インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
視点:簪、クロエ
字数:約一万三千
――キャリバー編がまだ終わっていないのは、原作での《
――シンデレラとは、誰の事でしょう?
西洋から伝来した童話の中に、“シンデレラ”という物語がある。
その物語の主人公は、意地悪な
それなりの規模の屋敷に住む四人だが、描写の中では使用人らしき姿は一切登場しない。およそ使用人がこなすであろう雑事・家事の一切をシンデレラがこなしていたからだ。
私はその物語の事が好きではなかった。
童話、童謡というものは、得てして非現実的なご都合主義に塗れた話だから……ではない。むしろ私は、その非現実的なご都合主義を求め、
そんな私でも
どれだけ理不尽な事を言われ、家事の一切を振られても文句を零さず、国の王子が花嫁を決める舞踏会を夢見て過ごす。妖精や友達の鼠たちの助力で舞踏会に出て、忘れた片方のガラスの靴がキッカケで結ばれる事になった辺りは良いのだが、そこに至るまでの日常シーンがどうしても好きになれなかった。
ひとえに、それは自己投影をし過ぎたが故なのだろうと、自己分析は済んでいる。
格式、規模、時代、国すらも違えた童話の中の話ではある。しかし
無論、私とシンデレラとを較べても、それすらおこがましい事は白も承知だ。月と
私に人が羨むほどの美しさはない。
誰かから尊敬されるものも無い。
……誇れるものも、また。
むしろ、だからこそ私は、《更識》の底辺に位置している。関係者からも、無関係の人間からも、《更識楯無》と比較され、落ちこぼれと言われる。だからと言って《裏》の鉄砲玉に使われる事は無かったが、心休まる筈の家ですら苦しく思うというのは存外苦痛なのだ。この苦痛を比較できるものは無いし、したとしても、個人の主観を含んでいる以上正当な批評は不可能だろう。
――だから、そう、“シンデレラ”を好かないとしても、大して意味はない。
“シンデレラ”は、舞踏会と妖精、そしてガラスの靴という手掛かり一つで探し出そうとした王子の熱愛により、幸福を得た。彼女は最初の切っ掛けと複数の偶然でそこに辿り着いた。
灰被り姫は、いつしか本物の姫になったのだ。
あまりにもご都合な展開。陳腐な顛末。
だからこそ、人はそれに魅了される。
でも、現実に、
だって私は、“
どこまで行っても、何で勝負しようと、私は姉の後塵を拝し続ける。
それを人は、私が劣っている事で何かしらの不利益があろうとなかろうとに関係無くあげつらい、これでもかと責め立てるだろう。理由なんて特にない。強いて言えば嫉妬だけ。《更識楯無》の完璧さへの鬱憤を晴らせる、ただの捌け口が私なだけ。理不尽と言えば理不尽だ。ご都合など無い。
――それでも。
現実でご都合展開なんてぜったい起きないと分かっていて尚、《童話》は人を魅了する。
伝説、神話、童話、アニメと、古今東西、時を経るごとに呼び名を変えた《作り話》の不動の人気は、そこにあるのだと私は思う。
まして、《作り話》が現実のものになったとすれば、どれほどの人が魅入られる事か。
――――西洋から伝来した童話の中に、“灰被り姫”という物語がある。
典型的なご都合で固められた成り上がりストーリーのそれを、私達は現代で目にしている。
“
今日もまた、
*
二〇二五年五月二十五日、土曜日、午前七時。
朝の身支度を終えた私は、食堂へと向かった。
西洋アニメでよく見る長机の上には真白いテーブルクロスが掛けられ、その上に種々様々なサイズの食器が並んでいる。和食だとお膳の上に椀が並べられるので、今日は洋食らしいと、食堂に入って察した。洋食だと大皿から好きな量を摂る形式なので、並べられている皿は全て空だ。
今日のメニューは何かと考えながら、普段自分が座る席――当主が座る上座から最も離れた位置――に腰を下ろす。
動きを止めると、思い出したような肌寒さが意識に上って来た。
春が訪れたとは言え、夜の冷え込みは未だ続いている。陽光が照っているものの日照時間が少ないせいで気温は未だ低く、邸内の足元は底冷えしているように感じた。ぶるりと体を震わせる。
ひざ掛けでも持って来ればよかったと、朝の寝惚けを恨めしく思った。
「――おはよう、簪」
「あ……桐ヶ谷、君……」
