12月22日 月曜日
先週と同じように学校が終われば即座に帰途につき、事務所にて四人でレッスンを行っていた。空調が効いているとはいえ現在の季節は冬。室内では先程まで少し肌寒い思いをしていた。しかし、演奏を重ねるにつれて体が暖まり、現在ではしっとりと汗をかいている感覚さえ覚える。やはりタオルは春夏秋冬いつ
しかし、そんな私はまだマシな方なのだ。エキストラ出演である私は普通にやっていれば問題はないのだが、夏樹、輝子の二人はギターパフォーマンスというものもやらなければならないのだ。私の見せ場もあるといえばあるのだがスポットライトに当たる時間は二人に比べれば無いに等しい。それに二人には掛け合いというのも存在するので更に難易度が高い。その為、休憩時間には二人とも汗ダラダラなのだ。
え、のあさん? のあさんは何時でも冷静に大胆に、そして正確にビート刻んでいるよ。ドラマーであるのあさんも相当疲れるはずなのに汗一つ掻いていないのは、やはり人間を超越しているからだろうか。魂を奪われたアンドロイドと言われる由来がわかったような気がする。
私は部屋の隅に置かれているタオルとスタミナドリンクを疲れた3人に手渡す。
「感謝するわ」
「おっ、サンキューな!」
「あ、ありがとう」
ふふふ、ええんやで。
ごくごくと勢いよくスタドリを飲み干した夏樹は流した汗を拭うとそれにしても、と前置きを入れ話し始めた。
「最初に比べたら成長したよな、アタシら」
「そうね、初めは個々が目立ち過ぎていた。けれど練習を積み重ねた今、ばらばらだった周波数がほぼ完全に同期しているのを感じるわ」
夏樹の言葉にのあさんが同意を示すと、その後に輝子が続いた。
「ふひ、特に深雪さんの成長は著しい」
「私?」
私は口につけようとしていたスタドリを置き、輝子の方へと向き直った。
「あっ、それはアタシも思ったぜ。日に日にクォリティが上がるんだよな」
「そうね、深雪の成長は眼を見張るものがあるわ」
お、おう。なんだなんだみんなして急に私をべた褒めして……。なんだか照れるな。
「まあ、私の場合は初心者というより、長い事離れていたってだけだから。……ベースは初めてだけど」
そんな内心はおくびにも出さず私は冷静に答える。
「それに本番までの期間も短かったから、早めに細かい調整に入れるよう気合入れた」
「おお、深雪さんからそんな熱い言葉を聞くとは、な」
「……初めてのステージだし。これでも人並みには緊張している」
私は首にかけたタオルをギュッと握り締める。当たり前だ、緊張しないはずが無いのだ。今度行われるウィンターライブのような大舞台に立った経験なんて前世今世合わせても皆無なのだ。
期日は既に一週間どころか二日を切っている。明日は簡単な立ち位置確認とリハーサルがあり、二日分が一日掛けて行われる。そして明後日のクリスマスイブが本番だ。今回のウィンターライブは二日に渡って開催され、私たちはその初日が出番なのである。
この前衣装合わせなんてものもやったのだが、グループのメンバーがメンバーなだけに非常にロックな仕上がりであった。少し露出が多いのが気になったが、どうせ顔出しNGなので関係ないかと開き直ったのは記憶に新しい。
……本番、どんな感じになるんだろう。ちゃんと演奏出来るかな。
「おいおい、気持ちは分かるけどよ、今から緊張しても仕方ないぜ?」
夏樹は私の右手を指差し、苦笑しながらそう言う。それによって初めて右手が震えていることに気が付いた。私は誤魔化すように気丈に振る舞った。
「これはただの武者震い」
「おっ、言うじゃねーか!」
私の肩をポンポン、と叩くと夏樹は悪戯っこのような笑みを浮かべながら私のタオルを奪い取りそのまま顔へと近付けた。
「わぷっ」
「ははっ、ほらほら!」
くしゃくしゃと少し乱暴な手付きで私の顔がタオルによって蹂躙される。メイクが崩れるのでやめて欲しい、そう思ったがよく考えると崩れるほどのメイクを施していなかったので、あまり関係なかった。それにどうせレッスンを終えればシャワーを浴びる事になるので尚更である。私はされるがままの状態で放置した。やがて満足したのか夏樹はタオルを私の首にかけ直した。全く、いきなりなんだというのだ。私は恨めしい顔を夏樹に向けながら乱れた髪を手櫛で元に戻す。
「ま、今はそうやって肩の力抜いとけよ?」
そこで私は察した。夏樹は私の緊張を和らげてくれたのだ。
「……ありがと」
「何のことだか」
夏樹は知らん顔をしながら激しい練習によって崩れていたリーゼントを元に戻し始めた。我ながらいい友人を持ったものだ。
出来上がったのか夏樹は鏡で頭を確認し、良し! と満足気な声を上げ、笑みを浮かべた。
そんな様子を見ながら私はスタドリの消費に勤しんでいた。この例えようのない味を醸し出すスタドリは練習している時に事務員の千川ちひろさんがいつも柔和な笑みを浮かべながら配布してくれるのだ。ありがたい事である。
ちなみにスタドリ自体はなんとも度し難い味ではあるがそこそこ美味しいし、心なしか体力も回復しているような錯覚さえ覚える。あれ、もしかしてドーピング作用あるのこれ。えっ、ヤバくないですか?
