとも思えず、そのことに少しの寂しさを抱いていた、あの気持ちと。

 

 それはきっと、在りし日に抱いた感情を否定したくないという、未練がましい思いの表れなのだ。

 

 例えるなら、現実を知った少女が、お気に入り()()()恋物語をただ抱きしめて、中身を読むこともなく遠くの空を眺めているようなもの。

 かつてのように恋に憧れることは出来ず、そのくせ、物語(こんなもの)は嘘っぱちだと割り切ることも出来ないでいる。

 どうせ、という投げやりな思いと、もしかしたら、という浅はかな願い。そんな、うじうじとした二律背反……。

 

(……ふふっ)

 

 ――ばかばかしい。フレイヤは思い描いたいくつかの想像を心中で笑い飛ばした。

 

 詩集? 恋物語? 感動? 今日の自分はいつになく感傷的であるようだ。

 さらには、そうして感傷に浸る自分を哀れがろうとする自分がいることすら、彼女は良く良く気づいていた。

 

 フレイヤは自分が他者より恵まれていることを自覚できるくらいには賢明であったし、また、そうあれるだけの知性があると自負してもいた。

 聡明であり恵まれてもいる、そんな己が、陳腐な悲劇に登場する愚かしい主役のごとく嘆いてみせたとしたら、それはもはや、逆に喜劇だろう。

 しかもその喜劇は、明朗な笑いを誘う類いの物ではなく、侮蔑と嘲笑とを引き出す滑稽なそれだ。

 

 自分で自分を不幸と思い込み、自分で自分を不憫がって、その挙句、そんな己に酔いしれるなど、愚行の中でも極め付けである。

 

 フレイヤは塔を仰ぎ見ていた視線を下げ、小さくかぶりを振った。

 

 気分が沈んでいるのは、今はどうしようもない。

 それは天気が悪いせいであるから。

 それは散策が無為に終わったせいであるから。

 それは濡れて冷えた身体が不快なせいであるから。

 

 こうした些細なことの積み重ねは、一つ一つ、解決するしかない。

 

 雨はそのうち止むものだ。

 散策が無為なのはいつものことだ。

 濡れたのは自業自得だが、冷えた身体が不快なら、ゆっくり湯に浸かって温まればいいのだ。そのあとでココアでも飲めば、寒かった分、普段より美味しく感じられる、なんてこともあるかもしれない。

 

 フレイヤは自身にそのように言い聞かせ、益体もない思考に終止符を打った。

 

 少し前方に立つ男は、まだバベルの塔を見上げている。

 濡れることが気にならないのか、それとも、もうずぶ濡れだからと開き直っているのか。

 豪胆なのか、あるいは、呑気なのか。

 いつまで、そうしているつもりなのだろう。

 

 フレイヤはほんの気まぐれに、目の前の男の魂を観察してみることにした。

 

 以前にも述べた通り、フレイヤは、生来、二つの世界を見ることができた。

 一つは、可視光が彩る万人に共通の世界。一つは、魂の輝きに溢れた彼女だけの世界。

 

 普段は周りに合わせて前者に視点をあてているが、散策のときは後者に重きを置いている。

 片方だけを見ることも、両方を重ねて見ることもできる。切り替えは容易で、右手に持っていた物を左手に持ち帰るような、そんな他愛なさだ。

 

 フレイヤは別に眼前の男に何かを期待していたわけではなかった。多少捻くれた言い回しをするなら、男が期待通りでないことを期待していた。

 どうせまた、という予測を、やはり今回も、という納得に落とし込むこと。強いて言えばそれが目的だった。

 

 男の魂を見て、その凡庸さを目にして、さもあらんと鷹揚に頷いて、その小さな光を横目に通り過ぎる。

 そんな、今まで何度となく繰り返してきた一連の風景と行動とを思い描きながら、極々無造作に、彼女は視界を入れ替えた。

 

 そうして、しかし、彼女が見たのは想像した通りの物ではなかった。

 

 凡庸な魂を見なかったなら、非凡な魂を見たのだろうか。

 否である。ここに至って、誤解を生みかねない不誠実な表現は止そう。

 

 彼女には、何も見えなかった。より正確には、何も見えない、という情景が眼前に広がった。

 少なくとも、フレイヤの認識ではそうであった。

 

「……え?」

 

 知らず、フレイヤは意味を成さない声を漏らしていた。

 何か間違えただろうか。もしかしたら、今までなかったことだが、切り替えに失敗したのかもしれない。

 瞬きを繰り返しても状況が変わることはなく、彼女は何度か視界を切り替えて確認した。

 

 男は紫紺の外套を纏っている――何も見えない――。

 槍と弓と嚢とを持っている――何も見えない――。

 白髪から首筋へ水が伝っている――何も見えない――。

 たしかに目の前に立って……――何も見えない――。

 

(これは……なにが……?)

 

 何が、起きているのか。

 まさか、自分の眼がおかしくなったのか?

