インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
どうも、おはこんばんにちは
今話は書いてて”友達って何だろう”と思い悩んだ内容でした
視点:アリス
字数:約九千
ではどうぞ
喫茶店を出て、シノンと別れた後。
彼女とは逆方向に向かった私は、角を曲がって横道に逸れた直後に静かに跳躍。建物の段差に脚を掛けて再度跳躍し、屋根の上に着地する。それから眼下に広がる大通りの様子を伺った。
喫茶店よりも奥の通りには見慣れた緑衣の少女の姿が見える。
しかしその後ろを追う者の姿は見えない。というより、大通り故に人通りもあり、誰が彼女を追っているかは判別が付かない状態だ。
危険ではあるが、尾行する不届き者か否かを見定めるためにも、彼女が言ったように人気の少ないところへ一度向かう必要はあるらしい。
「……まぁ、こういう事は騎士の務めではありませんしね……」
軽く頭を振る。
偵察任務を行う事はあったが、それは大抵飛竜の背に跨り、ダークテリトリーの軍勢が人界との境界たる山脈を越えようとしていないかの確認が主で、今のような隠密行動をした事は無かった。おそらく騎士長であろうとこのような経験は無いに違いない。ならば苦手であるのも仕方ないだろう。
そもそもの話、私自身がこのような迂遠的な事を好まないのだ。
今回は異界の友人からの頼みだから受けたが……
「――と、そろそろ移動しましょうか。シノンが見えなくなってしまいます」
考え事をしている間に、気付けばシノンの背中が小さくなっていた。その行く先は街を囲う巨大な柵周辺。街の経済を担う商業区から外れるのでそちらの人気はかなり少ない筈だ。
私は木造と石造りが混在する建物の屋根を飛び移りながら彼女の背を追った。
ある程度近付いてからは地面に降り立ち、物陰に隠れながらシノンの後を追っていそうな人影を探し続ける。
――そして、見つけた。
いつの間に距離を詰めていたのか。かなり人気のない道端に入り込んだシノンの後を、長身痩躯の人影が追っている事に気が付いた。
他に人影は無いし、人影の顔や視線はシノンに向けられていた。彼女を尾行、監視していたというのはこの人物で間違いない。
「そこの者、止まりなさい。シノンに何用ですか」
「……っ?!」
剣の柄を掴みながら物陰から体を晒し、声を掛ける。件の人物は分かりやすいほどびくりと体を震わせてこちらに振り向いた。
正面から相対した相手の全身を注視する。
まず人影の体躯は見ていた通り長身痩躯。背丈は私よりやや高い程度だから170
端的に言えば、中性的。しかし成長しているからかその人物の性別が男性であるとは一目でわかった。
武装に関してはやや異色と言うべきか。アイングラウンドではキリトやユウキの剣、シノンの弓や短剣など、その武装と衣服から大体の事は察せる者が多い。
しかしこの者は防具を革製の最低限に留め、暗緑色の衣服を着込んでおり、剣士ではなく暗殺者の印象を抱かせてきた。武器の類が見えないのも、おそらく暗器などの隠し持つ種類だからだ。
それに加え、女性を尾行するという不埒な行い。
剣を抜かないだけまだ温情を残している方である。
「い、いきなりなんですか」
「とぼけても無駄です。お前がシノンを尾行する不埒な人間である事はとうにお見通しなのですよ」
「そういう事。ここまで私をガッツリ追ってきてるんだもの、言い逃れなんて出来ると思わない事ね」
私が威圧しながら逃げ道を塞いでいると、特定に気付いたシノンが来た道を戻り、不埒な人間を前後で挟み込む状況に至った。ここまですればどれほど機敏に動けるとしても詰みである。シノンは弓矢で、私も【金木犀の剣】の武装完全支配術で小刃を飛ばし、遠くにいる敵を攻撃できる。
懸念があるとすれば、シノン達が『ハイディング』と称する隠密技能を行使された場合だが、そうなる前に捕まえてしまえばいい。
つまり私とシノンは、この男に逃げる隙を与えないつもりだった。
