インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話の視点は束さん、サチ、キリト、ユイの順。ぶっちゃけユイ以外はかなり少ない。

 今話は恐らく鬼神リー姉無双回以来の不満があると思われる。解説は後書きで一応します。



 でも前提として覚えておいて欲しい。うちのキリトは『鏡』の性質を持つ反面、純粋な部分がある故に非常に『甘い』性格でもあるのだと。



 ――――つまり殺意を向けて来た相手だろうと、今後ずっと殺意を返すとは限らない。お話には落としどころも必要なのだ。

 そんな今話は約一万九千。

 ではどうぞ。




第八十六章 ~圧倒:黒の剣士対黒猫の魔槍~

 

 

「人間の脳は全部で四つの区画に分けられる。厳密に言えばもっと多いんだけど、大雑把に纏めれば四つある」

 

「後頭葉は主に視覚を司る。小脳の運動調節なんかもここに含まれてる」

 

「側頭葉は左右の脳で異なるけど、一般的に右は空間把握、左は言語の機能を司る」

 

「頭頂葉は感覚野があり、更に運動の調節や体の各位から送られて来た情報の統合をする」

 

「そして前頭葉は、運動野と運動連合野を併せ持ち――――人の感情抑制をも司る」

 

 

 

「ところで……――――ねぇ、人の脳の機能は、何を以てして『活動している』と言われているか、知ってる?」

 

 

 

「答えは簡単、『脳波』さ。極論脳波が走れば『活動している』、走っていなければ『死滅している』と言われる。生きている限り脳は活動しているんだ」

 

「つまり『脳波を弄る』技術が確立されてしまえば、人の筋肉を勝手に動かしたり、感覚を誤認させたり――――感情の箍を外させる事も出来る。つまり人を『本能』のみで動かす事になる」

 

「これはアルツハイマー型認知症で見られる症状だ。全体的に脳が委縮するその認知症は、人によってその進行度や委縮する部位の速さ遅さに差が生まれて来る訳だけど、前頭葉が委縮すれば人はより本能的な行動を取る。TPOに応じた行動を取れない、つまり『我慢』というものを覚えなくなるのさ」

 

「だから脳波を弄り、脳が委縮し死滅した状態に近付けるか、あるいは特定の感情や行動時に脳波が走る部位に刺激を加えれば、結果的にその人は『本能』を『我慢』しなくなる。その結果が暴力に暴言といった、所謂『他人への害意』という結果になる訳だ」

 

「勿論脳出血や梗塞なんかで障害された場合も同じ結果になる。ただし脳血管障害の場合、障害された脳組織を含んでいた神経ネットワークは別の経路を辿って再構築されるから、暫くすれば多少は回復する。無論多少の後遺症は残しているけどね。世間で言われる『脳細胞の賦活』は神経ネットワークを別の回線を使って作り直す事であって、死滅した細胞を復活させてる訳じゃないんだ。それが出来ていたら既に死んだSAOプレイヤーを生き返らせる事なんて訳無いよ」

 

「ともあれ、『脳が司る機能』や『特定の機能を使っていると特定部位に脳波が走る』事は、およそ人間である以上万人に等しい共通点という訳だ」

 

「そして、大抵そういう人達には『自分が異常』という認識、すなわち『病識』というものを持たない。自分の言動に間違いは無いという思い込みを抱いているから『我慢』なんてする必要が無い状態になっている」

 

「そりゃそうだ、『異常』を判断する為の脳が狂ってるんだから。異常でないと見ているなら『我慢』なんて必要無い」

 

「仮に『自分は異常なんだろうか』と考えれば、その思考が不安を呼び、不安は思考を乱し、精神を狂わせ、結果的には周囲に当たり散らすようになるだろうね。精神疾患ではそういうパターンが特に多い、アルコール依存症なんかは不安を和らげるためにアルコールに依存しているんだから尚更だ。ちなみに『不安を覚える事』に不安を覚える、というサイクルは『異常不安』と呼ばれてて、これもまた症状の一つになる。豆知識として覚えておくと良い」

 

「――――……さて、ここまで長々と話した訳だけど、束さんが見つけた全SAOプレイヤーに見られる共通点についてだ。そう、つまりこれは、本題を理解する為の基礎知識に過ぎない」

 

「まぁ、もう分かったんじゃないかな? ここまで噛み砕けば、医療知識に乏しくても流石に誰でも分かる筈だよ」

 

 

 

「そう……《ナーヴギア》にも、勿論《アミュスフィア》にも、悪用すれば人間を『人形』に変えられる機能が備わっているんだ」

 

 

 

 ***

 

「……?」

 

 昨日よりも遥かに強化されたリーファとシノンを《スリーピング・ナイツ》メンバーとして加え、晴れて《攻略組》の一員として加わった二人と共に他のギルドの人達とレイドを組み、数体で群れているモンスター達との戦いに慣らしていきつつ攻略を進めている最中、ふと何かが聞こえた気がして、私は背後を振り返った。

 第七十六層のフィールドは第一層のコンセプトに近いからか、周囲は視界が開けている草原が広がっているだけ。

 十人ほどで固まって動いている私達の背後には誰も居ない。仮に誰か居たらスカウトを担っている人が声を上げる筈だから、居ないのは何らおかしい事ではない。

 

 ――――でも、何でだろう……何故か嫌な感じがする。

 

 後方のどこを見ても敵の姿は見えないし、不安になって完全習得間近の《索敵》スキルを使って探知を掛けてもやはり反応は無い。

 薄暗い森だったりレイス系の実体の薄いモンスターがメインの階層であればこれでもまだ安心は出来ないが、この階層で出て来るモンスターは獣系、昆虫系、亜人系の三種類。亜人のタイプの一つにある【~~・シーフ】を除けば《索敵》を掻い潜るなんて不可能だし、完全習得間近である熟練度であれば、そのタイプであっても自身の近くなら必ず分かる。

 《索敵》スキルを使っても反応が無いという事は、つまり不安になるような事は身近に無いという事だ。

 

 ――――……。

 

 それでも、胸の裡に去来した不安は拭われない。

 いや、むしろドンドンそれは肥大化している。まるでこうして立ち止まっている事すらも間違いで、今すぐ動かないと取り返しがつかなくなるような、そんな感覚を覚えている。私の不安を否定する思考が不安から目を逸らす為の言い訳のようにすら思えてしまうくらいに、それは膨れ上がっている。

 

 ――――それに、この感覚を私は知っている。

 

 それは今からおよそ半年前の、クリスマスの日の事。

 ケイタが放ったという私は知り得ていない言葉/呪いに狂ったキリトを想い、そして止めなければと焦燥を抱いた時の感覚に酷似している。求めたものでは無かった蘇生のアイテムを放り、ゆらゆらと覚束無い足取りで――――けれど、どこか逃げるように足早で立ち去った彼を見た時に去来した、あの感覚に。

 でも、なら何故今?

