インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは

 今話は幕間。アリスとユージオ側の《人界》のキリト周りのお話。ルーリッド村での平穏な日々の一ページが中心です

 本編でアリスとユージオが対話するにあたり、前提としてここは描写しとかないと話が分からないと思ったので……

 キリトの年齢が凄く下がってますが、上級修剣士時点でリアルと同じ年齢になるようにした結果です

 兄貴姉貴してるアリスとユージオが見たかったんや……!

視点:第三者(前半ユージオ主軸→後半アリス主軸)

字数:約一万八千

 ではどうぞ




異伝 ~アリシゼーション・ディファレント~

 

 

「――――ごじゅ、うっ!」

 

 その掛け声と共に白く乾いた質感の両手斧を大きく振るう。触れれば冷たいと思える質感のある黒い巨木の幹に刻まれている傷跡へ、まるで吸い込まれるように刃が叩き込まれた。

 直後、コーン、と真芯を叩いた時特有の清々しい音が響き渡る。

 休憩を挟むまでの五十回という回数の内、最近漸く二、三回ほど出せるようになった音を最後に出せたのは嬉しいと思う反面、それでも今日の残りを考えるとげんなりもしつつ、両腕が疲れ切るまで振るっていた斧を地面に突き立て、杖代わりにして凭れ掛かる。

 ふぅ、と息を吐いて額に滲む汗を腕で麻の半袖服で拭っていると、さっと二つのものが差し出された。

 

「お疲れにいちゃん」

 

 差し出されたもので、右手のものが清潔感のある白い汗を拭う為の手拭いで、もう片方が水分補給の為に村の井戸で汲んで来たシラル水が詰められたなめし革の水筒。どちらもユージオの私物だ。

 

「ああ、ありがとうキリト」

 

 斧を黒い巨木に立て掛けた後、それらをさっと受け取り、差し出してくれた者にお礼を口にする。少年はそれににっこりと笑みを浮かべた。

 手拭いと水筒を差し出してくれたのは幼馴染で、少し前十一歳になったばかりのユージオより七つ年下の四歳になる少年。

 名前はキリト。ノーランガルス北帝国の人間にしては珍しく髪も瞳も黒い少年だ。北方の地では瞳か髪の片方が黒くとも、他は茶色だったりと色が異なる場合が多いので、そういう意味で珍しいとされる。

 更に特異なのはその容姿。性別はれっきとした男だがユージオと親しいもう一人の幼馴染に勝るとも劣らない綺麗な容姿をしていて、遠目どころか近くで見ても少女にしか見えず、まだ年端も行かないから中性的なのも手伝って美少女と言っても過言ではない。後ろ腰まで伸ばされた黒髪もそれを際立たせていて、何か意味でもあるのか彼はその髪を切ろうとしないので、余計村の子供達から《おとこおんな》などと言われている。

 キリトはとある幼馴染を含んでもルーリッドの村で一、二を争う程の美貌を持っているとユージオは思っているし、恐らく大半の村人も同意見だろうと確信している。

 色々言われている事はあるが、当のキリトが嫌がっているならまだしも特に気にしている風には見えないので、そういう呼称を耳にしてもユージオは特に注意する事は無い。性格的に事なかれ主義という事もあって割り込めないというのもあるが、キリト本人が気にしていないなら関係ない自分が何か言うのは筋が違うと思っているからだ。

 そんな少年と木陰へと移動して真夏の日照りから逃げたユージオは、受け取った手拭いでさっと汗を拭き、水筒の栓を抜いて軽く呷る。

 井戸から汲んだばかりのシラル水は真夏日でもキンキンに冷えていて美味しいのだが、井戸から汲み出して五分もすれば温くなってしまう性質があるため、朝に詰めた水はとても生温かった。それでも汗を掻いた体に染み渡るような美味しさが口内に広がる。

 それを飲み下した後、隣でにこにこと微笑み続ける少年に顔を向ける。

 

「それにしてもキリト、今日みたいに凄く暑い真夏日までこんなところまで来なくていいんだよ? 天職を与えられたら遊ぶ自由も無いに等しいんだし、今のうちにいっぱい遊んでおいた方がいいよ」

 

 北部辺境地域にあたるルーリッドの村に住む子供達が天職を与えられるのは十歳になってからと、村の掟こと正式名称《ルーリッド村民規範》――厚さ二センほどに綴られた羊皮紙の束――にしっかりと記されている。

 かく言うユージオ自身も現在の天職に就いたのは誕生日である十歳の春先の事。今年で二度目の夏を迎えたものの未だ天職に慣れる気配はなく、日がな一日汗水流して重たい斧を振るい、七日に一回ある《定休日》も専ら体の休息に充てる毎日だ。《定休日》なら遊ぶ時間も出来るというものだが体力的に厳しい現在では難しいと言わざるを得ないだろう。

 そして四歳になったばかりのキリトはまだ六年ほどの猶予がある。

 自分の天職は木こり。より正確に言えば、ギガスシダーと呼ばれる大樹を伐り倒すべく、約三百年に渡って受け継がれてきた《刻み手》の天職だ。

 ギガスシダーは太陽神ソルスの恵み、地母神テラリアの恵みを余さず吸い取ってしまう魔の大樹。ルーリッドが森を開墾して畑にするためにも伐り倒さなければならない。一応現状でも開墾自体は可能だが、このギガスシダーを取り除かずに畑にしても恵みを受けられず、作物なんて育ちはしない。

 その大樹を伐り倒す大役を担っているのが《刻み手》と呼ばれる天職で、ユージオはその八代目の担い手となる。

 このギガスシダーはルーリッドの村から南に二キロルほども離れているので、真夏日ともなれば行き来だけですら汗を掻く。慣れた大人やユージオですら汗だくに――無論大人の方が体力的にマシではあるが――なるのだ。ユージオほど体力を鍛えていない子供のキリトはその行き来だけでも辛いのは想像に難くない。

 

「いいんだよ。おれが好きで来てるんだし」

 

