・・・一体何を書いているんだろう。
私にとっての始まりは、滝先生との何気ない会話だった。
「黄前さん?どうしましたこんな時間に」
「すいません…。また携帯を……」
関西大会への出場が決まり、いつも以上に吹奏楽の練習に熱が入ってしまった私こと黄前久美子は、またも携帯電話を音楽室に忘れてしまった事に気付いた。
その時は、自宅で疲れた身体を休ませるリラックスタイム中だったのだが、以前にも携帯電話を忘れて顧問の滝先生に迷惑をかけてしまった事があり、私は急いで母校である北宇治高校へ再登校しに行き、職員室の扉をノックしたのだった。
「またですか・・・。と言いたい所ですが、私もよく忘れ物をしたり遅刻したりする事があるので、人のことは言えません。次からは気を付けて下さいね?黄前さん」
「…はい。すいません先生…。もしかして、これが元で教頭先生にまた何か言われたりしますか…?」
教頭先生が滝先生に対して、生徒を長く居残りさせるな等と小言を言っている事は以前聞いていた。
北宇治高校吹奏楽部は顧問の滝昇先生の影響で良くも悪くも変わりはじめている。今のところ良い結果を出してきているのだから、言うなれば我が部は成長しているといえるだろう。
「いえいえ。黄前さんは気にしなくていいんですよ。
・・・あんな口だけは達者なトーシロがよく教頭になれたものです。まったくお笑いだ」
―――――。
え。
いつもと違う口調と声質の滝先生を、私は驚愕の目で見つめた。
そこには、しまったという風な顔をした先生がこちらを見つめていた。
「・・・申し訳ありません。生徒の前で、失言でした。・・・・この事はあまり言いふらさないで下さいね?」
「はい」
その帰宅途中、私は急いで携帯電話をコールした。同じ吹部で友達の高坂麗奈に先程の滝先生の事を話したかったからだ。
『何ですって?』
「先生の知られざる一面だよ……。声のトーンすら野太くなってたし…」
現時刻は夜。といっても時期は夏なので、夜風がほどよく心地良い。
ずっとこの風に当たっていたいような気さえする。
もしも麗奈がここに居たなら、彼女の黒くて長い髪も、サラサラと美しく風になびいていただろう。
『久美子』
「何?…もしかして幻滅した?滝先生に」
『ありだわ』
「何が」
『そんな口調の滝先生がよ!』
麗奈はブレないなー。あやかりたいよ。
その後、滝先生がどんなにすごいかかっこいいか等々を聞かされ、私は疲れていた身体が更にグロッキーになってしまっていた。
「ただいまー…。自業自得だけどもう疲れたー。おかーさーん、お風呂入っても良いー?」
『口だけは達者なトーシロばかりよく揃えたもんですなあ・・・。まったくお笑いだ。メイトリックスがいれば、奴も笑うでしょう』
TVから音声が聞こえてくる。・・・気のせいだろうか。これと同じ台詞をついさっき聞いたことがあるような。
「おかえり久美子。お姉ちゃん帰ってるわよ?」
「おかえり、久美子。―――ただのカカシですな。俺達なら瞬きする間に、皆殺しに出来る。忘れない事だ」
TVの音声と全く同じ台詞を言いながら、右手の指をそれはもう綺麗な音を響かせながらパチン!と鳴らす自分の姉。
響け!ユビパッチン。
―――お姉ちゃん……。大学生になって家を出て行ってしまったものだから頭がイカれちゃったんだ…。
「何でお姉ちゃんがいるの」
「自分の家だもーん。帰ってきたっていいでしょー?それより久美子も見ようよ、映画」
「映画?」
「疲れてるんでしょ?疲れを吹き飛ばすにはこの映画が一番よ!」
わざわざ買ったのだろうか?DVDのパッケージを手に掲げながら、これ見よがしに見せ付けてくる姉。
視線を動かしてみると、全身にペイントを施し眼光鋭くこちらを睨む、筋肉モリモリマッチョマンが私には見えた。
「コマンドー?」
◆
「ユーフォニアムはドイツで生まれました。オーストリアの発明品じゃありません。ヴァイマルのオリジナルです。
しばしマイナーと言われてましたが、今や巻き返しの時です」
「銀色のユーフォが好きです」
「ユーフォがお好き?結構。ではますます好きになりますよ、さぁどうぞ!私、田中あすかのユーフォニアムです!」
時刻は早朝。空き教室でマイ楽器であるユーフォニアムの演奏をしていた田中あすかは、ユーフォニアムの説明をして欲しいと、ある人物に頼まれていた。
「かっこいいでしょう?…んああ仰らないで!!4番ピストンは下!でもそんなの見た目だけで、夏は響くし春も秋も冬も時期なんて関係なしにいつも良い音色を叩き出します!良い事しかない!!