自分以外だれも居ない食堂に来た二人目は《更識》に身を寄せる居候組の一人目の少年だった。SAOに囚われる以前の小学校指定らしい青のジャージに、黒の長ズボンを掛け合わせるという、傍目から見て非常にダウナーな恰好の少年は、装いに反する利発そうな顔を食堂の扉から覗かせていた。
陽光の反射で銀に見えなくもない白髪を揺らし、金の眼で周囲を見回しながら、すぐ近くへ寄って来る。そして私の右隣の椅子に腰掛けた。これもいつもの定位置だ。
「今日は簪が一番乗りだったんだな」
「たまたま、いつもより速く目が覚めたから……でも膝掛け忘れたから、寝ぼけてたかも……」
「今日の最高気温は19℃、最低は8℃だから、膝掛け忘れたら辛いかもな」
軽く腕を組んで言う少年。その彼の膝はおろか、ジャージ以外の上着は無く、ハッキリ言って防寒対策はまったくされていないと言っていい。
「そう言う桐ヶ谷君も、掛け布の類、持ってないけど……?」
「長袖のヒートデックを着てるし、ジャージ含めて三枚重ねて着てるから大丈夫。むしろご飯食べ始めたら汗が滲む」
「……私も同じ枚数着てるけど、殆ど汗は掻かないなぁ。冷え性なのかな、私……」
「筋肉量が男性より少ない女性の方が多いらしいけど、代表候補として訓練詰んでる簪はむしろ一般男性並みにあると思うし……女性だと、月経による腹部の血流うっ滞、動脈硬化による末梢血流の悪化、あと冷暖房機具の使い過ぎによる体温調節機能の弱化が考えられるけど……」
「…………さ、最後、かなぁ……?」
月経は半月前に済んでるから現状だと外れるし、動脈硬化を引き起こしやすい脂肪に関しても栄養面はお抱えの料理人が計算しているから同じく外れる。とすれば、サブカルチャーに没頭している時に使っている冷暖房による生活習慣が一番の要因と結論付けられる。
たらりと冷や汗が流れた。
「あと汗掻いてて暑いからってシャワーで済ませる習慣も冷え性の原因の一つらしいぞ」
「……殆どのIS操縦者全員がなってそうだね」
更衣室のあるロッカールームの横には汗を流す為のシャワールームを併設されている事が多い。家で湯船に浸かるとしても、夏はシャワーで済ませる事が大半だ。そういう生活習慣で冷え性になっている可能性は非常に高い。
夏の方が冷え性になりやすいと補足され、天を仰ぐ。
生活習慣病というのは、斯くも恐ろしいものだ。
「まぁ、要は手先足先まで血液を送れるよう運動して、筋肉付けて、休む時は休んで自律神経のオンオフをすればいいだけだから……運動すれば、全身の凝りも和らぐし」
「……凝りかぁ。そういえば最近、肩凝りが……」
ついでに目とか首も、と目頭を揉むと、両目がジーンと心地よい熱を持った。
その感覚を堪能してから瞼を開ける。
金の眼が“ジトー”と私を見上げていた。
「……何時に寝たんだ?」
「え、と……じゅ、十時――」
「嘘だな」
「――午前二時です……はい……」
虚栄心を張ろうとして、瞬時に確信の籠った一言で看破された事で、誤魔化そうとしても無理とすぐに判断。本当に
はぁ、と彼は、さっき私がしたように目頭を揉んで、ため息を吐いた。
「午後十時から午前二時は、体の疲れを取ったり、全身の成長を促す《成長ホルモン》が一番分泌される時間だ。同時に自律神経が最も休まる時間でもある。その後に寝入ればそりゃあ狂いもするだろう。大方早くに目が覚めたのも、体がしっかり休眠出来ていなかっただけだな」
「あぅ……」
べっこべこに言われるが反論出来ず呻くだけ。常識的観点から頭ごなしに言われるより、生理学などで理論的に言われる方が感情で反論出来なくてキツいものがあった。
現実逃避気味に思考を回していると、ふと気になった事があった。
「桐ヶ谷君」
「うん?」
「その……ホルモンとか、自律神経とか、どこで勉強したの? 私の勉強では教えてないと思うんだけど……」
「――成長ホルモンって、一番体の成長に関わるホルモンだから……」
「……あ」
ふ、と微苦笑と共に彼方へ視線を投げた少年の貌には、幼いのに反して黄昏の影が滲んでいた。男性の割に小柄な事を気にして調べたんだなとすぐに察する。
何とも言えない沈黙は、私の従者たる楽天的な少女が食堂に来るまで続いた。
実際は、ISの《搭乗者保護機能》から逆引きのように調べたようなのだが、その事実を私が知ったのは、もっと後の事だった。
*