 しかしキリトは苦笑しながら首を横に振り、そう言う。

 この問答も既に幾度となく繰り返されて来た。雪が積もる冬の日もほぼ同様の問答をしたのだが、同様の答えを返されている。

 この北端の村ルーリッドにて三百年に渡って黒い大樹ギガスシダーを伐り倒すべく竜骨の斧を振るう刻み手の天職を担ったユージオに、以前からキリトは非常によく懐き、慕ってくれている。

 悪い気はしないのだが、ギガスシダーの幹へと斧を振るう仕事の都合上、ユージオはあまり構ってあげられない。体力と時間的な余裕が無い現状で他の事に現を抜かしていては天職を満足にこなせないからだ。

 ギガスシダーを伐り倒すだけに何百年も掛かっているのは、一日で刻んだ分の半分を大地と天から吸い取った恵みで戻してしまうから。それを延々と繰り返しつつ、めげずに先代達が刻んだ数十センの傷へ、ユージオも同じように毎日規定回数斧を叩き込まなければならない。

 その回数は一日に二千回。朝八時から正午までの午前四時間と昼食が終わってから午後五時までの四時間、都合八時間の間にそれだけ振るうのが日課となっている。目安としては午前一千回、午後一千回だ。

 慣れた大人であれば会話しながら可能で、事実先代の刻み手であったガリッダという名の老人は疲れた素振りも見せず、真芯へ百発百中の一撃を叩き込んでいた。

 まだこの天職を継いで一年ほどしか経っていないユージオはそこまで慣れていないし、肉体的にもまだ大人には程遠いから余裕もない。真芯に叩き込まなければ上手く傷を深める事が出来ないので集中もしなければならない。自然と会話は出来なくなってしまうのだ。

 だからユージオは天職を全うしている間、キリトを構う事が出来ない。内心では構いたいとは思っているが天職を疎かにする事は出来ないのだ。優先順位で言えばどうしても天職の方が上になってしまう。

 遊びたい盛りなのはユージオもだが年下の少年の方がもっと旺盛だろうから、遊んであげられない自分よりも同い年の子供達と一緒に居た方がいいのではと何時も思う。

 

 だがキリトはユージオとユージオが幼馴染と思っているもう一人の少女以外には、基本的に懐いていない。

 

 より厳密に言えば同じくらいの子供達はおろか大人にすら心を開いていない。歳に反して非常に理知的なので表面上は親しくしているが、実際は二人以外に心を許しておらず、必ず一定以上の距離を開けて会話を交わすようにしている。

 これにはキリトの生い立ちが関係していた。

 キリトは今から四年前に流行した疫病が原因で二親を亡くしてしまった唯一の子供だ。親戚達がその処遇で揉めた末に、現在は教会に住み込んでいる子供の一人になっている。

 村で一つだけある教会には他にも似たような境遇の子供がいるが、大抵は子供が多過ぎて経済的に十分育ててあげられないとか、片親が居なくなって稼ぎが少なくなったから天職を得て働けるようになるまで預けるといった、基本的に一時的に預けられた子供達ばかり。成長すれば生家に帰れるのだ。

 しかしキリトは違う。二親の兄弟姉妹といった親戚達は珍しい瞳と髪色をしたキリトをまるで腫物を扱うかのように接していて、その処遇を決める際にも押し付け合っていたようで、教会に預けられた彼の顔を見に来たという話は一度も無い。

 そもそも親身に接する大人と言えば、教会を運営している修道士だけで、次点で平等に接する村長くらい。他は彼の髪色や生い立ちから不気味がるばかり。

 そんな光景を幼い頃から見ていては、どれだけ幼くても人に心を開かなくなるのはむしろ当然と言えた。

 

 そんなキリトがユージオと幼馴染の少女に懐いているのには二つの要因があった。

 

 一つ目の要因は、キリトがユージオと同じ天職に就く事になっているからだ。

 

 ギガスシダーの刻み手は、一代につき二名選任される事が村の習わしとなっており、八代目は既にユージオが選ばれている。その相方としてキリトが選ばれる事になっていた。

 ルーリッドの村では天職は《刻み手》を除いて基本的に親から子へと子々孫々同じものが受け継がれている。道具屋の子は道具屋に、衛士の子は衛士に、村長の子は村長へと、親の仕事を引き継ぐ形で子もその天職を担うのだ。

 これは独自の手法や商売の方法などを効率よく伝えるためとされており、また子供の頃から積んだ経験を活かし、出来るだけ大人になってからも安定して天職をこなせるようにという意図があってこうなっている。

 つまり天職は親から技術を受け継ぎ、伝えていく事で安定する。

 裏を返せば、親がいない子供では安定して天職をこなせない。親が商売をしている姿を見ていなければどうやって店をやりくりすればいいか分からないし、畑の効率的な耕し方も分からないから、畑を継いだとしてもまともに作物を育てる事は出来ない。

 《刻み手》に必要とされるのは、斧を満足に振るうだけの体力と、決して伐り倒せない魔の大樹を前に延々と斧を振るい続ける仕事に耐える忍耐力の二つだけ。そんなのはその気になれば子供でも出来てしまう。事実ユージオも諦観と共に受け入れ、この一年と少しを半ば惰性のまま過ごしてきた。

 だからこそ、親がおらず、碌に技術も受け継いでいないキリトではマトモな天職はこなせないとルーリッドの村長ガフストは判断し、ユージオと同じ大役という名のある種の拷問に等しい天職に就く事を命じたのである。

 村の発展のためを思えば確かにこれは大役だろうが、言い方を悪くすれば体の良い厄介払いのようなもの。

 キリトが構ってもらえないのも承知で毎日欠かさずギガスシダーの下に通い甲斐甲斐しくユージオの世話を焼いているのは、何れは同じ天職をこなす者だからという意味も込められている。あとはユージオと同じように天職で此処へ通う事になる日までに、この行き来に馴れておくという目的もあるかもしれない。

 キリトがユージオに懐いている理由は一つ目だろうが、此処に足繁く通っている理由の幾らかは二つ目が当てはまる。

 

 もう一つの要因は、ユージオと幼馴染の少女二人で幼い頃から面倒を見ていたから。

 

