インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話はオールラン視点。ユウキが居なくなってどうして泣き崩れたのか、彼女の過去と共に描写しております。

 今話は人によって苦手かもしれないですね。お覚悟を。

 SAOに最初から囚われてる人達って、原作キャラ含めてもっとどこか箍が外れて(狂って)いても良いと思うんだ……(嗤)

 文字数は二万三千。

 ではどうぞ。



第七十二章 ~咲き誇る蒼紺の百合~

 生物は、生まれ出でた時から死を定められている。

 あるいは無機物にも死はあるのかもしれない、耐用年数を寿命と言い換えるならば、故障した時がその物品の死と言っても良いだろう。

 けれど、寿命というものはとても曖昧。

 人間の寿命は長ければ百年を超えるけれど、日々の生活によって短くなって、平均して八十年が相場とされている。八十年も十分大往生と言える。無論、不摂生な生活を送っていれば脳卒中とかで、あるいは不幸な事故で死亡する。逆に健康に気を付けて栄養バランスの整った食事、適切な運動、生活習慣を送っていればその分だけ長生きをするだろう。

 物品も、丁寧且つこまめに整備をしていたら長持ちするし、逆に乱暴にしたり不必要な場面でも長時間稼働し続けていればすぐに故障する。

 生まれた時から既に体内に《HIVウィルス》が存在していた私の一家は、かなりの高確率で他の人よりも早死にする事が約束されていた。投薬や精神面へのアプローチを幾らしたところで、ウィルスを抑えられる筈も無く、結果一家全員がAIDSを発症してしまったから。

 まぁ、発症したきっかけは確実にどこかから洩れた情報を以て迫害されて、気落ちした事だ。

 《後天性免疫不全症候群》こと、通称をAIDSと呼ばれているこの病気は、その名の通り後天的に免疫系が働かなくなる症状が特徴だ。普通の免疫系なら防げるくらい弱い感染力の菌すらも滅菌出来なくなり、結果、多くの感染症を併発してしまう恐ろしいこの病気は、何よりも免疫系が働かない事で病気が改善される事も無い点が恐ろしいとされている。つまり発症したら絶対に回復しないのだ。

 免疫系は精神面が不安定だと崩れやすいとされていて、気落ちしていると免疫は弱まるのはよく知られている。笑顔が多い人は病気に罹りにくいのはその分だけ免疫系がよく働いているからなのだ。

 AIDSは、HIVウィルスがヘルパーT細胞という免疫系の司令塔――外部から侵入した有害ウィルスを見分ける細胞――に取り付き、判断力を喪わせる事に特化している。なので有害ウィルスを直接的に駆除するキラーT細胞や抗体を産生する細胞は、AIDSを発症しても何ら変わらず存在している。

 ただ、司令塔が働かなくて、元々体内にある有益なものと外部から侵入してきた有害なウィルスを判別出来ないだけ。

 つまるところ、司令塔であるヘルパーT細胞に取り付いているHIVウィルスを駆除すれば、免疫は活動を再開する。

 私とユウキがSAOに囚われる直前に受けた骨髄移植は、HIVウィルスに耐性があって不活性化されないヘルパーT細胞を産生出来る骨髄を、耐性の無い元々の骨髄と入れ替えるように移植する事で、少しずつ耐性有りのヘルパーT細胞を増やし、免疫を働かせる事を目的としたもの。

 無論骨髄の型が合わなければ拒絶反応で私達は揃って死亡していただろうが、一年半以上も経った今も生きているという事は骨髄は全て移植出来たという事を意味する。生還した時に肉体は当然見るも無残なまでに衰えているのは明白だが、その代わりのように免疫系が再生しているのだから、今後も生きられるという輝かしい未来がある。

 

 ――――その矢先に、私達姉妹はSAOに囚われてしまった。

 

 何故、と幾度思っただろうか。

 骨髄移植は、移植を受ける前にある幾つもの検査を突破する事で受けられる手術。型が合っていなければそもそも死亡してしまうのだから、医者もデリケートになるのは当然の話。

 けれど、例え私達とドナーの方の骨髄の型が合致していようとも、いざ移植した際に絶対に拒絶反応が出ないという確証は存在しない。とても低い確率ではあるけど死亡するケースも無くはないという話だったのだ。

 万に一つの合致という幸運を掴み取るか。

 万に一つの不適合という不幸を出すか。

 それは全て、正に神のみぞ知るというところ。人間に可能な出来る限りのお膳立ては整ったのだから、後はもうやってみるしかなくて、その結果は神しかきっと知らない領域。

 結果的に、まず間違いなく私達は骨髄に適合して、もう免疫系は再活動している。つまりはとても早く訪れる筈だった死が、奇跡的に遠ざかった。

 けれども、その直後にデスゲームに囚われてしまった。

 どうして、と私は泣き叫んだ。

 ただ私達は、人並みに生きたいだけだった。贅沢とか、最高の幸福なんて二の次だ、一番はただ人並みに生きたいというとてもありきたりなシアワセが欲しいだけだったのだ。人間に許されている寿命分を生きたいと願う事のどこが悪だと言うのか。

 やっと生きられると思った。

 治療法は見つかったけれど、そもそもHIVウィルスに耐性のある骨髄を有する人がドナーに登録している可能性は恐ろしく低く、その中から自身と合致する型を見つけ出し、更に移植して拒絶反応が出ないという結果を導き出す確率は、正に万に一つ。それどころか、ともすれば億に一つという超幸運とすら言えるかもしれない。

 それなのに、この仕打ち。やっと生きられると思った矢先のデスゲーム。

 ふざけるなと思った。

 今でこそ、茅場晶彦ことヒースクリフさんは黒幕では無いという確信がある。とても純粋に、とても男の子らしい純粋な夢想を、大人になっても捨てきれなかった夢想を現実にではなく仮想世界に求め、完成させた。それはとても偉業であり、私は彼を褒め称えるべきだと思う。純粋に尊敬出来る人だと思った。

 とは言え流石にデスゲーム直後では黒幕だと信じ切っていたから、私は当時から第七十五層ボス部屋で彼の本音を聞くその時までずっと、内心でどす黒い殺意を蟠らせていた。憤怒も生温い、憎悪ですらまだ温い、あるいは殺意すらもまだ足りないかもしれないどす黒い感情が、ずっと心の底にあったのだ。やっと目の前にある死から解放されたのに狂人の戯れに巻き込まれたのだ、それくらいは思って当然だと思う。

 

 ――――けれど、私はとても弱い人間なのだ。

 

 やっと普通に生きられるのだ、人並みに生を謳歌出来るのだと、そう舞い上がっていたところでどん底に突き落とされたからだろう。幸せを噛み締めていたところで襲って来た巨大な不幸を前に、私の心はボロボロだった。

 天真爛漫で、何時も一家の笑顔を引き出していたユウキに心配掛けないように振る舞っていたけれど、あのデスゲーム宣言の後だけは取り繕えなかった。

 普段の私を知っている人が見れば、確実にオロオロと困惑する程に取り乱し、泣き叫ぶ姿は異様に映っただろう。叫んでいた内容は支離滅裂だったけど、生に夢見た直後の死を考えて発狂していたのは確実だ。理性はあっても、精神の方が耐えられなかった。

 もう嫌だったのだ。

 漸く人並みに生きられると思った。ずっとずっと死に怯えて来て、人に怯えて来て、それでも懸命に生きて来て。

 やっと生きられると思えば、デスゲーム。

 呪われているのかとも思った。ただ不幸な偶然が重なっただけなのだろうけど、それでもタイミングとしては悪過ぎた。もう何もかもが嫌になって、厭世的な考えで宿に引き籠ろうと思った。

 これまで私達は頑張って来たのだ。

 ただ楽しむためだけにプレイしたVRMMOがデスゲームだなんて外に出る気すら失せる事実を知って、私はもう何もかも捨て去りたくなった。ただこの世界に一緒に囚われたユウキと目も背けたくなるくらい腐っていきながらも、今まで生を謳歌してきた人達の犠牲の上で成り立ったゲームクリアで、楽をして現実へ帰りたいと思っていた。それくらいは許されると思っていた。