私と本音、和人、そして居候の篠ノ之束、クロエ・クロニクルの合計五人という、教室と同程度の広さに反する少ない人数での食事は、本音と束の二人が話題を振り続けるせいか、侘しさや寂しさとは無縁だった。
話題は基本、今日の授業は何だ、今日の予定は何だ、この宿題がどうだったなど、他愛の無いもの。
ALOで色々とあった一週間ほど前は和人に対する話題でかなり神経質になっていた記憶がある。彼の空気もどこかぴりぴりしていて、正直心休まる食卓とは言えない雰囲気だった。
しかし、今はそうではない。
彼女らが来るまで談笑出来ていたのがその証拠。彼の心につっかえていたものは、一先ず無くなったらしい。だからだろう、食堂の空気は以前ほど張り詰めたものではなくなっていた。
彼の機嫌一つで場の空気を支配している辺り、既に一家の大黒柱っぽくなっているのではないだろうか。
「そういえば、和君。今日って何するつもりなの?」
そんな事を考えながら朝食のごま油サラダをしゃくしゃく
塩コショウを振られたハムと白パンを一緒にもぎゅもぎゅしていた少年が、話の矛先が自身に向いた事を察し、彼女に目を向けた。ブラック・コーヒーでごくんと飲み下す。
「博士は俺に何か用があるのか?」
「え? いや、そういう訳じゃないけど……ほら、いまの和君ってフルダイブは厳禁でしょ? 入院してる訳じゃないいま、日中は何をして過ごすか知りたいなぁって思って」
「本来なら筋トレでもするところだけど、それは簪や博士、菊岡にも止められてるしなぁ」
「当たり前……凄い重体だったのに、復帰してすぐフルダイブして、あんな戦いする方が異常なんだから……」
聖剣回収クエストは、《クラウド・ブレイン》の残滓の核となったヴァフスを中心として、彼が以前こなした展開と内容を違えていた。それを真の意味で終息させられるのは彼しか居ないと分かってはいる。それについて、私はあまりとやかく言うつもりは無かった。
けれどあの行動が常軌を逸している事、そして彼の容態が決して良いとは言えない事は、今後も口を酸っぱくして言うと思う。
それだけ私は心配しているのだ。
――怖いと思う事はある。
あの常軌の逸しぶりの全てを理解出来た訳ではないし、ましてや共感も出来ないから、恐怖感は確かに存在する。名前で分けられた《憎悪の存在》の事を考えれば恐怖はより深くなる。
けれど、彼自身は、信用出来る人だ。
自分自身の意思で憎悪を否定する。それが人道とか、倫理を理由にしているのではなくて、彼自身の過去や人間関係を理由にして、憎悪の思念を退けた。彼の心にそれはまだ燻っているのも確かだけど、それを自分の意志で否定しているのもまた事実なのだ。
私が惹かれたのは、その意志だ。ヒーローと思ったのはそれ故の行動だ。
復讐だけが彼の全てで無い以上、私は彼に憧れを見るし、親しみを込めて信用と信頼を送りもする。
……最近は、その距離感を測りかねているけれど。
彼自身はあまり気にしていないのか平然と話し掛けて来る。そのテンションに合わせて、受け答えだけはするようにしているから、多分気付かれていないと思う。
もし気付かれていたら穴に入って埋まりたい。
「イメージトレーニングも限界があるし……まぁ、無難に課題かねぇ」
「あー、そういえば和君、あの七色とかいうガキと同じ《エレクトロニクスコース》選んだんだっけ?」
思い出したように束が言う。すると和人は、少しだけ眉根を寄せつつ、苦笑を浮かべた。
「博士、七色に対していやに辛辣だよな……」
「好きになる要素は無いけど嫌いになる要素はマシマシだからねー。あと、同族嫌悪的な?」
「……そう」
あまり触れない方がいいと思ったのか、和人はお茶を濁すように黙り、コーヒーカップを傾けた。
絶妙な沈黙が場を満たす。
「――あの、ひとつ良いでしょうか」
それを破ったのは、
瞼こそ閉じられているが、顔の向きは和人に固定されている。
「……ああ、俺か。なんだクロエ」
彼女の問い掛けが自身に発せられたものと察して、彼も応じた。
「えっと、時間が余っているのなら、その……二年ぶりに、料理の講習を受けたいのですが……」
そう、クロエは言った。
普段無表情で、和人と博士の二人と話す時だけ表情を和らげていた少女の白い頬に、微かな朱が差したのを見て、その発言の真意を朧気に悟る。どうやら彼女も、【絶剣】たちと同じ一人らしい。