 ユージオの幼馴染である少女は村長ガフストの二人娘の姉の方なのだが、血縁的にキリトはその従弟として生まれた。具体的に言うと、キリトの父親はガフストの弟だった。

 ユージオはその少女を介してキリトと邂逅し、ひょんな事から、まだキリトが小さな頃から面倒を見る事になったのだ。

 面倒を見るきっかけは些細なものだったが、面倒を見る事になる日よりも前に遡れば、ユージオ自身にも原因があると言えた。

 ユージオと同い年の次期村長候補と名高い少女は男勝りな性格だったので、よく男子に混ざって外で走り回っていた。

 しかしその少女は運動だけでなく勉学にも秀でていて、どちらかと言えば勉学寄りであまり遊ばなかったユージオですら敵わない秀才ぶりを、幼い頃から発揮していた。一時期は勝とうと必死になって勉強していたものの結局一度も勝てなかったのは、今となっては良い思い出である。

 そんな勝負をしていた関係でユージオはその少女と親しくなった。

 次期村長候補という色眼鏡で見ずに勉強で勝負をしていた事も、ひょっとしたら仲良くなる要因の一つだったのかもしれないなと今になって思っている。これが自身にも原因があるとユージオが考えている理由である。

 そして何時の間にか男友達と一緒に居るよりも長い時間話すようになった頃のとある日の朝、ふと思い出したようにその少女に誘われたのだ。

 

 曰く、今日は叔父の子供の面倒を見ないといけないのだけど、一緒に来ないか、と。

 

 子供の頃から聡明であった少女は、どうしても教会の修道士が手を離せない時間を子供の世話をするのに充てる事にしていて、その手伝いに駆り出されたという訳だ。

 そして少女に案内された家で、すやすやと眠りこける小さな子供キリトと出逢ったのだ。ちなみにこの時、キリトは一歳、ユージオ達が八歳である。

 子供の世話なんて勝手が分からなくて幾度少女にどやされたか分からず、当時は早まったかと悔いたものの、今となっては受けて良かったかもしれないなとユージオは思っている。

 またキリトは自らの二親の親戚達からは不気味がられて敬遠されており、大人達から色々と言われた子供達からも遠巻きにされているが、ユージオと少女はよく面倒を見ていたから距離を離さなかった。

 黒は暗黒神を想起させるからと忌避されるが、その黒とキリトの綺麗な黒は別物だとユージオは思っていた。

 これらの理由からキリトは従姉である幼馴染の少女、そしてユージオにとても懐いていた。

 だからこそあまり構ってあげられない事を尚更申し訳なく思ってしまう。天職を持ってからは休息日も疲れを取る事に充てているので、本当に遊んでやれていない。

 髪と瞳の色で同年代の子からも避けられているキリトにあまり寂しい思いはさせたくないが、流石に天職と疲ればかりは如何ともし難い。

 しかも気に病むなと言うキリトは雨の日も風の日も猛暑日も雪の日も、基本的に天職が休みにならない限り毎日此処に来てユージオの世話を焼いてくるものだから、罪悪感は半端ではない。

 一応余裕があれば会話もしているし、休息日も毎回休んでばかりではないから、キリトもそれで満足しているようなのだが……

 

「あらユージオ、もう午前の分は終わったの?」

 

 隣に座った少年を横目に見つつ、偶に水筒を呷りながら考え事をしているユージオの耳に、軽やかさを感じさせる少女の声が入って来た。何処か厳しそうだが柔らかな声音のそれは、ユージオの幼馴染の少女であり、キリトの従姉のものだ。

 口を付けていた水筒を離し、声を掛けられた背後に肩越しに振り返り、その姿を視界に収める。

 背後には腰まで伸ばした金髪と空色の瞳、鮮やかな青いスカートに白い上掛けをした少女が居た。まだ子供故に背丈はユージオとあまり変わらず、キリトの倍は大きい。

 少女の名前はアリス・ツーベルク。

 ルーリッドの村長を務めているガフスト・ツーベルクの二人娘の長女であり、文武両道を地で行く次期村長候補だ。そしてキリトの従姉である。

 

「ねえちゃん!」

 

 従姉の姿を見た途端、隣に座っていたキリトがぱぁっ、と顔を明るくして名前を呼んだ。

 ちなみにキリトが《ねえちゃん》と呼ぶのはアリス、《にいちゃん》はユージオだけで、ルーリッド村の同年代の子供たちには大体さん付けである。

 悪口を言う相手にも同じ対応なので、それだけでもキリトの心の距離というのが分かってしまい、毎回アリスと微妙な顔をしてしまうのは本人には秘密だ。

 

「こんにちは、キリト。今日も元気みたいね」

 

 表情を明るくして喜ぶ従弟が微笑ましいようで、アリスは柔らかい笑みを浮かべ、駆け寄ったキリトの頭を撫でた。

 従弟の頭を撫でてご満悦そうな幼馴染を見ながらキリトに続いてユージオも立ち上がり、近付いて声を掛ける。

 

「やあ、アリス。今日はちょっと早かったね?」

「早かったって、私は何時も通りに来たわよ? むしろ今日はあなたが午前の分を終わらせるのが早かったんじゃないかしら。漸く慣れてきた?」

「だと良いんだけどね」

 

 慣れたから早く斧を振れるようになったのだとすれば良いが、だからと言って自身の天命が尽きる前に伐り倒せる訳でもない。午後の分を早く終えればそれだけ家に帰る時間も早くなるのでそれを考えれば悪い事ではないだろうが正直どうでもいいというのがユージオの本音だった。

 

「ところで、今日のお昼は何だい?」

 

 それをおくびにも出さず、ユージオは視線を少女の顔から手に提げられている物へと移しつつ問い掛けた。

 キリトを撫でている手とは反対側の左手からは中々な大きさの籐の籠が提げられている。ツーベルク家の家事の一切を取り仕切っている母親サディナの厚意で、ユージオのお昼はアリスとサディナの二人が作ったものを届けられる事になっている。

