遂に生放送の日がやって来た。
ここまでの約二ヶ月は練習とイベントのミニライブが主で、後は宣伝活動として雑誌の撮影やアイドル雑誌のインタビューなんかで知名度を上げて来た。エキストラである私も喋りはせずとも全て参加させて頂いていたので“
「……あーにゅーすでー」
メイクも完璧ぱーぺきだ。恐らく敬愛するデーモン一族の方々の間に入っても違和感ないレベルの仕上がりだろうと思われる。今回担当のメイクアップアーティストさんが前のライブと同じ人だったからやり易かったというのもあるかもしれない。
今日の生放送、当たり前だが出演者は私達だけではない。VIPなゲストの方々が沢山出演するのだ。無論出演者やスタッフには挨拶は済ませてある。
「ぃーいあーあーあーにゅうーすでーいー」
中でも私的にビッグネームは今回二組あるが、そのうちの一つは我が社のライバルである765プロの如月千早と萩原雪歩。二人は現在上映中の『無尽合体キサラギ』の劇場版のOPと劇中歌を歌うようだ。確か“arcadia”と“inferno”という名前だった筈だ。『無尽合体キサラギ』は私も最近ハマって一話から見ているので今回生で聞けるのはちょっと嬉しい。
それは置いといて、これからの演奏についてだ。今回は生放送用の観客という事もあり、当たり前だがウィンターライブの時と規模は比べるべくもないが。
しかし、だからと言って緊張しない訳ではない。
初回のステージは二日の両日共に約五千席がほぼ全て埋まり、満員御礼。ライブに関してあまり詳しくない私ではあるが、この状態が凄まじい事だという事は理解出来る。
緊張もずっと止まらなかった。とはいえ緊張したからこそ演奏の最後まで集中は解けなかったし、練習してきた中で最高の出来と言えないまでも上位に入る調子の良さだった。それまでの過程においても、慣れないことを一ヶ月やり通してそれなりの達成感は得る事が出来たのは事実だ。
「くぃーーいーいーとーおーりすぺーかーたーむぉーんでぃー」
しかし、前回のライブが満員状態で、更に大成功に終わる事が出来たのは、これまで実績を積み上げてきた346アイドル達が勝ち得た結果によるものであり、そこに私は一切関与していない。あのライブは私が居ようが居まいが大成功に事を終えていただろうし、私はほんの少しそれを後押ししたに過ぎない。
対して今回の生放送までの期間は私自身も
「どーーおーなーーあーあーどーおーおーなあーえーいす」
例えるなら前回のライブは『他人の担当する仕事』であり、今回の生放送は『自身の担当する仕事』と言ったところだろうか。そしてそれまでの雑誌の取材やアー写は事前準備。決して前回のライブがやる気がないとか言うつもりは毛頭ないが、意識の差というものは無意識の内に出てくるものである。言うならば意気込みは変わらないが、気持ちの持ちようが違うというだけの話である。
エキストラだから〜と練習に
「どーおーおーおーおーおーなーあーええええーいすれーくいえーむ……」
……ふぅ、ようやく緊張が解けてきた。やっぱり名曲をこれ以上ない程適当に歌うと気が紛れるね。
ガチャリ
「!」
急に扉が開く音が聞こえてびっくりした私は思わず足をピンと跳ねさせた。さ、さっきの、聞こえてないよね……?
誰だろうと思って扉を見つめると、目に入ったのはヒョイっと出てきた長髪の銀髪。人は彼女を高峯のあと呼ぶ。
のあさんは部屋を一瞥し、目線が私を向いたところで少しビクッとした後、私だと思い出したのか何事もなかったかのように私の隣の席に腰を下ろした。
「……」
「……」
構わず台本を眺めていると、のあさんはおもむろに自分の鞄の中をあさって透明なタッパーを取り出すと、パカリと蓋を開いた。
少し気になったので私は身を寄せて中身を確認してみると、案の定はちみつレモンだった。よく練習に持ってきてるからね。
のあさんは覗き込む私を見兼ねたのか、一切れ手に取ると私の顔の前まで持ってきた。これは……食べても良いということだな!