彼女の個人的な事は、和人の勉強を見る時に少しだけ教えてもらっている。篠ノ之束の義理の娘として拾われた少女であり、壊滅的だった家事全般の彼がして、その対価として不足気味な一般教養や常識関係を彼女が教えるという、分野違いの相互師弟関係にあったのだと。
彼女の過去に何があったか定かではないが、住所不定の世界的指名手配を受けた彼女に拾われるとなれば、多分あまり良い環境では無かったのだろうなと、盲目ではないが瞼を開けられないという理由不明の特徴から類推し、あまり深くは探らないようにしている。姉ならあるいはもっと深く知っているかもしれないが、彼女は裏関係の話を私に持って来る事は稀なので、知っていたところで私には実質関係無いだろう。
――それはともかく。
これはリアルラブコメの予感かと、サブカルにどっぷり嵌っている者としてちょっと興味をそそられ、右隣に視線を向ける。
しかし、やや意外な事に、彼は悩む素振りを見せていた。
「どうか、したの……?」
「ん……いや、な。もう二年もしていない上に、こっちに戻ってきて以降一度も台所に立ってないから、流石に腕が錆びついてるだろうなと思ってな……SAOとリアルじゃ勝手が違う上に使う調味料なんかも違うし……」
「ああ……」
悩む理由を察して納得を抱いた。
確かに二年以上もリアルの料理から離れていれば、幾ら料理上手だとしても幾らか錆び付くだろう。しかも久方ぶりの調理で他人に教えるとなれば二の足を踏むのも分かる話。あと個人的に、彼は妥協を許さず徹底的に追い求めるタイプだと思うので、中途半端な事をしたくないのだろうとも思う。
「そもそもこの二年間ずっとクロエは博士に振る舞っていただろう? それで十分なくらい、上達したんじゃないのか?」
その言葉には、俺は経験で上手くなったのだから、という意味が込められているように思えた。
彼がそう言うくらいにはクロエという少女の素地は整っているのだろう。そこから更なる成長、研鑽を積むのは、もう経験しかないと言外に告げているようにも聞こえた。
「……ええ、まぁ、和人に振る舞った時より上達した自負はありますけど」
「なら俺の指導は不要じゃないか? 二年前の時点で基礎は出来ていた訳だし、あとは練習量の問題だろう。レパートリーに関しては俺も分からないものが多いし」
「む、ぅ……」
個人の経験と技量、あとは好みに左右されがちなのが調理技術なので、基礎部分を学び終えた人間に対して出来る事は少ないと聞いた事はある。特定の料理や仕込みの過程で加える一工夫などの助言こそすれ、それ以外はもう“出来て当然”なところだからだと。
それを踏まえれば、彼の言い分も非常に分かる。
分かる、のだが。
――桐ヶ谷君って、やっぱり鈍いのかぁ……
傍から見てとても分かりやすい貌をしているクロエとの会話から、彼女の心情を察したと思しき発言、表情が彼から感じられない。素で気付いていないのだ。
彼とアルゴのやり取りを見た時から薄々感じてはいたけれど、やはりそうらしい。
前途多難そうだなぁと二人のやり取りを、砂糖とミルクを少量ずつ入れたコーヒーを飲みながら眺める。
和人とクロエのやり取りは暫く平行線を辿った。最後の方は隠す気も無いのか――あるいはそもそも自覚していないのか――一緒に料理をしたいとまで言ってのけたクロエだったが、和人も強情なのか、それともする訳にはいかない理由があるのか、頑なにあれこれと理由を付けて首を縦に振ろうとしない。
容姿が幼いからセーフだが、これが高校生辺りの容姿なら間違いなくアウトな絵面である。悪い男に引っ掛かっている女という意味で。
「も~、きりきりは分かってないな~」
その不毛に近かった応酬を断ち切ったのは、和人の右隣に座る幼馴染・本音の間延びした声だった。
朗らかなその声が食堂に上がった途端二人の声は途切れ、視線が彼女へと向かう。
猫の着ぐるみを纏った彼女は、着ぐるみの筈の猫耳をぴこぴこ動かしながら、余った袖をふりふり振って笑った。
「クロクロは~、きりきりと一緒に居たいだけだよ~」
それは核心だけ暈されていて、けれど、おそらく彼女の求めている行動を言い表した内容だった。
クロエの白磁の如き肌の赤みが一気に増した。しかし当の少年は、右隣に座る少女の方を向いているからか、気付いた素振りが無い。
「……料理は?」
「口実に決まってるじゃ~ん。まぁ?