 最初はユージオも恐縮だと言って断り、村唯一のパン屋で前日の残り物の固いパンを昼食としていたのだが、それではやる気など続かないし何より体に悪いからと押し切られる形でお昼を作ってもらう事になったのだ。

 実は半ば強引に押し切られた理由の大半がキリトにもお昼を摂らせるようにするという思惑である事をこの場で最年少の少年だけが知らない。

 最初の頃はお昼を抜いてでもユージオの天職に付き合っていて梃でも動かなかったから、見かねたアリスとサディナが妥協案でお昼を作る事を申し出たのである。

 つまりユージオへの差し入れは半ば口実という訳だった。

 それを知った時のユージオは内心ちょっと複雑だったが、自身に付き合う必要のないキリトがお昼を抜いていた事に頭を悩ませていたので、正直助かったというのが本音だ。それに毎日村唯一のパン屋で朝早くに買っている前日の売れ残りらしい固い丸パンではやる気も続かないので、純粋に嬉しくもあった。

 そんな事情があるアリスが持って来たお昼は、今となってはユージオが天職をこなす日々の楽しみの一つと化している。その献立が気になるのも当然と言えた。

 

「それは見てのお楽しみよ」

 

 しかしアリスは明確な答えを返さず、澄ました笑みを浮かべながら籐の籠を草の絨毯に置く。それから蓋を開けて大きな白布を取り出し、ぱん、と一つ音を立てて広げた後、平坦な地面の上に敷き、すぐに籠を布の上に置く。

 それを見てからユージオとキリトも布の上に靴を脱いで上がり、腰を下ろした。

 続けてアリスが取り出した湿った手拭いで入念に汚れた手を拭いた後、籠の中から次々と料理が取り出されていった。

 今日の献立は塩漬け肉と豆の煮込みのパイ詰め、チーズと燻製肉を挟んだ薄切り黒パン、数種類の干し果物、朝絞ったミルクというものだった。

 基本的にミルクを除けばどれも保存が利くので食物の天命値はどれも余裕がある筈なのだが、七月の猛暑と日差しは容赦なくこれらから天命を削る。天命が削り切れて《痛んだ料理》になったものを食べればよっぽど頑丈な胃の持ち主でも無い限り腹を壊して大惨事になるのは確実なので、ユージオ達が手を伸ばすよりも前に、それを確認する為にアリスが各料理に指を振った。

 アリスの細い人差し指は神聖語の《S》、それから《C》を刻むような軌道を描き、そして料理に触れる。

 するとしゅわぁん、と柔らかな音と共に白く半透明の板が出現する。そこには幾つかの神聖語と数値が示されている。神聖語の方はともかく数値は天命を示す値なので、基本的に子供で読み書きが分かる程度であれば誰もがこれを読める。

 この白く半透明の板を、ユージオ達は《ステイシアの窓》と呼んでいる。

 

 ステイシア、というのはこの世界に存在する五つの神の中で《創世神》と言われている女神だ。

 

 ユージオが教会の修道士から習った限りでは、この世界には九柱の神様が存在している。

 この世界はユージオ達が住む《人界》と、邪悪で危険極まりない亜人達――ゴブリンやオーク、暗黒騎士など――が住む《暗黒界》に分けられており、前者に八柱、後者に一柱の神がいる。

 ユージオ達が《窓》と呼んでいるものに付けられている名前は《人界》の中でも最高位に在ると言っても過言ではない女神の事。

 正式名称は《創世神ステイシア》。ユージオら人々を作り、この人界をも作り出した存在と伝えられている。

 《人界》を作り出した――厳密には二つの世界に分けた――と言われる残り七柱の神々は次の通りだ。

 

 地の恵みを以て生命と豊穣を齎す象徴となっている《地神テラリア》。

 

 水の恵みを以て清浄と癒しを齎す象徴となっている《水神アクオス》。

 

 火の恵みを以て繁栄と発展を齎す象徴となっている《火神イグニス》。

 

 風の恵みを以て天候と良縁を齎す象徴となっている《風神アエリア》。

 

 陽の恵みを以て世界を照らし安寧を示す象徴となっている《陽神ソルス》。

 

 月の恵みを以て夜闇を照らし清浄さを示す象徴となっている《月神ルナリア》。

 

 剣の恵みを以て災禍を破り平穏を示す象徴となっている《剣神グラディア》。

 

 この合計八柱の女神達が力を合わせる事で《果ての山脈》を境に《人界》と《暗黒界》は隔てられ、創世記時代から今日までの平和が築かれたとされる。

 ちなみに《暗黒界》に存在する神は男神で、名を《暗黒神ベクタ》と言う。全てを闇に沈めようと野心に走ったという強大な力を有した神で、その野心と邪悪さを危険と判断された為に他の八柱の女神達と壮絶な戦いを繰り広げたとされる。

 一説では今も《暗黒界》の何処かに封じられているとユージオとアリスは習った。同じ場所で勉学を習っているキリトも恐らく同様の話を聞いた筈である。

 閑話休題。

 その九柱の神々の内、《創世神》の名を冠する窓で天命を確認した金髪の少女アリスが僅かに眉根を寄せ、目を瞬かせた。

 

「ミルクはあと十分、他も十五分しか保たないわね。割と急いで来たんだけど……そういう訳だから二人とも、急ぎめで食べてね」

「分かったよ」

「いただきます!」

 

 アリスの忠告に慣れたものだと頷いている間に言うが早いかキリトがパイに手を伸ばしてさっさと齧り付いてしまう。

 普段はそんな行儀の悪い事をしないのだが、アリスの料理ともなれば話は別とばかりに凄まじい健啖ぶりを見せる事を知っているので、ユージオはアリスと顔を見合わせてくすりと笑った。血の繋がりこそ無いものの――アリスは少し繋がっているが――二人ともキリトの事を大切な弟と認識しているし、普段はキチンとしているから、これくらいで目くじらを立てるような事はない。

 微笑みを交わした後は二人も料理に手を伸ばし、昼食が始まった。

 

 

 

「ご馳走様でした」

「ご馳走様……美味しかったよ、アリス」

「お粗末様、そう言ってくれると嬉しいわ。キリトはどう? 口に合ってた?」

「すごく美味しかった!」

「それはよかったわ」

 