私は目の前に差し出されたはちみつレモンを食す。ふむ、甘酸っぱくて非常に美味である。
「……これってのあさんがいつも作ってるんですか?」
「……いえ、泰葉よ」
岡崎泰葉……確か子役上がりのアイドルだったっけ? 芸歴が十年以上あるらしいので私からすると大大大先輩だ。仲良いのかな?
出されたのでパクリと食べる。そして飲み込んだタイミングで再び口の前へと持ってきた。のあさんの様な美女からのあーんは心躍るものを感じるが、流石に少し気恥ずかしい。
「……あの、自分で食べれますよ?」
「……ア、ごめんなさい。美味しそうに食べるものだから」
確かに私はよく美味そうに食べると言われるが、そんなに顔に出るものなのだろうか。それはないと思うんだけど。だって私、顔に出るタイプじゃないし。
そんなやり取りをしていると、二度目、扉が開く音が聞こえた。
「あら、のあさんにカクちゃん」
「二人ともお疲れ様……あら、そんなに引っ付いて。仲良しなのね」
振り向いて見えたのは二人の女性。
一人はボブカット風の髪型に、青と緑のヘテロクロミアの眼が特徴的な346の歌姫、高垣楓さんだ。まだ少ししか話した事ないけど、とてもユニークな人でコロコロと鈴の音が鳴るように笑う。観察してる限りではなんとなくお嬢様っぽい感じがするのだが、何処か無邪気さを感じさせる。恐らく童顔で比較的長身というのが矛盾感を出しているのだろう。若干一方的にライバル視してたけど、話してみてとても良い人だったので良い関係を作っていきたい。のあさん曰く、北の界王様と親戚らしい。
彼女の言うカクちゃんというのは私の事だ。“CB/DS”の最初と最後を取って
カクタスの意味はサボテン。何故このチョイスかっていうと単純にサ○ネアが大好きだから。アニメのお別れシーンは涙を流さずにはいられない素晴らしいものだったよ……。初めは何処ぞの怪焔王みたいな風なの考えてたんだけど、語呂が悪かったから変えた。
それは置いといてもう一人は“THE大人のオンナ”って感じの知的でクールな女性、川島瑞樹さん。初対面だったのでこの前のリハの時に挨拶したら何歳くらいと思う? って聞かれたので二十三歳って答えたらなんか凄い気に入られた。女性に年齢問われたら取り敢えず二十三歳って答えるようにしていたのが功を成したか。その時の会話で、専門用語が交錯してよく分からなかったが、どうやら彼女は“アンチうんたら”を非常に好んでいるらしい。アンチに続く言葉はテーゼくらいのものだろうから……川島さんは何かのアンチ勢ってこと? 全くそんな人には見えないし思えないのだが、本人が言うのならそうなのだろう。
二人も私たちと同じく曲を披露するべく生放送に出演する。“nocturne”という曲を歌っているのだが、これがなんとも格好良い曲なのだ。二人の歌唱力もさながら歌詞も編曲も素晴らしい。正に駆け抜けるような仕上がりとなっていて少しハマりそう。
因みに挨拶の時も顔バレしない程度にデーモン一族のメイクだけはしてました。声色も微妙に変えてるから普通に会った時にバレる心配は無いだろう。ウィンターライブ後からひっそり部屋で練習しといて良かった。アドバイスくれた菜々ちゃんには感謝感激雨あられだね。ただ心配なのは素の状態で初対面という設定を忘れて知り合いの様に振舞ってしまう事。これだけはしっかりと覚えとかないと。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。ところでそのタッパは何かしら?」
「……はちみつレモンを食べていたわ」
「どれどれ……あら、美味しそうね。私も頂いて良いかしら?」
「なら私も
「んふっ」
突然そう口にすると高垣さんが可愛らしく微笑む。思わず何言ってるんだこの人と思ったが、隣の川島さんも苦笑していたのでどうやらいつもの事らしい。のあさんの言う界王様と親戚の意味を理解した。なんて寒い親父ギャグなんだ。65点。