 キリトの危うさは昨夜、彼の義理の姉リーファによってある程度は改善された筈だ。一朝一夕で治らない事は分かっているが、それでも彼は私達の想いと願いを知った。生きて欲しいという願いを知った。

 自己犠牲のきらいがある彼は、今まではそれから目を逸らしてきた。

 しかしリーファが真っ向からぶつかって、自身を犠牲にする思想が誤りであると明確に思い知らされた事で、彼は少なくとも今後安易に同じ行動は取らない筈だ。

 だから不安など抱く必要が無い。

 そう結論を導き出しても、不安は晴れない。

 訳が分からないモヤモヤとした心地のまま、私は皆の後を追って攻略を続けていった。

 その唐突な不安感は自分の因縁が原因だったのだと愕然と怒りと共に知る事になる、およそ三時間前の事だった。

 

 ***

 

 氷の大盾を翳して紅の槍を防いでくれている義姉の命が刻一刻と削れていく様を視界に納めながら、俺はこの状況を打開する為の手段を必死に考えていた。

 ユイ姉のHPはおよそ三秒で一割が削れていくので、保って三十秒。既に十秒は過ぎているので最早猶予は無い。今すぐにでも動き出さなければユイ姉は死んでしまう。

 

 ――――どうする、どう動くべきだ?!

 

 槍を投げて殺しに掛かって来る相手がケイタである事も驚きだが、それについては後にする。

 今考えるべきなのは、ホーミング性能を有しているらしい槍をどうするかだ。

 十秒経過しているにも拘わらず槍が盾と鬩ぎ合っているという事は、恐らくソードスキル《ゲイ・ボルグ》の効果が切れる事は無いだろう。アレは一撃貫通系のスキルで鬩ぎ合いは度外視されたもの。恐らくだが止められた時点でシステムの恩恵を喪う類のものだ。

 だから盾で防いでいるにも拘わらず止まらないのは、そういう特殊性能を有した装備であるという事が考えられる。他にも幾つか予想はあるが、現状最大の証左と言えるのは、横に回避した俺を追尾した現象の事。恐らく俺をターゲットしているからユイ姉が防いでも止まらないでいる。

 とは言え、仮に俺をターゲットしていて、当たるまで止まらないのであればまだやりようは無くも無い。

 しかしそれは大博打も良い所。予想を一つでも間違っていれば俺は死ぬ。

 正直言って、分は悪い。報酬は一時的な生、チップは自分の命、最悪ユイ姉も死ぬ。更にあの槍の特性の詳細が未だ不明。MHCPとしてGM権限の一部を有しているユイ姉ならあるいは断片的にでも知っているかもしれないが、それを訊く程の猶予も無いし、余裕も残されていないだろう。

 まったくもって割に合わないギャンブルの選択だ。辛うじて導き出した予想一つ、失敗の一つも無く当たっていなければならない運頼みなど、命をチップにするにはあまりに割に合わない。

 それでも選ばなければならない。

 行動しなければならない。

 このまま待っていても、どの道ユイ姉は死ぬ。そして護る盾を喪った途端槍は俺を貫くだろう。

 なら俺が取る行動は、ただ一つ。

 

 ――――後で、説教は覚悟しておこう。

 

 説教を受けなければならない行動を、俺は今選択した。

 奇襲にして初撃となった一撃。あの時、俺は横に跳んで回避を試みたにも拘わらず、俺の横を過った槍は鋭角に曲がって俺へ向かって来た。つまり『回避行動』は下策。現状打破の一手にはなり得ない。

 『防御行動』は現状ユイ姉がしているし、俺に当たらなければ恐らくイタチごっこになるので意味はない。むしろHPを削られる事を考えればジリ貧で死ぬ事は確実なのでこれも下策と言える。ヒースクリフの《神聖剣》であれば、盾の中心で防いだ場合ノーダメージでやり過ごせるので話は違っただろう。

 引いても死。

 止まっても死。

 防いでも死。

 

 ――――なら、前に進むしか無い……!

 

 全ての予想が当たっているなら、理論上現状打開は十分可能。その手段を俺は一つだけ考え出している。

 槍の一撃は防御も回避も出来ないものとなっている。

 しかしそれは、厳密には正しい表現では無い――――と思う。狙われた対象者であれば、少なくとも『防御行動』は何かしら別の結果を導き出す筈だ。

 防御とは、本来直撃した時のダメージの何割かを削る行動を意味する。

 つまり槍の一撃は、確かに狙った対象の命を削っている。曲解する事なく、システム的に考えて『当たっている』と言い換えられる筈なのだ。『当たっている』という判定を受けなければHPは減らないのだから。

 神話や伝説にあるような『行動した時には結果が決まっている』というオカルト染みたものは、システムで統制されている仮想世界ではあり得ない。あの槍も恐らく『投げた』時点で『当たるまで追尾する』効果は発揮しているだろうが、『どこに当たる』かまでは恐らく決まっていない。それは俺の頭を貫く軌道だった初撃が俺が横に跳んだ回避行動の末に腹を貫く事になった結果からも明らかだ。

 極論あの槍は『狙った対象者のHPを減らす結果を出す』事に特化した武器と言える。敵を追尾するのは、その副次的効果だろう。

 だとすれば、まだやりようはある。この予想全てが正しいのであれば。

 

 ――――ただ一つの失敗すら死に直結する戦いなんて、何時ぶりか。

 

 自分が本気で死に掛けた戦いは直近だと、四日前のアキトとの死闘。あの時は対人戦で初めてと言えるくらい追い詰められていた。

 あの死闘に較べれば、この局面を潜り抜ける事も訳は無い。

 俺が絶対的にレベル差が開いているアキトに追い詰められたのは、精神的に冷静さを喪っていた事が最大の要因だが、他にも技術的に劣っていたからでもある。それはリー姉に完封された時やユウキとドローになった事が裏付けている。

 システムに則った戦法に比重を置いた戦いであれば、俺は十分に強者足り得る。だからこそフロアボスや闘技場を単騎で相手取れる。モンスターはシステムに則ってしか動けないからだ。そこに素の技術や発想を盛り込めば単騎で相手取る事も不可能では無い。

 反面、対人戦ではシステムアシストよりも、素の実力の方で差を生じる。極論技術が卓越していればどれだけ高レベルのプレイヤーだろうと完封は可能だ。装備の性能差で有利不利は確かに生まれるだろうが、それを埋める事すら可能にしてしまえる。

 

 紅槍を以てユイ姉諸共俺を殺そうとしているケイタは今、システムアシストを受けた一撃しか放っていない。

 なら、勝てない道理は無い。

 

 ――――長い間、ずっとソロを貫いて戦って来た俺は、誰よりもシステムを味方につけた戦い方に精通していると、自負しているのだから……!

 

 ――――訊かないといけない事が、あるんだから……ッ!!!