 ユージオとキリトが同時に料理を食べ終え、色好い感想を貰った事でアリスは機嫌を良くした。

 次期村長候補という肩書きで見て来なかった幼馴染のユージオ、今は亡き叔父の一人息子である大切な従弟キリトが手放しに誉めたのだ、嬉しくない筈がない。朝早くから頑張って仕込みを済ませ、天命の減少の目安を付けて母と作った甲斐があったというものだ。

 最初の頃はユージオに無理に付き合う必要などないと思っていたものの、延々と斧を振るわなければならない幼馴染のいい息抜きになっていると思うから、キリトにはこれからも此処に通うのを続けて欲しい。

 無論アリスとて昼食は毎日作るつもりだ。

 キリトとは七歳もの大きな年の差があるが、そんな事など関係無いくらいの仲であるこの三人の関係はずっと続けていきたいとアリスは思っている。

 村にいる同年代の子供達は誰もが色眼鏡で見て来る。それを悪いとは言わないし、悪気があってしている訳では無い事も分かっている――例外も居るには居る――が、何をするにしても色眼鏡や評価が付いて回るのはうんざりするというのがアリスの本音。

 その点で言えば色眼鏡で見ず勉強で勝負をしてきたユージオは気楽に会話が出来て気持ちがいい。

 キリトの場合は可愛い弟分という事もあって何かと構ってしまいたくなる。二親を亡くしてしまい、自身の父が引き取る事に顔を渋らせてたらい回しにした事が一番響いていると思う。

 多分キリトが此処に来ているのもそれが関係しているのだろうなとアリスは予想していた。ユージオもその辺を察しているからこそ、此処に来ないよう強くは言えない。

 それが悪いとは言わない。現状特に不都合は発生していないし、キリトもユージオの天職の邪魔はせず、むしろ手助けになるよう色々と世話を焼いているから良い事の方が多いだろう。

 ユージオも色々と助かっている筈だからこの日々はこれからも続いていくだろうなとアリスはそう考えていた。

 

「はぁ……それにしても、せっかく美味しいんだからもっとゆっくり味わって食べたいよね」

 

 男子二人の顔を見ながら食後の一休みをしていると、ユージオが不満そうな表情で唐突にそう言った。

 その気持ちは分からないでもないし、料理を美味しいと言ってくれた事に嬉しく思うが、流石にそれはなぁとアリスは思って苦笑する。

 

「そうは言ってもね。冬の前後だったらまだしも今は真逆の真夏、しかも猛暑日だもの。かなり頑張って時間計算して作ってこれなんだからどうしようもないわよ」

 

 時間を特に計算せずに十分程度だったら申し訳ないとアリスも思うが、出来るだけ余裕を持てるようしっかりと測った上でこれなのだから、その不満を消す手段はアリスには考え付かなかった。

 日陰を使う手も通気性の良い籐の籠で既に使っているからこれ以上は重ねられない。影に入れる事を重視してあまり物を被せると今度は料理の熱が逃げなくなって、余計天命を削ってしまうという本末転倒な事態になりかねないのだ。流石に物凄く体力を消耗する《刻み手》の天職で昼食抜きは可哀想である。

 

「……んー……」

 

 アリスがそう考えていると、右隣から微かに唸るような声が聞こえて来た。顔を向ければ腕を組んだキリトが首を傾げながら声を発していた。

 

「……キリト、唸ってるけどどうかしたのかい?」

「ん……いや、ねえちゃんが言った『冬』っていうのが引っ掛かって」

「「『冬』が……?」」

 

 ユージオの問いに対する答えに、アリス達は声を揃えてオウム返しに言葉を発する。何に引っ掛かったのかよく分からなかった。

 

「天命って夏は減るのが早くて、冬は減るのが遅いから……料理が熱くなるのを防いだら天命の減りを抑えられるんじゃないかって思ったんだ」

「あー……確かに今食べた塩漬け肉も冬だったら外に放り出しても何日も保つけど、夏は数時間も保たないね」

「つまりキリトは気候を寒くすれば長持ちするって言いたいのね? 言いたい事は分かるけどダメよ。そんな大規模過ぎる神聖術は禁術指定されてるでしょうし、仮に禁止されてなくてもそこまでの規模の術式を扱える術士はこの村に居ないわ。実力以上の術式を無理に使おうとすると暴発して危険だって、少し前に話したでしょう?」

 

 《神聖術》とは、大気に満ちている神々の恵みの源《神聖力》を用いて起こす奇跡の御業の事だ。ランタンや松明の代わりに明かりを灯したり、ものを冷やすための氷を生み出したり、高位の神聖術使いともなればもっと凄い術式を使えるとアリスは習った。

 《神聖術》を行使するには元々の素養、あるいは並大抵ではない努力を要し、アッサリと出来る者も居ればどれだけ頑張っても低位の術式しか扱えない者も居る。アリスは前者、そしてアリス以外の大半の村人が後者だ。

 元々《神聖術》は濫用するべからずとされているのもあってこの村では基本的に術を使っている場面は見られず、あるとすれば怪我を治癒する時くらい。

 かく言うアリスもユージオとキリトの為にお昼を作って持ってくるまでにしている勉強の時間くらいしか《神聖術》を使う機会はないが、しかし元々素質があったらしく、短期間でメキメキと実力を伸ばし、今では村に現存する教本に載っている《神聖術》の術式は全て扱えるようになった。

 だからアリスはまだ子供ながら、その実、大人顔負けの《神聖術》の使い手になっている。

 そんな経緯があるので少し前からアリスは教会で勉強を受けている年下の子供達に、教会を管理している修道士の代役として《神聖術》の歴史や実践について指導していた。

 

 キリトもアリスに指導されている一人で、そして《神聖術》の指導官を務めているアリスが最も目を付けている子供だ。

 