それを証明するように私は柄に手を駆け続けているし、シノンも弓を左手に持ち、右手は矢筒に納められた矢に掛けている。
剣呑な空気がこの場に流れ始めた。
「ま、待って!」
そこで、その空気に臆したか、尾行犯が裏返り気味に声を上げた。慌てたように男はシノンの方に振り返る、叫ぶ。
「僕だよ、朝田さん!」
それは、シノンに向けられた言葉。その名はオモテ側の名前だと聞かされたもの。ウラ側では使うべきでない彼女の本名だ。
その鉄則を破ってまで、男は彼女の名を口にした。
呼ばれた彼女は気分を害したらしく、先ほどよりも険しい面持ちになった。構えた弓に素早く矢を番え、弦を引く。
「……私の名前がネットで晒されてる事は知ってるわ。だから、それを知ってる事は驚かない。だから聞くけど、貴方は誰?」
「だ、だから待ってって! 僕だよ、新川……新川恭二!」
シノンの剣呑な空気に慌てた男が、祈るように自身のオモテの名を口にした。
――その途端、シノンの怒気が一気に
一瞬硬直した後、ゆっくりと弓を下ろしたシノンが、信じられないと言わんばかりの顔を彼に向けた。
「嘘……新川君? あなたも
「あはは……うん、そうなんだ。一応僕もゲーマーだからね。朝田さんには、言ってなかったけど」
「ちょ、ちょっと待って。本名はマズいわ。プレイヤーネームは何なの?」
「あ、ごめん。僕はリヒターだよ」
「そう、リヒターね。分かったわ」
どうやら、本当にオモテ側での知り合いのようだ。こちらとあちらでは容姿が異なるのも珍しくない――というより、同一の方が異端――らしいので、シノンが彼の素上に気付かなかったのは当然と言える。逆にシノンは、件の浮遊城の一件から容姿を合わせているとの事なので、だからリヒターとやらも彼女の素性が分かった訳だ。
先のすれ違いはそういう事だと理解した私は、それでも警戒を解かず、手は柄を握ったままだ。
「……リヒターとやら。お前がシノンと知り合いである事は分かりました。しかし、ならばなぜ尾行や監視という不埒な行いをしたのです。知り合いであるのなら真っ向から……あるいはあちらに居る間に話していれば、このようなすれ違いは無かったでしょうに」
「あー……えっと、シノン、彼女は……プレイヤーなの?」
私の詰問に対し、リヒターは返事を保留し、その質問をシノンに投げた。その視線が私の頭上――本来あるべきだという菱形と枠の位置に向けられている点から、彼の疑問を把握した私は、またかと嘆息する。
こちらに来ておよそ一週間が経つ。その間、異様な存在として積極的に関わろうとする者は確かに少なかったが、まったくいなかったわけではない。興味本位、面白半分に接触してきた者達も少なからず存在した。ただ質問するだけの素直な者から、こちらの話を聞かない頑固者、そして倒せば報酬があるかもと宣う愚か者など、その種類は絶対数が少ないのに多岐に渡る。それでも、その者達に共通する事はあった。それが彼らにはあり、私にはない頭上のモノだった。
『カーソル』という菱形の物体。
『ゲージ』という枠と緑色の棒線。
その二つが無い私は常に奇異の目に晒されていた。そして言われるのだ、『お前はプレイヤーか、それともエヌピーシーか』と。
その問いに疑問を返せば、『エヌピーシーか』と勝手に納得される。
シノン達からは、『アイングラウンドに住まう者達』と教えてもらったが――あの単語には、それだけとは思えない感情が籠っているように思えてならない。まだ語られていない真実がある。そのもどかしさを密かに抱える私には、彼のような視線が不愉快だ。
ただ、私には『異界人だから』という理由があるので、表には出さないよう努めていた。
「――リヒター。あなた、まさかキリトの調査発表を知らないの? もう何日も前に《ユーミル》や総務省の公式HPに記載されてるわよ?」
リヒターの問いに、シノンは眉を顰め、そう返した。
調査結果――そういえば、キリトはこのアイングラウンドの異常を探り、上役に報告し、適宜対処する任務を負っていると以前聞いた。