 

 その自負とこれまでの経験を再認識した後、ユイ姉が槍を防ぎ始めてから十五秒が経過した時に俺は動き出した。

 

 ***

 

「はッ!」

 

 その声はキーが発信源だった。

 その声が聞こえた途端、背後にいたキーは私の右横を高速で過った。

 

「な……キーッ?!」

 

 護っているというのに、まさかその彼が前へ出る選択を取るとは予想外だった。回復結晶を使って私のHPを回復してくれるか、あるいは《ⅩⅢ》の武器を虚空に呼び出して槍に当てるかしてくれると思っていただけに、その驚きは大きかった。

 何より、さっきの一撃で自身を狙っているとは分かっているだろうに、自ら前へ出た事に小さくない怒りを覚えた。

 走る彼が向かう先は、恐らくケイタが立っている大木だろう。

 しかしそれは無茶と言わざるを得ない。

 彼我の距離は優に百数十メートルはある。《索敵》と《鷹の目》の視認距離拡大効果で普通に見えるが、あそこへ行くにはかなり手間だ。槍の効果を考えれば辿り着くまでに三回は貫かれてもおかしく無い。

 

「キー、ダメです! 戻って下さい!」

 

 盾で防ごうと考えているのであれば、それは無理だ。

 《ゲイ・ボルグ》は刺突属性極振りの一撃技。その威力は刺突に対して異常に高い耐性を有するゴーレム系であろうと一発で屠るくらいの高威力。盾で防いだところでHPは一気に削れる事間違いなし。

 現に防ぎ始めてから十五秒ほどしか経過していなかったのに、私のHPは既に一割弱しか残っていない。つまりあの一撃を防いだだけで三割強は削られたのだ。

 私はキーと違って全属性のダメージを五割カットする防具は有していないし、ステータスを増幅する装備もしていないので、彼よりはどうしてもステータス面で劣る。彼であれば防御の上からでもダメージカットが働くなら恐らく一撃のダメージを一割半くらいには抑える筈だ。

 だが、今の彼のHPはリジェネの効果でも四割ほどしか残っていない。

 普段の彼であればポーションや結晶アイテムを使って即座に回復する筈だが、それをしていないという事は今の彼は恐らく冷静では無くなっている。自身の命を奪う相手を知ってか、あるいは私が死に掛けた事にかは分からないが、とにかくボスやプレイヤーを相手にする時の冷静さは無い。

 彼の戦い方は冷静さを喪えば十全の力とは言えないもの。激昂した時点で半ば敗北は決しているといえるもの。

 アキトとの戦いで二回とも勝てた事自体が奇跡であり、リー姉との戦いで負けた事は順当な結果だったのだ。

 

「キーッ!」

 

 このまま行ったら、今の彼では間違いなく殺されてしまう。

 彼は私と違ってあの紅槍の特性を理解していない。知らないのだからそれも当然だが、命を懸けた戦いに於いて『無知』とは致命的な弱点となる。今の冷静さを欠いた彼があの槍の《必中》の特性やロジックを理解出来ているとも思えない。

 冷静であったならあるいはとも思える。

 しかしこちらの声に一顧だにせず突撃していく様は、怒号こそ上げていないが頭に血が上っていると思うには十分過ぎる。

 それを伝えるには時間が足りないから、とにかく一旦止めなければと思って戻るように言っているのに、彼はこちらの声に耳を貸さないまま離れた木の枝にいる男へと疾駆する。

 それと同時に、盾に突き立っていた槍が軌道を変えたのか、圧力が一気に減衰。視界左上に表示されているイネーブルー色のHPゲージの減少も止まった。

 そして空気を切り裂く音が次第に離れて行くのを知覚し、盾が消える時間も惜しく横へと動く。

 私の視界には、紅の旋風を巻き起こしながら直進する紅槍と、その穂先から逃れるように男へ疾駆する少年の姿があった。

 

「嘘でしょう……?」

 

 その光景を見て思わず呆ける。

 その速度はシステムアシストにより素で投げた場合より遥かに速い槍とほぼ同等。突き放しはしてないが、逆に詰められもしていない速度でケイタの下へと走っていたのだ。絶対に素で出せる速力では無い。

 つまり彼は、素では無い『何か』を利用してあの速度を出している事になる。

 

 ――――考えられるとすれば《ⅩⅢ》くらい……

 

 未だ謎の多い《ⅩⅢ》。

 使用者のイメージによって変幻自在となるそれは、使用者が冷静であれば千変万化の力を以て対応出来る幅が広がる特有の性質を有している。

 速度であれば恐らく六槍に宿っている風の力なのだろうが……

 だとしても、今の彼は冷静なのか。

 《ⅩⅢ》の自然属性を使いこなすには強固なイメージを必要とする。

 つまり冷静でなければ十全には発揮出来ないが、逆に言えば限定的にでも良いのなら冷静でなくとも扱える代物。現に彼はキバオウ達を屠る際、怒りに狂っていた中で槍を立ちはだかった男達の体を貫く形で出現させた。

 だから今の彼が風の力を使っていようと、冷静であるとは断言出来ない。

 しかし、それでも妙だ。

 彼は自分の実力に自負を持っているし、自信もそれなりに有しているが、彼我の実力差や状況の趨勢を見極める眼を狂わせる事はまず無い。リー姉との戦いは除くにしてもそれ以外は薄氷の上でも確実に勝利をもぎ取って来た。それは自失していても第四十九層フロアボスを初見で単騎撃破するくらい、無意識の部分に深く刻み込まれている。

 だとすると、まさかと思うが……

 

 ――――その男を、殺すつもりなのですか……?

 

 無い、とは決して言えない予想だった。

 うぬぼれている訳では無いが、私はそれなりに彼に慕われていると思う。大切にしてくれているとは分かる。

 だからこそ私も彼を大切に想い、護るべく力を得た。そしてさっきは庇いもした。

 しかし、それがひょっとしたら、ケイタという彼にとってトラウマであり贖罪の対象とも言うべき存在を殺す切っ掛けになったとしたら。

 ――――いや、私はそれを恐れている訳では無い。

 正直な話、あの男の生死に私は興味を抱いていない。MHCPとして逸脱した思考であり、それがどれだけ外道なのかは理解しているが、それでも大切な義弟を逆怨みで殺そうとしている男を助けたいとは微塵も思わない。

 仮にキーが全面的に悪いのであれば、微かに迷うかもしれない。ケジメというものはしっかり付けるべきだと思うから。

 けれどそれはIFの話。今のあの男は完全な逆怨みで、大切な義弟を殺そうとしている。

 それに感慨は無いし、哀しみもしない。

 私が恐れる事は唯一つ。

 

 ――――『ケイタを殺した』という事実に、義弟が傷付かないかという事だけなのだ。

 

 その恐れを自覚すると同時、義弟は槍に追い付かれる事なく大木の近くに到達し、力強い跳躍で枝へと向けて跳び上がる。

 当然槍もそれを追いかけるように軌道を変え、穂先を黒尽くめの少年へと定め直した。

 

 ――――いや、空中に跳ぶのは悪手……ッ?!