銀メッキもたっぷり光ってますよ。この光沢がどんな奴でも虜にする。どうぞ音を聞いてみて下さい!!」
美しい旋律が、空き教室に木霊する。
「良い音でしょう?余裕の音だ。金管が違いますよ」
「へ~、すごい…。・・・でも一番気に入ってるのは、」
「何です?」
―――相手と、目と目が会う。
「値段だ」
ガタガタッと教室の扉が開いたのも束の間、あすかのユーフォニアムは乱入してきた何者かに取られてしまった。
「ああッ!!!待って!!!それを持ってっちゃ駄目よ!!!待て止まれ!!!」
プス。
「う、にゃあああああああぁ……」
何かに刺され、あすかは意識が無くなった。死んでんじゃない?生きてるよ。
「麻酔針よ。人質確保」
笑みを浮かべる人物。事は予定通りに運んでいる。
「アジズ」
「なあに?」
「次の標的が来たわ」
「では静かに素早く、実行しましょう」
暗躍は、誰にも気付かれないからこそ暗躍という。
◇
徹夜をした。
昨夜、お姉ちゃんと「コマンドー」という映画を見た私は、その弾ける筋肉と飛び散る汗に魅了された。
聞けば、シュワ映画と言われるジャンルだという。せっかくなので私は幼少の時以来していないだろう正座での頼み込みを、姉にしていた。
『お姉ちゃん。君の持っているレッドブルとコラテラルダメージと、ラストアクションヒーローが見たい』
『他のも全部見せろって言わねえのかい?』
いい夜なので、シュワ映画を全部見た。そのおかげか、苦手な姉と距離が近くなった気がする。昔みたいに。…なんか嬉しい。
「あれ?今日は部活休み?」
「あ、久美子おはよう。そうなんだってー。何でも滝先生も軍曹先生もあすか先輩も香織先輩も今日休みなんだって。ちぇー…!チューバ吹きたかったのにー!」
朝、登校して各部活動の予定が書いてある職員室前の黒板を見てみると、本日吹奏楽部は休みと書いてあった。
「まあまあ、葉月ちゃん。……でもおかしいですね。みどりが朝錬に来た時は先輩達いたのに…」
そう話すのは我が吹奏楽部唯一のコントラバス奏者、川島緑輝ちゃん。名前はサファイアと読むが、本人はみどりと呼んでほしいそうなので私はそうしている。
そしてみどりちゃんに葉月と呼ばれたのは、チューバ奏者の加藤葉月ちゃんだ。よほど悔しかったのか、うずくまっている姿は全くお笑いだ。
「気分が悪くなって早退でもしたんじゃないの?」
「それが変なんです。何故か先輩方の外靴は下駄箱にあるまま。移動した後が無いんです。…理屈に合いませんよ」
「どこで先輩の下駄箱の場所を習ったの?」
「この間の放課後です。あすか先輩に、後輩の必修科目だって言われました」
「…しかし、だとすると確かに変だね」
「小笠原部長に聞いてみよっか?」
「久美子ちゃん!!」
声がした方に目を向けると、茶髪のポニーテールが見えた。
綺麗に仕上げてあるポニーテールを上下に揺らし、息も絶え絶えにこちらに走ってきた人物は、2年の中川夏紀先輩。
つり目にもジト目にも見えるその瞳。それでいて下卑た光など宿さない綺麗な眼光。
控えめに言って天使だろう。
「あ、見てよ。先輩来襲だ。大型機11時の方向。小型機だと思うって?いいやあれは絶対着やせするタイプだね、間違いない。脱いだらもっと凄い」
「貴女何言ってるんですか葉月ちゃん!!先輩はあのままの大きさだからいいんです!」
「なんでもかんでも胸大きさおっぱい!!!みんな華の女子高生として恥ずかしくないの!?」
「…おはよう。元気そうだね、三人とも」
聞かなかったことにしてくれた。やっぱり、先輩はいい人ですね。
「と。そんな事より、今吹奏楽部に問題が起こってる。…いんや、正確には北宇治の部活動全体が」