……さて、そんな事をしているうちにそろそろ本番直前の、最後の練習が始まる時間帯が近付いて来た。輝子と夏樹は大丈夫だろうか。二人共どうしても外せない仕事の打ち合わせがあったらしく、まだ此処には来ていない。とはいえスタジオは運良く私たちが今いるこのスタジオとの事なので遅刻の心配はなさそうではあるが……。
「おっ、間に合ったみたいだな」
「ふひ……お、お疲れ様……」
三度目、扉が開く音が聞こえた。この声は夏樹と輝子以外にありえない。
「お疲れ様。もうすぐ練習が始まるからゆっくり休んで」
「……ん? って深y……カクか」
おっとぉ! い、今のは中々危なかった……。言い切ってたらちょっと怒ってたかもしれないけど、まあ呼び慣れてないから仕方ないよね。でも事情知らない人が二人もいるのだから次からは気をつけて欲しい。
「……そういえばカクちゃんって芸名なのよね。……本名って何かしら?」
高垣さんが口を開く。
ちっ、ここに来てついにこの質問か。いちいち言い訳するのが面倒なので最後まで聞かれたく無かったが、仕方あるまい。
即座に私は輝子に余計なことを言うなと視線で訴える。あの子は危ない。何を言い出すか分かったもんじゃないからね。コクコクと頷いていたので恐らく理解したはずだ。
「本名もだけど、年齢も顔も分からないわよね」
「背丈は見た所フレデリカちゃんと同じくらいだからそうね……大学生!」
「あら、その理論でいくと夏樹ちゃんと身長が同じ私は高校三年生ってところね!」
「ははっ、それはちょっと無理があるんじゃないですか?」
「き、九歳差、だな……」
川島さんは二十七歳で夏樹は十八歳。
「うぐっ……そ、それでも年よりも若く見えてるんだからいいもーん! ねっ、カクちゃん!」
「アッハイ」
取り敢えず同意しておく。彼女が若く見えるのは本当の事だし、というか二十七歳も十分若いように思えるんだけど、どうなんだろうか。
「実はちょっとした事情で顔と名前は明かせないんです」
「あら、そうなの」
暗に詮索するなと伝える。大人である彼女ら二人であればきっと察してくれるはずだ。
そうしてなんとか誤魔化していると、いつの間にか練習が始まる十分前となっていた。私達は練習部屋へと向かう。はじめは柔軟体操、特に指の運動が主で身体を温める。輝子の場合はボーカル担当なので発声練習も行う。後半で今回演奏する曲──『Who Kills Alien? 〜誰が侵略者を亡き者にするか〜』の最終確認を行う。
未だ寒気に覆われる日本。現場に来る前に事務所のレッスンルームで練習を行っていた私たちだが、身体はすっかり冷え込んでいた。その為、短い時間ながらも念入りに柔軟を行い身体を温める。
やがて柔軟、発声を終えて曲を一度通す。通す前に残っていた芯の様なものも、テンポが早く激しい私たちの曲の前では萎びるしか無かった。心身共に温まった私達は先生からアドバイスを貰い再び演奏を行う。
「ふぅ……暑い。被り物で尚更……」
この前は重量がどうのとか言ってたけど、そういう問題じゃなかった。普通に邪魔だし蒸れる。
「確かに温まってきたな……ていうか深雪」
「なに?」
「被り物、外せばいいだろ?」
「あ」
それもそうだ。此処には事情を知る人間しかいない。
私は被り物を脱ぎ捨て汗を拭う。ゴシゴシ拭くとメイクが剥がれてしまうのが、軽くであれば滲まないのだ。私って汗かきだから思いっきり拭けないのは微妙に辛いんだけど、滲むよかマシ。
「輝子、喉大丈夫?」
「絶好調だぜェェェェェエエ!! ……あ、だ、大丈夫です、はい」
大丈夫そうだ。冬は乾燥してるから喉のケアはしっかり行わないと後で痛い目を見ることになるからね。
「のあさん、頑張りましょう」
「えぇ。頑張る事は素晴らしい事……しかし、過剰に頑張る必要などないわ。これまでやって来たことを、同じ様に行えば良いだけの話。頑張ろうが頑張るまいが結果は変わらない。今まで必死に努力したのであれば、自ずと結果は付いてくる。また逆も然り。私達は──前者よ」
あんたは名言開発機か! あまりにも自信満々で言うもんだからちょっと感動しちゃったよ!
そう、私達は今まで頑張って来たんだ。ここで成功しない道理はない!