 

 枝へ辿り着く為に跳躍した姿を見て内心で彼の行動に頭を抱えた。

 恐らく、だが。

 キーは《ゲイ・ボルグ》を使った使用者である男を殺せば止まるだろうと、脅威を排せる事も含めて一石二鳥と考えて距離を詰めたのだろう。

 しかしそれは悪手だ。

 跳ぶ事がでは無い、それ以前に使用者の男を狙う事そのものが悪手と言える。

 仮にあの男が地面に足を着けて投擲して、今の状況に陥ったとしても、結果は大して変わらない。

 確かに使用者が死ねば【魔槍ゲイ・ボルグ】は追尾するのをやめるだろう。

 しかしHPを全損しても、即座に体が砕け散る訳では無い。完全に死ぬまでに何秒かのラグがある。その間は【魔槍ゲイ・ボルグ】も飛翔し続ける。

 つまり途方も無いくらい槍を突き放していなければ、使用者を殺したところで良くて相討ちくらいにしか持ち込めないという事。死傷者は死んででも相手を殺せば勝ちであるのに対し、自身が生きなければ勝ちとは言えないキーにとってすれば、最早詰みと言っても良い状況なのである。

 それを理解しているのか、あるいは理解していないのか、使用者であるケイタが居る枝に辿り着こうと跳んだ義弟の背後からは、紅い旋風の螺旋を巻き起こしながら迫る槍がある。空中ではどう足掻いても避けられない故に、跳び上がった時点で彼の命運は決まったも同然だった。

 地上であれば脚が地を蹴る加速が間断なく起こっていたから距離は保たれていたが、跳躍したとなれば話は別。徐々に慣性を喪って減速している故に紅の魔槍が刻一刻と距離を詰めていた。

 

 あと一秒もせず背中から貫かれる。

 

「終わりだ、ビーター」

 

 同じく確信を抱いたのか、ケイタはキーを見下ろしながら、静かに死の宣言を言い渡した。

 

 

 

 ――――直後、空中で蹴り上げの勢いでグルリとキーは縦に回転。

 

 

 

 ――――槍は彼の背中をギリギリ掠めながら、空を切り。

 

 

 

 ――――石突と呼ばれる穂先と反対側にある槍の持ち柄の先端に、橙色の光を灯した彼の蹴撃が炸裂し。

 

 

 

「が……?!」

 

 

 

 ――――軌道を変えるよりも早く、回避するよりも速く、蹴撃で加速した槍がケイタの腹を真っ直ぐ貫いた。

 

 

 

 使用者であるケイタを貫いた魔槍を見て何が起こったか自分は、一秒間で起きた事態を理解し、戦慄した。

 何が起きたか。それを説明する事は非常に簡単だ。

 キーは《弦月》の動作で僅かに上へ上昇しながら縦回転蹴りを放ち、その動作で槍を躱すと共に、石突を蹴り、槍を加速させてケイタを貫いた。

 槍が方向転換するまでには、実のところ対象が回避行動を取ってから僅かにラグがある。奇襲の初撃を彼が回避した時槍は数瞬彼の横を通り過ぎ、およそ一秒後に鋭角に曲がって軌道を修正した。

 だから軌道を修正する時間が来る前に、キーは《弦月》を槍の石突に叩き込んだ。

 彼が枝に向けて跳躍したのは、槍の穂先を自分とケイタの直線上に合わせる為の行動だったのだ。

 恐らくだが、ケイタは《必中》の効果を信じ切っていた。『この槍であれば《ビーター》を殺す事も不可能では無い』と思ったのだろう。事実一度は貫いた。脇腹を貫いて七割も削ったのであれば頭部や頸、胸といったクリティカルポイントに当てていれば即死も不可能では無かった筈だ。

 だからもう一度投げた。実力のあるプレイヤーに奇襲は通じても、同じ手が通じる筈も無いにも拘わらず。それは《必中》を信じているという証左だ。

 しかし現実には、二撃目は彼を庇った私を殺し掛けはしたものの、彼の発想もあって投擲した者自身に突き刺さっている。

 彼は《必中》バフを可能としているシステムとそれが反映されるまでの時間という欠点を突いて、見事現状を打破してみせた。彼はどうやら至って冷静だったらしい。

 

 ――――……怒りによる冷静さでなければいいのですが。

 

 キーの許へ駆けつつ、そう考える。

 普段温厚な人ほど怒ったら怖いらしいし、事実キーは滅多に怒りを見せない反面、一度キレると手に負えない部分があるように思う。それこそ後先考えず動きそうな子供らしい一面がある。

 ケイタの事を案じる訳では無いが、せめて殺しはしないで欲しいとは思った。後悔するなとリー姉に言われているが、逆に今回それが枷になって自分を追い込み始める事が簡単に予想出来たから。

 

 

 

「終わりだ、ケイタ」

 

 

 

 ――――そう思考している矢先、キーは右手に取り出した黒く肉厚な短剣をケイタの腹へと突き立てた。

 

「な、にを……?」

 

 黒く、禍々しい赤の線を亀甲状に走らせている刃が突き立てられた直後、ケイタは再び地面に伏した。

 彼のHPゲージの下には黄色の背景に黒い稲妻が落ちるマークがある。ゲージの外枠は黄色の線が明滅していた。

 

 ――――麻痺毒……あの短剣は、麻痺毒の効果を有しているのですか。

 

 回復ポーション作成時の失敗、あるいは《調薬》スキルで意図して作れる状態異常付与のポーションを使って塗布するか、あるいは武器作製時に《麻痺毒》の効果を持たせる素材を使う事でそのデバフが武器に付く。

 概して状態異常デバフを持つ武器の耐久値は低く、攻撃力もやや低めになるというデメリットでバランス調整が為されている。だから最前線で戦う者は基本状態異常攻撃はしない、その武器を持つなら回復アイテムを所持する方が生存率が高まるからだ。加えて敵には耐性があるので中々掛からない。

 しかし《ⅩⅢ》によって耐久値はHPと連動してほぼ無限、攻撃力の低さもステータスの後押しを受ける事で解消されるため、キーやシノンさん、私に限っては例外と言える。彼は確率系の状態異常を完全無効化する装備をしているので誤って自分を切っても安心な面がある。

 それにプレイヤーを無力化するなら麻痺毒を使った方が確実なのは確か。多くのオレンジやレッドを監獄に入れる際に活用していたからこそ、《アインクラッド》に帰っていない今も彼は所持していたのだろう。

 

「麻痺毒なんてモノを使うなんて……!」

 

 その裏事情を知らないケイタは、麻痺毒によってうつ伏せに地に伏しながらも憎々しげな眼つきをキーへ向けていた。

 ケイタはキーやユウキさん達に較べると遥かに一般プレイヤーに入る。

 かつては中層域で活動していたサチさんも今や立派な《攻略組》の一因。彼女達は麻痺毒の使用に対してそこまで忌避感を抱いていないのは、已むに已まれぬ事情や命の取り合いに対してシビアな観点を持つようになったから。

 キーの言葉だが、殺し合いに卑怯も何も無いのである。

 

「卑怯だと言いたそうだな……否定はしないよ。けど俺としては――――」

 