と、どうでもいい事を考えているうちにスタドリを飲み干してしまったので、後で捨てようと部屋の隅に置いた。忘れない様にしなければ。
その後しばらく無言の時間が続き、各々が身体を休めていた。5分くらい経過すると座り込んでいた夏樹が立ち上がり私達へと声を掛ける。
「さて、と。そろそろ再開するとしようぜ」
その声によって私達は各々の持ち場へと立ち直り、楽器を手に取る。
その瞬間、四人の雰囲気が変化した。真剣な表情を浮かべながらも自分がアイドルだと言う事を自覚し、それぞれ自分のキャラに合った
「ヒャッハアアアアアアアアアアア!!! お前らァ、今日は──」
ただこの喧しい声にはいつまで経っても慣れる気がしない。
☆☆☆
12月23日火曜日
次の日、私と輝子は揃ってパシフィコ横浜の国立大ホールという場所へと赴いていた。理由は簡単で、ここでこれからリハーサル、そして明日は本番が行われるからである。
「こ、こんな広いとこでのライブ、私初めてだ」
隣に座っている輝子は思わず呆然としていた。その気持ちはよく分かる。
現在の時刻は10時。リハは機材の関係で11時半予定の為、少し時間が空いていた。なので私達四人はどうせ暇だからと観客席に座り、他の出演者達のリハーサルを眺めていた。現場慣れしているのか作業員の方々もアイドル達も手際が良く感じる。
「ちゃ、ちゃんと声届くかな?」
「音響しっかりしてるし、他の人のリハを見る限りは大丈夫だと思う」
来る前にも簡単にホール内の写真を調べてきたのだが、やはり非常に音響が良さそうな造りをしている。それに相当広い。少なくとも席数は2300席近くある福岡サンパレスの2倍以上はあるだろうと予測される。そう思いながら会場のパンフレットを見てみると、なんと5000席も存在するらしい。本当に2倍以上であった。私は思わず目を見開いたが、今をときめく346アイドル達にはうってつけのライブ会場だろう。聞いたところチケットは二日分とも即日完売だったそうだ。改めて346アイドルって凄いと感じた。
私達の座っている席はステージからまあまあ近い位置の真ん中。しっかり顔が見えるくらいの位置である。ちなみに同僚にもなるべく明日の事をバラしたくなかった私はニット帽とサングラスというささやかな抵抗を試みていた。髪は一つ結びにしてニット帽に収納して、見えないようにしている。もちろん既に3人には口止め済みである。私のことは“CB/DS”と紹介するように言っている。cool beauty / deep snow である。どうせ私の出番は今回限りだと思うのではっちゃけてみた。ネーミングセンスについて突っ込むのは野暮という奴だ。本番のメイクについても
現在私はマスクもしているのだが、これは変装とかそういう意味はなく、風邪の予防と喉の乾燥を防いでいるだけに過ぎない。特に会場は人が多いので何処から菌が飛んで来るか分かったものではないのだ。寧ろ普通に考えて菌が飛んでいないわけがない。本番、しかも初ライブの日に風邪を拗らせるなんてバカ丸出しな事は絶対にしなくない。もちろん輝子にもきちんとマスクの重要性を説いて着用させてある。
クラシックの歌手なんかは特に細心に気を配っており、本番一週間前くらいからは酒とタバコを禁止し、常にのど飴を舐めたり、本当に凄い人は自分が歩く場所をシュッシュスプレーで濡らして乾燥を防いでいたりする。ホテルで寝る際も加湿器が無ければバスタブにお湯を張って寝るという事も珍しいことではない。しかし、この徹底振りは凄い事ではなく当たり前のことなのだ。テニスプレイヤーの商売道具がラケットであるようにクラシック歌手の商売道具は喉。無くてはならないものなのである。しかも喉はラケットと違い、換えという物が効かない一品物。痛めて声が出なくなればそこで試合は終了、どころか開始すら出来ないのだ。そして「次頑張ればいいや」で終わるほどこの世界は甘っちょろい物では無いのだ。