 

 フレイヤは思わず背後を見やって、頼るべき猪人の大男を探していた。オッタルは変わらずそこに居て――他を圧する強い輝きを放っていた――。

 

 ああ、何だ、きちんと見えるではないか。この現象は、少なくとも自身に原因があるわけではないようだ。

 

 そのことを確認し、ふうと溜め息、フレイヤはもう一度、今度は魂の世界に意識を集中したまま、エルフの男を視界に収めてみた。

 

(やっぱり、見えない……。でも、どうして?)

 

 結果は同じだった。

 ある境を過ぎた途端――おそらくは男を目の端に捉えたところから――、視界が白く塗りつぶされ、見えるはずのモノが見えなくなった。

 

 原因は自分にはない。ではどこにあるのか。決まっている、この白髪のエルフにだ。

 ではその原因とは何なのか。分からない。だって、今まで魂を見通せない人間など居なかったのだ。こんなことはなかった、これまで一度も。――そうだとも、数億年もの歳月の中、たったの一度だって!

 

 未知は疑問を生み、疑問は不安を喚起した。そうして、ようよう、困惑や動揺、そういった感情がフレイヤに生まれた。

 理解できない。理解できない。これは一体、どうしたことだ。

 

「フレイヤ様、どうかなさいましたか」

 

 主の狼狽に気づいたオッタルがそう問いかけてくる。

 フレイヤは何と答えれば良いのか分からなかった。彼女もまた、その答えを欲していたからだ。

 

 背後での騒めきを察したのだろう。エルフの男がぴくりと耳を揺らし、振り返った。

 

 鋭い双眸がオッタルを射抜き、次にフレイヤを捉えた。

 どきりとするほど冷たい眼だった。

 そして、美の神フレイヤを、フード越しとはいえ、真正面から見据えてなお、その眼差しに変化はなかった。

 

 背筋がざわついた。悪寒にも似た昂りが、ぞわりぞわり彼女の体を駆け抜けた。

 

 それは未知だった。それは不安だった。それは困惑であり動揺であり、同時に確信だった。

 そしてそれは、久しく忘れていた、燃え上がる情動の予感でもあった。

 

 この男を逃してはならない。欲しい欲しくないではなく、手に入れなければ後悔する。

 

 ――ああ、ああ! 胎の奥が疼くようだ――フレイヤは突然胸を満たした感情を持て余し、口元が緩むのを抑えられなかった。

 

 ぺろり。彼女は舌舐めずりした。

 

 ――――

 

 バベルの塔こそは迷宮都市オラリオの象徴である。

 というのは、大陸中を旅している間、何度も耳にした話であった。

 

 噂には、このように語られていた。

 高い高い塔である。余りの高さに頂きは雲に隠れ、空を翔ぶ鳥さえ遥かに見上げるほど。聳える様は柱の如く、天を刺す様は素槍の如し。あるいは、天地に架かる橋のようにも思われる。

 とにもかくにも、とんでもない大きさである、というのが噂の主意であった。

 

 雨の中。

 南の大通りから抜け出したスバルは、オラリオの中心部であろう円形の大区画で足を止め、石灰色の摩天楼を眺めていた。

 正にそれが、名にも高いバベルの塔であった。

 

 ――見事。

 スバルの率直な感動を言葉にするなら、その一言に尽きた。なるほど、見事、これほどか、と。

 噂にはとかく誇張が付き物だ。この塔もさすがに雲を貫くとまでは行かぬ。

 が、しかし、それでも確かに、呆れかえるくらいに巨大ではあった。

 

 柱や素槍という表現からすらりと長細いものをスバルは連想していたのだが、とんでもない、遠くから見る分はさておき、近づいてみれば、高さだけでなくその直径も尋常ならざるものと分かった。

 

 小国の城か要塞か、またはそこらの村くらいならすっぽり収まりそうである。少なくとも、多少の距離を置かなければ、端から端までが視界に収まり切らないほどだった。

 

 これほどの高さと横幅とを併せ持つ代物を、雲を纏う山々を除いて、スバルは他に幾つも知らなかった。

 リヨースの(ともがら)どもが始まりの樹と奉じていた二本の大樹が、あるいはこれに匹敵するだろうか。

 

 それほどの大きさであるから、塔には出入り口が幾つもあるようで、城門のごとき大穴が一階部分の各所に設けられているのが見てとれた。

 大勢の人間たちがその門を潜って塔へと入り、同じ分だけそこから出てくる。年端も行かぬ子供からしわの目立つ老人まで。そのほぼ全てが戦士の装いをしていた。

 

 スバルの知識が正しければ、彼らは冒険者と呼ばれる者たちであろう。神の血を体に刻んでその神の眷族となった者、その中でも特に、オラリオに在る特殊な迷宮を探訪する者たちだ。

 

 ところで、この場合の冒険者とは、単に冒険――危険なことへの挑戦――をする者のことではなく、一種の職業名である。

 騎士でなく、兵士でなく、商人でなく、また、傭兵でもなければ、旅人でもない。富と名声と未知とを求め、神々の名の下に魔物を駆逐する者、それが、世間一般の冒険者というものだ。