しかしその内容を民に報じている事は初耳である。
「い、いや、知ってるよ。システム異常で表示バグが起きてるって話でしょ? でもさ、SAOでは同じ状態のAIがいて、彼を手助けしてたって《亡国事変》後の会見で七色博士が言ってたじゃないか。それに、なんか騎士のロールプレイも堂に入ってるし……彼女って、実はAIなんじゃ……」
「関係ないわよ。彼女は私の友達、AIかそうでないかなんて些細な事だもの」
幾つか初めて聞く単語もあったが、事件の名称と人物名には覚えがあったので、どうにか話は理解できた。どうやら私の素性の事で二人は衝突しているらしい。
察するに”エーアイ”というのが私の立場を表す単語のようだ。
それが異界人を意味する……とは、キリトやシノン達の様子を鑑みるに考え難い。世間的には異界人というのは認識されていないものらしい。そんな状況で単語だけ出来るというのはあり得ないだろう。
だから”エーアイ”というのは、『裏世界』――このアイングラウンドの住人を指す単語なのだろう。”エヌピーシー”というのと同じという事だ。
なぜ別々に単語が存在するかまでは分からないが……
「……己の不埒な行いを棚に上げ、私の素性を探ろうとはいい度胸です。ならば次はその腕前を見させて頂きましょうか」
いい加減、こちらの質問を無視される事に苛立ち、そう威圧を掛ける。
私からすればリヒターは今のところ不埒者でしかない。身の潔白が証明されない間にシノンと親しげに話すというのは少々看過し難い光景だった。
「わぁっ、待って待って! 答えます、答えるから待ってください!」
僅かに腰を落とし、踏み込みと共に抜刀出来る構えを取りながらにじり寄る私を見て、リヒターがまた慌てて裏返った声を上げた。その必死な叫びを聞き、足を止めた私は鋭く睨みつけながら先を促す。
リヒターはバツが悪そうにしながら話し始めた。
「その……アリスさん、だっけ? シノンにもまだ話してなかったんだけど、僕って兄が一人いるんだ」
「え……しん、じゃなくて、リヒターってお兄さんがいたの?」
「うん。ベータ権の応募は僕がして、当たったんだけど親の言いつけで宿題を先に済ませないと出来ないし、夏休み中でも容赦なく進学コースは全国模試があってその勉強もしなくちゃいけなかったんで、その間は兄さんに譲ってたんだ。シノンに話せなかったのは、譲ってもらったのが二、三日前だったからなのが理由」
「……そっか。君にあっちで最後に会ったのって、お盆に入る前だから一週間前だっけ」
また知らない単語が出てきたが……模試というのは、試験の事。進学コースというのは学校でも優秀な者だけが通う制度の事だろう。
私の世界にも、帝国の下に運営される修剣学院があり、優秀な成績を収めた者は上級生が上級修剣士、下級生が傍付き練士として認められる制度があった。恐らくそういうものだと私は納得する。
そして、その優秀な制度の影響で、リヒターはほんの二、三日前までアイングラウンドに来られなかった。
シノンにオモテ側で話してなかったのは、来られるようになってから一度も会っていなかったから。
それなら辻褄が合う。
「では、尾行に関しては? シノンは昨日から視線を感じたと言っていましたが」
「え……シノン、ホントに感じてたの? 視線を? この世界で?」
「ええ。人混みにいる時ばかりだったから、位置までは分からなかったけど……」
「いや、それでも十分凄いよ。まさか仮想世界でそんな事が出来るなんて……シノンは凄いなぁ」
「はぁ……また話が逸れてますよ」
「あっ、ご、ごめん」
ため息と共に苦言を呈すると、申し訳なさそうにリヒターが謝罪する。
この男、不埒な行いをする割に存外肝が小さいようだ。私が知る男性の度胸があり過ぎるからかもしれないが……
「それで、なぜ尾行していたのですか」
「えっと……いや、その、純粋に話しかけ辛くてさ……」
「えぇっ?」