 ケイタの的外れな弾劾をさらりと流したキーは、足元に転がっている紅の魔槍を拾った。

 

「この槍の方が卑怯臭いと思うが。外れて避けても追い掛けて来るとかバランス崩壊にも程がある」

「それは槍の元々の効果だ! それよりもそれは僕の槍だ、返せ……!」

 

 そう言って、麻痺を受けても辛うじて動かせる利き手なのだろう右手を、ケイタは半ば無駄を知りつつ紅の魔槍へと伸ばした。

 当然キーは槍を持ち上げ、届かないようにする。

 

「なるほど、元々両手棍を使っていたのに長槍を使っている理由はコレか。確かにコレなら俺を殺せただろうな……」

 

 そう言って、どこか得心がいったと言いたげな面持ちで槍から視線を外し、彼はケイタへと顔を向けた。

 男の憎しみに染まった顔を見て、彼は静かに目を伏せる。

 

「……こんな槍まで見つけ出して……なぁ。そんなに、俺が憎いのか」

 

 眼を瞑った彼は、ぽつりと静かにそう問うた。

 その短い問いに――――それを発する事に、どれだけの苦悩があるかは計り知れない。自ら『憎まれている』と、分かっていても再認識するに等しい質問をするのがどれだけ苦しいか、私はまだ知らないから。

 

「憎いか、だと……?!」

 

 その問いに、燻っていた火を勢いよく燃え立たせるように、ケイタの表情は更に怒りに歪んだ。顔にも赤みが増し、歯を食いしばって目の前の怨敵を睨み据えた。

 その眼を受けたキーは、ほんの微かに喉を引くつかせた。

 

「憎いに決まってるだろ……! テツオにダッカー、ササマルの三人は幼馴染だったんだぞ?! 意気揚々とギルドホームを買いに行って、帰ってみれば『護れなかった』と言われて三人が死んでいて、それで憎まない筈があるか?!」

 

 『《ビーター》だけが悪い』と考えている事がありありと分かり、それを信じ切っている男の怒声。それは非常に苛立ちを覚えるもの。

 さっきから胸中に湧き起こっている『憎悪』という感情が、より強まった気がした。

 

「ちょっと、そんな言い方ってある?!」

 

 その怒声に反論したのは、レインさんだった。

 

「あなただって苦しかったんだろうけど、それはキリト君だって同じだよ?! 目の前でその三人を守れなくて、何とかサチさんを守ったのに今度はあなたに目の前で自殺されて、しかも自分のせいって言われて!!! 死んだのは、その三人が弱かった事と、キリト君の忠告に耳を貸さなかった事でしょ!!!」

 

 彼女はまるで我が事のように怒りを顕わにケイタへと怒声を叩き付ける。ユウキさんから多少聞いてはいたのだろう情報でも、全部が全部キーのせいではない/殆ど《月夜の黒猫団》の団員のせいと理解しているらしい彼女は、彼を庇っていた。

 

「《ビーター》なら止められただろ!」

 

 まるで弟を守るような彼女に、ケイタは怒りの表情でそう返す。

 

「確かに僕達は弱かった、攻略組に較べれば遥かに弱かったさ! そして《ビーター》は強い! それは分かってた! だから助力を頼んだんだ、僕達が強くなれるように! その過程で誰も死なないように! 事実短期間で安全に強くなれるくらい、キリトは危険地帯や対処法を知っていた! ――――なら、あの日だってそれを理由に止められたじゃないか!!!」

「それは結果論でしょ?! 根本的な死ぬ要因ではないじゃない!!! 死にたくなかったなら《始まりの街》に引き籠ってればいい!!! 変に《夢》を見てて、それに他人を巻き込んで、挫折したら『お前のせい』って言うなんて筋違いもいいとこでしょ!!!」

 

 何かが逆鱗に触れたのか、レインさんは激しく反論する。その全てが私には正論に思えた。

 確かに彼女の言う通りなのだ。《月夜の黒猫団》は攻略組への参入を目指していたと言うが、その割には危険管理能力が低いという印象があった。生存率と強化効率の為に、ひいては自分達の《夢》の為に彼を頼った。

 しかしそれが半ばにして途絶えた途端ケイタは力を貸した彼を憎悪した。仲間を守らなかったと、自分達の強化を人に丸投げしておいて。

 更に迷宮区へ行く提案も仲間がしたもので、彼はその場所については反対していた。それを流し、スカウト役が解除出来ないトラップも多くあったのに彼に丸投げして勝手に行動し、トラップに引っ掛かった。

 むしろサチさんだけでも生き残った事を喜ぶべきなのだ。少なくとも彼が居なければ絶対に彼女は巻き込まれて死んでいたのだから。唯一、彼女はキーの言葉に耳を傾け、危険性を注意していたのだから。

 ――――当時、モニタリングしていた私も、サチさんはあまり意見を強く言う方では無いという印象を持っている。

 戦闘が恐い事をを気付いてもらってないのに言わなかった事も、危険だとある程度は言っても『大丈夫』と言われると強く言えなかった事も、それに拍車を掛けている。彼女は皆に捨てられたくない、置いて行かれたくないという想いで『事なかれ主義』となっていたのだ。

 それでも――――あるいはだからこそ、自身の恐怖心を見付け、そしてそれを肯定し受け容れたキーに、彼女は絶大な信頼と信用を寄せた。

 キーの言動には必ず論理があり、理屈が存在する。理論立てられた考察とプランに無駄はあっても間違いは無い。それは『絶対正解では無いが絶対の間違いでは無い』という、ベストでは無いもののベターな判断というもの。

 そして変動する状況にある程度対応出来るよう考えられたベターな判断こそ、SAOでは最も通用するものとなる。全てに的確にベストな対応が出来るようにしても状況は予想と違う事など茶飯事。むしろ身の破滅を招く。

 だからキーは、誰かの強化を請け負った時にまず必ず、個人の実力の把握に努める。

 それから個々の能力や特徴、得意分野に合わせた訓練プランを考え、それを実行させる。基礎に忠実なそれはだからこそ結果的に生存能力を高める。

 VRMMOの経験など皆無らしいシノンさんが短剣と弓の二足の草鞋を履きこなせているのもそこに起因する。能力や武器を使いこなすだけの基礎技能をまず鍛えたからこそ、彼女はネームドと相対した時単独でもギリギリまで生き抜けたのだ。弓を手にした日だったからまだ慣れていないのに生き抜けたのは、偶然に偶然が重なった奇跡だけでなく、彼のベターな鍛練方法が齎した必然も確かに存在した。

 それをシノンさんは理解している。

 勿論サチさんも、《攻略組》の一人として戦える強さを身に着けられた事から、キーの指導が正しい事を理解している。

 だから彼女は『仲間を守れなかった』と自責するキーを責めない。壊滅した原因が《月夜の黒猫団》にあり、彼は十分やってくれたのだと理解している。怨むのは筋違いだと判断している。

 

 ――――この男とサチさんとの違いは、きっとそこなのだろう。

 