「――そーそー、実はこの子って、いま修行中なんだよねぇ。それで和君ってクーちゃんのお師匠な訳でしょ? そりゃあ二年ぶりに修行の成果をお披露目したいと思っちゃうわけだよ」
「の、布仏本音様、束様……」
和人の横顔が、少しだけ苦慮のそれに歪んだ。
クロエは眉を寄せて、二人の名前を口にするので精いっぱいのようだ。
記憶にある彼女の姿との齟齬が激しいが、もしかしたらここ最近の事件解決関連で惹かれるものがあったのかもしれない。恋は女を変えるというからあり得ない話ではない。
……恋愛なんて経験皆無だから、当然それもサブカルチャー由来の知識でしかないけど。
多分そうなんだろうなぁと傍観を続ける。話の輪にこそ入らないが、聞いているだけでもそれなりに楽しいと思えた。
結局、お昼はクロエがメインに料理をし、束と本音に言いくるめられた和人がサブで一品担当する事で落ち着いた。
束と本音だけがにまにまと笑っていた。
――多分私も、似た表情はしていたと思う。
ちょっとだけ、楽しそうだな、という羨望を抱いたのはヒミツだ。
***
午前十一時過ぎ。
昼を目前にした頃、私は、年下の少年・和人と共に、更識邸の厨房へと赴いていた。どちらもストレートに流している髪は簡素な髪ゴムでアップに括り、エプロンを掛け、手洗いを済ませた状態だ。
「それで、何を作ろうと考えているんだ?」
「今朝は洋食だったので、和食を考えています」
「ほうほう」
和食、と聞いて得心顔で頷く少年。
今に漕ぎ付けるまで紆余曲折こそあったが、彼から学んだ料理のイロハ、基礎、その全てを披露する為というのが名目であり、目的の一つだ。それを果たす為なら、彼から学び取った和食こそ相応しいだろうと考えた結果、彼に披露する時は和食にしようと兼ねてより決めていた。
今朝突発的に出た料理の話は、当然お昼を担当する筈だった調理師の方々にとって青天の霹靂だった訳で、その点については申し訳ないと直接謝罪は済ませている。そこまで気にしていない風だったが、内心どう思っているかは微妙な所だ。
ともあれ、事前準備や予定無しの突発的事業な訳だが、幸いと言っていいのか、昼食は最初から和食を予定されていたらしい。お米は勿論、味噌汁や焼き魚など、基本的な和食式食材は買い込まれているようだった。
一先ず一番時間を要するお米を炊くべく、五人分の白米を計量、後にザルに入れ、ボウルで水揉みしながら米をとぐ。この際、最初の米とぎを長くすると、水に流れ出たアク諸々が吸収されて臭み、えぐみを残してしまうので、一回目はさっとすぐ水を入れ替える事を忘れない。二回目以降はザルの中で五回ほど回転させながら水揉みし、水の入れ替えを行う。
それを四回ほど繰り返したところで、たたたたたたん、とリズミカルな音が耳朶を打った。視線を横に向ければ、踏み台の上に立った和人が玉ねぎを次々に切り刻んでいっている。横のボウルには、出来合い品から取り出された合い挽き肉が入れられている。どうやら彼はハンバーグを作るつもりらしい。
ハンバーグは十八世紀時代のドイツ・ハンブルクで生み出され、日本へ伝来した料理だ。パンにも合うが、ソースを付けたハンバーグと米の相性も格別によく、故に子供からは大人気のおかずとして今日も親しまれている。つまり、和食・洋食の区別に煩い人で無い限り、基本何時出しても喜ばれるものという事だ。
これはしっかりとしたものを出さなければと意気込んで、炊飯器に米をセットした私は、味噌汁そのほか諸々の調理に手を伸ばした。
*
正午。
昼食の時間通りに調理を終えた私達は、出来上がった料理を食堂へと運んだ。既に着席していた面々の前まで膳を運んだ後、私達も席に座り、お昼にありつく。
メニューは白米、白みその味噌汁、アジの塩焼き、青菜のお浸し、しょうゆと砂糖を使った甘めの卵焼き、唐揚げと千切りキャベツの合計六品。四つあるコンロ台の内、三つを同時に使っていたので調理時間の大幅削減に成功した事で一品ごとの手間暇も過不足なく掛けられている。
その品々に加え、香ばしい匂いを漂わせる品がある。言わずと知れた、彼手製のハンバーグだ。とは言え、通常のハンバーグと異なる点が一つある。それはサイズだ。通常のハンバーグと言えば楕円形に平べったく分厚いものが主流だが、彼が作ったものは、小さな彼の手のサイズに合わせられた一口サイズの代物。海苔で負ける程度の俵お握りくらいだろうか。それが一人分六個ずつ作られている。