 きっとユウキも死が恐くて一緒に逃げるだろうという醜い考えと共に。

 

 ――――けれど、彼女は私と違って、強かった。

 

 何がこの子をここまで強くさせたのだろうかと、そう不思議になるくらい、彼女は自分と違って崩れていなかった。デスゲームと聞いたのに、死を恐れている筈なのに、退けられる死からは逃げたくないなんて、意味不明だった。理解不能だった。

 それでも分かったのは、彼女は立ち向かう強さを持っていたという事。

 ただの考え無しでは無い、楽天的な思考の下に戦う意思表明をしたのではないというのは、彼女の眼を見れば分かった。鮮血の赤よりは暗く、アメジストの暗い紅よりは明るい、仄かな温かみのある特徴的なその瞳には、未来を見て進む人特有の輝きがあったのだ。

 怯えて逃げようとしていた私なんかには無い鮮烈な輝きを宿すその瞳が真っ直ぐ射抜いて来た時に、私は悟った。ああ、これは止められない、と。

 一度決めたら余程の事が無い限り梃子でも意見を変えない彼女の事だ、私がこのまま怯えていたら、こちらの思いを汲んだ上で本当に一人で剣を手に戦いに行くのは明白だった。簡単に予想が付いた。だって今まで、その輝きを宿した瞳で意見を口にした彼女を止められた試しは一度も無くて、結局私も何だかんだで協力していたのだから。

 なら、私も一緒に行こう。そう決意した。

 それはとても愚かな選択。死ぬ事に対する覚悟なんてこれっぽっちも出来ていないのに、ただ外界と隔絶された浮遊城で唯一心を許せる人物である彼女を喪いたくなくて、そして一人になんてなりたくなくて、私が姉なんだから負けたくないというみっともない意地と共に、彼女に同行した。

 不幸中の幸いと言うべきか、両者共に武道とか戦略系ゲームなんて一切していなかったけれど、彼女には剣士としての天賦の才があり、私には作戦を立てる才能があった。作戦を立てるには情報が必須だったけど、幸いな事に最初期の頃から動いていたアルゴさんの攻略本を早期に入手したお陰でそこはどうにかなった。ユウキに関しては、最早鍛錬なんて必要なく感覚で戦闘をこなしていたので、数の不利さえ無ければ格上のモンスター相手でも十分渡り合えていた。

 私は色々と武器を取り換えてピッタリなものを決めるまで時間が少しばかり掛かったものの、最終的に細剣を選択し、ユウキと共に戦うようになってからはメキメキと実力を上げていった。これもアルゴさんの攻略本に記載されていた戦闘指南の項目――後に分かったがキリト君が纏めていた情報――のお陰である。

 

 ――――そして出逢う、鮮烈なまでの輝きを見せる、幼い少年。

 

 第一層ボス攻略会議では顔を見ただけで、そして二日後にあったボス攻略にて会話こそしなかったものの記憶に深く刻まれた、幼い一人の子供。誰よりも幼いのに、けれど誰よりも強い意志を併せ持った不思議な少年は、自身に悪罵を投げ虐げる人達すらも助け出し、たった一人でボスと渡り合っていた。

 どうしてそこまで人の為に動けるのかと、私は不思議で堪らなかった。

 《織斑一夏》という子に関して、私が知っている事はそこまで多くはなかったけれど、出来損ないであるという情報くらいは小耳に挟んだ事がある。人間性、人格に関して一切書かれておらず、けれどプロフィールなどは全て晒されているというその少年に、私は実際に出逢うまで欠片も興味を抱いていなかった。SAOに囚われてからは茅場晶彦への黒い感情と、ユウキを喪いたくない、置いて行かれたくないという想いを燃料に必死に戦っていたから尚更だった。

 HIVウィルスに罹っているというだけで一度手酷くされた経験がある身としては、とてもでは無いが特定の個人に対して興味を抱けなかった。

 それなのに、抱かないように無意識にしていたのに――実際そんな余裕も無かったけれど――それでも深く記憶に刻まれるくらい、あの少年は鮮烈に輝いていた。

 《ビーター》として全てのプレイヤーの負の感情を背負い、けれど誰よりも最前線を往って勝つ様から勝手に【黒の剣士】と寄せられて、《アインクラッド》の秩序を保っていた彼は、とても眩しかった。私やユウキよりも遥かに幼いのだから普通に怯えていてもおかしくないのに、率先して死にに行くのかと思える無謀な行いをするのは理解出来なかった。

 それが不思議で不思議で堪らなくて。

 何時しか眼で追っていた。何時の間にかとても気に掛けていた。とても心配になっていた。

 一目惚れでは無いだろう――――私はそこまで軽くないしロマンチストでも無い。

 嗚呼、でも、彼が素顔を初めて見せたあの時は、とても綺麗だと思った。

 自身に悪罵を投げる人すらも平等に助け、自ら率先して死を齎す敵と相対し、そして勝利するその様は、幼いながらも整った美貌も相俟って、とても綺麗だと思った。容姿だけでなく、その精神は、今まで見て来た人達の中で一際美しく映った。

 何色にも染まっておらず、正義を体現していながらも凝り固まった思想なんて無い彼の事を端的に言い表すならば、きっと《無垢》という単語が最適だろう。

 誰にも影響されず、かと言って我が強いという訳でも無く、しっかりと他者を思いやる心を持っている少年。

 この子なら、きっと大丈夫なのではないか。

 そう思えるくらい私は気を許していた。

 気を許していなかったらユウキが会いに行こうとするのを許さなかっただろうし、彼に頼まれてもサチさんを《スリーピング・ナイツ》へ入団させ、ユウキが鍛える事も、決して許さなかった筈だ。過去の経験から他人に対して一線を引くようにしているのだから、そうしてもおかしくなかった。

 逆説的に、きっと私は《月夜の黒猫団》の事件が起こるよりも前から、ずっと彼の事が――――キリト君の事が、好きだったのだ。

 そう思えるようになったのは、彼が第一層外周部からリーファさんとシノンさんを助けた代わりに死んだという話を聞いた後の事。彼が死んだと聞いた時の喪失感は絶大で、知らず涙が流れていた。

 喪ってから気付くとは何と莫迦なのだろう。

 以前アシュレイさんの店で抱擁を求めたあの時に自覚していれば、人目がある事への羞恥を無視して告白していただろう。それが出来るくらいのチャンスはあったし、自分の不可解な行動の理由を悟れる事もあったのに、何故気付かなかったのだと幾度も自分を罵倒した。

 私の初恋は、自覚した時には既に取り返しのつかないところに来ていた。

 その絶大な喪失感は、ともすれば手に持った愛剣エルトゥリーネンを取りこぼし、膝を屈してもおかしくないものだった。

 それでも攻略を続けられたのは、偏にユウキが居たから。彼女の様子も普段に較べて暗くはあったけど、彼の遺志を継いで戦うつもりだったのか、暗く沈んだエギルさんが経営する一階ラウンジで戦う宣言をしていた。あの時の彼女の眼は哀しみの色を宿していたものの、それでも確固たる意志を以て戦いに赴く覚悟もあった。

 ならば私に迷いは無い。最愛の家族、そしてこのSAOに共に囚われてしまったユウキが戦いへ行くのなら、姉として私も行き、彼女を支えようと決めた。

 

 ――――けれど、世界は非情だった。

 

 キリト君が死亡してから三日後の昼。あまりにもモンスターが群れていて攻略が進まないから一旦体勢を立て直す為に街へ戻ろうと、クラインさん達と合流した矢先に、ユウキは強制的に転移で何処かへ消えてしまった。