歌の上手い下手いは場数と練習をこなせばどうともなる事かもしれないが、今回の場合は視点が違う。風邪、喉の痛みなどの理由で本番に失敗すればまず関係者からの信用を失う。信用を失えばどうなるか。関係者から関係者へと伝わり、最終的には「あの人は肝心な時に風邪を引くから次もそうなるかもしれない。あの人に仕事を頼むのはやめておこう」となるのだ。仕事を頼まれないという事はお金も入ってこない。お金が入ってこないという事は生活が出来ない……というルートへとなってしまうわけだ。これはどんな仕事でも共通する事ではあるが、ここまで言えばあの徹底ぶりも納得出来るはずだ。こういったものは全部自己責任。風邪を引いたから仕方ないでは済まされないのだ。
近年、喉痛い筈なのにライブ頑張ってて凄いカッコいい、などというファンのコメントをSNSでよく見かけるが、私には唯の甘えにしか聞こえない。どんな理由があろうとも悪いのは全て歌う本人であり、そこに褒められる要素なんてものは何一つとして存在しない。ツアーで喉を酷使するから仕方ない? 甘えるな。ちゃんと喉のケアをしろ。自分の力量を弁えろ。そして喉を酷使するような歌い方をするな。それに今喉が痛いけどライブ頑張るなんて虫酸が走るような事を平気で美談みたいに語る本人にもムカッ腹が立つ。意識が足りないというかなんというか……見ている人に申し訳ないという気持ちは湧き上がってこないのだろうか。それが不思議でならない。そんな事を言う輩というのは “見せてやっている” ではなく “見に来てくれている” という事を綺麗さっぱり忘れているのだろう。ファンがいなければ所詮生きていけない世界だというのに。
これからリハーサルだというのに、思い出しただけでも腹立たしい。なまじ似たような事に関わったことがある所為か余計にそう思えて来る。
「み、深雪さん……?」
「……」
いけない。少し情緒不安定になっていた。忌まわしきあの日が近付いてきたからだろうか。あの日が近付くとこういう事が偶におきるのだが、まだ日数的には余裕があるはずなのである。つまり先程のは私が明日行われる本番に対して緊張を抱いている、という事に他ならない。今はまだステージにすら立っていないので自覚はそこまで無いのだが、いざとなっても地に足を付けることが出来るのかという不安は既に感じていた。恐らくこの微妙な心の変化が先程のような不安定さを表に出してしまったのだろう。普段の私であればあそこまでは行かないと思う。私は少し短気なところがあるので断定は出来ないが恐らくそうだ。
私は心を落ち着けるために深呼吸を行い、お茶で喉を潤す。ふぅ、もう大丈夫だろう。
「……大丈夫」
「……本当?」
落ち着いたと思っていたのだが輝子は未だ心配そうに形の良い眉を八の字にして丸い瞳を此方に向けていた。今の私はニット帽にサングラス、おまけのマスク装備で完全なる不審者のような格好だが、輝子は私の変化が分かるようだ。
……ダメだな私。いくら輝子がアイドルとして先輩とはいえ、こんなに幼い子に心配されるとは。情けない。前世ではもっと上手く立ち回れていたような気がするが……心が体と同じく年相応になってきているのか? だとしたらこの事についても納得出来る。現在の私の年齢から考えると思春期真っ盛り。まだ心が安定しきれず些細な事でも大きく揺れてしまう心理的に不安定な時期である。本当にそれが関係しているのかどうかは定かではないが可能性としてはなくもない。こういう時は自分を客観的に見る事が大切だと母さんが口酸っぱく言っていた。自分を客観的に見れば感情が抑制されて冷静になれる、との事だ。母さんは私の短気な部分を知っていたのだろう。ありがたい事である。会話がない時の私は脳内で無駄に思考を張り巡らせているのでそういう考察は得意だ。
「うん、本当にもう大丈夫」
「そ、そうか」
とはいえ、流石に視野を広げすぎた感が否めないので思春期云々についてはひとまず置いておこう。それに武内さんから激励の言葉を貰えば多少は良くなるかもしれない。いやー、あのどこまでも響き渡る低音バリトンボイスは男が聞いても惚れると思う。私はあの声大好きだ。