 別に何か悪い事に術を行使している訳でもないし、無暗に濫用している訳でも、ましてや治癒術を使わなければならない事態に度々至っているという訳でもない。

 単純にキリトだけ他の子供達より幼いからだ。

 《神聖術》は前述の通り、元々の素質と努力によって今後扱えるようになる術式の強弱が決まる。大気に満ちている神聖力が足りていれば発動出来るのではなく、術者の実力が十分であるものに限り安全に発動出来る。

 そして『安全に』という但し書きが付いているように、必要な実力に達していない術式も一応発動は可能だ。ただし、《暴発》という危険も存在するが。

 術の行使に失敗して所謂暴発という結果になった場合、簡単な術式では使い手がちょっと火傷を負うとか怪我をする程度で済むが、扱おうとした術式が大きければ大きいほど周囲に出る被害も多大なものとなる。

 また術式を発動するにも恵みである神聖力を消費するので、自然の活力も一時的に喪われる。農村はそれだけでも大きな痛手だ。

 だからこそアリスは万が一の事を考えて予め釘を刺すように注意をした。キリトがそんな無茶で無謀な事をするとはあまり思えないが、時折こちらの予想を斜め上にぶっちぎる行動をするので油断は許されない。

 その危惧をキチンと察したらしいキリトは、むぅ、と不満そうな声を小さく上げながら僅かに頬を膨らませた。

 

「そんな無謀な事しないし、そもそも術式を知らないんじゃ行使もままならないよ。おれはこの弁当箱の中身だけ冷やしたら食べ物の天命が保つんじゃないかって思ったんだ」

「弁当箱の、中身だけ……」

 

 ちょっと拗ねたようにキリトが言った事で、アリスは重要な部分だけを反芻した。

 キリトが言うように、天命の長持ちについて話していたのは食べ物の事だから、要は弁当箱の中を冷やせばいいだけだ。現実的では無いから出来る筈も無いが何も気候を操ろうなどと考える必要は無かったのだ。

 しかしそれはそれで問題だった。冷やす範囲は非常に現実的な範囲に収まったが、問題はそうする方法だ。

 

「冷やすって言っても、どうやってするつもりだよ。この季節、井戸の深水は汲んでから五分もすれば温くなるし、シルベの葉っぱも物を冷やす程じゃないし……」

「凍素だと今度は氷漬けにしかねないわよ」

 

 凍素というのは、《神聖術》にて扱う素因の一つ。

 炎素。凍素。風素。光素。闇素。晶素。鋼素。

 この七つの素因を以て組み上げる術式が《神聖術》の基本中の基本で、これより高位になっていくと、神聖力を得て直接効果を発揮するといった素因を用いない術式も出て来る。

 なお、治癒術は神聖力を天命へと還元するため素因を用ない。素因を用いないから暴発の恐れも無く、結果的に安全なので、《神聖術》について学ぶ際に最初に教えられる術式となっている。

 素因は《神聖術》を発動するために消費する力の源と言えるため、扱いが非常に難しく、炎素なんて制御を離れて暴発した時には大爆発する事間違いなしである。

 要するに素因の扱いは基本中の基本でありながら危険過ぎる力なのだ。

 アリスも素因の扱いはここ最近漸く出来るようになったところで、しかも光源にするくらいの使い道しかない、つまり危険性の少ない光素くらいだ。

 ちなみに光素が暴発すると眼を潰す程の閃光を発する。失明の危険があるのでこれはこれで危ないが、直接命を脅かすほどではないので、修道士からも練習の許可は下りていた。

 凍素は光素とは真逆で、暴発すれば術者を氷漬けにして殺してしまう程の危険性を有する。力を凝縮している凍素では辺り一面を氷漬けにしかねないため、アリスがまだ手を付けていない素因の一つだ。

 大人顔負けで村随一のアリスが手を付けないほど危険な素因ともなれば、その危険性を言うのも当然。

 もし《神聖術》に頼ろうとしているなら早々に諫めなければ、と考えているアリスだったが、しかしそれは杞憂だった。

 

「いや、氷さえあったら良いんじゃないかな。ほら、昔、ユージオのお爺さんに聞かせてもらったお伽噺にそんなのがあった筈だし……」

「……まさか」

「……キリト、そのお伽噺、まさかと思うけど《ベルクーリと北の白い竜》の事かい?」

 

 お伽噺の題名を予想したユージオに、キリトはこくりと頷いた。

 それを見てアリスはユージオを顔を見合わせ、難しい顔になる。

 《ベルクーリと北の白い竜》とは、村一番の剣士であったベルクーリが北端にある山脈の洞窟へと冒険に行き、その中に棲んでいた白い竜と対面する冒険譚である。

 何故ベルクーリという剣士が北へと足を向けたのかと言えば、ルーリッドの村の近くに流れている川に透明な結晶《氷》が真夏に流れていたからだ。これは上流に何かがあると考えた末に赴き、その先で巨大な白い竜と対面したというもの。

 ちなみに竜は財宝を貯め込む習性がある。話の中にもその描写が存在しており、その財宝の中に《青薔薇の剣》と呼称された剣が登場している。それが欲しいと思ったベルクーリは眠っている白い竜の隙を突いて盗もうとするのだが、柄を握った途端目覚め、捕まってしまう。

 その後は何とか剣を取らないと話して事無きを得たという。

 このお伽噺は命辛々生き延びたベルクーリ本人によって語られた話ではないか、というのが男子達の共通見解となっているらしい。一応《果ての山脈》にも洞窟はあるし、近くに川があるので地形は合致しているためだろう。

 そしてキリトがその話を上げて来たのは、話の中に『真夏日なのに《氷》が川を流れて来た』という情報があるからだろう。

 

「……もしかして、氷が流れて来るまで川を見張ってるつもりかい?」

「いや、それは流石に運頼みが過ぎるよ」

「という事はキリト、あなたまさか、洞窟まで行くつもり……?」

「その通り!」

「「……」」

 

 まさか、とは思ったがそのまさかであった事にアリス達は言葉を喪った。

 普段は大人しいのに偶に奔放な部分を見せると思っていたが、今回ばかりはその域を超えている。

 