 目の前から唐突に、手の届かない場所へ行ってしまうユウキ。

 それは、決して大切なものを喪わないと、キリト君の死と絶対に成就しない想いから更に固く決意していた私の根幹を揺るがすには、十分過ぎる。

 ユウキが行くと言ったから私も共に行った。元々私が戦う理由は、彼女に置いて行かれたくなかったり、独りは嫌だったり、喪いたくないと思っていたから。今までマトモに戦えていたのは彼女がちゃんと生きていたからなのだ。

 それなのに居なくなった。

 もう耐えられなかった。キリト君への想いは自覚するのが遅かった自分が悪いけど、大切な存在に変わりなくて、ユウキは生まれた時からこれまでずっと一緒だった半ば運命共同体。彼女を喪いたくなくて戦っていたのに、居なくなったのでは戦えなかった。

 元々臆病で、とても弱い私は、泣きながら《アークソフィア》へ帰り、宿に着いてすぐ自室に引き籠った。付き添ってくれているサチさんに悪いと思いつつもずっとベッドで横になって、ユウキの帰りを待っていた――――もう帰って来る事が無いのではと思いながら。

 

 一時間待った。フレンド状態は生存のままだがメールに返信は無い。

 

 二時間待った。《生命の碑》の名前に横線は引かれていないが音沙汰は無い。

 

 三時間待った。サチさんに頼んで状況を訊いてもらいに行ったが、やはり状況に変化はない。

 

 四時間待った。エギルさんが軽食を作ってくれたけど、食欲が無くて少ししか食べず、味も全然しなかった。状況は依然変化なし。

 

 五時間待った。

 

 

 

 ――――姉ちゃん!

 

 

 

「ゆ、う……き……?」

 

 彼女が居なくなってから五時間経ったなと、もうダメなのかなと考えていると、ふと何処かから溌溂とした声が聞こえて来た。ベッドに横たえていた体をもそりと起こして部屋の中を見渡す。

 窓の近くに備え付けられている洋風の上等なベッドと、その反対側の壁際には茶色いデスクに椅子、その隣には衣服を入れるクローゼットにアイテムを入れる倉庫であるチェストがある。ベッドの左横にはテーブルを挟んで対面に設置された三人程が座れるソファが一対。

 声は聞こえたものの、彼女の姿は見当たらない。

 

「ラン? どうかした?」

 

 そのソファにサチさんは座って何かを読んでいたが、私が上体を起こした事に気付いたようで、手許の数枚の羊皮紙で作られた冊子から視線を外してこちらを見て来た。

 それを無視して部屋の中を見渡すが、やはりゆうきの姿はどこにも無い。

 

 

 

 ――――あはは! どこを見てるのさ、姉ちゃん! こっちだよ!

 

 

 

 それなのに、姿はどこにも無いのに、耳元――あるいは頭の中――に鮮明に響き渡るゆうきの声。どこか楽しそうにしている声音は記憶にある彼女のそれと全く同じだ。

 

「ゆうき……? どこ、どこに居るの……?」

 

 ベッドに腰掛けてキョロキョロと部屋の中を見渡すものの、やはり姿は見えず。それでも彼女の声は止め処なく聞こえて来る。

 そんな私を見て眉根を寄せたサチさんは、ソファから立ち上がって近寄って来た。

 

「ユウキって……え、本当にどうしたの?」

「ゆうきの声がして……」

「……え」

 

 すぐ目の前で、私の顔を覗き込むように問い掛けて来た彼女にそう返すと、サチさんはピシリと表情を凍らせた。どうかしたのだろうかと首を傾げるも、それも無視してさっきから『姉ちゃん』と呼んで来るゆうきを探す。

 この部屋の中に居ないなら、もしかしたら廊下に居るのかも、と思って立ち上がる。少しふらふらとしたが、戦闘はともかく歩く分には問題ないと判断してドアへと歩く。

 

「ちょ、ちょっと待ってラン!」

 

 歩き出してすぐ、私は肩をサチさんに掴まれ止められてしまった。

 その様子は凄く焦った風で、どうしてそんなに焦っているのだろうかと思ってしまう。むしろ行方不明だったゆうきの声がするのだからそちらへ急いで向かわなければならないというのに。何故止める。

 

「ユウキはまだ帰って来てないし、声も聞こえないよ! 私には何も聞こえてない!」

「……うそ……」

 

 サチさんは必死に、そう訴えて来た。これでも《スリーピング・ナイツ》のリーダーとして色んな人を見て来たから分かるけど、彼女の眼は嘘を吐いている人のものではない、ユウキやキリト君のように真実を語っている人の必死な眼だ。

 ああ、でも、何でそんな事を言うのだろうか。

 

 

 

 ――――姉ちゃん、早く早く!

 

 

 

 こんなにも、ハッキリと聴こえているというのに。

 

「だって、さっきから聞こえてるのよ。ゆうきが、私を呼んでるのが聞こえるのよ……」

「だから、此処には私とラン以外居ないってば! ノックもされてないから部屋の外の声も入って来てない! ランのそれは空耳だよ!」

「違う、違う違う……!」

 

 サチさんの否定は、酷く私を苛立たせてきた。

 まるで大切な妹を否定されているようで、もう死んでいると言ってきているようで、諦めろと言ってきているようで――――酷く、不快な気持ちにさせられる。思わず奥歯を噛み締めてしまうくらい腹が立った。

 

 

 

 ――――コン、コン、コン、コン。

 

 

 

 そこで、耳朶を打つ四度の音。

 それは閉じている部屋のドアから聞こえて来た。私はその音がしたドアへと顔を向けて、緊迫した面持ちになっていたサチさんも同じように視線を向けた。

 

「えっと……誰ですか?」

 

 サチさんが問う。

 ノックから三十秒以内に返事をすれば廊下に居るであろう人物と扉を挟んでの対話が可能になるし、鍵を掛けていなければ、パーティーやギルド、フレンドの人は勝手に開けられる――勿論設定で不可能にも出来る――ようになる。無論、鍵を掛けていれば部屋の中の人が開けなければならない。

 前はエギルさんが来たが、今度は誰なのだろうかと思いながら息を呑んで待っていると、ガチャリと音を立てて扉が開いた。現在パーティーは解消しているので、ギルドメンバーであるサチさんと私を除けば、後は入って来れるのはゆうきかフレンドだけ。

 一体誰なのだろうと、扉を開けたプレイヤーを見て、瞠目した。

 額の上辺りにあるバンダナと体を包む紫紺色の装備。左腰の剣は見慣れたルナティークでは無く、どこかキリト君のダークリパルサーに近い形状をしている黒い剣。胸鎧は外されており、露出が目立つレオタードと少しの――締め付けられている事を考えると実際はもっと大きい――胸の膨らみが目立った。

 剣を吊るす剣帯とベルトは記憶と変わらない。

 無論、その容貌も。

 

「――――ゆうき……?」

 

 見間違える筈も無い。扉を開けたプレイヤーは、私の双子の妹であるユウキだったのだ。

 

「や、姉ちゃんにサチ。ごめんね、帰って来るのが遅くなっちゃって」

 

 苦笑を浮かべながら、彼女は右手を軽く持ち上げて言った。

 その声は、さっきまで聞こえていた声より遥かに落ち着いていて、僅かに大人びている印象がある。どこかこちらを案じ、安心させるような心遣いを感じさせる声は、このデスゲームに囚われてからずっと耳にしていたものだ。

 その声が、この五時間ずっと不安だった私の心を解きほぐしていく。

 ほろ、と頬に滴が伝った。

 

「ゆうき……本当に、本当のゆうきよね……? 幻じゃないわよね……?」

 

 ついさっき、ハッキリと聴こえていた声を空耳だとサチさんに言われたから、もしかしたらこれは幻なのではという一抹の不安があった。安心感はあるけど、それが幻だったと分かった時には、もう立ち直る自信が無い。

 上げて落とされるのはもう嫌なのだ。

 

「……確かめてみる?」

 

 私の不安を感じ取ったのか、ゆうきは柔らかく微笑みながら両腕を広げた。まるで抱き着いて来いと言わんばかりの体勢を取った事に少し驚くが、それよりもこの不安を早く解消したくて、居ても立っても居られず突進紛いに彼女へ近付く。