……あ、美穂ちゃんからMINEが入ってる。一体なんだろう。
みほ【出番もうすぐだね! リビングのテレビで皆で見てるよ〜!(๑>◡<๑)】
その皆が誰を指すのかは分からないが、応援してくれるのは有難いことである。
みゆき【ありがとう。期待しててね( ˊ̱˂˃ˋ̱ )】
ふっ、私に彼女の様な可愛い絵文字を使う勇気はない。精々なめこ程度が限界だ。
「移動お願いしまーす!」
携帯を片付けているタイミングでノックが四回聞こえたと思ったら顔だけ覗かせたスタッフさんがそう言う。このタイミングで呼ばれたということは後約十五分後には演奏が始まっているのか……。はー、ドキドキしてきたー! おっと、王冠被っとかないと。
そして舞台袖。ここでは次の演奏の準備、つまり私達の出番の準備が行われていた。のあさんが担当するドラムは私のベースや夏樹のギターと違い持ち運びが容易では無い為少し時間がかかるのだ。
現在は別の事務所のアイドルがすぐ其処にあるステージで歌を披露している。普通に会話する分であれば聞こえる事はないが、大声を出すとあちらまで聞こえてしまうので気を付けないと。
「緊張してきた……」
「だ、大丈夫か……?」
「う、うん、流石に初めてじゃないし、少しは慣れたよ」
これは本当。さっきも言ったけど今日までイベントでのライブだったり人前に出てやる仕事も色々やってきたから、ウィンターライブよりかは緊張はしていない。寧ろ程よい高揚感さえ感じる。
「ははっ、深雪ももう立派なアイドルだな!」
「……アイドルっていうか、これただのバンドじゃない?」
「た、確かにアイドル活動とは、い、言い難い」
「あー、言われてみればそうだな」
「私達はアイドルじゃなかった……?」
「ま、まぁ、楽しいからいいだろ?」
否定はしないんだ……。出来ればして欲しかったんだけど。
「……小暮さん」
「え? ……あ、お疲れ様です」
素晴らしいバリトンボイスに声を掛けられたと思ったら武内さんだった。あれ、なんでこんなところにいるんだろ。今日出るとき挨拶に行った時は事務処理で忙しそうにしていたように見えたが……。それにいつもより少し顔が硬いような気がするが、気のせいだろうか。
「お疲れ様です。調子はいかがでしょうか?」
「はい、良い感じだと思います。ところで武内さんはどうして此処に? もしかして私の激励で?」
「……ええ、ちょうど時間が空きましたので」
「わー、ありがとうございます」
嬉しい。さっきの美穂ちゃんのMINEもそうだけど、応援してくれる人がいるってこんなに嬉しいもんなんだね。三人も其々のプロデューサーさんと話してるし。なんだか応援されると尚更頑張ろうって気になってくるから不思議なもんだよね。
「では、そろそろ始まるんで行ってきます」
「……ええ」
そしてメンバー四人で集まり
「よし! 行こうぜ三人共!」
「そう、だな……! ぼ、ボーカル、頑張るよ……!」
「私を……魅せてあげる」
私達はその足をステージへと繰り出した。
☆☆☆
私達の演奏はつつがなく無事に終了した。やはり経験がモノを言う。ウィンターライブでは前日から緊張の連続だったが、今回は緊張より楽しさの方が優っていた。雰囲気に慣れてきたと言うのもあるかもしれない。お陰で周りを見る余裕も生まれてきたし、自然と輝子達と視線も重なるようになってきた。
達成感はウィンターライブの時より感じているかもしれない。単純に考えて練習時間も初回より長いし、何より私たちの頑張りでこの生放送に採用されたのだ。達成感を感じないわけがなかった。
演奏が終わり鳴り止まぬ拍手の中、私はささっと舞台裏へと退散し、三人は席へと歩いていく。私はエキストラなのでここでお別れ。後はこの舞台裏で現場を見学して、終わった後は打ち上げして解散という流れである。のあさんの奢りで焼肉との事だ。のあさん愛してるずら。
私は自身のエレキベースを傍らに置き、次の出演者へと目を向けた。普通のアイドルユニットというものを生でじっくり見る機会が今までなかったので是非とも今後の糧にさせて貰うとしよう。