「どういうことです?」
葉月ちゃんがそう言うと、右左と視線を動かし、内緒話だと言わんばかりに屈みこみながらこちらに顔を近づけてくる夏紀先輩。
「…部の代表者達がこぞって消えてるんだよ。あの黒板、おかしいと思わなかった?」
「おかしいって……」
再度、私は部の予定が書いてある黒板を見る。
野球部、休み。サッカー部、休み。剣道部、休み。バスケ部、休み。水泳部、休み。etc
「あ!ほとんどの部活が休みですね」
「でしょ?しかもこの熱い時期に水泳部すら休みってのはおかしいよ」
「ただの偶然じゃあ…?」
「この休みの部。調べたけど顧問の先生まで休んでるって話みたい」
―――それともう一つ。
夏紀先輩はその細長い人差し指を、まっすぐ私達の前に一本立てた。
「その先生達の登校した姿を見たって人が多数いる。つまり目撃証言があるって事。なのに今日は休みときてる。……こいつは何か裏がある」
奇妙な感覚が、背筋を這う。まるで、
「―――かき消す様に姿を消している。一人、また一人と」
「ハンターでもいるんですか?ここ」
どうやら、今日という日は私の人生で最悪になるだろう。
そんな予感がした。
◇
北宇治高校吹奏楽部部長、3年小笠原晴香は気付いてしまっていた。この騒動の元凶に。
部の代表者を教師も含めて消す。すると何が起きるか?その先は?結末は?
順を追ってシミュレートしていけば、自ずと答えは見えてくる。
今や失踪事件の事は学校中に広がっている。これこそが元凶の求めたものだ。
あの子達は、この学校に一種の極限状態を作ろうとしている。
「音楽室からサックスをとってこないと」
サックスとは、自身の得意楽器のバリトンサックスの事である。有事の際のみ使用できる特注品を、晴香は音楽室の隠し部屋で手に取った。
「こりゃ一人でやるしかねえぞ、晴香」
気合とともに、隠し部屋の扉を開ける。自分が何とかしなくてはいけない。今回はそういう類のもの。
だから、
「―――とっくに逃げたかと思ってた。部長」
「とんでもない、待ってたのよ」
音楽室に集まっていた、無数の黒ずくめの人影達に晴香は言葉と共にサックスを突きつけた。
「香織達はどこ?」
「まあ落ち着いて。そんなのを突きつけられては、ビビッて話も出来やしないわ」
「・・・・・」
―――だが下ろさない。
「部員達は無事よ、部長。少なくとも今のところは。これからどうなるかは貴女次第ってわけ。
無事取り戻したければ、我々真紅のサキソフォンに協力して?」
―――OK?
「オッケイ!!!」
ズドンッ!
と晴香は音を響かせた。続けて連続で吹き続ける。
―――ここから消えろクソッタレ!!!!!テロリスト共めえッ!!!チクショーおおおお!!!!
手に持つバリトンサックスは、音圧を飛ばしている。人間は身体の約60%が水。度を越えた振動に耐え切れるものではない。
―――楽器とは、職人が手塩にかけて創る芸術品。時代が進み、名器と称されるようにもなれば、その値は億を越える額になる。
伝統ある北宇治高校吹奏楽部はそんな後の世の名器達を守る為、吹けば人間くらい余裕で失神させられる極大の音圧を出す楽器を有していた。
歴代の部長にのみ口伝でその存在は伝えられるが、しかし、それを吹けるかどうかはその代の部長の質による。
つまり今、その凄まじい音を世に出しているのは、晴香の恐るべき肺活量。
いい音でしょう?余裕の音だ。小笠原晴香は、馬力が違いますよ。
「はあ、はあ……!怖いかクソッタレ!当然よ。現吹奏楽部部長の私に敵うもんか…!!」
―――何よこれ。こんな安物をこの私に使わせるだなんて!