 レインさんだけでなく、勝手に動き回ってトラップに引っ掛かったスカウト役の人に対して思うところがあったらしいフィリアさんも加わって口論している男を見つつ、そう物思いに耽る。

 無論三人が死ぬ場所に居なかった事も大きいとは思う。

 サチさんはとても謙虚に【黒の剣士】の助力を受け止めている。弱く、戦闘に恐怖を抱いている自分を鍛える彼の働きを、本当ならあり得ない善意だと捉えている。彼の事情を知っている人なら誰もが異常だと思う攻略速度を維持したまま強化に手を貸すという意味の大きさと大変さを理解しているから、彼女は決して彼を罵倒しない。

 護れなかった事も状況的に無理ない事だと割り切れてもいた。それは死ぬ原因が、そもそも自分の身も護れない弱さにあると判断していたから。

 反面、ケイタはそうでは無い。

 本人の発言からも分かる様に、彼はキーの助力は『利用出来るもの』と捉えている。自分達が強くなる事、そして死なない為の要素として、この男はキーに頼み込んだ。

 感謝していたかどうかは分からない。

 しかし現状感謝していない事は分かる。むしろ助力した事を怨んですらいるのではと思えるくらい、今のこの男は一方的で理不尽な物言いをしている。

 結論から言えば、ケイタとサチさんの、キーに対する認識の差が今に帰結しているのだ。

 あるいは、キーを憎悪する者と、そうでない者とを分ける分水嶺の範例と言えるだろう、物事の捉え方で憎悪を向けるか感謝を向けるか変わるという。

 

 

 

「――――一つ、訊きたい」

 

 

 

 女性二人と男性一人の怒号が樹海に響く中でも、その声はハッキリと聴こえた。そこまで大きくは無いにも拘わらず三人の大声を貫くくらい芯の在る――――しかし震えのある声音が耳朶を打つ。

 それは三人にも聞こえたようで、すぐに静まり返って黒尽くめの幼子へ視線が集中する。

 彼の横顔は酷く暗く、沈んでいた。予想してはいたが、実際どれだけ怨まれているかを見てしまったからだろう。

 

「……何だよ」

「あの日、どうしてサチを残したんだ」

「……」

「サチは生き残ったのに、どうして自殺を選んだんた」

 

 恐らく《月夜の黒猫団》の話を聞いたなら誰もが考えただろう謎を、とうとう彼は自殺者に問うた。

 キーに憎しみを抱いたなら、サチさんはむしろ連れていく筈だ。あるいは無理心中をしてもおかしくない筈だ。

 それなのに彼は彼女を残し、自分一人だけで自殺した。

 ――――後から聞いた話だが、キーがランさんとユウキさんに頼み込んでサチさんを《スリーピング・ナイツ》に入団させた後暫くの間、彼女は酷く落ち込んでいたという。

 それは当然だ。高校で同じ部活をしていたからこの世界でもギルドを組んだというのに、部外者であるキー以外に誰も恐怖に気付いてくれず、そして自分は生き残ったというのにリーダーの男に自殺され、一人にされたのだ。その孤独感と寂寥感は果てしないものだっただろう。

 それも、キーの状態を知ってそれどころでは無くなって、自己強化に励む日々になった事で自然と薄れていったという。不謹慎な話だが自分を追い詰めるキーの状態が彼女の精神状態を安定化させたのだ。

 ケイタの行動はサチさんを苦しめ、反対にキーの行動はサチさんを癒した。

 皮肉なくらい二人は対極を行っていた。

 

「どうして、何でサチを残して自殺を選んだ。メインの武器スキルを変えて、こんな強力な槍まで手に入れるくらい俺が憎かったのなら、死ぬんじゃなくて俺の前から立ち去るだけでも良かった筈なのに。その時にサチを連れて行ってもおかしくなかったのに、何故なんだ」

 

 紡がれる、幼子の静かな慟哭。

 それは一年間延々と自問自答し続けてきただろう問いだった。ケイタの自殺は自分が原因で、でも何故槍使いの彼女を置いて自殺したのだろう、と。

 

 ――――今にして思えば、あのクリスマスの行動も、恐らくは……

 

 誰が見ても異常と分かるクリスマスでの行動。

 彼はサチさんの仲間を一人でも還すためと取れる言動をしていたが、本心では恐らく、その事について問いたかったのではないだろうか。自身に怨みをぶつけてまで自殺した男をその対象として選んでいたのも、恐らくその事について問いたかったから。

 キーはきっと、本心では分かっていた。あの三人が力不足故に死んだ事を、そして自身が力を貸さなくなったら遠からず死ぬ事を。だから『自業自得』とも言える過程で死んだ三人では無く、『自身が原因』と言えたケイタを蘇らせようとしていた。

 サチさんへの贖罪だけでなく、きっとそれがあったのだ。

 

 

 

「だからこそだ、《ビーター》」

 

 

 

 そして、一年という月日の間謎だったそれに、とうとう本人の答えが下される。

 

「当時のレベル差から考えても、そして今後どう足掻いても僕が勝てる筈が無かった。だから自殺を復讐方法に選んだんだ。お前が、僕達に『強さ』以外の何を求めているか分かっていたから」

「強さ以外の、何か……?」

 

 少し予想外な事が出て来てオウム返しに呟く。

 しかし考えてみれば、確かにそれは理に適った思考だ。当時中層の中でもかなり下の方に位置していた連繋の悪い《月夜の黒猫団》に力を貸す労力と時間を考えれば、むしろ最前線近くで戦っていた他のパーティーやギルドに力を貸した方がよっぽど実を結んだだろう。

 それなのに殆どの攻略組の記憶にないギルドの助力をするのなら、それは戦力以外の何かを求めているという事になる。

 

「《ビーター》は疎まれ者。だから一人で居た。でもずっと一人で居たら寂しいって思うのが普通……だから寂しさを紛らわせる存在として求められた僕が、『お前のせいだ』って言って自殺する事が復讐になる。レベル差を考えるとどう足掻いても勝てなかった僕には、それくらいしか復讐出来なかったんだ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ……それだと、そのサチという人は、どうして残したんだい?」

「一緒に立ち去っても、どの道遠からず死ぬと思った。僕もだけどサチも強くは無かったから」

「「「「ッ……?!」」」」

 

 ルクスさんの問いに、淡々と返された答えに私達は絶句した。

 その論法では、完全にサチさんは見捨てられていたという事になる。いや、強さ的にこのSAOで生き抜けないと見たから、ケイタの方から見限った。曲解すれば『【黒の剣士】の指導では生き残れない』と判断した事になる。

 そしてサチさんと共に戦っても死ぬと考えたから自殺したという事になる。

 自分勝手な都合で、解釈で、この男はサチさんを見捨て、苦しめたのだ……!