やがて曲が終わり拍手に包まれると、次の出演者が登場した。次こそ私が現在目標としているうちの1人である高垣楓さんと、川島瑞樹さんの出番だ。アップテンポで心地の良い歌声が鼓膜を響かせる。CDではない、眼で見て耳で聞いて思った感想は、凄いの一言だ。
何が凄いかというとやはり、踊りと歌の両方を同時にしっかりこなせている事だろう。踊りもしくは歌、どちらか片方だけであれば比較的難易度は低いだろうが、両方をやるとなると極端に難易度は跳ね上がってしまう。
比較的激しい動きに連動してしまい歌がスタッカート気味になったり、着座状態や歩きながらでの歌は体勢が安定せず、意外と歌い辛いのだ。アイドルという物はそのキツイ辛いといった感情を決して顔に出さず、ポーカーフェイスを浮かべていなければならない。
二人の場合、ポーカーフェイスかは定かではないが、とても楽しそうに歌い踊っているように見える。少し離れたここからでも分かるが、二人の表情は非常に輝いている。恐らくあの笑みはポーカーフェイスなんかではなく、本心から出ている笑みなのだろう。彼女らのアイドルとしてのレベルの高さが伺える。いつかソロ曲も生で聞いて見たいものである。
曲が終わり、惜しみなく拍手を贈られる彼女ら。私は舞台裏にいるので音を出せない為、心の中で拍手をした。出来る事なら私も観客に交じって光る棒を振りたい。
MCからの質問により二人は一言コメントを添えて、そして席へと向かった。やはり生での見学は色々と勉強になる。特に川島さんの立ち振る舞いは私の理想かもしれない。中々に有名なMCの人の質問にも物怖じせず分かりやすい受け答えを行い、高垣さんがユニークな物言いで笑いをとるとツッコミを入れる。後半はどうやら一連の流れが出来ているらしいが私も思わずクスリと笑ってしまった。
そしてその次こそが二つ目の本命。765プロの如月千早による“arcadia”。萩原雪歩は“inferno”を歌う際に登場する。二曲ともなんどかアワーチューブの試曲で聞いたが、どちらも非常に盛り上がる曲なので聞いていて気持ちが高ぶってくる。
──突如、会場が沸いた。
席の方へと目を向けていた私はパッと上座の方へと視線をやる。その先に見えたのは当然765プロの歌姫──如月千早だ。
悠然と登場した彼女は、上座から一歩一歩踏みしめる様にステージ中央へと歩みを進める。やがて辿り着くと軽く一礼を行う。この時既に会場は時が止まったかの様に静寂な雰囲気に包まれていた。
やがて曲が始まるだろう。今から歌われる曲、“arcadia”にはイントロは存在せず、歌い出しは彼女の裁量に任せられる。一番重要であると言えよう歌い出しの音程の情報は、事前に何一つとして与えられる事はない。合唱や吹奏楽であればピッチパイプ(調子笛)等の楽器で出だしの音を再確認する事も出来るが、恐らくそんなものは存在しないだろう。完全に己の音感、実力、そして本番前の発声練習に左右される。イントロで初めの音を連想する事も出来ず、かといって歌い出しと曲が同時に始まる訳でもない。つまり、失敗してしまうと全くのごまかしが通用しないのだ。況してや会場、そしてテレビの視聴者全てが彼女に注目している状態。そのプレッシャーは当人でない私でも相当なものであろうと容易に想像出来る。カラオケやバーで歌うのとは訳が違う。しかし彼女は──
「──風は天を……」
そんなプレッシャーを物ともせず、詠うように歌う。いや、実際は緊張しているのかもしれない。それを判断する術を私は持ち合わせていないのでなんとも言えないのだが、素人目から見れば事もなげに歌い出したようにしか思えない。あまりにも自然すぎて、まるでその行為が容易な事なのだと錯覚してしまうが、それは彼女がやるからそう思えるだけだ。私も歌に関しては自信があるが彼女と同じ事をやれと言われれば、恐らく無理だ。会場全体が彼女一人に注目している状況下。物音一つせず、何処か厳かな雰囲気さえ感じさせられる空気に耐えれる気がしない。
額から一筋の汗が流れ落ちる。何故彼女はああも容易く歌うことが出来るのだろうか。無論場数が違うと言われれば終わりだが、それだけでは無いはずだ。場数に裏付けされた自信? ただ単に喉の調子が良いとか? 練習の成果? どれも理由として当てはまりはするが、決定的な何か足りない気がする。少し考えてみるが納得出来る理由が見当たらない。一体何なのだろうか。……釈然としないが、今は彼女の歌に集中するとしよう。考える事はいつでも出来る。しかし彼女の生歌はこれ以降いつ聴けるか分からないのだ。