 数メートルの距離を一瞬で詰めた私は、直後、温かみのある人肌を知覚した。互いの胸が潰れ合って僅かに圧迫感を覚えた。背中に回された腕は確かに温かかった。

 

「嗚呼……本当に、本当の……!」

 

 彼女の肩に乗せていた頭を少し離し、互いの顔を見合うようにしながら涙ながらに言えば、ゆうきは微笑んだままこくりと頷いた。

 

「うん。姉ちゃんの妹の、ユウキだよ……ごめんね、遅くなっちゃって。これでも結構急いだんだけど色々とあったからさ」

 

 微笑みはそのままに、申し訳無さそうに目尻を下げて謝罪する彼女の言葉を聞いて、私は首を横に振った。

 

「良いわよ、ちゃんと帰って来てくれたから……もうダメだと思ってたけど……」

「まぁね……姉ちゃん」

「ん……?」

 

 生きて帰って来てくれた事の喜びを噛み締めながら彼女の顔を見ていると、ゆうきはふと真剣な顔になって、声を掛けて来た。いきなりどうしたのだろうと何となく不安に駆られる。

 けれど、それは杞憂だった。

 

「ただいま」

 

 それは、帰るべき場所へ戻って来た事を意味する挨拶だった。

 その言葉を聞いて、嗚呼、本当に帰って来てくれたのだと分かって、また目尻から溢れた滴が頬を伝う。顎からぽろぽろと落ちて、互いに潰れている胸を包む服を濡らしていった。

 その涙は、とても温かくて。

 

「――――ええ……本当に、お帰りなさい」

 

 自然と不安も消え去った私は、笑顔でユウキの生還を迎えた。

 

 *

 

 抱擁しながら生還を迎えた後、涙が止まってから私はサチさんと共に、これまでユウキがどうしていたのかを聞いた。

 その過程でキリト君が生きていた事を知れたのはとても嬉しい。もう成就しないと思っていた初恋をまだ為せる事が分かったのだ、これからはユウキやリーファさん達のように度が過ぎない程度にアプローチをしていきたい。

 ……まぁ、取り敢えず彼がもう少し回復してからにしようとは思ったが。流石にクリスマスの時よりも酷い状態はマズい。実はMHCPという高性能なAIであるというユイちゃんが専任のカウンセラーとして付いている事から、何時何処へ姿を消して、あるいは死ぬか分からないというあの時よりはマシかもしれないが、あまり楽観的にもいられないのが現状だ。

 それに彼と、偶然知り合ったというルクスという人のオレンジカーソルをグリーンへ戻す事も考えなければならない。

 キリト君の状態はある程度時間を置いて落ち着かせれば改善されるだろう、というのがユイちゃんの診断らしいので、一先ず無茶をさせない事が大前提。《ホロウ・エリア》というレベル三桁のモンスターが普通に徘徊する場所を探索するなら、サバイバル能力の他に戦闘能力も高い人でなければならない。

 ユウキは右手に《金色の円環に逆十字架の紋様》が刻まれていて、恐らく彼女と共にしかあちらには行けないという。恐らく彼女を軸にあちらへ行く形になるから、大体がキリト君と親しい人で構成されると思われる。

 《ホロウ・エリア》を探索するメンバーで確定しているのはキリト君、ルクスさん、それと色々とやってキリト君と同等のステータスとスキルを得ているユイちゃん、あちらへ行く為に必要なユウキと、リズさんから素材集めついでにオレンジ解消を手伝って来いと言われたレインさんとフィリアさんの合計六人。

 その内、キリト君は装備のバフを受ける為にソロとなるので、ユイちゃんをパーティーに入れて作るならフルにはあと二人入れられる。ユイちゃんを除くならあと三人だ。まぁ、彼女はキリト君が首から提げていたネックレスの内部へ基本入るだろうから、基本的にあと三人ほどは連れて行けると考えていいだろう。

 出来ればユウキと共に私も行きたいのだが、それで攻略が遅れてしまっては彼の肉体の限界を迎えてしまうので、キリト君に生きて欲しい私達にとって本末転倒になる。その辺はかなり綿密に話し合って決めておかなければならないだろう。

 

「なるほどね……キリト君はかなり巻き込まれ体質だなと思ってたけど、あなたも大概になって来たわね」

「あはは……」

 

 取り敢えず一通り話を聞いて思った事を率直に言うと、ユウキは苦笑を浮かべ、頬を指先で掻いてお茶を濁した。一応彼女自身もそれなりに自覚があるらしい。

 

「普通はプレイヤーが辿り着けない《ホロウ・エリア》、何故か消滅直後にそこで復活していたユイちゃん、偶然で片付けるには出来過ぎているキリトの転移……《ホロウ・エリア》に【白の剣士】が絡んでそうなのを考えると物凄く面倒事があるように思えるのは私の気のせいなのかな」

「いやぁ、ボクもサチと全く同感だよ」

 

 それでも行かないなんて選択肢は無いけどね、と彼女はあっけらかんと言い切った。謎めいたエリアを探索したいという欲求より、やはりキリト君と彼方で知り合ったルクスさんをグリーンカーソルに戻してこちらへ戻って来られるようにしたいと思っているからだろう。

 まぁ、キリト君に関しては、たとえすぐにオレンジを解消出来たとしても、暫し時間を置かなければならないのだが。それを考えるとオレンジのせいで帰れないという理由が出来るから、此方に帰らずに休む為に都合はいいのかもしれない。

 

「これから夕食を摂った後、午後八時になってからボクが皆を連れて《ホロウ・エリア》に行く予定になってる。姉ちゃん達もそのつもりで居て」

「今すぐに行かないのね」

「人目があると、転移出来ない筈なのに出来ているって事で問題が起きるからね。人目のない時間を選ばないといけないんだ」

 

 かと言ってあんまり遅くても迷惑になりかねないから、午後八時らしい。その辺をしっかり考えられるようになったのは成長している証なのだろう。

 ……私の指揮も、もう要らないのかもしれないなと、何となく思った。

 ユウキの成長はとても喜ばしいし受け容れるべき事なのだろうけど、あまり手が掛からなくなり過ぎるとそこはかとなく寂しく思ってしまう。彼女に置いて行かれたくなくて、姉としての意地を張りたくてここまで戦って来た身としては、あまり頼られなくなると不安になるのだ。

 無論、彼女にそんなつもりは一切ないのだと、むしろこちらの負担を軽減しようと努力している事は理解している。でもそれとこれとは少し別の話だ。

 

「……サチ、ちょっと頼みがあるんだけど、良いかな」

 

 そんな事を考えて一抹の寂しさを噛み締めていると、こちらを見ていたユウキがふと真剣な面持ちを浮かべ、サチさんへと話し掛けた。

 

「何?」

「ボクは少し姉ちゃんと話がしたい。悪いんだけど、サチは下に行って姉ちゃんが復活した事と、夕食の時間になったらボク達にメッセージで教えて欲しいんだ。頼めるかな」

「それくらいなら喜んで」

 

 ずっと精神が不安定だった私に付き添ってくれていたサチさんは、ユウキのお願いに嫌な顔一つせずにこりと微笑み、その頼みを快諾した。ソファに座っていた彼女はすっくと立ちあがり、すぐに部屋を出て行く。

 

「……」

「……」

 

 サチさんが部屋を出て行ってから少しの間、私達は互いに顔を見合いながら沈黙を保っていた。彼女が何を話そうとしているのか私には分からないし、何か話掛け難い雰囲気を彼女が醸し出していたから、どう声を掛ければいいか迷ったのである。

 ユウキはサチさんに見せた表情よりも更に真剣な――――ともすれば、険しいとすら思える面持ちになっていた。

 同時に、何かを悔やんでいるような、そんな苦しげな部分も垣間見えて、尚更分からなかった。何が彼女を苦しめているのか、何を悔やんでいるのか分からなかったから、どう話し掛ければいいのか迷った。