「ダメよキリト。《果ての山脈》に行くなら、途中で北の峠を越えないといけないじゃない。『大人の付き添いなく、子供だけで北の峠を越えて遊びに行ってはならない』と《ルーリッド村民規範》に記されているのを忘れたの?」

 

 《ルーリッド村民規範》は村長の屋敷――つまりはアリスの生家――の書庫に蔵されている厚さ二セン程の古めかしい羊皮紙に綴られたものだ。村民は《掟》と略して呼ぶ事が多い。

 物心が付き、物の道理と勉学を学ぶ時期になれば教会に務めているシスターからそれらを習うのだが、最初に憶えさせられるのがこの《ルーリッド村民規範》。羊皮紙自体が厚いという事もあって内容の量はそこまででは無いが、次にこの二倍はある北帝国の行政機関によって定められた《帝国基本法》、更に倍はある《人界》全てに知られている《禁忌目録》というものを憶えさせられていく。

 そこまで行けば量が少ない村民規範を忘れてしまうのも半ば自明の理と言える。無論、忘れていたからと言ってそれらを破った事が許される訳でも無い。

 とは言え、量は途轍もないし、面倒な事にそれぞれ条文は異なるが、大体内容は似通って来るため要点さえ掴んでしまえば条文全てを憶える必要は全く無い。対象とする地域が異なるだけで禁則となっている内容はどこも似通っているからだ。

 量が増えていくのは貴族と平民といった生まれながらの階級制度によるところが大きいが、この北端の片田舎に貴族が来る訳も無し。階級制度に関する条文の重要度はそこまで高くないというのがアリスの見解だ。なのでアリスは三つの規約で自分の生活に密接に関わる部分だけを重点的に記憶していた。

 その中で《ルーリッド村民規範》は特に関わっているため憶えていたのである。

 キリトも最初に憶えさせられた筈だが、流石に子供だけの北の峠越えを禁ずる条文は普段気にしないから憶えていなかったか、と思っていると、件の少年は待っていたとばかりににんまりと笑みを浮かべた。

 

「遊びに行くんじゃないから大丈夫」

「……うん?」

「どういう事かしら?」

「この真夏日で天命の減りが早いのを、もし氷の発見で抑える事が出来たら、それは凄い事だと思うんだ。今は弁当の長持ちを考えてるけどもしかしたら他にも使えるかもしれないし……少なくとも食べ物が長持ちするって事だけでも皆助かるだろうから、遊びじゃなくて仕事と解釈しても良いんじゃないかな」

「「……」」

 

 キリトの説明を聞いて、それは屁理屈じゃないかしら、と胸中で呟く。

 しかしそれを全面否定出来ないのもまた事実。実際夏になると食物の保存方法に四苦八苦する事も多く、長持ちする冬が待ち遠しいと思う事もある。

 それを氷で代用出来ると分かれば、ひょっとすれば夏限定で氷を採取する為の天職が出来るかもしれない。

 無論、北の山脈まで子供の脚ではかなり掛かるし、往復且つ帰りは氷を持っている事を考えればかなりの重労働なのは間違いないが、農村の者達は日頃から体力があるので問題は無いだろう。

 天職の事を抜きにしても、キリトのこの考えは実現すればかなりの功績になるのではないかと思う。誰もが知っているお伽噺ながら誰も考え付かなかった事を実行に移し、氷を取って来て食べ物を長持ちさせられるようになったとすれば、村の生活に幼いながら貢献したと言えるだろう。

 

「で、でもキリト、それでもダメじゃないかな」

「何で?」

 

 ユージオの言葉に、キリトはこてんと首を傾げた。不満そうな色は無く、純粋に不思議に思っている面持ちだ。

 

「だって洞窟は《果ての山脈》にあるだろう? でも《果ての山脈》を越える事は、アレにも禁じられてるじゃないか……流石にそれはマズいよ」

 

 ユージオの言うアレとは、《人界》全てに共通して定められた《禁忌目録》の事を指す。

 《果ての山脈》の向こう側には《ダークテリトリー》とも呼ばれる黒い大地と赤黒い空が広がる世界《暗黒界》が存在しており、そこへ山脈を越えて行ってしまうのは最大の禁忌目録違反の一つとなっているのだ。違反すれば《禁忌目録》を定めた《公理教会》という《人界》の行政機関から整合騎士と呼ばれる者が飛んできて、違反者を連行してしまう。

 ユージオはそれを危惧したらしい。大切な弟分が禁忌目録違反をしようとしているなら止めるのは当然と言えた。

 が、しかし、それに関しては少々反論の余地がある。

 

「ユージオ、それ、少し間違ってるわよ」

「え?」

「《禁忌目録》に定められているのはこうよ……――――第一章三節十一項《何人たりとも、《人界》を囲む《果ての山脈》を越えてはならない》――――……いい? 山を越えるっていうのは、当然『山を登って越える』事、洞窟に入る事そのものは含まれないわ、だって洞窟が山脈の内部なんだもの。大体今話してる最大の目的は氷を取って来る事でそれも洞窟の内部にあるじゃない。《ルーリッド村民規範》にも、《帝国基本法》にも、勿論《禁忌目録》のどこにも『《果ての山脈》で氷を探してはならない』とは記されてない。だから何にも違反しないわよ」

「えぇ……?」

 

 解釈の違いと言えばそうなのだろう。

 誰もが《果ての山脈》に近付く事をしないからそれも当然だが、洞窟は《果ての山脈》に位置しているのであり、洞窟を抜けた先や山脈の向こう側にあるダークテリトリーに入る事がダメなだけだ。洞窟の内部はダークテリトリーではないのだから入る事そのものは禁じられていない。

 大体それなら件の話に出て来るベルクーリも違反者になるではないか。

 彼は後に央都にて開かれた大会で優勝したという話だから、《禁忌目録》にも触れていない事は明白だ。

 

 

 

 ――――どうして皆、考えが凝り固まってるのかしらね……

 

 

 

 未だに納得しかねる面持ちになっているユージオを見ながら、胸中だけで疑問を呟く。

 幼い頃から思っていたが、誰もが掟だ《禁忌目録》だと言って行動を縛って来る。ある程度の規範がなければないけないのは理解しているし、何れ村長になる身としてしっかりと相応しい教養を付けなければならない事も理解しているが、だからと言って誰もが規則違反をしないのは少し不自然だ。