 ちなみに、スバルもこれまで多くの魔物を屠ってきたが、仰ぐ神を持たぬ彼は、そういう意味では冒険者ではなかった。

 

 ――さておき、話を戻そう。

 バベルの塔こそは迷宮都市オラリオの象徴である、というには、この塔が眼を引く物だという以外に、もう一つ理由がある。

 

 その理由は、取りも直さずオラリオが迷宮都市と呼ばれる理由であり、冒険者が戦装束でバベルに集まる理由である。

 それは、そこに迷宮があるからであり、それは、そこに魔物がいるからである。

 つまりは、魔物が生まれる迷宮が、そこに在るからである。

 

 バベルの塔の地下には迷宮がある。魔物を産み出す迷宮である。

 

 世界に迷宮(ラビリンス)は数多ある。自然のそれも、人造のそれも。その中には魔物が巣食った場所もあるだろう。魔物の住まう迷宮、というわけだ。

 しかし、父もなく母もなく、何も無い状態から魔物を産み出す迷宮は、オラリオにあるそれをおいて他にない。原初の魔物たちは、ここから世界に散ったのだ。

 

 唯一無二、魔物たちの故郷。

 無尽蔵に彼らを産み出し、深く広く、誰もその終わりを知らない場所。

 その特殊性を指して、魔物の楽園、無限の牢獄、と両極端に評したのは誰だったか。

 どこぞの吟遊詩人だったような気がするが、何分昔のことだ、忘れてしまった。

 

 スバルは塔の頂きを仰ぎ、やはり見事だ、とそう思った。

 驚嘆の念は古い記憶を呼び起こす。長く生きた年寄りの性か、些細な関連付けから色々なことが思い浮かんだ。

 かつて聞いた噂のこと。いつか見た大樹のこと。迷宮都市という名前の由来のこと。冒険者のこと。魔物のこと。

 連想はとりとめがなく、スバルは思考を移ろうに任せた。

 そのまま、しばらく、じっと感慨に耽った。

 

 

 

「フレイヤ様、どうかなさいましたか」

 

 追想と想起の海から彼を引き戻したのは、良く通る力強い声であった。

 

 方向は背後。スバルは半身を返してそちらを見た。

 

 まず目に入ったのは、(いわお)のような大男であった。

 鍛えあげられた肉体。泰然として揺るぎない佇まい。気負いなく自然と張り詰めた雰囲気。

 

 一目で血が騒いだ。これは強いぞ、と直感した。それにまだ若い、今なお成長している最中だろう。

 

 次いで、フードの女に目が向かった。

 男と比べると子どものように小さい女だった。ローブを纏う身体は華奢で、強さは全く期待できない。

 だが、存在感という点では、この女の方がはるかに大男より上と思えた。

 

 フードを深く被っているせいで、陰に隠れた顔はあまりよく見えない。

 明瞭なのは鼻の頭から下だけだったが、それにも拘わらず、鼻筋と唇、頬から顎へのラインによって十分以上に美しい顔立ちであると分かった。

 全身を覆うローブは濡れて身体に張り付き、あまり用を為していない。しかしその分、女の肢体の清廉な細さ、官能的な豊かさが、見るに明らかになっていた。

 端的に言って、これまでに見たこともないほど美しい女だった。

 

 さて、くどいようだが。

 スバルは美女が苦手である。のっけから、性格悪そう、という偏見の眼を向けてしまうくらい美女が苦手である。

 しかも、つい先刻、苦手な美女どもに(たか)られたばかり。

 そんな所へとんでもない美女が現れたものだから、女へ向けた彼の眼光が鋭くなったのは、無理からぬことであった。

 

 そして、この直後、スバルは自身の警戒が全く正しかったことを悟った。

 

 フードの奥からスバルを見つめていたこの女が、何を思ったか薄く笑ったのである。

 口の端を少し上げる笑み。思わず飛び出した、そういう微笑。

 

 げらげらとした高笑いや、誰ぞに媚びる作り笑いでは決してない。

 それなのに。いや、だからこそ。

 スバルはその笑みに、覆しようのない女の本質を見た。

 

 スバルの身体に戦慄が走る。

 

(この女は――!)

 

 女の笑みは様々なものを示した。

 ゆっくりと上がる口角は執念深さを。

 半月を描いて止まる口元は美貌への自負を。

 吐息に小さく震える唇は我欲の深さを。

 

 粘着質で高慢で我が儘で……。

 

 これまで出会ってきた危険な女ランキングが目まぐるしく変化していく。ごぼう抜きである。

 

 そして、とどめの一撃。真っ赤な舌が唇の隙間から現れ、端から端までをぬるりと這っていった。まるで、女の淫らさを示すように。

 

 もし彼の表情筋が素直に感情を反映するものだったら、おそらくは見る者の度肝を抜く凄絶な表情を浮かべていたことだろう。

 

 粘着質で高慢で我が儘で、しかも淫乱だと?

 

 スバルは確信した。この女は間違いなく。

 

(――最悪の美女(チジョ)だ!)

 

 

 


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