こちらの詰問に、リヒターが答えた途端、シノンが呆気に取られたような声を上げた。それから納得いかないと不満げに唇を尖らせる。
「なんでよ、あっちじゃそっちから話しかけてきたじゃない」
「いや、その時はあさ、じゃなくてシノンは一人だったでしょ。でもこっちだとシノンの周りにはいつも誰かが居て、仲良さそうに話してたから、凄く話しかけ辛くてさ」
「……つまり、私が一人になる機会を窺ってたって事? でも、どうして?」
「女子が何人も固まって仲良さそうに話してるのを邪魔するように入るのは失礼だし、そもそもシノンとしか顔見知りじゃないアウェーな僕が入っていける訳ないじゃん……」
はぁぁぁぁっと深く長いため息を吐き、憂鬱そうな面持ちになるリヒター。
……どうやら彼も彼なりに気を遣おうとはしていたらしい。それが尾行と監視の勘違いに繋がった訳なので、得も言われぬほど微妙な心境である。
「まぁ、悪い男ではないのでしょうね……しかし意図せずとは言え、女性を尾行・監視する行いになったのは事実。シノンも心労を重ねたのですし、彼女の友であるなら今後そういった行いにならないよう控えるべきでしょう」
「う、うん……シノン、ごめんね」
「……正直、怖かったのよ。最悪キリトを狙う連中に何かされるかと覚悟してたんだから。そのせいで余計気疲れしたし」
自分の体を抱きしめるようにしながらシノンが言う。その顔には、さっきまでの疲労や警戒とは少し異なる、やや怯えたような色が混ざっていた。
「シノン……もしや、過去にそういう事が……?」
密やかに問いかけると、彼女は一瞬詰まった後、頭を振りながら口を開いた。
「……この話は終わりにしましょう、あまり思い出したくない事だから」
「……申し訳ありません。不躾でしたね」
「アリスが気にする必要は無いわよ」
私の謝罪を苦笑で応じたシノンは、その後口数少なくリヒターと幾らか言葉を交わし、『フレンド登録』とやらを済ませて彼と別れた。
――その日の夜。
オモテ側の諸々の用事を済ませ、アイングラウンドに改めて顔を見せたキリトに、一緒に行動していた私とシノンは夕方にあった事を話した。
彼は昨日今日の二日間、シノンと顔を合わせたのは二、三回かつ短時間だけで、彼女が思い悩んでいた事は把握出来ていなかった。他の事に気を取られ過ぎてシノンの私事にまったく勘付いていなかったのだ。
これは状況が色々と重なった結果かもしれない。
シノンは彼に悟られまいとしていたし、彼は他の事に気を取られていた。もし二人きりで長く行動する状況があれば彼は気付いただろうが、シノンの方がそれを避けていたため、そうはならなかった。
それを知ったキリトが、これはやられた、と屈託なく笑う。
「これでも観察眼、洞察力には自負があったんだが、まだまだ修行不足らしいな」
「何でもお見通しだと逆に怖いけどね……」
「違いない」
シノンの微苦笑に笑みを返したキリトは、ところで、と真剣な面持ちになりながら言葉を続ける。
「そのリヒター……新川恭二っていう人とは、リアルでも知り合いって話だったよな。いつ、どこで知り合ったんだ?」
「知り合ったのは【
「……そうか」
楽しそうにシノンが語るのを、彼は至極真面目な表情で見つめ続ける。
その様子に違和感を覚え、私は疑問を投げかける事にした。
「キリト。その新川恭二という男を、貴方も知っているのですか?」
「会った事はないが、情報としては知ってる。俺と直接関わりがあるのは兄の方だけど」
「お兄さんと?」
シノンが怪訝な声を上げる。私は彼女と顔を見合わせた後、彼に視線で問いかける。それに答えるように彼は私達を見ながら口を開いた。
「その兄は俺やシノン、ユウキ達と同じ生還者だ。俺ほどでないとは言え、犯罪者予備軍のような扱いで監視・監督もされてる」
「あっ、じゃああの世界にいた人達の個人情報って……」
「大体は俺も把握済み。俺の抑止力としてシノン達が期待されているように、逆に他の生還者への抑止力として俺は存在している、その過程で俺は新川兄弟を把握したんだ」