「深雪さん……暑くないのか?」
「……少し」
気を取り直して、輝子の言う通りこのホール内、非常に暖房が効いているのだ。その為殆どの人が来るときまで着ていた上着をその手に持つか、座席にかけていた。私も上着は脱いでいるのだが、やはり帽子を被っている所為もあり、頭が暑く感じる。それに他に帽子を被っている人がいないので身バレしないように被っているのが逆に目立ってしまうのだ。とはいえ帽子を取っても結局は目立ってしまうのでどっこいどっこいなのである。
「輝子、あの人は誰?」
「あの人は……片桐早苗さんだね。ほら、『Can't stop!!』歌ってる人だよ」
「ああ、コール楽しい奴だよね」
「うん」
しばらくリハーサルに出て来るアイドル達の話をしていると夏樹が到着した。現在の時刻は11時15分。リハーサルというものは大体の人が時間いっぱいやる物なので丁度いいといえば丁度いい時間である。
「よう、二人共早いんだな」
「……うん、早めに来てのんびりしようと思って、ね?」
そう輝子に確認を取ると頷きの肯定が返ってきた。
「そうか、アタシはバイクで来たんだけど、失敗だったな。道の混み具合が凄くてギリギリになっちまったよ」
「多分明日明後日のライブの為に地方から来た人なんかじゃない? 場所確認とか観光とか」
「ははっ、それは文句は言えねーな。二人は電車だろ?」
「うん、他に交通手段ないしね」
「まあ寮だからな」
当たり前か、と夏樹は周りに配慮して小さく笑う。
「……そういえば、のあさん知らない?」
「ふひ……確かにもう集まってもいい頃」
「のあさんだったら外に出たとこのベンチで隣に座ってた猫を見つめてたぜ。まっ、流石に遅刻はしないだろうよ」
……あの人自由だなぁ。まあ、これで全員揃っていることが判明した訳だ。遅刻の心配はないだろう。
夏樹は私の右側の席へと腰をかけると、その手に持っていた飲み物を地面へと置いた。その様子を見て急に喉が渇いた私はカバンの中に入れていたお茶をおもむろに取り出し、一口、二口と喉を鳴らしていく。戻したところで私はマスクをしていない夏樹へとマスクを取り出す。お節介かもしれないが、そう思われても別に構わない。
「はい、夏樹」
「ん? ……ああ、確かに人多いしな。サンキュー。……ところで今日の深雪って変装してるみたいだよな」
笑う、というよりニヤリといった表現が正しいであろう表情を此方へと向けた。いや、まあ、みたい、ではなく本当に変装してるんだけどね。
「おっ、よく見たらそれR○y-Bunのティアドロップ型アビエイターじゃん! 洒落やがってこのー」
「ふふ、誕生日に買ってもらったんだ」
「アタシも欲しいんだけど、別に詳しい訳じゃねーんだよな。今度教えてくれよ」
「いいよ」
「わ、私も、変装用に……!」
その後も話を続けていると突然ステージの上座からのあさんが堂々と登場した。……ん?
「おい、あれってのあさんじゃないか?」
「う、うん……」
関係者がざわざわし始めた。対するのあさんは表情では分かりにくいが立ち惚けているように見える。
現在リハーサルをしているアイドルのプロデューサーらしき人がのあさんへと駆け寄る。ここからでは聞こえないが何やらのあさんに事情を説明しているように見える。するとのあさんは神妙な顔付きになると関係者の方々へとごめんなさいをして逃げるようにステージから降りた。
その後すぐ私達の存在に気付いたのか何故か少し怯えを見せながら此方へと近付いてくる。それを見ている私達は登場が少し予想外で言葉もなかった。
「……」
「……」
「……」
「……」
私達の前へと足を止めるとしばらく無言の時間が続いた。此方としても彼女の反応を伺っている状態なので先手に出る事は出来ない。
「……」
「……」
「……」
「…………マ、待たせたわね」
そしてリハーサルの時間がやってきた。