合掌し、日本式の食事の挨拶を済ませた私が最初に口にしたのは、そのハンバーグだった。
切り分ける必要もないサイズのそれを一口で呷る。そして肉を噛めば、途端肉汁がじゅわっと噴き出して来た。それも脂ばかりのギトギトしたものではない。玉ねぎやニンジンを微塵にして混ぜ合わせられた肉は、野菜の味も染み込ませているようで、食感のボリュームに反して後味はアッサリしたものだ。
繰り返し咀嚼すればするほど、アッサリとした肉汁は幾らでも吹き出る。
舌を刺激する香ばしいソースもまた絶妙だ。程よい辛味と酸味が競合し、単語で表現し難い味を形成している。それが肉汁と合わさる事で、また新たな味が生まれる。酸味は野菜の薄味と引き立て、辛味は肉の濃い味を抑え、それぞれがバランス良く味覚を刺激して来た。
堪らずお米を口へ運ぶ。噛むほど甘く感じるお米は産地の良さと、炊き方の良さを表しているが、それ以上に千変万化の
千切りキャベツの薄味も、ソースや米とは別の味覚刺激を発生させる。
存分に味を堪能したところで、休憩のように水を呷り、一度口内を全てリセット。そしてまた口にすれば、先程味わった味覚を全て再体験していく。
箸が止まらないとはこの事か。
自分とて上手く料理を作れたと思っていたが、おかず一品で全敗した気分になった。
勿論作った品が違う以上比較なんて出来はしない。それは分かっているが、ちょっとレベルが違う。そもそもこれほどの領域をかつて味わった事は無かった。しかし、思い出してみればかつての料理指導の際、ハンバーグを作ってもらった事はなかった。もしかしたらここ最近習得したものなのかもしれない。でも彼はここ最近厨房に立った事は無いから、だとすればレシピを見ただけか、良くて調理場面を見た程度だろう。
もし見真似でこれだとすると、どれだけ繊細、かつ料理研究を突き詰めていたのかと戦慄を覚えた。ただ“生きる為に必要だった”と経験を積んだだけのレベルとは到底言えないと、私は思う。
つまり――私には、まだ彼から学べる事がある。
そう再確認した私は、ほぼ無言の食事を終えてすぐ、口を開いた。
「――和人、やはり、私はまだ学べていない事が多いようです。是非とも今後もご指導ご鞭撻のほど、お願いします」
「……え」
そう願い出ると、同じく箸を膳に置いた彼の動きがびしりと固まり、止まった。
「いや、生きるにあたってもう十分過ぎるんじゃないかな……そもそもクロエの料理指導だって、勉強の見返りというより、束博士とクロエふたりの健康管理の必要性からしていた訳だし……」
そう言われ、私は咄嗟に言葉を返せなかった。
確かに、言われてみればそうだった。勉強を教える事が対価になったのは私が教えてもらうばかりでは不公平だからと交渉した結果であり、先に挙がっていたのは料理指導だった。私が拾われ、和人と主が再開した当時の食生活があまりに悲惨だったから、彼の方から申し出た事。その最初の目的を果たしたとなれば、彼が料理指導を行う意義を喪うという事を意味する。
「……そうかもしれませんが、私は、まだ指導を受けたいのです」
しかし、私は彼から受ける料理指導を、また受けたいと思っている。
ハンバーグを食べて学び取れる事はまだあると再認識したからであり、同時に、彼と一緒に居ると、どこか安心できる自分が居るから。むしろ後者がメインで、料理指導はそのための手段になっている部分も少なからずあると思う。彼から技を学び取って行けば、彼が好む味を作れるようになるのでは、という下心も。
博士は、そんな私の衝動を“恋”と称した。
桐ヶ谷直葉、紺野木綿季らを始め、数人の少女達も同じように彼を求め、欲している衝動だと。
――その表れのひとつが、料理指導の願いなのだろうと自分でも分かっていた。
デザインベイビーとして生み出された自分は、完成体になれなかった失敗作だったが、そんな私に“クロエ・クロニクル”と名付けた母代わりの女性と、諸々の理由から家事全般を指導してくれた少年は、自分にとって特殊な位置付けだ。
女性には“母代わり”という立ち位置がある。
なら少年の立ち位置は何なのか。長らく私の中でも宙ぶらりんだったそれは、朧気に形を得てきた気がしている。
その決定打が欲しい。だから求める、薄い繋がりを強いものにしたいから。
自分でもびっくりするくらいの欲の強さは、きっと母代わりの女性譲りなのだと思う。