 

「……ボク、姉ちゃんに謝らないといけない事があるんだ」

 

 その居心地の悪い沈黙を破ったのは、ユウキの方だった。彼女は顔を更に険しくさせ、僅かに視線を落としながら、まるで懺悔するように言う。

 

「謝るって、何を……?」

 

 いきなり行方知れずとなった事も、元を正せば原因不明の強制転移によるものだから彼女に非はない。私を不安にさせたという事もあってさっきは謝って来たのだろうけど、もうそれに関しては許したも同然だから、私はそれを追及するつもりなど毛頭無かった。

 現状彼女に非がある事など考え付かなくて、私はどこか気の抜けた声で問い掛ける。

 

「あのデスゲームが始まった日。ボクは本当は、姉ちゃんが一緒には来る事は無いと高を括ってた」

「それは……」

 

 唐突に打ち明けられた、あの日のユウキの本音。

 それは完璧に正鵠を射ていた。事実私は死を恐れていて、だからこそ引き籠ろうと考えていたのだから。

 

「退けられる死から逃げたくないと、立ち向かいたいんだと、誰かに《紺野木綿季》という人間を覚えていて欲しいんだと言ってる間、ボクは姉ちゃんは来ないと思ってた。それでも良いと思って、姉ちゃんがボクを引き留められない事を口にしてたんだ――――でも、姉ちゃんは一緒に戦うと言った」

「ええ……だって、ユウキを一人で行かせて自分だけ安全なところに居るなんて、そんな事は許せなかったから……死なせたくなくて、喪いたくなくて…………置いて行かれたく、なくて……」

 

 普段なら、絶対に口にしていないだろう本音は、思いの外アッサリと漏れ出た。それは彼女が本音を出している事よりも、彼女が居なくなっている間の名残りがまだあって、私の心をとても弱くしているからだと思う。

 デスゲーム宣言があったあの日の自分に戻ったかの如く。

 あの日の事を、そしてユウキが居なくなってからの事を思い返しながら言うと、ユウキは少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。

 

「そう想ってくれていた事は凄く嬉しい。来ないだろうなとは思ってたけど、姉ちゃんが居てくれたからきっとここまで戦い抜けられたんだと思う……だから、今までずっと、見て見ぬふりをしてきたんだ」

「見て見ぬふり……?」

 

 嬉しそうに話していたのに、唐突に悲しげに、あるいは懺悔するように表情を暗いものにして口にした事を、オウム返しに呟く。

 私達のこれまでの関係で見て見ぬふりをしてきた事なんて、少なくともSAOに入ってからは考え付かない。確かにそれぞれが知らない、あるい敢えて触れていない事はあるだろうけど、だからと言ってそれで責められるような事は無かった。

 だからユウキの偽悪的な言葉には、疑問しか浮かばない。

 そんな私を、彼女はとても苦しげな顔で見詰めている。まるで今の私自身がユウキにとって罪の象徴であるかのように。

 

「ユウキ……どうしたのよ、そんな顔をして……」

 

 ここまで自責感に囚われているユウキは見た事なくて、何だか心配になって声を掛ける。

 

「……本当ならあの日、姉ちゃんを止めるべきだったんだと思う。少なくとも、ボクが居なくなっても崩れなくなる覚悟を抱けるまで、きっと姉ちゃんを戦わせたらいけなかったんだ」

「えっ……いきなり、何を……」

 

 抱いた心配は不安になって、その不安が大きくなって、どくどくと心臓が激しく脈打っているのが耳元に聞こえるくらい嫌な予感を覚えた。それを聞いてはならない、あるいは理解してはならないという予感がした。

 

 ――――ああ、でも、ユウキがここまで真剣な顔をしているのだ、聞かないなんて選択肢などあるものか。

 

 恐らくずっと心の内に秘めていただろう懊悩を、本音を、彼女は語ろうとしている。きっととても勇気のいる行動なのにしようとしているのだ、それから目を逸らし、耳を塞ぐなど、彼女の決意を不意にするようなものに等しい。

 彼女が話そうとしている事はきっと避けては通れない事で、私にとっても非常に重要な内容なのは間違いない。そうでなくば私達の過去を持ち出して、私が戦う理由について触れたりしない筈なのだから。

 だから、私も覚悟を決めて耳を傾ける事にした。

 その覚悟が伝わったのか、あるいは私が覚悟を固めた時に意を決したのか、直後彼女は口を開いた。

 

「五時間前、ボクが転移で突然消える寸前に見た姉ちゃんの顔で確信した。姉ちゃんは、死そのものを恐れてる。死を齎すモンスターとかじゃない、必ずやって来る死そのものを姉ちゃんは恐れていて、ボクの為に戦うとかの理由で目を逸らしてる……違う?」

「…………」

 

 ハッキリと、彼女は私が最も恐れているものを言い当てて来た。肯定も否定もせず沈黙を保ったが、その沈黙こそが是。それを理解したユウキはやはりと眉根を寄せ、表情を険しくする。

 核心を言い当てられた私は、何を話すべきか分からなくて、口を開かなかった。

 けれど彼女の推察は完璧に当たっていると理解していた――――否、させられた。ユウキが居なくなってからこれまでずっと不安に揺れていたのは、彼女が居なくなったという喪失感からくる哀しみでは無く、死という最も恐怖するものから目を逸らすための理由が無くなってしまったからだったのだ。

 想いを自覚した時にはもう居なくなっていたから『キリト君を支える』という理由は使えないし、《攻略組》の一員と言っても、その実アスナさん達を絶対に生かせたいとまでは思っていない。

 無論生きていて欲しいし、その為なら努力も惜しまないので、別に死んで欲しい訳でも無い。単純に死から目を逸らせるだけの大きな存在では無かったのだ。

 ユウキは分からないけれど、私にとって友人など、何時手の平を返すか分からない存在。親しくはあるが、有害と分かれば敵になる存在でしかない。幼い頃に親しかった人が成長すれば疎遠になる程度という認識。親友はそれより成長しても交流があるというワンランク上の認識である。

 このSAOではアスナさんやクラインさん、エギルさん達ととても親しい関係にあると思う。サチさんは同じギルドメンバーになっているのだ、生死を共にしていると言っても過言では無い関係にあるのだからとても親密ではあると思う。

 でも、このSAOから生還すれば交流が途絶える可能性は高い。SAOに囚われている学生達の為に一括して学校に入学させられた場合は交流があるかもしれないが、二年近くも眠っている間に変わった現実への対応や将来の為に動かなければならない状況が原因で、それどころでは無いかもしれない。

 そもそも、彼女達が私達の経歴を聞いて手の平を返さない、などという可能性が絶無な筈が無い。過去見て来た人達よりとても思慮深く親しみやすい人柄だとは思うが、だからと言って拒絶されないという可能性は無いのだ。

 だから私にとって友人とは、HIVウィルスのキャリアであった事を受け容れた人の事を指す。つまり現状だとまだ一人も居ないという事になる。

 キリト君はまた分類が難しい。フレンドを結んでいるし、彼が死んだと聞いた時の喪失感からして明らかに私は特別な想いを持っているけど、だからと言って全面的に信用するのは厳しいのだ。まぁ、キャリアだと話しても『受け入れてくれたから』という理由で交流が続きそうな予感がとてもしているが。

 ともあれ、特別な想いを抱いているキリト君が居なくて、アスナさん達も私が恐れる死から目を逸らす理由になり得ない状況下では、唯一ユウキだけが頼りだった。彼女が生きているから私も戦えると言っても過言では無い。

 故に彼女が転移で居なくなってからずっと不安に陥っていたのだ。死から目を逸らす為の理由を喪っていたから。

 今思えば、ユウキが部屋に来る前に聞こえていた声は、ともすれば自分の妄想が作り出した幻聴、現実逃避故に起こった現象だったのかもしれない。

 それについて一切話していないのだが、ユウキは転移の光で視界が埋め尽くされる前、私が伸ばした手に触れようと手を伸ばしてきた時にこちらの顔を見て察したようだ。

 ひょっとしたら、《圏外》に出ない時以外は基本ずっと一緒に居たのは、それに勘付いていたからなのか。だとすれば随分と前から察せられていた事になるから恥ずかしい限りだ。