 

「そんな……そんな、理由で……!」

 

 奥歯を噛み締め、両手をきつく握り締める。両手に握る白黒一対の片手剣の柄が軋みを上げるが、それも無視して尚力を籠める。

 それでも胸中に湧き起こる怒りと憎悪、そして相手を嫌悪する侮蔑の感情は収まらない。

 

 ――――キーの手前、抑えてはいますが……!

 

 きっと一対一で相対していれば――――あるいはキーとサチさんが居なければ、私はこの男を、秘密裏に手に掛けていただろう。

 私はあまり『プレイヤー』に悪感情を抱かないようプログラミングされているが、それでも止まらないくらい止め処なく溢れて来るプレイヤーから学習したこの黒い感情で理性を喪いそうだ。

 どうしてそんなにも人は人を憎むのか。

 どうしてそんなにも人は理解を怠るのか。

 どうしてそんなにも人は人に当たるのか。

 正しくは無いだろう過程を経て、私はそれらを理解出来そうな気がした。

 

「……そうか」

 

 怒りに思考が埋め尽くされそうな瞬間、静かな声が意識を引き戻した。キーの声だった。

 横に立つキーは感情を見て取れない凪いだ瞳でケイタを見下ろしていた。しかし徐に振り返ると、彼は大神殿近くに浮遊している遠くに見える転移石へと、槍を持ったまま歩き出す。

 

「き、キリト君? どうしたの?」

「帰る。大声を出し過ぎたから、多分そろそろ周囲のモンスターがやって来る。その前にこの場から離れる」

 

 レインさんの問いに彼は端的に答えた。

 確かにレインさん、フィリアさん、ケイタの口論はかなりの声量だったから周囲のモンスターのヘイトを集めてもおかしくは無い。この数日、キーと行動を共にする間で《ホロウ・エリア》にいるモンスターの探知範囲は矢鱈広い事も分かっているので、実際もうそろそろやって来るだろう。

 とは言え、いきなりの行動にこちらは困惑した。あのケイタすらも。

 

「え……あ、えっと……あのー……この人はどうするの?」

「生憎と殺そうとしてくる《敵》を助ける程俺もお人好しじゃない。麻痺毒で放置する……――――俺が怒るのは、多分筋違いだ」

 

 それは、サチさんの事を考えて手を下さないという決断だった。

 本当は凄く怒鳴りたいのだろうけど、彼の心には未だ《月夜の黒猫団》の三人を守れなかった事が引っ掛かっている。それが『怒る』という行為を自嘲させている。

 自分の手に掛けないのは、自分が嫌だからか、あるいはサチさんの事を考えてか……

 

 ――――実際、そうするのがベターなんでしょうね……

 

 《ホロウ・エリア》の真実に勘付いたであろう今、死者を殺しても意味は無い。それに勘付いているからキーは自ら手を下さない事を決めた。『手に掛けた』という事実が遺恨を残すから。

 かと言って麻痺毒を解けば先ほどと同じ展開になる。今は麻痺毒で動けないから出来ないのだろうが、復活すれば今はキーの手にある紅槍を手にまた襲い掛かるか、一旦逃げて体勢を立て直してから再び襲って来るだろう。

 であれば、自分の手を汚さず、放置が一番。

 麻痺毒で動けなくされているのも襲って来たケイタの方に非がある。モンスターによってMPKされたとしても、彼にとって敵の立場にあるのだから『何故助けなかった』とは決して言えない。

 今後やリアルでの事を考えればベストとは言えないだろう。

 しかしベターな方法ではある。彼が直接殺さないだけでも意味はある。

 それを理解した私は、恐らく似た思考を浮かべたのだろう三人と顔を見合わせた後、揃って彼の後を追った。

 

「お、おい、待て! せめてその槍は置いて行け!」

 

 キーを殺せる自信を持つ程の槍を奪われる事に怒りと焦燥、そして絶望を滲ませる怒号が響く。

 

『ギシャァ……』

『ブルル……ッ!』

『ギギィ……!』

 

 その怒号に反応したか、丈の高い雑草や樹木を描き分けるようにして数種類のモンスターがケイタの近くに姿を現した。

 体長五メートルはありそうなくらい大く、硬そうな紅殻を持つ黄色の蜘蛛が五匹。

 体長三メートル程の紅く荒々しそうな息を洩らす猪が四匹。

 そして大人ほどの大きさもある赤や青、黄色の蜂が七匹。

 平均レベル110台というあの地下迷宮にも勝るとも劣らない強さのモンスターが、一気に四方八方からケイタを取り囲んだ。こちらは距離を取っているのと、主に直近の怒声があちらのものだったからかタゲは取られていない。

 

「な、ちょ、待て! 待ってくれ!」

 

 《アインクラッド》よりも高レベルのモンスターに囲まれて、しかも麻痺毒で動けない上にメイン武器も無い事で焦りを抱いたらしいケイタは、こちらに目を向けて声を発して来た。

 思わずレインさん達は足を止める。

 私は止めてはいないが、それでも背後を振り返ってしまう。

 

「助けてくれ!!!」

 

 そして、さっきは自分が殺そうとした相手に、助けを求めた。

 それまでずっと歩を進めていたキーは足を止め、僅かに振り返る。

 ケイタは正にモンスターに攻撃を畳みかけられる寸前になっていて、叫ぶ声もよく聞き取れないくらい支離滅裂だった。いっそ憐れで、同時に良い気味だとも思ってしまう姿だった。

 遠い目をしながら、キーは紅槍を地面に突き立てた後、左手に漆黒の洋弓を取り出す。

 金属質なそれを翳した後、更に彼は右手に水色の細剣――――水を操る細剣アクアリウムを呼び出し、矢のように弓に番えた。

 途端、水が剣先から発生し、螺旋を描きながら刀身を覆うように渦巻き始める。

 

「……キー、助けるんですか?」

 

 さっき、《敵》に情けは掛けないと言ったばかりなのに、舌の根も乾かぬ内に――ちょっと使い方は違うが――殺しに来たケイタを助けようと言うのか。

 私はそれに、不満を抱いた。敵は敵なのだから助ける必要など無いと。害する者は全て排すればいいのだと。

 しかし――――同時に、その姿に歓喜も抱いた。

 思えば私は、その姿を長らく見て来て、憧れた。理不尽な中傷と嫌悪、憎悪に晒されながら決して曲がらなかったその姿に。

 どんな人でも助けようとする姿を、私は希望としていた。

 あそこまで捻じ曲がった思考と逆怨みをしている男に情けなんて掛ける必要は無いとは思う。そんな事をしても、ケイタとの間にある確執は過去のもの、この行動一つで払拭出来るものでは無いだろう。

 だから意味なんて無いと思う。それをキーもきっと分かっている。

 それでも、その行動と思いは、理屈では無いのだろう。

 『誰かの為』と言って身を粉にして、犠牲にして戦って来た彼は――――

 

「――――甘いと、分かってはいるよ」

 

 番えた水の細剣を引き絞る。途端に切っ先を起点に渦巻く水が刃を覆うように収斂されていく。

 銀の刀身は、既に見えない。

 

「でも、救いようも無い《敵》でも無い限り、『助けて』の声を無視したくはないんだ」

 