自分は“恋”というものがどういうものかをよくわかっていない。ただ彼を求める衝動がそうなのだろう、という理解だけがあった。
「……菊岡や元帥、楯無との契約期間内は多分時間が無い。かなり不定期な上に以前より回数も少ない。それでもいいのか?」
「構いません。和人の都合が付く時であれば何時でも」
事前に教えてもらえるなら何が何でも自分の予定は空ける所存である。むしろ私より忙しい時は忙しいから、わざわざ自分が予定を開ける必要に駆られる事が無いと言う方が正しい気もする。
ともあれ、ノータイムで頷いた私に、彼は諦め気味に肩を落とした。
……ここまで露骨にリアクションされると、こちらとしても、すごく困る。
「……あの、私は、なにか和人に不快な事を、しましたか? 確かにやや強引だった自覚はありますが……」
「ん? まぁ、強引だとは思ったけど、上昇志向があるのは良い事だから別に気にしてないよ。イヤと思ってる訳でも無い。ただ療養期間が済んだ後の鍛錬時間が減りそうだなぁと……」
「きりきりってば、オンナゴコロが分かってないなぁ~! それデリカシーに欠けてるって言うんだよ~!」
むぅ、と頬を膨らませて猫の着ぐるみパジャマを着た布仏本音が、和人を軽く責める。その非難に、彼は降参のポーズを取った。
「俺だって分かってるよ、だからずっと黙ってたんだろう。でも鍛錬は俺にとって死活問題に直結してるんだ。かと言って半端な指導じゃ、クロエに失礼だし……葛藤くらい許してくれ」
ふん、とむくれ顔で和人が言った。
その顔を見て、束がへらりと苦笑する。
「和君って、昔っから拘り強いというか、妥協許さないもんねぇ……
「生きる為に必要な事だったからな。直姉と詩乃は、最前線で戦う事を求めてたし、自衛できる力が無いとヤバかったから、自然と厳しくなるのは当然だ。出来る事を出来る内にやっておく事で後々後悔しなくて済む」
「……それを自戒し続けられる辺り、和君も中々極まってるよねぇ。その歳で」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
にこやかに主の言葉を流した和人は、手早く食器を集めるや否や、食堂まで運んだワゴンへと善を運び始めた。自分もそれを手伝いに向かう。ついでに食後の紅茶を淹れて来る、と彼はその際に言った。
紅茶と言えば、《ユーミル》へ出勤した私が給仕として行う仕事の一つ。
だから私が淹れると言うも、なら美味しい一工夫を教えようと返されてしまい、反論を封じられた。指導を逆手に取られた形だ。さっきまで葛藤をしていたというのにこの返しを即座に出来るくらい切り替えられるのは彼の強みであり恐ろしい一面の一つだと思う。
食堂へワゴンを運び込むと、厨房には更識家の使用人が数人立っていた。これから夕食の仕込み諸々をするとらしい彼らは、昼食の食器はこちらで洗いましょうと言ってワゴンを流れるように受け取って行った。
してくれるなら有難いので、紅茶を淹れてさっさと退散する事にする。
「今日はロイヤルミルクティーを淹れようと思う」
「ふむ……ちなみに、何故そのチョイスなのか聞いても?」
「料理指導を受けたいと言われたから、俺の淹れ方も教えようと思って」
「……そうですか」
私の端的な返事には、あなた紅茶の淹れ方も独自法あったんですね、という微妙な感嘆を含んでいる。
確かにさっき一工夫について教えると言われはしたが、改めて言われるとちょっと意外だった。紅茶と言えば嗜好品の一つだが、彼が淹れようとしているのではインスタントティーではなく、茶葉から煮出すというレベルのもの。だからこそ意外に思った。
そんな私が見る中で彼はテキパキと準備を進めていく。鍋に水を入れ、その中に紅茶の茶葉を放り込み、電気コンロに掛ける。
「……普通、牛乳で茶葉を煮出しませんか?」
ロイヤルミルクティーというものは、牛乳を火に掛け、茶葉を煮出して作られるものの筈だ。本でそう読んだ覚えがある。
「普通はそうだ。だからまぁ、これは邪道に当たる」
「では何故この方法を?」
「牛乳で煮出すのは時間が掛かるし、茶葉にも良くない。染み出た味の浸透にはムラが生まれる。更に牛乳は沸騰させると風味が飛んでしまうから、そうなったら余計味を楽しめない」
「なるほど。だから先に茶葉から煮出して、後から牛乳で加える事で、風味が飛ばない上に紅茶そのものの味もしっかり残る、と……順序を逆にしたのですね」