その話に、私はシノンと揃ってへぇ、と声を上げた。彼に近しいシノンも今の話は初耳だったらしい。全部とは思えないから何かの情報が感心を露わにしてしまうものだったのだろう。
「ちなみにシノン、これは純粋な疑問なんだが……あのリヒターの事はどう思ってるんだ?」
「うーん……まぁ、親切な男の子よ。話すきっかけになったのも、私が図書館で吐きそうになってるのを見つけて、トイレまで案内してくれたからだし」
「へぇ……」
「しかし、あの男はあなたを尾行していた不埒者ですよ」
「それはそうだけど、リヒターなりに気を遣ってくれていたみたいだし……謝ってくれたから今回は許す事にしたわ。今度してきたらタダじゃ済まさないけどね」
最後、シノンは少し冗談めいた笑みを浮かべた。私はまだ警戒を解いていないが、彼女はリヒターとやらにそれなりに心を許している。彼女は積極的に人と関わろうとはしない人間だと思っていたが案外そうでもないようだ。
……一般人であれば、これが普通なのかもしれない。
それがこの異界故なのか、私の世界と共通しているかは、私には分からないけれど。
――その後、シノンはユウキに誘われる形で部屋を辞した。
攻略に行くと行っていたからこの大陸の最奥へ進む気なのだろう。
「……困った事になったな」
弓使いの背を見送るとキリトの悩ましそうな声が耳朶を叩いた。視線を向ければ、彼は腕を組み、首を捻り、思案に耽っていた。
「何がです?」
「新川兄弟の事だよ。兄の方が厄介でな……」
そこまで言うと、顔を上げた彼と私の目が合った。
「アリス。頼んでばかりで悪いが暫くシノンを気に掛けていてくれないか? オモテ側は俺の方で気を付けるが、こちら側となると今回のように気付けない事もある。シノンもあまり俺に頼らないようにしてるみたいだし……」
「リヒターの兄とは、それほどまでに厄介な存在なのですか? ならばなぜリヒターとの交友に関してお前は何も言及しなかったのです。お前はシノン達を守るために、あらゆる手を尽くすと覚悟していると聞いています。それは嘘だったのですか?」
「嘘なもんかよ」
こちらの問いに、強い言葉で否定を返したキリトは、その声音のまま話し続けた。
「だがな、”守る”というのにも色々ある。アリスが言うそれは『命』だろう? それはオモテ側でしか奪われないものだ。だから俺が気を付けると言っている」
――だがな、と。
彼は一度言葉を区切ると、短いながら深いため息を吐いた。眉を顰めたその表情には懸念の色が浮かんでいた。
「『心』まではそうもいかない」
「……心、ですか」
オウム返しに呟く。
心などと、とても曖昧なものがここで飛び出してくるとは思わず、彼がいったい何を考えているのか私には読めなくなった。
私にとって『守る』とは、人界の守護――つまり、人命を守る事や禁忌目録の保守に他ならなかった。
心を守るという考えは無かったのだ。
馴染みのない異界の価値観を新たに知った私は、彼の次の言葉に耳を傾けた。
「さっき、俺はリヒターの兄の素性を明確には言わなかった。正直言うべきか否か迷いはしたんだが……俺が知っているのはあくまでその兄の過去でしかない。”過去、何をしていたか”しか知らないんだ」
「それが、どうしたというのです。何を言いたいのですか?」
「――俺が気にしているのは、リヒターが兄と反目しているのかいないのか、だ」
静かにキリトが言う。その眼光の鋭さは、ここ数日で見てきた中でも一番かもしれない。
「何のためにシノンに図書館で近付いたのか。その兄が関係した意図しての接触か、それともただの偶然、親切心で交流が生まれただけか。その辺も俺達には分からない」
「……そうですね。実際に、現場を見た訳でもないですし」
「ああ。それにもう薄々気づいてるだろうが……過去の話とは言え、件の兄はかなりの危険人物だった。その男に共感したのであればクロ、リヒター自身も危険と判断してシノンに距離を取らせるべきだ。だが拒絶したのであればシロ。シノンの交流は、本人が好意的だから維持すべきだ」