 表情は暗く、複雑で。

 眼には涙が湛えられ。

 顔から血の気は失せていて。

 

 ――――それほど傷付いているにも拘わらず、彼は助けを求める声を無視しない。

 

 それはきっと、実兄に見捨てられた事に起因する。

 彼の奥底にある憎悪は、実兄に見捨てられた事も原因の一つ。憎む男と同じ領域へと落ちたくないからこそ、『助けて』の声を、無視しない。

 かつて自分が無視されたから。

 ケイタを助ける必要は無い事は分かっているだろう彼は、その想い一つで、たった今見捨てると決めた相手をモンスター達から助ける事にした。

 それもある意味でのトラウマなのだろう。

 

「水天、逆巻け、アクア――――」

 

 ギリギリと引き絞られる弦。

 弦に射掛けられた矢は、矢と見立てた水の細剣。刀身を覆う水は螺旋を描き、鋭い穂先の如く化している。

 いよいよもってモンスターが襲い掛かろうとした、その時。

 

「――――リウムッ!!!」

 

 強い一声と共に、剣の柄から手が離された。

 弦に押され、また使用者であるキーのイメージの後押しを受けた細剣は、切っ先から傘のように広範囲に渡って水の壁を展開しつつ超高速で飛翔する。その速度は紅の魔槍に勝るとも劣らない。

 その水剣は、ケイタを囲むように屯していたモンスター達を全部巻き込むように飛来。地に伏すケイタの真上ギリギリを通った水の壁に押されたモンスター達は大木の幹へ纏めて吹っ飛ばされた。

 

「爆ぜろ」

 

 そして、キーが右手を握りつつそう言ったと同時、幹に突き立った剣を中心に水が四方へ爆散。轟音と共に、まだ生き残っていたモンスター達は全て四散した。

 

「な、なん……?!」

 

 眼を白黒させているケイタは、吹っ飛び爆散したモンスター達の方を見た後、続けてこちらを見て来る。

 釣られて私達もキーを見れば、彼は『仕事は終わった』と言わんばかりに槍を持って転移石へと再び歩き出していた。本当に『助けて』の声が求めるものだけ応じ、後の事は放っている。

 その塩対応とも言えない微妙な行動に何だかなぁと思いつつ、けれど人を想う心を忘れていない事に歓喜も覚えながら、私はレインさん達と共に後を追った。

 

「な、ちょ、おい待て?! だから槍を――――」

 

 後ろから抗議の声が聞こえたが、キーは転移石で転移するまで一切振り向かなかった。

 私としても、これくらいが落としどころだろうと思っていたので無視した。

 

 ――――多分、あの水の爆発音でまた来ると思うのですが……

 

 感情的なキーによる稀なポカだが、実際そうなったかはケイタしか知らない事である。

 

 






 はい、如何だったでしょうか。

 忙しさ、そしてエナジーの枯渇も相俟って、ダイジェストになった事を許しておくれ……

 それはともかく、最後微妙な感じになりましたが、一応そうなった解説を。今後本編でも書きますがね。

 前提として、キリトは基本的にケイタの憎悪を『肯定』しています。それはテツオ達の死に責任を『感じている』事が証左となります。

 しかし、テツオ達の死とケイタの自殺の責任は、イコールではありません。混同しやすいですがぶっちゃけ別物です。

 ケイタの自殺の場合、怒るべきなのは取り残されたサチです。彼女だけが正当な怒りを主張出来ます(と作者は考えます) キリトの場合、それを招いた原因を防げなかった負い目があるので、不自然になります。ユウキ達に至っては仲間ではあるものの当時の事件に関しては部外者ですから除外です。

 キリトは怨まれた理由を含めて自殺された経緯がかなり理不尽なので十分その事についてレインのように怒れるのですが、その事について怒るとキリトのキャラが崩壊してしまうので避けました(メメタァ) だからこそレインに言わせたのです(メメタァ)

 そして『助け』を乞う声も基本的にキリトは応じます、仮令敵だろうと。『誰かの為』と言ってSAOプレイヤーを少しでも多く生還させる為に戦っているキリトにとって、『助け』を求める声は無視できないものなのです。

 ただし『死にたくない』とか『殺さないで』とか『やめてくれ』だとガンスルー。それはユイの思考の通り、かつて『助けて』という声を無視され続けたから。

 何時かのキリト視点であったように『殺られる前に殺れ』が信条である以上、殺されそうになって恐怖を見せれば、正に殺す絶好の機会なのでガンスルー。

 しかしトラウマ(助けてを無視して見捨てられる)を刺激された場合、捨て切れない『甘さ』が表に出て、妥協してしまう。

 ぶっちゃけると殺しに来たのがケイタ一人だったから今回の結果に落ち着いたのです。

 手を結んでいる《笑う棺桶》の存在が発覚していれば、ケイタから話を訊こうとする事も無く手に掛け、今後ずっと血みどろの戦いになっていました(IFルート)

 個人的には、キリトの『甘さ』は喪ってはならないものだと思っています。キリトの立場と心はその『甘さ』=人情に惹かれた者達で支えられているので。

 今回の場合、甘さを捨てる=ケイタを確実に殺す=手に掛けるという行動を取ると、キリトはサチに合わせる顔が無かったりする。物凄くネガティブになる。開き直るとそれはそれでキリトのキャラでは無い。

 ぶっちゃけ常に精神面のHPが瀕死状態且つ即死フラグ満載のキリトから、護ってくれる人達を惹き付ける要因の『甘さ』を欠かせてしまうと、即死ルートしか見えない(物語が続かない) 難易度上昇どころでは無いのだ……

 皆さんは、キリトの『甘さ』はどう思うでしょう?

 殺し合いにシビアな観点を持っているのに『甘い』というのは中途半端、という意見もあるでしょう。実際自分も今話でそれを感じ取っているので。

 でも、私としてはキリトにはそれが丁度良いと思うのです。

 むしろ冷徹なのは白(保護者)や《獣》(憎悪役)だけで良し(白は外から見て冷徹なんだヨ?)

 ――――本音を言うと、情緒不安定だったり中途半端な事に思い悩んでどうするか考えるシーンこそ、本作の醍醐味であり根幹の一つでもあると思ってます。

 一応考えてしている事なので、出来れば『つまらない』一言で終わる批判は辞めて下さい。批判するなら、何故批判するかの思考・理屈も添えて下さい。

 それなら改善出来る余地が生まれるので!(必死)

 ――――言い訳、と捉えても構いませんが、割かし必死なので思うだけで感想欄には書かないで下さい(汗)

 これから本気で忙しくなるので新年まで投稿できないかもです。

 それでも良ければ今後も本作をよろしくお願い致します。

 では!



 ――――救いようも無い《敵》=滅多にいない一夏/和人の憎悪の対象。



 つまりアキトは泣いても助けを乞うても許されない。見捨てた上にそれをされても文句を言えない事(攻略組の無意味な壊滅)までしたのだから当然である(無慈悲)



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