 

「……ええ、あなたの予想通りよ」

 

 そこまで察せられているなら、もう意地を張って隠し通す必要も無いと思ったので全部打ち明ける事にした。どの道この機会を逃せば今後ずっと黙っているような予感がした。ずっと秘密を抱えていられるほど私は強くないし、黙っていても意味が無いのなら、全部打ち明けて楽になった方がマシだ。

 凄く恥ずかしいけれど、とても情けないけれど。

 もう私は、限界だったのだ。

 

「私とあなたは生まれた時からHIVに罹っていたから……ずっと先にある筈の死が、とても身近に感じられていた」

 

 免疫系が働かなくなる事で普段なら防げている菌すらも殺せなくなり、次々と病を引き起こす日和見感染症。人間の体は菌だらけ、外界も菌だらけだから、すぐに発症して体はドンドン悪くなっていく。食べ物もとても気を付けなければならないし、投薬も凄く苦しかった。

 同時に、HIVウィルスによる症状を聞かされて、今の所治療法は無いと言われた時は絶望した。ただ普通に生きたいだけなのに、それすらも許されないなんて絶望しか無かった。

 早ければ成人になる前後、遅くても五十歳くらいには亡くなる、それも無菌室の中で生きながらにして死んでいる状態で。

 そんな未来をいやにリアルに想像出来て、私は死を恐ろしく思った。

 骨髄の移植手術で免疫系が再活性化している今その未来はもう訪れないけれど、今度はデスゲームなんて狂った世界で戦わなければならない。漸く死が遠ざかったと思えば、そんな事は無くて、より死を身近に感じる場へ足を進めなければならないなど悪夢だった。

 その部分でユウキを憎く思った事は何度かあるけど、彼女は悪くないと自らを落ち着け、その憎悪を茅場晶彦へと向けて来た。今となっては誰か分からない黒幕だ。

 

「恐れ……そう、怖いのよ。死ぬ事が凄く怖い。漸く生きられると思ったのに、その矢先にデスゲームだなんて、ふざけないでと何度も思った」

「……」

 

 ユウキは、私が語り始めた恐怖への本音を、真剣な顔をして黙って耳を傾けていた。

 相槌も無いその様子に、けれど私は聞いてくれていると思って、次々と浮かんでくる言葉を口にしていく。

 

「人が恐ろしくて、モンスターも恐ろしくて、生き残る為に必死に強くなって……でも、それでも、どうしても死がチラついて仕方ない。この作戦が失敗したらどうしよう、トラップを踏んだらどうしよう、モンスターの行動を読み違えたら死ぬんじゃないかって、ずっと不安があった」

 

 そういう意味ではキリト君は私にとって未知の存在。最も幼いのに強大なフロアボスへ単独で立ち向かうその姿を見て、私は何度も正気を疑っていた。人と一緒に行動しない原因については理解したけど、だからと言ってそこまで徹底しなくてもいいのではと思って、パーティーを組もうというユウキの申し出も一度とて止めた事は無い。既に惚れていたから、という無自覚の理由もあったかもしれないけれど。

 でも、彼には一人で戦い抜けるだけの実力があった、レベルがあった。元ベータテスターという絶対的なアドバンテージをフル活用して戦えていた。

 対して、私にはベータテストの知識はおろかマトモなゲーム知識も無くて、アルゴさんの攻略本が無ければ即座に立ち往生していたのは必至。一ヶ月ほど掛けて何とか実戦レベルになり、今では完全少数精鋭ギルドのリーダーとして名が知られているけど、ユウキやキリト君、アスナさんに較べれば私はとても弱いのだ。実力も、心も。

 とても強い人達と一緒に居るから死ななかったという側面があって、その人達と自分を較べるから、何時も死がチラついて不安だった。もっと大人数のパーティーに入ればとも思うが、過去の経験からあまり人を信頼出来ないのに加えて女性プレイヤーが少ない為に身の危険を幾度も感じて人を避けて来たから、サチさんが入るまで二人パーティーでずっと戦っていた。手が回らなくなったらすぐに死ぬ為に、常に死を考えてしまっていた、サチさんが入って来ても依然変わらずだった。

 本当ならすぐに逃げたかったけれど、ユウキはむしろ立ち向かっていたのだから逃げる訳にはいかなかった。

 言い訳と言うなら言え。私は彼女を理由にしなければ、死があまりにも恐ろしくて碌に戦えないのだ。

 それは、サチさんよりも酷かったに違いない。

 彼女はモンスターを恐れ、死を恐れていたけれど、キリト君の事が心配で《攻略組》へ参入する事を決意した。主にユウキに師事し、偶にキリト君からも槍の手解きを受け、焦らずしっかりと訓練を積んできた彼女は、今や《攻略組》を代表するSAO随一の槍使いへと成長している。

 彼女は根本的に変わっていないから、まだモンスターも死ぬ事も怖いと思っているだろうけど、それよりも強い意志を持っているから戦えている。《ジ・オリジンリーパー》を相手にした時に《長槍》と《投擲》の複合単発ソードスキル《ゲイ・ボルグ》を咄嗟に放てたように。恐れたままだったら、決してあの反応は出来なかったに違いない。

 でも、彼女と違って、私は未だに死を恐れ続けている。

 どうしてユウキやサチさん、アスナさん達は死を前にしても立ち向かう意思を保てるのか不思議だった。私のように目を逸らす理由があるのかとも思ったけど、何か分からなかったから、その思考も放棄して久しい。

 ――――涙を零しながら、真剣な面持ちを崩さないユウキへとそれらを語っていく。時折支離滅裂な感じになって聞き取り辛いだろうに、理解し辛いだろうに、一言一句聞き逃さないとばかりに真剣な様子は、とても安堵させられる。

 

「ユウキ、お願い、教えて……どうして、どうしてあなたはそこまで強いの」

 

 その疑問は、あの日からずっと私が抱いているものだった。

 今までずっと一緒に生きて来た双子の妹について、このSAOに来てから分からない事が増えた。無論別の個人なのだから知らない事、分からない事が出来てもおかしくはないけれど、その疑問だけはその理由で片付けられなかった。

 私と同じ境遇にあったのに、どうして彼女は死を恐れないのか。たとえモンスターという退けられる死と戦ったとしても、死んだら意味が無いというのに。

 隣にベッドに腰掛けてずっと話を聞いていたユウキは、私のお願いに、一つ小さく息を吐いた。呆れている様子では無いそれは、恐らく意を決する為のもの。

 

「……戦うと決めた理由は、あの話した事で全部。でも、多分姉ちゃんが思ってる『強い』っていうのは別の事だよ」

 

 あの日語られた事。不治と思われた病が完治して生を勝ち取れたからこそ退けられる死からは逃げず、立ち向かうという決意。また、他の人がクリア出来る保障なんて無いし、もし二年ほどしか体が保たないのならギリギリ間に合わないかもしれないから、そのギリギリを補う為に行くのだという事。

 それを私は強いと思っていたのだけど、彼女にとってそれは特別では無いらしい。

 私が彼女に抱いている『強さ』は、その動機ではないという。その動機を抱く事になった部分を強いと思っているのに。

 

「以前話したようにボクはキリトに恋をしてる……それこそ、キリトの為なら命すらも擲てるくらい。事実七十五層ボス部屋で別人格のキリトがオレンジ達を殺そうとした時、ボクは自分の命を犠牲にして、彼を止めようとも考えた」

「なっ……?!」

 

 そんな事は初耳だった。死ぬ事を恐れるどころか、死を受け容れる事まで考えていたなんて思わず、絶句してしまう。

 けれど、彼女はそれだけじゃないと言葉を続ける。

 