晴香は気合を叫び、悪態をついた。音楽は音を楽しむと書く。こんなのは音楽じゃない。史上最低の出来損ないだ。
しかし、確かな手応えは感じていた。こいつを喰らって失神せず生きていられる動物はいないはずだ。ましてやこの距離、音楽室でだ。
今日か明日には、このテロリストどもは土下座してるか逮捕される。シャンパン(ノンアルコール)でお祝いだ。
「―――試してみる?私だって吹奏楽部よ」
「嘘、でしょ…!?」
そこには、仁王立ちをしている敵の姿。
かわした? いいや。 当たらなかった? いいや。
かわさなかったし命中した。
ただ、敵の筋肉の鎧を破れなかった。
「これは音を出してるのよ!?……筋肉式防音チョッキとでも言うの!?」
「フッ――――!」
チクリ。
細い首筋に、違和感。
晴香が慌てて首に手をやると、そこには針のようなものが。
「う」
「麻酔針よ。本物の針使いたかったわ」
バタリと倒れ、意識が無くなる。
―――駄目だ。部長の私が何とかしなくちゃいけないのに。でも、もう意識が………!
「何の音ですか!?……一体これは?」
消えゆく意識の中、かろうじて部屋に入って来た人の姿を見れた。
―――ごめんなさい、黄前さん。
「彼女を止めて…。お願い…」
◇
音楽が響きわたる。金管木管弦楽器、高音、低音、パーカッション。それは一種のBGMのように学校の放課後を彩っていた。
練習しているのだろう、全く同じ音色。失敗する音色。上手い音色。吹奏楽部のある学校は、さながらオーケストラの会場だろうか。
北宇治高校吹奏楽部が京都府大会に向けて猛練習を重ねる最中、顧問の滝昇はある人物と面談を行っていた。
『―――最近、元気がないと担任の先生から伺っています。調子はどうですか?』
『問題ありません』
面談の場所は職員室。滝の前には、居住まいをこれでもかという位に正した人物が椅子に座っていた。
両手は軽く握り、膝の上に置いているが、小刻みに震えていた。何かを必死に抑えている、ねじ伏せている、そんな風な姿勢。
『問題なしですか・・・。申し訳ありませんが、私の目にはそうは見えません。―――ちゃんと睡眠はとっていますか?』
『はい』
その人物の目元には、黒いくまが。そして余裕が無く充血した目付き。
滝はそう見て取ると、ある物を取り出した。
『なら結構です。―――さて、わざわざ呼び出したのは他でもありません。教師がこんな事をするのはどうかとは思いますが、退部したとはいえ、貴女が私の生徒である事に変わりはありません。気分転換したいと思ったら、これを是非見て下さい』
『……これは?』
『私の私物の映画DVDです。アクション映画というジャンルですね』
『何故既に吹奏楽部を辞めた私に、こんな気遣いをなさるんです?』
『どこかの馬鹿教師が貴女の事を心配しているんですよ』
手渡されたDVDには、「コマンドー」と書かれてあった。
『そのDVDでも見てリラックスして下さい、斎藤さん』
◇
「葵ちゃん!?部を辞めたはずじゃ……?」
「残念だったわね、まだ在校生よ」
かぶっていた黒い頭巾を取り、私の目の前に顔を見せたのは幼馴染の斎藤葵ちゃんだった。
我が部の目標が全国大会出場というモノになった際、賛成多数の中この人だけは反対していた。そして退部。
勉学に集中する。それが部と音楽を辞めた理由と、以前私は聞いた。
「貴女達が楽しく楽器を吹いてる間じゅう、ずっと復讐を想い続けてきた。ようやくその日がやって来たの」
「じゃあ、まわりのこの黒い人たちは……!」
「皆、意見の不一致で去年吹奏楽部を辞めざるをえなかった人達よ。・・・・長かったわ」
筒を取り出し、私に吹き矢を飛ばす葵ちゃん。
「きゃ……っ」
「あぶない、久美子ちゃん!!!」
咄嗟の出来事だった。押し倒されていなかったら、私は多分気絶している小笠原部長と同じ目にあっていただろう。
「ありがとうございます…。夏紀先輩」
「礼はいいから、早く立って!逃げるよ!!!」
「―――中川さん。去年の吹奏楽部を知ってる貴女が、私の邪魔をするの?」
「……葵先輩」
去年、二人の間に何かあったのだろうか。夏紀先輩の目には、言葉では言い表せない感情の渦が溜まっていた。
夏紀先輩に手を掴まれ、逃げ出す私達。
―――必ず、貴女の前に戻ってくるよ。葵ちゃん。
中編に続く。