やがて曲が終わり、続いて萩原雪歩とのデュエット曲である“inferno”が始まる。ふむ、やっぱりCDなんかで聞くより生で聞いた方が迫力があるし臨場感も味わえるね。
「……小暮さん」
「……あ、武内さん」
曲が終わったタイミングで武内さんが後ろから声を掛けてきた。
「お疲れ様でした。演奏は、如何でしたか?」
「良い感じだったと思います。……あ、これ演奏前も言いましたね。えぇと……」
「……では、十二月に行われたウィンターライブや其処に至るまでの感想をお聞かせください」
言う内容を考えていると、武内さんは話題を変えてきた。今更ウィンターライブの感想について聞く? とはいえ、ウィンターライブかぁ……もう二ヶ月も前になるんだね。思えばなんだかあっという間だったなぁ……。
「……あ、はい……んーと、ウィンターライブ自体は演奏に夢中で何も覚えてないんですけど、四人でやる練習はとても楽しかったのを覚えてます。一曲通して反省会したり、練習後は皆でご飯食べたりして……まあ、それは今も同じなんですけど。ギター自体は以前からやっていましたが、ベースは初めてだったので少し新鮮だったり……
これまでを振り返りながら思い出すように口に出した。充実……と言えるかは分からないが、少なくとも活動自体は暇ではなかった。
「……そうですか。では、その後については」
「はい、その後にあったラジオ出演や雑誌の取材……は喋ってないですけど……イベントライブやミニライブなんてものにもエキストラの身で出演させて頂いた事は感謝していますし、この経験は今後CPでの活動で絶対に役に立つだろうと思います。あ、勿論楽しくやらせて頂きましたが……デビュー前にこんなアイドルみたいな体験出来る私って、凄く恵まれてますよね?」
アイドルについてはまだまだ素人な私だが、今の私が恵まれている部類であるのは確実だろう。学びたかった事をデビュー前にピンポイントで実践させてくれているのだから。
「……ええ、小暮さんの言う通りです。……そこで一つ重要な連絡なのですが……その」
「……? どうかしましたか?」
言い淀む武内さん。演奏前から少し様子がおかしかったが、一体何があったのだろうか。
「……実は、第四芸能課──つまり、星さんら三人が所属する部署から正式にうちの部署にきてデビューしないか、という話を頂きまして……」
「……はい?」
輝子達って第四芸能課だったのか……って違う! え? なに? もしかして部署移動? まだ正式に働いてない段階で?
「そんな軽く決めてもいい事なんですか?」
「そうなった場合四月
彼は心なしか少し悔しそうな表情を見せながら私に告げる。そこで私は彼が何を危惧してるのか察した。この人、ハンバーグの件といい、意外と可愛いところがあるよね。
「そうなんですか……事務処理手伝いましょうか? ExcelやWordくらいなら使いこなせますよ? コピーだって場所教えてくださればやりますし」
「そ、それは有難くはありますが……い、いえ、そうではなくて──」
「……ふふ、安心してください。武内さん、私はCPの小暮深雪です。まだデビューすらしてないのに部署移動なんて考えられないですよ。これからも宜しくお願い致します」
私はぺこりと頭を下げた。すると武内さんは安心したように少し顔を緩ませながら
「……ええ、此方こそ、宜しくお願い致します」
と、頭を下げた。
確かに今の提案は魅力的な話だった。彼女らとは馬が合うし今以上に仕事でのコミュニケーションも取りやすくなるだろう。
しかし、飽くまで私はCPの
ともあれ、CPが始動するまでやる事は変わらない。CPでのレッスン然り、ユニットの新曲レッスン然り、資格勉強然り。やる事は多いが前世での仕事の事務処理や現場作業と比べればそう大差ないのでやる気を出せばなんでもない。今まで通り、しっかり頑張って行く所存である。
……あ、学校もしっかり、ね?