「キリトを見殺しにするくらいなら、ボクはこの手を穢す覚悟もしてる。姉ちゃんに軽蔑されようと、キリトに怖がられようと……キリトが生きてくれるならボクは躊躇い無く剣を振るえる。神童に対してキレた時のように、オレンジ達が邪魔した時のように」

 

 確かに、第七十五層のボス部屋で繰り広げられた死闘の最中、ユウキの様子は今まで見てきた彼女とはとてもかけ離れた存在のようだった事を覚えている。

 あそこまで怒り狂ったのは生まれて初めて見たし、《笑う棺桶》掃討戦の時と較べてもオレンジ達に向けた怒気や剣気は鋭く重かった。離れたところから見ていたのにそれが分かったのだから、実際に相対した者達からすれば青天の霹靂に等しかっただろう。人懐こい性格で知られている【絶剣】が殺気混じりに怒り狂うなど彼らが予想出来た筈も無い。

 その根底には、やはり想いを寄せるキリト君が関わっているようだった。タイミング的にそうだろうなとは思っていたが、よもやそこまで深いとは予想外である。

 

「軽蔑してくれてもいいよ」

 

 あまりの覚悟に、そして彼に向ける想いの深さに絶句していると、キッパリとした口調で彼女はそう言って来た。

 その表情はどこか暗く、けれど誇りに思っているかのように、毅然とした凛々しいものだった。

 

「それでも、ボクはこの想いも、覚悟も変えない。ボクだって死ぬ事は怖いし、死を齎す存在も怖いけど……それよりも、大好きな人が居なくなる方が恐いんだ」

「ユウキ……」

「多分、姉ちゃんがボクを『強い』って思ったのはそこなんだ。姉ちゃんは死を恐れている状態を『弱い』と思ってる、そしてボクは死そのものじゃなくてキリトが死ぬ事を最も恐れてるから、戦える。強くないと護れないから」

「……」

 

 彼女の推察を聞いて、なるほどな、と納得を抱いた。そういう事なら確かに私と彼女で強いと思っている事に食い違いが出るのも当然だ。

 でも、それだとまた疑問が出て来る。

 

「……それなら、あの始まりの日は、あなたも怖かったの……?」

 

 デスゲーム宣言の日、私達は当然ながらキリト君と出逢っていない。彼と出逢うのは一か月後のボス攻略会議、ないしボス攻略当日なのだ。

 ユウキが死への恐怖を克服した理由がキリト君の死を恐れたからならば、逆説的に会っていなかったあの日は彼女も死そのものを恐れていたという事になる。それでも一人ででも行くと決断したのは、やはり私にとってとても強く感じるし、眩しく映る。

 その私の問いに、彼女は静かに瞑目した。

 

「……実を言うとね、凄く、怖かった。だから見て見ぬふりを今まで続けて来たんだよ。一人じゃ絶対に死んでたから、姉ちゃんと一緒だったら安心だなって……良く言えば仲間が、悪く言えば、道連れが出来たから」

「……そう」

 

 道連れ、という言い方は的を射ていると思ったが、それに悪感情を抱く事なんて無かった。その扱いでも私を欲してくれていたのだとすら思え、今更ながら喜びの感情が湧いて来るくらいだ。

 きっと、私の心の何かは、取り返しのつかないところまで摩耗している。死を恐れているというのに、死を前提とした道連れに喜ぶなど矛盾しているのだから。

 嗚呼、でも、それでも良いと思えるのは、きっとユウキが私にとって最も大切だから。一番内側に居る、何もかもを打ち明けられる存在だからだ。

 

「……軽蔑、しないの?」

 

 改めて、私にとって双子の妹がどれだけ大切な存在なのかを噛み締めていると、どこか不安そうな面持ちで小首を傾げ、ユウキが訊いて来た。

 私はそれに、笑顔で頭を振った。

 

「しないわよ。むしろ、この場合は私がされてもおかしくないんじゃないかしら。ずっとあなたを私が戦うための口実にしていたのよ」

「全然気にしてないよ。大体、見て見ぬふりしてたんだからボクが責めるなんて完全にお門違いだし……多分他の皆も責めないと思う。きっとこの世界に居る誰もが何かしらを口実にして、死に対する恐怖から目を背けてるから……キリトだけ怪しいところだけど」

「ああ……それは、確かに……」

 

 彼の場合、他者が目の前で死ぬ事を最も恐れているから、自分の死なんて恐れていない感じがする。

 ユウキがさっき語った事に近いが、彼女は自分の死も恐れているから無茶や無謀な真似は基本しないが、キリト君は他者の為なら自分の死すら度外視なので、完全に別物だ。むしろ度外視していなければ、外周部から放り出されたリーファさん達を、オレンジカーソルなのに助け出そうと行動しないだろう。

 とは言え、自分の命を犠牲にして止めようとした、という話を聞いた身としては大して差が無いような気もしている。

 まぁ、キリト君のように大多数に向けての自己犠牲では無く、彼個人に対するものだからまだマシと今は思っておくべきだろう。必ずその行動はしないようキツく言い含めておかなければならないが。

 

「だからさ、ボクが姉ちゃんに出来るアドバイスは一つだけ。死への恐怖よりもずっと強い、想いを持つ事だよ」

「死への恐怖よりも強い、想い……」

「ボクなら、キリトや姉ちゃんを喪いたくないから、見殺しにするくらいならこの手を穢す、死を齎す者に負けないように強さを求める……何時来るか分からない死よりも、自分が欲しいと願う幸せを求めて走った方が、凄く幸せだと思わない?」

 

 にこりと、まるで甘い砂糖菓子をたくさん食べたような幸せそうな笑みを浮かべ、とても楽しそうにユウキは言った。想いを寄せている彼と結ばれる事を望み、目指し、共に生きられるよう腕を磨いている彼女らしい理由だ。特に今もとても幸せそうなのが説得力を持たせる。

 ここ数日は暗い様子だったけど、彼の生存を知ったからか、一気に持ち直していた。本当に彼が生きていてよかったと喜び、まだ未来があるのだと幸せを噛み締めているのがよく分かる。

 いいなぁ、と思った。

 自分にとても正直な彼女は、自身の恋心を隠していない。告白はしようとしたもののアルゴさんの乱入でお流れになってしまったため、彼も多分まだ気付いていないらしいが、何れ必ずまた挑戦すると聞かされた。

 ここまで自分に素直だと、とても楽しそうだった。死への恐怖は潜在的にあるのだろうけど、それを忘れさせるくらい今という幸せを噛み締め、楽しんでいる。

 私も彼女を見習って、もうちょっと自分に素直になってみようかと考えるくらいに、幸せそう。

 

「……そうね……私も、少し素直になって追い求めてみようかしら……」

 

 キリト君への想いを自覚して、更には生存を知ったのだ。やる前から諦めるくらいならもう少し自分に素直になって、願うまま、欲のままに生きてみるのもいいかも知れない。ずっとずっと死や人に恐怖を抱いて生きて来たから、ちょっとくらいは許される筈だ。

 死の恐怖が無くなった訳では無い。人に対する不信感も未だ健在だ。

 それでも――――もう少し未来を信じてもいいかなとは、思える。死ばかりでは無く、生きて生を謳歌する未来を信じようかとは。

 

「……ん、姉ちゃん、良い顔になったね」

「そうかしら……」

「断然良いよ。もしかしたら、今まで見て来た中で一番良い笑顔かもしれない」

 

 優しく微笑みながら言うユウキの言葉を聞いて、今自分は笑っているのかと手でぐにぐにと顔を触るが、当然分からない。鏡も部屋には無いし、わざわざ愛剣エルトゥリーネンをストレージから取り出し、刀身を鏡代わりにするのもアレなので、仕方なく手を下ろす。

 

「どんな顔だったの?」

「満面って訳じゃ無いけど……凄く優しそうに、穏やかに微笑んでたよ。慈愛に溢れてるって言うのかな」

「そう……」

 