鍋には煮出された黒い紅茶。
茶葉を取る作業を挟み、再度鍋に戻したそこに牛乳が投下され、元の鋭い風味と、牛乳が加わった甘い風味が厨房に漂い始めた。ゆっくりと小さなお玉で掻き回される事でその二つが融合を始め、ひとつの香りへと昇華される。
それをティーポットに移し、鍋とお玉は皿洗いをしている使用人の方々へ渡す。
運ぶのは私が請け負った。ポットと五人分のカップをトレイに載せ、食堂へと戻る。
そしてそれぞれの前に配膳を終えて、改めて席に就き、カップを傾ける。ロイヤルミルクティーの甘味が口の中いっぱいに広がった。
私も幾度となく淹れた事のある紅茶は、自分が淹れた時とは異なる
・更識簪
古今東西、人を魅了したご都合展開への憧れを持ってサブカルに嵌っている少女。
憧れているという事は、現状に満足していない事の現れ。それはまるで、舞踏会に憧れる灰被り姫のように、いつか自分を救い出す王子様が現れるのでは、という淡い希望を、否定しながらも抱き続けているただの少女。
”主役は自分ではない”という思考との矛盾に気付かない。
――だからこそ、従者の(迂遠ではあるが)発破に気付けない。
距離を測りかねているのは、和人に対する恐怖心故か、それとも別の感情か。
簪は自分の
・布仏本音
更識簪に仕えるよう叩き込まれた従者の家系《布仏》の次女。
楽観的な風を装っているが、中身はかなりデキるタイプ。和人が警戒心を持つ前に間合いに踏み込めるレベルで隠形技術に長けている。暗殺という一点のみであれば和人を上回る可能性を秘める少女。
なんだかんだと簪のフォローに動いているが、本人にその気が無かったり気付いていなかったりでだいたい徒労に終わる。
今回も、敢えてクロエの核心を突く事で、迂遠的に簪に発破を掛けていたが、傍観に徹して楽しむだけだったので無駄に終わっている。
内心頭を抱えるのもいつもの事。
頭痛薬がおともだち()
・クロエ・クロニクル
失敗作だった事で廃棄処分される寸前だった自身を救った束を、母代わりとして見ている。それ以上もそれ以下でもない。母というよりは主という傾向の方が強いか。
自身に家事全般を教えた和人は、これまで一言で言い表せられる”明確な関係性”が無かった。今回の料理指導を強く求めたのも繋がりを喪いたくなかったが故。繋がりを喪って自己性を保てなくなる事を恐れた。その恐怖心だけ執着している。
束はその衝動、執着を”恋”と称したが――果たして、自己性を保つ為だけの衝動を”恋”と呼んでいいものか。
簪が行動を起こさなかったのは、その点を見抜いていたからかもしれない。
まあ異性として惹かれてるんですけどね(SAO編第百四十章参照)
・篠ノ之束
義理の娘の積極ぶりに内心ウキウキな母代わり。
今話では母代わりとお姉さんぶりのみ発揮した(!)
天災だろうと科学者だろうとその前に《人間》であり《母代わり》なので関心がそちらに寄れば援護したいと思うのもまた人情。普通に親馬鹿を発揮しそうなものだが、クロエが言い寄ってる相手が既に自身も認める《
人間的な成長が劇的な一人。
ある意味原作より良い空気を吸っている。
・桐ヶ谷和人
自分のお手々サイズ・ミニハンバーグを量産した少年。
生きる為に必要だったから習得、熟練度を上げた家事全般だが、元が《織斑一夏》であり、突き詰めようとする《桐ヶ谷和人》の側面も併せ持っているので、クロエに対する発言は見事に自分へブーメランしている事に気付かない習熟度を誇る。
戦闘技能面ばかりピックアップされがちな和人ではあるが、三ヵ月以上家事を出来なかった八歳の時点で十二歳の直葉を超えるレベルの家事技能を持っていた事を忘れてはならない。
戦闘面が原作和人の要素を大きく含むのであれば、家事全般、マッサージも出来るなど、主夫としての素質は原作一夏を基にしている。
まあ鈍感さも引き継いでるんですがね()
クロエが
当たらずとも遠からず。
完全に恋心が無いかと言えばそれは誤りである。
総括:本音以外コミュ障なせいで自分の心も分からない(無慈悲)
ちなみに今話、和人は敢えて『自分がISの事を詳しく知ってる話』をしてないし、クロエからの見返りに教えてもらう勉強内容も、敢えて『IS関連の事』は暈している。
そして和人は、簪の隣が定位置。
――そういえば、元帥達との対談の夜、《更識》に不信感を持ってましたネ。
では、次話にてお会いしましょう。