 従弟であるキリトは、規則違反ギリギリでありながらもしっかりと守る範囲内で動いている。今の話だって少し間違えれば禁忌目録違反だし、普通に掟にも反しているが、仕事と解釈する事で掟は破っていないと主張している。

 少なくとも掟を破ったかどうかはその場で見た者がいるか、あるいは自白するかでしか判断出来ないし、見た者が居てもその理屈が正しいと思えば掟破りとは思わない。現にアリスはキリトの主張を聞いて掟破りにならないと判断した。

 だがユージオは違反ギリギリすらも危ういと言って止める。それが規則を遵守する性格なのだと言われればそこまでだが、それにしては誰もが同じというのは腑に落ちない。

 勿論村の中にはキリトのように――と言っても悪い方向で――掟を破らない範囲内ながらギリギリを見極めた意地悪な子供はいる。

 昔、気弱なユージオの靴を隠された事もあるが、二十四時間以内の物品の所持は『他人の所有物の窃盗』に、誰の部屋でも領土でも無い場所への一定時間の放置は『他人の所有物の損壊』という禁忌目録違反に当たるので、必ず夕方には返却されていた。

 だがそれは少し妙ではないか、と常々アリスは思っていた。

 本当に悪戯をするくらい性根の悪い子供なら、むしろ何時までも返さないのではないか、と。自主的に返すというのは少しおかしい気もする。ちょっとした悪戯程度で、大事にする気も無いのであればまだ納得は出来るのだが……

 

 

 

 ――――誰もが縛られ過ぎなんじゃないかしら……

 

 

 

「……ぅ……」

 

 そう考えていると、ふと唐突にズキリ右目が疼いた。

 まただ。『縛られ過ぎなのでは』と考えると必ず起きる右目の痛みが、また出て来た。この十一年間で幾度と無く経験した事である程度の規則性が分かってきたが、どうしてこの痛みが発生するかまではよく分かっていない。

 何にせよ、不愉快な事に変わりは無い。まるで監視されているようだ。

 

「ッ……つぅ……!」

 

 そう思考すると更に痛みが強まった。

 不愉快に思ったり、反抗心を抱いたりすると痛みが強くなるのだ。まるで『従え』と言わんばかりのそれがアリスは嫌いだった。

 

「……ねえちゃん?」

 

 突然小さく呻き、顔を険しくしたアリスを訝しんだキリトが顔を覗き込んでくる。

 幼い従弟の顔を見て、アリスはすぐに表情を取り繕って笑みを浮かべた。

 

「っ……何でもないわ。大丈夫よ、キリト」

「そう? ……ほんとに?」

「ええ、ほんと。心配してくれてありがとうね」

「うぁ……えへへ」

 

 そう言ってキリトの頭を撫でると、心配そうな顔がすぐふにゃりと蕩けた。

 その顔を見てアリスは思わず苦笑を漏らした。キリトのこんな顔を見れるのはアリスとユージオくらいなもの。他人を信用していたとしても、ひと様には見せられないなぁ、といつも思うのだ。

 

「あーもう、ほんっと可愛いんだから!」

「わひゃぁ!」

 

 がばっと抱き寄せれば、キリトも嬉しそうに悲鳴を上げながら飛び込んできた。顔はもう笑顔満面である。

 その屈託ない笑顔を見て、アリスも、そしてユージオも笑顔になる。

 

 

 

 ――――そんな日々がいつまでも続くと、この時のアリス達は信じていた。

 

 

 

 次に訪れた定休日、果ての山脈へと氷を求めさえしなければ。

 その願いが破られることは、きっと無かっただろう。

 

 






 はい、如何だったでしょうか

 一先ず大前提、ルーリッド村時代のキリト、アリス、ユージオの関係性。理想的な幼馴染の光景ですね……なおこの後()


・ルーリッド村の設定
 キリトの親は原作でも触れられてないのでオリ設定
 当然アリスの従弟なのもオリ設定
 身寄りのない子供が教会に居たり疫病で親が亡くなった設定は原作準拠


・女神について
 原作では創世神、太陽神、地母神の三女神
 《ラスト・リコレクション》で火神、風神、剣神が土着神として追加され六女神
 本作で更に水神、月神が追加され八女神

 これで地水火風と陽と陰(月)が揃うから丁度いいね!


・人界キリト(幼少期)
 アリス、ユージオの七つ下の四歳の少年
 黒髪、黒眼で暗黒神に呪われてるのではと陰口を叩かれ、距離を置かれている。物心つう前からなので、自身の世話をしてくれたアリスとユージオにしか心を開いていない
 男児ながら髪を伸ばしているのは、《ねえちゃん》ことアリスの真似のつもり
 《にいちゃん》ことユージオも好きなので、刻み手の天職になる事は嫌がっていない

 ――八年後、殺人の大罪を犯すことになる

 なお連行するべく対峙した騎士アリスは白髪金瞳のキリトしか見ていない


・アリス・ツーベルク(幼少期)
 キリトの従姉にしてユージオの幼馴染
 村長ガフストの二人娘の長女の方。次女の事も好きだが、手ずから面倒を見ていたキリトの方が今は気掛かり。従弟のわんぱくぶりに振り回される事もあるが、全力で乗っかって楽しむ事もあるいいお姉さん
 決まり事に不満を持つ度に右目の痛みに独り苛まれている

 ――次の定休日にて、越境の大罪を犯すことになる


・少年ユージオ(幼少期)
 第八代目のギガスシダーの刻み手
 アリスを介してキリトの面倒を見るようになり、懐かれた。アリスとキリト双方に振り回されているが何だかんだ楽しく日々を過ごす
 刻み手の仕事は諦観と共に受け入れ、キリトと一緒にこなす日が来るのもちょっと楽しみにしている

 ――六年後、その生涯を終える事無く刻み手の天職を全うし、剣を志すことになる

 では、次話にてお会いしましょう


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