 そんな顔をしていたのか、と我ながら恥ずかしい気持ちに駆られた。

 きっとそんな表情をしていたのは、キリト君と共に生きている未来に思いを馳せ、それを信じようと思ったからだと思う。彼に特別な想いを持っている自覚は持ったけど、まさか表情に出るまで深いとは思わなかった。表情に出やすいと言えばそうなのだろうけど。

 凄く恥ずかしくて、顔どころか耳まで熱くなっている気がして黙り込んでいると、ピロン、と軽快な音と共に視界端にメッセージ着信のアイコンが表示された。

 

「あ、サチからだ」

 

 隣で素早くメッセージを開いたユウキの声で、差出人の名前が分かり、すぐに用件も分かった。さっきユウキが頼んでいたように夕食の準備が整ったのだろう。聞いてみれば、実際そうだった。

 というか、気付けばサチさんが部屋から出て既に十五分以上経過していた事に今更気付き、内心驚いた。

 

「じゃあ行きましょうか。ヒースクリフさん達に心配掛けた事も謝らないといけないし」

「そうだね」

 

 そんな内心の驚きを完全に流し、ユウキに声を掛ける。

 頷いたのを見て立ち上がり――――ふっ、と足から力が抜けた。

 

「あっ……?」

「あ、危ない!」

 

 力が抜け、両脚の感覚もどこか遠く感じつつ床に倒れ込む最中、ユウキが慌てた様子で私を支えようとしてくれたのが見えた。

 が、あまりに焦っていたからか、普段の彼女なら絶対躓かないところでブーツの爪先を引っ掛けた。焦って足を前に出して私を支えようとしていたからだろう、彼女は碌に足を上げていなかったので、ブールの爪先が床を擦っていたのだ。当然支える足が後ろ、体だけ前に進んでいるから転倒してしまう。

 

「わあああ?!」

「きゃ……?!」

 

 結果、私の手を取ったのはいいものの、踏ん張る事も出来ていないユウキは私に圧し掛かる様に倒れ込んで来た。

 手を引っ張られていたので私の背中は床に向いているため、互いに向き合った状態で折り重なるように床へ倒れ込んだ。

 

 

 

 ――――そして、床に激突した私と、その私に覆い被さるように転んだユウキの唇が、しっかりと合わさってしまう。

 

 

 

「んむ……っ?!」

 

 さっきまでとても落ち着いていたユウキでも流石に驚いたようで、慌てて離れようと動き出す。けれど慌て過ぎている為か、それとも脚を絡めてしまっている為か、上手く立ち上がれないでいる。

 結果、荒い呼吸と、矢鱈と動く湿り気のある柔らかい唇の感触が伝わって来た。

 途中、ぬちゅ、と舌先が触れ合って水音が一つ立ち、唇がぬらりと濡れる。

 

「……ッ!!!」

 

 舌と舌の触れ合いという未知の感覚にビクリと体を震わせたユウキは、顔を真っ赤にしつつ、今度はしっかりと床に手を突いて上体を起こす。顔に当たっていた鼻息や唇の感触が遠ざかる。

 互いの唇にはとても細い銀糸が掛かっていて、すぐにぷつりと途切れ、ぽたりとこちらの唇に落ちて来た。

 離れた事をほんのちょっとだけ、残念、と思ってしまう自分が居た。

 

「ご、ごめん姉ちゃん! わざとじゃないから!」

「……ええ、分かってるわ」

 

 あたふたと焦った様子を見せる一昔前と何ら変わらない彼女の謝罪に微笑んで気にしていないと伝えると、ユウキはふぅと安堵の息を吐き、立ち上がる。

 その間に私は唇に落ちて来た銀糸――――互いの唾液を、舌でぺろりと舐め取った。何故だかゾクリと体の奥から訳の分からない衝動が湧き上がって来る。何故だか目の前に居る双子の妹に抱き着きたい衝動もあった。

 

「姉ちゃん?」

 

 湧き上がって来た最初の衝動は一体何だろう、どうして今湧き上がって来たのだろうかと考えていると、床に倒れたまま動かない私を見て不思議そうにしているユウキが手を差し伸べながら小首を傾げていた。

 どうやら起き上がるのを手助けしようと手を出したものの、私が考え事をして気付かなかったので、どうしたのかと疑問を覚えているようだ。

 彼女ならこの衝動を知っているのだろうかと思いつつ、今はいいかと横に置いて、差し伸べられている手を取る。するとすぐに引っ張り上げられ、立ち上がった。

 

「えっと……皆を待たせてるし、下に行こうか」

 

 恥ずかしげに顔を朱く染めたユウキが少し挙動不審気味に言って、こちらに背を向け、扉の方へと歩き出した。

 

「そうね……」

 

 私はそれに声を返しつつ、右手の指先で唇をなぞる。

 

「ん……」

 

 唇はまだ濡れたばかりでぬらりとしていて、なぞっている指先も濡れる。

 脳裏にはさっき感じたユウキの唇の感触がこびりついていた。視界一杯にユウキが居て、柔らかい感触があって、さっき唾液を――何故か自然と――舐め取った時の衝動もしっかりと記憶に残っている。

 今まで感じた事も覚えた事も無いこの不思議な衝動は何なのかと疑問を抱きつつ、さっきの場面を繰り返し思い出しながら、取り敢えず私は妹の後を追って一階へと向かった。

 




 はい、如何だったでしょうか。

 今話はラン視点で、キリトやユウキほどメンタル強くない人の心情を主に描写しました。大人でもすぐ死を覚悟して立ち向かえたりはしないので、ランならユウキに依存していてもおかしくないんじゃないかなと思って今話を書き上げております。

 ユウキとランの最大の違いは、死への恐怖を見続けているか否か。未来に死しか無いと思っているのがランで、何れ死ぬんだから他の幸せに目を向けようというのがユウキ。第七十五層ボス戦前のラン視点の描写で、ランは少し怯えていたけどユウキは他の人に較べて自然だったのは、この考えの違いに起因しています。

 『不治の病から生を勝ち取ったのだから今更退けられる可能性のある死から逃げたくない』というユウキの覚悟って、ひょっとするとSAOでトップを争うくらいオリハルコンメンタルなんではなかろうか。

 そしてランは完全に病みが入ってる。まだ軽度ではあるけど、五時間一緒に居ないだけで幻聴すら聞こえ始める辺りが案外酷い。まぁ、死んだかもという思考前提な部分があったから、というのも無きにしも非ずなんですが。

 最後の描写で分かるように《木綿季限定百合》に目覚めた(自覚無し)辺り、凄まじくユウキに依存している事が分かるのではないでしょうか(やり過ぎたと思わないでもない)

 まぁ、批判が多かったら百合な部分だけ消します。

 そんな訳で、ランも完全にキリト(ついでにユウキ)に堕ちました。双子姉妹のファーストキスは自身の姉/妹となったのだ。ファーストキスの定義を《好きな異性》と限定したらまだですが。そうなると今はリーファ&ユイの義理姉ズが先駆けてますね(嗤)

 第一層ボス戦の頃からキリトに既に惚れていたという部分はユウキと同様。過去虐げられていたから人間不信があるけど、キリトの言動から気を許した、のところまで。違うのはユウキがキリトと結ばれる未来を夢見ていたのに対し、ランはずっと死の未来に怯えていてそれどころでは無かった点と、人間不信がユウキより酷い事。思慮深いからこそ不信が強まってしまった、という感じです。

 で、今話でユウキに死の恐怖に対する本音を打ち明け、アドバイスを貰った事で少し改善。まだ依存傾向はあるもののちょっとだけ前向き思考に転換。既に喪失感から想いを自覚していた為に、ユウキとほぼ同じラインまで辿り着きました。

 姉妹揃って惚れた理由が一緒。でもその後も同じだとアレなんで、性格の違いから想いを自覚した切っ掛けに差を付けようと考えてこうしました。

 本人が居ないところで完全に墜ちるパターンって本作初めてなんじゃないですかね……

 では、次話にてお会いしましょう。

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