そこまで言われれば、彼の言わんとする事を察する事が出来た。
彼は『心を守る』と言った。その心はシノンの事だが、彼女を無理矢理リヒターから遠ざけても彼女の心には傷が残ってしまう。彼女自身が交流を持ち、信じようとしている相手だからだ。彼の兄が危険人物だったから、という理由一つで遠ざけようとしては筋が通らないと彼は考えている。
シノンとリヒター。二人の関係を解消させるか、維持させるか判断するために、リヒターの人間性や真意を測る。
それこそが最善だと彼は考えているのだ。
そして、それを私に伝えたという事は……さっきの頼み事も含みがあるという事だ。
『シノンを気に掛ける』。
転じて、『リヒターを推し量る』。
まるで言葉遊びのようだが、彼の言葉には筋が通っている。
納得を得られた私は、その頼み事を引き受ける気になった。しかし最後に一つ、私には問うておくべき事柄が存在する。
「しかし……仮に彼がクロだとすると、どのような形であれシノンは傷付く結果に終わります。それはどうするのです?」
「『心を守る』っていうのはなにも傷付かない事だけを指すんじゃない。生きてると傷付く事なんて山ほどある。その困難な道に耐えられるよう支え合う事が『心を守る』事に繋がると俺は考えてるよ。経験上、な」
そう、皮肉げに口の端を吊り上げた彼は、それで話は終わりとばかりに立ち上がり、部屋を出て行く。
私は今後どうするべきか、その部屋に座ったまま考え続けた。
・『心を守る』の二人の価値観
1)アリス
そもそもの傷付く原因となるものを排除する
2)キリト
限界まで傷付かないよう護り、傷付く場面で支え、そして傷が癒えるのを寄り添って手助けする
・キリト/桐ヶ谷和人
寄り添われ、救われた人
かつてシノンに告白され、現在では多重恋人関係の一つになっている
アリスは気付いていると思っていたが、リヒターの尾行にシノンが思い悩んでいる事は全く気付いていなかった
シノンの過去と対人関係に警戒心が強い理由を知っている数少ない一人。下手に交流を断つのもそれはそれで傷になるので、どうリカバリーするかを本気で考えた
ちなみに『リヒター本人の真意が不明』『兄の人間性は交流を断つ理由には弱い』という考えは、自分に置き換えた時に筋が通っているかいないか判断している
・シノン/朝田詩乃
少しずつ歩み出している人
過去、イジメを受けていた経緯もあって警戒心が強いが、キリト達との交流もあり、少しずつ前に踏み出している。図書館に行っていたのもその一つ
『吐きそうになっていた』という点からトラウマ克服のために通っていた事が窺える
リヒター=新川恭二には親切な男子という事で多少心を開き始めている。自分一人で作った新たな友人のため、信じようとしている
・リヒター/新川恭二
シノンとリアルでも知り合いの人
シノンとは6月末頃に図書館で邂逅。お盆に入る前まで夏休みの宿題、進学コースの全国模試の勉強漬けの日々を送っていた
IS世界の影響で女尊男卑風潮があり、普通に入っていき辛いので様子を窺っていたのが裏目に出たパターン
シノンと交流を続けられるか否かは彼の真意に掛かっている
地味に原典ホロリアでも登場している
・リヒター兄/新川??
新川恭二の兄
恭二が勉強漬けでプレイ出来ない間、SA:Oをプレイしていた
元SAO生還者でもあり、キリトはその素性、経歴も含めて全て把握しているが、この男を引き合いにシノンとリヒターの関係を断ち切るのはシノンにとって良くないと判断し、敢えて暈されている
地味に原典ホロリアでも登場している
・アリス・シンセシス・サーティ
正義感の強い騎士
『万難は排すべき』という考えが根底にあるのでまだキリトとは考え方でぶつかる時がある。これは最初から守る側だったか否かの差異
守られる側――その中でも、守られなかった者の苦しみを、彼女は知らない
未だ、癒し方をアリスは知らない
では、次話にてお会いしましょう